nakazumi's blog

文化・歴史・城郭をメインに、時々『気になる事』を記す婆娑羅ブログ!

芥川山城

2020年01月24日 | 大阪府の城郭・環濠

 芥川山城は、戦国時代の永正17年(1520年)に室町幕府の管領・細川高国が摂津峡の東にそびえる標高約183mの三好山に築城した山城です。しかし、大永6年(1526年)、細川晴元が細川高国打倒の兵を挙げると、享禄4年(1531年)に、細川高国は滅ぼされ、その後、天文2年(1533年)、細川晴元が芥川城に入城し、室町幕府の管領に就任すると、政権を掌握するが、細川晴元の政権も長く続かず、家臣の三好長慶によって細川晴元は京を追われ、以降、三好長慶が勢力を拡大し、天文16年(1547年)には、三好長慶軍が芥川山城を攻略し、三好長慶の従兄弟芥川孫十郎が芥川山城に入城した。

 しかし天文22年(1553)、芥川孫十郎が、謀反を企てているとしてこれを退去させ、その後は三好長慶自身が芥川山城に入城した。その後、摂津・山城・丹波・和泉・阿波・淡路・讃岐・播磨8ヶ国まで勢力圏を拡大し、永禄3年(1560年)には、三好長慶は、飯盛山城に居城を移し、芥川山城には、嫡男の三好義興を据えた。しかし、3年後に三好義興が22歳の若さで急死し、三好長慶も一年後の永禄7年(1564年)に飯盛山城で没した。

 永禄11年(1568年)、織田信長軍が摂津に侵攻すると、三好一族は、芥川山城に立て籠ったが、落城し、三好長逸らが阿波へ逃亡していった。その後、織田信長は足利義昭の武将の和田惟政を芥川山城主に任じたが、和田惟政は永禄12年(1569年)に高槻城を与えられ居城を移し、芥川山城には和田惟政の家臣の高山友照が入城した。元亀2年(1572年)に和田惟政が戦死し、嫡男和田惟長が後を継いだが、天正元年(1573年)、高山友照とその子高山重友(右近)が、和田惟長を追放して高槻城主に収まり、この時に、芥川山城は廃城とされたと思われる。

 現在、芥川山城は私有地で、整備された城跡ではないが、本丸、二の丸、堀切、石垣、土塁などが残っている。

【所在地:大阪府高槻市大字原(三好山)

アクセス>JR京都線『高槻』駅から高槻市営バスで約15分『塚脇』停下車

      山頂部まで徒歩約30分

芥川山城略図

芥川山城縄張図

井戸           ▼出丸曲輪の石垣

大手道

主郭

堀切           ▼竪土塁

主郭からの眺め

2020/01/22 訪城


恩智城

2018年05月05日 | 大阪府の城郭・環濠

 恩智城は、建武年間(1334年~1338年)に地元の郷士、恩智左近満一によって築かれた。 自然の高地を利用した城郭で、高安連峰との間に堀をめぐらし前方に大阪平野を一望のもとにおさめた。堀の中にかっては小島があったがそれはむかしの一の丸で現在の城址は二の丸址という。恩智左近は河内国二宮恩智神社の社家の後裔で、南北朝期には楠木正成・楠木正行に従い楠公八臣の一人に数えられ、千早城の龍城戦や飯森山城攻めにも参戦活躍している。正平3年(1348年)、四条畷の戦いで楠木正行が戦死し恩智城も落ちた。学制領布のとき小学校が新築され、今では恩智城址公園として整備され、桜の名所として知られています。

[所在地:大阪府八尾市恩智中町5]

<アクセス>近鉄大阪線・恩智駅下車徒歩15分

西下から訪城へ       ▼恩智城址の碑(右側)

南高安小学校(旧恩智小学校)赤レンガ造りの正門

主郭                                        恩智城址の碑

恩智城の概要

恩智城址公園(東下の公園) ▼二の丸跡

2018/5/4訪城

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 『恩智左近の墓と記された道標がありましたので、お参りに行きました。

