nakazumi's blog

文化・歴史・城郭をメインに、時々『気になる事』を記す婆娑羅ブログ!

大台ケ原

2015年04月26日 | 登山と渓谷

2015/04/25 奈良県の吉野熊野国立公園の大台ケ原に登山(ハイキング)に行ってきました。

<登山コース>大台ケ原駐車場・・・日出ケ岳・・・正木ケ原・・・大蛇・・・シオカラ谷・・・大台ケ原駐車場

アクセス>近鉄吉野線・大和上市駅下車。上市駅から奈良交通バスで1時間45分で大台ケ原駐車場に。 

奈良交通バスは、上市駅バス停9:00発の大台ケ原行きのバスに乗る

大台ケ原駐車場

 

大台ケ原の略図

展望三又路より日出ケ岳を望む ▼日出ケ岳頂上(標高:1695m

                            大台ケ原の最高峰

 

日出ケ岳(山頂展望台)   ▼日出ケ岳からの眺め

 

日出ケ岳からの眺め

 

正木ケ原

 

神武天皇像(牛石ケ原)   ▼牛石ケ原

 

          大蛇・・・大台ケ原一の絶景地点

 

シオカラ吊り橋      ▼シオカラ谷

 

          大台ケ原駐車場15:30発の奈良交通バスで帰りました

 


上田城

2015年04月20日 | 長野県の城郭・環濠

 小県郡の一土豪であった真田氏は、真田昌幸の代に勢力を拡大し、上田へ進出した。そして、東海道の保福寺峠道と北国街道が合流する交通の要衝で、街道を押さえる目的で千曲川の分流である尼ケ淵に面した要害の地に、天正11年(1583年)に上田城を完成させた。天正13年(1585年),上田城を攻略に来た徳川軍7000騎を撃退している(第1次上田城の戦)。慶長5年(1600年)の関ヶ原の合戦の時、西軍についた真田昌幸は上田城に籠城して、徳川秀忠率いる38,000騎の大軍の西上を阻止(第2次上田城の戦)。徳川秀忠は関ヶ原に間に合わなかった。しかし、関ヶ原で西軍が敗北したために、真田昌幸・幸村父子は、高野山に謹慎となり、城は、徳川方の手によって、徹底的に破壊された。東軍についた真田昌幸の長男・真田信之も、元和8年(1622年)松代藩へ転封。かわって入封した仙石忠政によって、城は、現在の姿に復興された。仙石氏3代の後は松平(藤井)忠周が入封し、幕末まで7代続いた。明治維新の廃城令で建物や土地は民間に払い下げられ、本丸に7基あった櫓は、一つを城内に残して売却された。しかし、復元をめざす市民によって昭和24年(1949年),現在の北櫓と南櫓として移築復元された。現在、本丸に3基の櫓が残る上田城址は、国史跡である。

[所在地:長野県上田市二の丸]

アクセス>JR上田駅から徒歩約12分

本丸南西隅にある、城内唯一創建当時から建ち続ける西櫓。

上田城略図

二の丸橋

堀跡

 

上田城三櫓の概要

復元された本丸東虎口櫓門(中央の建物)

 昭和24年(1949年)に移築復元された北櫓(左の建物)と南櫓(右の建物)。

 平成6年(1994年)に木造復元された櫓門(中央の建物)。櫓門と南櫓・北櫓を接続する土塀も復元整備されています。

南櫓

櫓門

北櫓

土塀           ▼石落とし

 

真田神社の概要

真田神社

 

西櫓

真田井戸

 

2015/04/16 訪城

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第1次上田城の戦   天正13年(1585年)8月~11月

 天正10年(1582年)9月から、真田昌幸は徳川家康に属し、上野で北条氏と戦っていた。ところが、徳川家康が天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦に際し、豊臣秀吉との対抗上,北条氏との連携を強化することになり、講和条件として、徳川 家康から「上州沼田領を北条氏へ引き渡せ」の命令があった。真田昌幸は「上州沼田領は、徳川家康からもらったものではない」と突っぱね、徳川家康を離れ徳川家康と敵対関係にある越後の上杉景勝についたのである。真田昌幸の離反で徳川家康は怒り、家臣に真田昌幸討伐を命じたのである。徳川軍約7000騎が、領民を含めて2000騎弱で籠城する上田城を攻めたが、真田軍の智略と領民の総力戦で徳川軍1300騎余りの死者を出し敗北。真田の死者は雑兵を含め41名であった。11月に入り、徳川家康の家臣の石川数正が豊臣秀吉に引き抜かれ,出奔してしまったので上田城にかまっていられないので、徳川家康から鳥居元忠に撤退命令が出て,全軍浜松城に引き揚げたのである。

