nakazumi's blog

文化・歴史・城郭をメインに、時々『気になる事』を記す婆娑羅ブログ!

篠山城

2014年10月27日 | 兵庫県の城郭・環濠

 篠山城は、慶長14年(1609年),篠山盆地の中心部の丘陵である笹山を築城地と定め、西国の諸大名が動員され「天下普請の城」として築かれた平山城です。徳川家康は、豊臣家との戦いを前にして、西国諸大名が豊臣氏と連携することを恐れ、山陰方面からの援軍を遮断するため、篠山築城を命じた。縄張りは、藤堂高虎があたり、高度な石垣造営技術を誇る穴太衆(あのうしゅう)が動員され、当時における最高レベルの築城技術が利用された。松平康重が初代城主として配されたのをはじめ、譜代・親藩大名が歴代領主に名をつらね、青山氏6万石時代に、明治維新を迎えた。高石垣や水堀が今日に伝えられるとともに、平成12年(2000年),二の丸に大書院が復元された。現在、篠山城は、国の史跡に指定されています。

[所在地:兵庫県篠山市北新町]

アクセス>JR福知山線・篠山口駅下車。 「篠山口」から神姫バスで「二階町」下車(バス約15分)すぐ。

 

篠山城略図

 

外堀

 

表門跡         ▼鉄門(くろがねもん)跡

 

             ▼復元大書院

 

▼二の丸         二の丸井戸跡

 

本丸         ▼後方の石垣が天守台(本丸)

 

天守台からの眺め

 天守台からは南東の方向に篠山城の前身である八上城があった高城山が望めます。

 

2014/10/25 訪城

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武家屋敷群(お徒士町通り)

 

武家屋敷

 

小南家長屋門


八上(やがみ)城

2014年10月26日 | 兵庫県の城郭・環濠

  八上城(別名、八上高城)は、室町時代から戦国時代にかけて、丹波地方の有力国人である波多野氏が本拠地にした山城です。波多野氏は、応仁の乱の戦功によって多紀郡小守護代となり、永正5年(1508年)に、高城山(標高460m)の主峰部に八上城を築き本城とした。その西側の法光寺城は、八上城の支城である。天正3年(1575年),織田信長の丹波侵略の一環として、明智光秀に攻められ毛利氏の支援があったが、兵糧攻めにより天正7年(1579年)八上城は、落城し、波多野氏は滅亡した。この合戦で明智光秀の母(祖母とも)が磔になった城としても知られている。以後前田茂勝などが八上城へ入ったが、慶長14年(1609年)の篠山城築城により廃城となった。現在、八上城跡は、国史跡になっています。

[所在地:兵庫県篠山市八上内字高城山]

<アクセス>JR福知山線・篠山口駅下車タクシー

高城山(八上城跡)              ▼八上城(本城)と法光寺城(支城)

 

国史跡 八上城跡概要

八上城概略図

八上城の縄張り

八上城跡碑            ▼春日神社

 

 

春日神社から高城山(八上城跡)への登山道が整備されています。

 

2014/10/25  訪城

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足利尊氏、亀山篠村八幡宮で挙兵 元弘3年(1333年)

 討幕軍(2万余騎),京都市中の六波羅探題軍(6万余騎)を攻め、鎌倉方は近江へ敗走。

波多野氏、八上城を本拠とする 大永6年(1526年)

 多紀郡の土豪波多野氏、守護細川氏に叛し八上城に拠る。丹波国内に有力国人衆が割拠

八上城の戦    天正6年(1578年)

 東丹波に侵略してきた織田信長方の明智光秀と波多野秀治・秀尚が八上城で激突。明智光秀、波多野兄弟を安土城に伴うが、織田信長、波多野兄弟を処刑。八上城方、人質の明智光秀の母(祖母とも)を処刑。

戊辰戦争   慶応4年(1968年)

 倒幕の流を受け、丹波山国地域の農民らが、山国隊を結成、関東・奥州を転戦した。現在、10月の京都時代祭の先頭を飾る。


八田城(はったじょう)

2014年10月12日 | 三重県の城郭・環濠

  八田城は、桓武平氏の流れをくみ、相模国(現在の神奈川県),三浦半島に勢力をもっていた三浦義明の孫三浦五郎左衛門盛時が鎌倉時代に相模からこの地に移住して、標高約58m,山麓からの比高差約34mの山頂に立地する平山城を築城しました。堅固な城になったのは室町期である。城の中心は、土塁に囲まれた曲輪(郭)で、その東・南の2ケ所に虎口(出入り口)があります。主郭の東にも曲輪がある他、見張り台、井戸、堀切などの城の施設がありました。この地では、「三浦」姓を改め、「大多和」姓を名乗り、津市美杉町多気を本拠とする伊勢国司の北畠氏の配下となりました。永禄12年(1569年),盛時より10代にあたる大多和兵部少輔監物が城主の時、織田信長の伊勢侵略の際、木下藤吉郎(豊臣)秀吉に攻められるも、龍城しました。しかし、北畠具教は織田信長と和睦したため、城を開城しました。その後、天正4年(1576年)の北畠氏滅亡により、本城も陥落し、大多和氏は下之庄村に隠棲、帰農して、子孫は姓を元の「三浦」姓に改めました。現在、八田城跡は、市指定史跡になっています。

[所在地:三重県松阪市嬉野八田町字城山]

<アクセス>近鉄・伊勢中川駅下車徒歩で約60分(約5.1Km)又はタクシーで約10分。

八田城山(八田城)              ▼八田城跡碑

 

八田城跡の概要

八田城の縄張り図

東屋(あずまや)

砦門

 

堀切          ▼土塁

 

             曲輪

 

史跡指定記念看板(主郭) ▼見張り台

 

あぶな橋       ▼井戸跡

 

2014/10/12訪城  2018/10/13訪城


御在所岳頂上

2014年10月03日 | 登山と渓谷

2014/10/01  三重県三重郡菰野町の御在所岳頂上に登山に行ってきました。

登山コース>近鉄・湯の山温泉駅下車・・・御在所ロープウエイ・湯の山温泉駅➜➜(ロープウエイ)➜➜御在所ロープウエイ・山上公園駅・・・御在所岳頂上・・・長者池・・・御嶽大権現・・・御在所ロープウエイ・山上公園駅➜➜(ロープウエイ)➜➜御在所ロープウエイ・湯の山温泉駅・・・近鉄・湯の山温泉駅 

湯の山ガイドマップ

            ロープウエイ・・・12分で山上に着

 

御在所山上公園マップ

御在所岳

 

御在所岳頂上  標高1221m

御在所

 鈴鹿山脈の中央部に位置し、三重県側の最高峰は、海抜1212mあります。その名の起りは、皇太神宮の御神体を大和妃の命が、一時この山に安置なさいましたので、この名が生まれたと伝えられています。

御在所岳からの展望

 

 

長者池

 

御嶽神社(御嶽権現)

 大化元年、役の行者によって教義の宣布がなされました。修験道の流れをくむ行者覚順は、明治17年に木曽の御嶽神社より祭神の分霊をここに移し、毎月18日には例祭がとり行われ5月・10月は、大祭が盛大に催されます。御祭神は御嶽山蔵王大権現・大日大聖不動明王をお祭りしてあり、厄除開運・家内安全・無病息災・交通安全・商売繁昌・合格祈願等誠にご霊験あらたかな神様といわれております。

 

歩いて登山される方が見えます 下山も、ロープウエイに乗りました