恩智城址の西下へ階段をおり、北西側に約100m降りていくと恩智左近の墓がありました。墓は地区の人々によって管理されていました。

恩智左近の墓

恩智左近の墓(恩智左近の概要)

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 最後に、恩智左近満一は、恩智神社の社家の出の郷士(土豪)ですので、恩智神社に参拝して帰りました。

恩智神社の参道

恩智神社

恩智神社の概要


河内・若江城

2016年07月03日 | 大阪府の城郭・環濠

 河内・若江城は、南北朝の戦乱の時代、河内南部に南朝の勢力が及んでいたために、北朝方の拠点として 築城年代は、定かでないが、明徳年間(1390年~1394年)に、河内守護となった畠山基国の命で基国の実力派の重臣の遊佐長護を築城の責任者に任命し、防衛施設の城郭として築城させた平城です。若江城は、若江氏、堀江氏、山田氏と城主が変遷し、その後三好氏の持城となった。天正元年(1573年)、足利義昭を追放した織田信長は足利義昭に与した三好義継を若江城に攻めると若江三人衆が内応して落城し、城主の三好義継は自刃して果てた。織田信長は、この城を若江三人衆と呼ばれた池田教正らに与え、石山本願寺攻めの織田軍の軍事拠点とし利用されたが、本願寺が石山から退去すると城の利用価値はなくなり、完全に破壊された。現在、南町の若江小学校の東隅に城碑などが立つ。

[所在地:大阪府東大阪市若江北町・南町]

<アクセス>近鉄奈良線・若江岩田駅下車徒歩約15分

河内・若江城の概要

                            ▼若江城跡碑

         

                 

2016/07/03 ,2014/04/23 訪城


真田丸出城(心眼寺)

2016年03月25日 | 大阪府の城郭・環濠

 真田丸出城は、慶長19年(1614年)10月、大坂冬の陣に際し、豊臣方の真田信繁(幸村)が大阪城の総構の南側の笹山という小丘陵に築城した出城である。東側は、玉造方面へ続く水堀で囲まれ、構造は東西約180m,半円形の曲輪で、出口は後方と両脇に位置し、三方に堀を配し、外側には三重の柵を敷いた。冬の陣終了後、和議の条件により真田丸出城は、破壊された。宰相山公園(三光神社付近)から西側(心眼寺付近まで)が城跡です。

[所在地:大阪市天王寺区餌差町2番22号(心眼寺)]

アクセス>JR大阪環状線・玉造駅下車徒歩約10分)

心眼寺(真田丸出城跡)

  

門扉に張り付けられた真田家の六文銭

 

山門の横の石碑(真田幸村出丸城跡) 心眼寺本堂

 心眼寺は、真田幸村・大助父子の冥福を願って建てられたお寺で、門扉には真田家の家紋である六文銭が張りつけられています。また、「まん直し地蔵」といわれるお地蔵さんが祀られています。

 

真田信繁(幸村)の墓

 

真田丸出城概略図

2016/03/23 訪城

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真田幸村 大阪冬の陣 真田丸攻防戦

https://www.youtube.com/watch?v=QDXCBZJ7UKA

 


飯盛山城(別名:飯盛城)