第2次上田城の戦   慶長5年(1600年)9月5日~8日

 石田三成の挙兵をうけ徳川家康は、慶長5年(1600年)7月25日,下野小山で小山評定を開いた。その結果、会津の上杉攻めを中止し、徳川家康は東海道経由で畿内へ向かうことになり、徳川秀忠は中山道経由で畿内へ向かうことになった。この時徳川秀忠に従ったのは徳川本隊の38,000騎である。小山評定のあと、徳川秀忠は、上杉軍の出方をうかがっていたが、上杉軍が攻撃を仕掛けてくる気配がないと見届け、結城秀康の兵を上杉の押さえに残し、8月24日宇都宮の陣を引き払ったのである。そのころ、上田城の真田昌幸・幸村父子が西軍の石田三成方についたとの情報が入り、徳川秀忠は、寄り道を承知で、領民含め僅か1500騎で守る上田城を攻めたのである。しかし真田軍の智略と謀略で城を何回も攻めたが攻め落とすことはできず、最後は、遠くから城を包囲するだけであった。9月8日、仙石秀久等の兵を上田城の押さえとして残し、徳川秀忠軍は、畿内へ向かったのである。しかし関ヶ原での戦には間に合わなかったのである。


高遠城

2015年04月18日 | 長野県の城郭・環濠

   高遠城は、三峰(みぶ)川と藤沢川に削られた河岸段丘上の突端に位置する平山城です。天文16年(1547年),信濃に侵攻した武田信玄が伊那谷における拠点とすべく築城し、縄張は山本勘助によったとの伝承が残っています。天正10年(1582年),織田信長の甲州せめでは、織田信忠率いる軍勢が高遠城に殺到した。城主の仁科盛信(武田信玄の五男)は、譜代の重臣や一族までもが武田家を見限る中、兄・武田勝頼に尽くすため、降伏勧告を無視し、城を枕にして壮烈な討ち死にを遂げた。江戸時代には、保科氏・鳥居氏を経て元禄4年(1691年),内藤氏が、3.3万石で入封し、内藤氏が、明治維新まで続いた。明治の廃城令で城内の建物は、民間に払い下げられましたが、旧藩士らの手によって「桜の馬場」から桜が約1500本移植され、明治8年に公園となりました。現在、古城は、桜の時期を過ぎても初夏の新緑、秋の紅葉等四季折々楽しむことができます。

[所在地:長野県伊那市高遠町東高遠]

 <アクセス>JR飯田線・伊那市駅からバスで(約25分)高遠駅下車,徒歩で城跡まで約15分。

高遠城址案内図

 

二の丸の概要

二の丸跡

 

問屋門の概要

問屋門

   本丸御門は、枡形で、一の門が冠木門、二の門が櫓門でした。現在ある門は、城下町の本町にあった問屋役所の門を昭和23年(1948年)に移築したものです。

本丸の概要

本丸

太鼓櫓概要

太鼓櫓

   江戸時代には搦手門の傍らにあったが、明治10年(1877年)に本丸南隅櫓の跡に移されました。現在の太鼓櫓は、大正2年(1913年)に再建された建物です。

新城・藤原神社の概要

藤原・新城神社

   内藤家の祖神・藤原鎌足の社と高遠城の戦で壮烈な最後を遂げた仁科盛信を祀った社を明治12年(1879年)に合祀した神社。

法幢院曲輪の概要

法幢院曲輪

 

高遠閣の概要

高遠閣

空堀

 

進徳館の概要

   最後の高遠城主であった内藤頼直が万延元年(1860年)に三の丸に創設した藩校。撤去を免れた東西の2棟と玄関が現存しています。

進徳館

 

進徳館

 

2015/04/15 訪城

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高遠城の戦  天正10年(1582年)2月23日~3月2日

