芥川山城は、戦国時代の永正17年(1520年)に室町幕府の管領・細川高国が摂津峡の東にそびえる標高約183mの三好山に築城した山城です。しかし、大永6年(1526年)、細川晴元が細川高国打倒の兵を挙げると、享禄4年(1531年)に、細川高国は滅ぼされ、その後、天文2年(1533年)、細川晴元が芥川城に入城し、室町幕府の管領に就任すると、政権を掌握するが、細川晴元の政権も長く続かず、家臣の三好長慶によって細川晴元は京を追われ、以降、三好長慶が勢力を拡大し、天文16年(1547年)には、三好長慶軍が芥川山城を攻略し、三好長慶の従兄弟芥川孫十郎が芥川山城に入城した。
しかし天文22年(1553)、芥川孫十郎が、謀反を企てているとしてこれを退去させ、その後は三好長慶自身が芥川山城に入城した。その後、摂津・山城・丹波・和泉・阿波・淡路・讃岐・播磨8ヶ国まで勢力圏を拡大し、永禄3年(1560年)には、三好長慶は、飯盛山城に居城を移し、芥川山城には、嫡男の三好義興を据えた。しかし、3年後に三好義興が22歳の若さで急死し、三好長慶も一年後の永禄7年(1564年)に飯盛山城で没した。
永禄11年(1568年)、織田信長軍が摂津に侵攻すると、三好一族は、芥川山城に立て籠ったが、落城し、三好長逸らが阿波へ逃亡していった。その後、織田信長は足利義昭の武将の和田惟政を芥川山城主に任じたが、和田惟政は永禄12年(1569年)に高槻城を与えられ居城を移し、芥川山城には和田惟政の家臣の高山友照が入城した。元亀2年(1572年)に和田惟政が戦死し、嫡男和田惟長が後を継いだが、天正元年(1573年)、高山友照とその子高山重友(右近)が、和田惟長を追放して高槻城主に収まり、この時に、芥川山城は廃城とされたと思われる。
現在、芥川山城は私有地で、整備された城跡ではないが、本丸、二の丸、堀切、石垣、土塁などが残っている。
【所在地:大阪府高槻市大字原(三好山)】
<アクセス>JR京都線『高槻』駅から高槻市営バスで約15分『塚脇』停下車
山頂部まで徒歩約30分
▼芥川山城略図
▼芥川山城縄張図
▼井戸 ▼出丸曲輪の石垣
▼大手道
▼主郭
▼堀切 ▼竪土塁
▼主郭からの眺め
2020/01/22 訪城