2015年01月19日 | 大阪府の城郭・環濠

 河内と大和の間には、生駒山脈が南北に走り、これが国境になっている。飯盛山城は、その生駒山脈の北西支派に位置している飯盛山(標高約341m)に築かれた山城です。南北朝時代も四条畷合戦のさいに陣所として利用されたが、本格的な築城は戦国時代になってからである。天文年間に河内守護畠山義宣の家臣で守護代の木沢長政によってなされた。亨禄4年(1532年)木沢長政は主君の畠山義宣を裏切り、敵対関係の細川晴元につき、飯盛山城に籠城している。永禄3年(1560年)11月13日には、畠山高政の家臣で河内守護代の安見直政を城から追い払い、三好長慶が飯盛山城に入城した。この時から三好長慶は、大規模な改修作業を実施し、現在の城郭になった。三好長慶は、飯盛山城、芥川城、高屋城と共に、畿内に勢力を拡大しようとした矢先に、永禄6年(1563年)8月に一人息子の三好義輿が22歳で急死,ついで永禄7年(1664年)、実弟の安宅(あたぎ)冬康を自殺させると三好長慶自身も病にかかりまもなく病没。その後、三好義継や三好三人衆が飯盛山城を治めたが、織田信長の摂津、河内平定が行われると三好三人衆も織田の軍門に下り、河内・飯盛山城は、畠山昭高の所有となった。遊佐信教の反乱によって畠山昭高が殺害されると、織田信長の攻撃で遊佐信教は殺害され、天正4年1576年)に落城し、その後、廃城となった。峻嶮な山頂には、累々と70以上の曲輪が築かれ,所々に石垣が残っています。

[所在地:大阪府四条畷市・大東市]

アクセス>JR学研都市線・四条畷駅又は野崎駅下車徒歩約60分

飯盛山城址概略図

楠公寺の概略(飯盛山城の馬場跡に立つ楠公寺)

楠公寺(日蓮宗)

 

桜池

 

本丸跡          ▼飯盛山山頂 ▼飯盛山城址碑

   

本丸跡に建つ楠木正行の銅像

 

曲輪下にある石垣

 

曲輪下にある石垣

 

本丸跡からの眺め(中央はアベノハルカス)本丸跡からの眺め

 

2015/01/18 訪城

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四条畷の戦  貞和4年(1348年)

 北朝方の幕府軍(高師直)60,000騎で、本格的な楠木正行討伐を開始する。楠木正行は、3,000騎で四条畷で戦い戦死する。

飯盛山城の戦  天文元年(1532年)

 河内を巡る主導権争いで、守護代の木沢長政が守護の畠山義宣から守護職を奪い取る企てが発覚したことにより、畠山義宣は、三好元長の一族の三好勝宗の援軍で飯盛山を攻めたが、木沢長政からの援軍要請を受けた細川晴元によっての撤兵命令で三好勝宗は一旦兵を収めたが、翌年態勢を整えた畠山義宣、三好元長、三好勝宗で、飯盛山城を再攻、木沢長政も再び細川晴元に援軍を要請したが、畠山・三好連合軍の攻囲を排除できなかったので、細川晴元は、山科本願寺の法主証如に攻囲軍の畠山・三好軍の背後で一揆の蜂起を要請。このため三好元長、三好勝宗は討ち取られ、畠山義宣は自害。


茶臼山砦

2014年11月20日 | 大阪府の城郭・環濠

 天文6年(1546年),細川晴元の家臣・山中又三郎が大塚城を築城したが、細川氏綱に攻められ落城した。その地に、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣に徳川方総大将の徳川家康がここに本陣を構えた。翌年の大坂夏の陣の際には豊臣軍方の真田信繁(幸村)が陣を置いた。天王寺公園の北東側にある茶臼山古墳が砦跡です。

[所在地:大阪市天王寺区茶臼山町(天王寺公園内)]

アクセス>JR大阪環状線・天王寺駅下車北西へ徒歩約10分。天王寺公園内(有料施設)

茶臼山古墳跡(天王寺公園内)

 

茶臼山及び河底池碑

 

大坂の陣史跡茶臼山の碑

 

             ▼茶臼山頂上

 

2014/11/19訪城

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市立美術館の南側の黒田藩蔵屋敷長屋門の石碑(天王寺公園内)

 

黒田藩蔵屋敷長屋門(天王寺公園内)

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真田幸村陣歿の地(安居神社)➜➜➜茶臼山砦跡の北約250m

真田幸村戦歿の地の碑 ▼疲れて休息している真田幸村(安居神社境内)

 

■□■真田幸村の最後 大坂夏の陣 安居天神■□■

https://www.youtube.com/watch?v=C2rZ5mSzN94

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大坂冬の陣   慶長19年(1614年)

 京都の方広寺の鐘銘事件を契機に開戦。徳川家康軍20万騎、豊臣秀頼軍10万騎が、激突。外堀(総堀)の埋め立てを条件に和議。

天王寺口の戦   慶長20年(1615年)

 慶長20年(1615年)5月7日正午過ぎ、赤備えの真田幸村率いる3500騎は徳川方の松平忠直率いる15000騎と衝突し、大坂夏の陣の最大の激戦がこの茶臼山付近で繰り広げられた。真田隊は徳川家康の本陣をめがけて一文字に三度の攻撃をかけたがあとわずかで手が届くところまで攻めるも、数に勝る越前勢の反撃により壊滅し、激戦後、真田幸村は茶臼山の北の安居神社で休息している所を越前兵により討ち取られた。

大坂夏の陣   慶長20年(1615年)

 慶長20年(1615年)、徳川家康、豊臣秀頼の大坂城退去、国替えを強請。豊臣秀頼が応じないため徳川家康軍15万騎と豊臣秀頼軍5万騎が、激突。大阪城炎上で豊臣家の滅亡。


正覚寺城

2014年11月20日 | 大阪府の城郭・環濠

 正覚寺城は、文明14年(1482年),河内守護の畠山政長が、河内国平野の正覚寺に陣を構えて畠山義就と対陣した。このことが正覚寺が城郭化する発端となった。畠山義就病死後は河内を平定に乗り出したが、明応2年(1493年),正覚寺合戦の際、畠山義就の子畠山義豊に敗れて自害し、正覚寺城は炎上し落城した。天正5年(1577年)、織田信長の石山本願寺攻めの際に織田信長が本陣を構えた場所でもあります。旭神社が城跡(本丸跡)です。ここから東に約200mに正覚寺跡や畠山政長の墓があります。

[所在地:大阪市平野区加美正覚寺1丁目(旭神社)]

アクセス>JR大和路線・平野駅下車東へ約600m。

旭神社

旭神社境内          ▼正覚寺城跡の碑(旭神社境内)

  

2014/11/19 訪城


真田丸出城(三光神社)

2014年11月20日 | 大阪府の城郭・環濠

 真田丸出城は、慶長19年(1614年)10月,大坂冬の陣に際し、豊臣方の真田信繁(幸村)が大坂城の総構の弱点を補うために総構の南側の笹山という小丘陵に築城した出城である。東側は、玉造方面へ続く水堀で囲まれ、構造は東西約180m、半円形の曲輪で、出口は後方と両脇に位置し、三方に塀を配し、外側には三重の柵を敷いた。冬の陣の終了後、和議の条件により真田丸出城は、破壊された。宰相山公園(三光神社付近)から西側(心眼寺付近)までが城跡です。

[所在地:大阪市天王寺区餌差町宰相山公園(三光神社)]

アクセス>JR大阪環状線・玉造駅下車徒歩約7分。

三光神社

 大坂冬の陣の際、真田幸村が大阪城からの抜け穴(地下道)を設けたことで有名な神社です。境内には抜け穴の史跡や真田幸村像が残されており、桜の名所としても知られています。

 

三光神社       ▼真田幸村像(三光神社境内)

 

真田丸のあった真田山に鎮座する三光神社境内にある

 大坂城へ通じていたと伝わる真田の抜け穴跡

 

三光神社

 

真田丸出城概略図

2014/11/19 訪城

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真田幸村 大坂冬の陣 真田丸攻防戦

https://www.youtube.com/watch?v=QDXCBZJ7UKA


野田城(摂津国)

2014年11月20日 | 大阪府の城郭・環濠

 野田城は、亮禄4年(1531年)細川高国と三好元長が対立した際、浦上掃部が、淀川河口の中州の高台にあたる野田の地に築城した。元亀元年(1570年)、畿内での勢力回復を図る三好三人衆等が在陣したほか、石山本願寺が打倒信長を揚げ武装蜂起した。天正4年(1576年)織田信長の猛攻により野田城は落城した。その後、織田信長の石山本願寺攻めのときには信長方の重要陣地となった。現在は市街地化されて、マンションの前に石碑がひっそりと建てられているだけである。

[所在地:大阪市福島区玉川]

<アクセス>JR大阪環状線・野田駅下車東へ徒歩すぐ。

野田城跡碑

石碑の側面           

 

2014/11/19 訪城


平野郷環濠

2014年11月12日 | 大阪府の城郭・環濠

 平野郷は、平安時代に開かれ,戦国時代には、自衛のため、まちを環濠と土塁をもって二重に囲み、外敵の侵入を防いだ。出入り口13ケ所に構えられた門は、明治12年(1879年)まで存続していた。その規模は堺に次ぐ規模です。これが環濠自治都市・平野郷の成立である。町民会議でまちを運営する自治都市として栄えた。中世より、近世にかけて各地と交易した平野商人の活躍は、末吉家のように朱印船によって、海外に雄飛する大商人を生み出した。また、在郷町として綿、特に操綿の生産として全国になをはせた。幸い、今次大戦の戦火を免れ、現在も大都市大坂の中にあって、今なお環濠都市の面影が残る地域です。

[所在地:大阪市平野区]

アクセス>JR大和路線・平野駅南口下車南へ

 平野環濠概略図

杭全神社

 

平野環濠跡碑(杭全神社境内) ▼環濠の濠(杭全神社の東側)

 

全興寺(せんこうじ)

 

坂上氏の屋敷跡 泥堂口地蔵

  

大念仏寺

 日本仏教13宗の1つの融通念仏宗の総本山

 

平野郷絵図

2014/11/11 訪問


八尾城

2014年04月24日 | 大阪府の城郭・環濠

 八尾城は、南北朝時代、八尾の土豪で八尾別当顕幸が築城して居城したと伝わる平城です。織田信長の石山本願寺攻めが終息すると、若江城から池田教正が移ってきた。天正12年(1584年)の長久手の合戦後、池田教正の美濃移封で廃城となった。八尾神社境内には矢尾城(八尾城)の石碑が建てられています。城跡は、現在の八尾神社周辺であろうと思われる説(西郷説)と現在の南本町から安中町あたりであろうと思われる説(八尾座説)が言い伝えられています。

[所在地:大阪府八尾市本町7(八尾神社)

<アクセス>近鉄大阪線八尾駅下車徒歩5分

八尾神社

 この地を本拠とした物部氏一族栗栖連がその祖神を祀ったものであろう。古くから西郷・木戸両村の氏神で明治41年(1908年)に八尾神社と改めた。八尾は、古くは矢尾とも書かれ、物部氏の一族で矢作りに従事した「矢作部」がいたといわれています。

 

矢尾城址碑(八尾城址碑)

 

            八尾神社

 

2014/04/23 訪城


茨木城

2013年09月13日 | 大阪府の城郭・環濠

 建武の新政で楠正成の領地となり、建武年間(1334年~1336年)に楠正成によって築かれたとも言われているが、定かではない。南北朝の争乱が終り、室町時代になると地侍、土豪といわれる小領主たちが、領土支配のための城館を築き、地域の有力者と呼ばれる国人に成長する。15世紀前半には、摂津の国人として茨木氏の名が出てくる。永禄11年(1568年)城主茨木佐渡守は、摂津に侵攻した織田信長に降り領土を安堵された。しかし、茨木氏は、元亀2年(1571年)池田氏との戦に敗れ滅んだ。その後、天正5年(1577年)には荒木村重の家臣の中川清秀が7万石の城主で入城した。荒木村重の謀叛に際しては中川清秀は、はじめ荒木村重方に付いて城の防備を固めたが、織田信長方の説得により織田信長方に降りた。天正11年(1583年),賤ケ岳合戦では、柴田勝家方の佐久間盛政の猛攻を受けて奮闘の末に自決して果てた。中川清秀の後、茨木城は、嫡男中川秀政(5万石)が継いだ。天正13年(1585年),播磨三木城(6万5千石)に移る。中川氏転出後の茨木城は、豊臣秀吉の直轄となり、代官預かりとなる。関ヶ原の合戦の翌年の慶長6年(1601年),茨木城の新領主として片桐且元、貞隆兄弟が1万2千石で入城した。片桐且元は、元和元年(1615年)の大坂の陣の後、茨木と大和龍田4万石を領して茨木城を居城とするが同年没する。後継いだ片桐孝利は大和龍田へ、片桐且元の弟片桐貞隆は大和小泉に移り、茨木城は廃城となった。

[所在地:大阪府茨木市片桐町(茨木小学校)]

アクセス>JR東海道線茨木駅下車徒歩20分。又は阪急電鉄京都線茨木駅下車徒歩15分。

茨木城復元櫓門(木小学校の正門)

大和小泉の慈光院に移築された櫓門を瓦葺きで復元したのである。

茨木城搦手門(茨木神社の東門)

 茨木神社の東門が、茨木城の『搦手門』を移築したものである

茨木城櫓門(慈光院の山門)

 茨木城より移築して、屋根を書院に合わせて茅葺きに葺き替えて当院の山門にした。

  

茨木城址図(明治初年)

2013/09/12 訪城

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摂津の国人と配置図

茨木氏

 茨木(現在の茨木市片桐町・上和泉町他)。居館跡は、片桐且元の茨木城と同じ。細川氏被官。文明14年(1482年)に細川政元の攻撃を受け、庶流が家督を継ぐ。天文年間(1532年~1555年),茨木長隆は、細川晴元の代官として活躍。元亀2年(1571年)、池田氏との戦で敗れ滅亡した

中川 清秀 (1542~1583)

 摂津の人。荒木村重に属し茨木城主。天正6年(1578年)荒木村重の謀叛に従ったが、間もなく織田信長に降参。本能寺の変後、羽柴秀吉に合流して山崎の戦に参加。その後も豊臣秀吉に属し、賤ケ岳の戦に従事。佐久間盛政の攻撃を受けて討ち死にした。


池田城

2013年09月07日 | 大阪府の城郭・環濠

 池田城は、大阪府池田市の城山町周辺の標高50mの高台に、室町時代から戦国時代にかけて、旧豊島郡(現在の池田市、豊中市、箕面市周辺)を治めていた摂津の有力国人池田氏によって築かれた平山城で池田氏の居城です。築城当初は、主郭(本丸)と小さな曲輪の小規模の城であった。その後、池田城は、多くの落城の憂き目にあい、その都度堀を広げ、周りに土塁や連郭式の曲輪を設け防衛効果を高めていった。永禄11年(1568年)の織田信長の上洛後の摂津制圧に際して三好三人衆方の国人として、池田勝正は、憶することなくこれに立ち向かい抵抗したが、織田軍の攻撃を受け降伏する。その後、池田勝正は織田信長に登用され織田信長の家臣(6万石の池田城主)となった。その後、池田氏内紛に乗じて旧家臣の荒木村重が主君の池田氏を下剋上で倒し、池田城を支配し、果ては戦国大名まで成りあがった荒木村重が、伊丹城(有岡城)を居城としたため池田城は、廃城となった。現在は、池田城跡公園としてきれいに整備され,園内には、木造伝統工法の模擬櫓および模擬大手門等が復元されています。

[所在地:大阪府池田市城山町]

アクセス>阪急電鉄宝塚線池田駅下車徒歩15分

池田城の概要

模擬大手門(東門)

池田城址碑   ▼東門

 

模擬櫓(木造伝統工法造り)

模擬櫓からの眺め()   ▼模擬櫓からの眺め(城内)

 

模擬櫓からの眺め(城内)   ▼模擬櫓からの眺め(城外)

 

空堀                                  ▼空堀

 

             虎口門

 

             西門

 

 2013/09/06 訪城

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池田貞正、池田城に自刀  永正5年(1508年)      

 細川高国と細川澄元の家督争いに巻き込まれ、池田貞正は、細川澄元に加担する。結果、細川高国の軍勢に攻められ、池田城落城して当主池田貞正以下数十名が切腹、その後、池田貞正の嫡子池田久宗が池田城を奪回し、以後落城再建を繰り返す。  

摂津の国人と配置図

荒木村重 (1535年~1586年) 

 荒木村重は、丹波の波多野氏の一族です。摂津の池田知正の臣であったが、織田信長が足利義昭と対立した時、織田信長の下に馳せつけ、以後これに従う。その後、池田氏内紛に乗じて旧主君の池田氏を下剋上で倒し、池田城を支配し、更に天正2年(1574年)11月,織田信長の命により伊丹城を攻めて伊丹氏一族を滅ぼしました。織田信長から伊丹城を与えられ、入城後、有岡城と改名し、有岡城主で摂津一国を任せられた。以後織田信長の臣下として、毛利軍や石山本願寺攻めを担当。しかし、天正6年(1578年)11月、毛利氏に通じて謀叛を起こす。その後、有岡城は、約1ケ年織田信長の攻囲をうけ、翌年11月に落城した。その間、荒木村重は単身で尼崎へ逃れて、織田信長の誘降に応ぜず、ために有岡城落城。一族・家臣・小者に至るまでことごとく処刑された。後、豊臣秀吉のお伽衆として仕えます。茶道にもすぐれ堺に移り住み、天正14年(1586年)病死した。


私部城(交野城)

2013年07月27日 | 大阪府の城郭・環濠

 私部城は、南北朝時代の文和元年(1352年),免除川の南側の南西に延びる丘陵に、安見清儀によって築城された連郭式平城です別名交野城とも呼ばれていました。安見直政の時、三好長慶に攻められ安見直政は逃れたが、永禄12年(1569年),織田信長が河内国を平定したため、安見直政は所領を回復し私部城を居城とした。安見直政病没後、天正元年(1573年),大和筒井順慶軍に攻められ落城。天正3年(1575年),織田信長の命により廃城になった。

[所在地:大阪府交野市私部]

アクセス>京阪交野線・交野市駅から徒歩10分

和部城(交野城)の概要

私部城縄張り図

二郭(字天守)跡

 

本郭(左側)と二郭右側)の間の空堀      ▼本郭

 

私部城址碑                      

 

2013/07/26訪城

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北田 好忠 (?~1573年)

 安見直政が病没したことを聞き、天正元年(1573年)私部城へ大和の筒井勢が攻めよせた時、安見直政の重臣、北田久左衛門尉好忠は、その落城の最後を飾った勇士である。北田氏は、家系図によると、北畠顕家から出ているが、南朝没落後、足利家の世となって民間に下り、その姓をはばかって、北畠のを除き北田と称した。いつの頃か安見家の客分となり、その武芸を望まれて、以来その重臣となった。

徳川家康の脱出行 天正10年(1582年)

 徳川家康一行が堺から京都に戻る途中、河内飯盛山付近で明智光秀に織田信長が殺害された本能寺の変の凶報を知る。ただちに、交野・星田の郷士、平井家に立ち寄り、たくさんのにぎりご飯と道案内役と剣客の護衛を得て,間道伝いに近江国の信楽庄から北伊賀の御斉(おとき)峠を越え、伊賀郡西山、上拓植を経て加太峠を越えて伊賀国の関に出る。船で、伊勢湾を横断し4日間で三河の岡崎城に無時戻った。[33年後の大阪夏の陣の時、5月5日に京都の二条城を出撃した家康は15,000騎の兵を従え交野・星田の郷士、平井家に本陣を置き宿泊している。]


岸和田城

2013年03月31日 | 大阪府の城郭・環濠

 岸和田城は、楠木正成の一族、和田高家が、築いたのが最初と言われています。戦国時代末期(16世紀半ば)には、当時和泉地域を治めていた松浦氏の居城となっていました。織田信長が支配すると、家臣の津田信張、蜂屋頼隆がしばらく居城した後、羽柴秀吉の子飼いの家臣中村一氏を城主として紀州の根来寺や雑賀衆への押さえとしました。天正12年(1584年)の岸和田合戦では、紀州勢の大軍を相手に城を守り抜き、翌年の天正13年[1585年),岸和田城を拠点として根来寺を焼き討ちにして、和泉地域から根来勢力を一掃しました。その後、秀吉の叔父の小出秀政に城郭と城下町の整備を依頼します。豊臣氏滅亡後、松平(松井)二代を経て、寛永17年(1640年),岡部宣勝が6万石で入城し以後明治維新まで岡部氏13代がここで岸和田藩を統治しました。江戸時代の岸和田城は、大阪南部の守りとして、幕府の西国支配に重要な役割を果たしました。岡部氏は、徳川家中にあっては珍しいい今川家の旧臣として知られています。明治6年(1873年)廃城となり、城は、破壊されました。しかし、岸和田市民の力によって、昭和29年(1954年)約1年の歳月をかけ数々の課題を乗り越えて、町のシンボル不在だった本丸に鉄筋コンクリート造りの三層三階の模擬天守が、昭和44年には城壁と多聞櫓・隅櫓が再建されました。  

 [所在地:大阪府岸和田市岸城町9番1号]   

アクセス>南海・蛸地蔵駅西出口から徒歩7分

岸和田城(千亀利城とも呼ばれている)             

内堀                                   ▼多聞櫓・隅櫓

 

櫓門

 

岡部氏記念碑 岸和田城址碑

  

本丸          八陣の庭

 

小天守() と 天守閣()

 2013/03/30 訪城

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久米田の戦 永禄5年(1562年)

 和泉国八木郷の久米田寺周辺(現在の大坂府岸和田市)に布陣する三好義賢13,000騎に対し、畠山高政20,000騎が攻め入った合戦。三好義賢はこの戦で戦死し、三好氏没落の遠因となった。

紀伊雑賀合戦 天正5年(1577年)

 雑賀が石山本願寺の兵站基地のため、織田信長軍50,000余騎で雑賀城を攻める。織田軍は雑賀川の戦いで、雑賀の鈴木孫一の率いる雑賀衆の鉄砲攻撃に敗れ,一時退却したが、雑賀衆には余力がなく、力尽きて雑賀城は落城する

織田信長の高野山攻め 天正9年(1581年)

 高野聖1300余を殺害し、織田信孝軍約130,000騎で高野山攻撃開始する。高野山方は、僧兵、浪人約37000騎で応戦する。対陣中に本能寺の変が起こり(1582),織田信孝は高野山攻めを中止し、退却する。

岸和田合戦 天正12年(1584年)

  小牧・長久手の合戦に出陣した豊臣秀吉の隙をついて、大坂をめざした根来衆・雑賀衆・粉河衆など約30,000騎。一方、岸和田城を守る兵は、5,000騎、しかし奮戦によって城はかろうじて落城を免れた。

豊臣秀吉の根来寺攻め 天正13年(1585年)

 和泉・紀伊に寺領75万石を有する根来寺の勢力を恐れ、豊臣秀吉軍約100,000騎で、根来、雑賀勢に攻撃開始し、根来寺を焼き討ちする。根来衆、雑賀衆屈服。

豊臣秀吉の名草郡太田城攻め 天正13年(1585年)

 根来寺衆討伐後、豊臣秀吉軍約100,000騎で太田党・雑賀衆約5,000騎で守る太田城を攻める。紀ノ川にそそぐ大門川(宮井川)の水を塞き止めて、水攻めを行う。太田城は約1ケ月持ちこたえたが城兵に疲れがではじめ、城将らが自刃して落城した。

豊臣秀吉の高野山攻め 天正13年(1585年)

 豊臣秀吉軍約100,000騎で、高野山を攻める。高野山の客僧木食上人応基(おうご)が和議の使者となる。高野山攻め中止、秀吉に服従。高野山方は、寺領17万石を失う。