 武田信玄の娘を妻とし、武田一族の扱いをうけていた信濃の木曽義昌が離反し、織田信長方となった。織田信長は、武田勝頼討伐の好機到来とみて、嫡男・織田信忠に50,000騎で武田信玄の五男・仁科盛信が3,000騎で籠城する高遠城を攻めさせた。武田勝頼は、15,000騎を率いて新府城を出て、諏訪の上原まで出陣してきたが、そこから進まなかったのである。つまり、仁科盛信は、兄・武田勝頼に見捨てられた形で、展望のない籠城を続け、3月2日,城内にいた女も子も全員殺害された。そして、その日のうちに城は落ちた。武田勝頼は、3月3日、新府城に火を放って岩殿城をめざしたが、3月11日、天目山麓の田野で自刃し、武田氏は滅亡した。 


高松城

2015年04月11日 | 香川県の城郭・環濠

 高松城は、 天正15年(1587年)に、豊臣秀吉から讃岐一国を与えられた生駒親正が、天正16年(1588年)から香東郡野原庄と呼ばれていた現在地を高松と改め築城した平城(海城)です。瀬戸内の海水を外堀、中堀、内堀に引き込んだこの城は、日本の三大水城のひとつです。寛永17年(1640年)に御家騒動で讃岐一国を召し上げられ、出羽国(秋田県)矢島1万石に移されました。この後、寛永19年(1942年)に常陸国(茨城県)の下館藩主だった松平頼重が東讃岐12万石の領主として入城しました。松平頼重以降、松平の治世は、228年続き明治維新を迎えました。明治の廃城令で大半の建物は解体されましたが、重要文化財の月見櫓、良櫓と共に石垣や堀等が残り、昭和30年(1955年)には国の史跡に指定されました。

 [所在地:香川県高松市珠玉藻町]

アクセス>JR高松駅から徒歩約3分。

高松城の概要

高松城の略図

二の丸          ▼内堀

 

内堀

 

水門の概要

水門

 高松城は、堀が海とつながっているので、潮の干潮による水位調整のため水門が設けられています。

天守閣跡

 明治17年(1884年)老朽化のために、天守閣は、取り壊されました。

 

天守閣跡

 

サヤ橋とは。

サヤ橋

 本丸へ続く唯一の通路である廊下橋(サン橋)長さ16間(約30m)の木橋で、屋根が掛けられていた。屋根は当初からではなく、松平時代に設けられた。

 

月見櫓[重要文化]

 月見櫓は、延宝4年(1676年),に築かれた三重櫓。北の丸の隅櫓として船の出入りを監視する役割を持つとともに、藩主が江戸から船で帰られるのをこの櫓から望み見たので「着見櫓」ともいわれています。

 

良櫓(よしとらやぐら)[重要文化財]

 良櫓は延宝5年(1677年)に築かれた三重櫓。もともと東の丸の北東の隅にあった櫓で、旧太鼓櫓跡に昭和47年(1972年)に移築されました。現存する月見櫓より平面の規模は少し大きい。

 

披雲閣庭園

 

2015/04/03 訪城

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生駒親正 (1526年~1603年)

 生駒氏は、大和国生駒荘出身で室町時代に東海地方へ移った。織田信長、豊臣秀吉の家臣として、金ケ崎の戦い、長篠の戦いに参陣。天正16年(1588年)に生駒親正が讃岐一国の領主となったが、曾孫・生駒高俊の代に御家騒動で領地没収、転封。


丸亀城

2015年04月10日 | 香川県の城郭・環濠

丸亀城は、慶長2年(1597年),高松城主の生駒氏が、讃岐平野に屹立する標高約66mの亀山に、高松城の支城として築いた平山城です。元和元年(1615年)、一国一城令で丸亀城は廃城となる。寛永17年(1640年)、生駒氏のお家騒動により所領没収、出羽国矢島転封。寛永18年(1641年),山崎家治が丸亀5万石余に封じられると、翌年から丸亀城跡地を城地に決め、改修工事に着手し、寛永20年(1643年)に丸亀城を再築するが、明暦3年(1657年),山崎氏嫡子なく断家。万治元年(1658年),京極高和が、竜野から6万石余で丸亀城に入封し、三層の天守閣が、完成した。そして京極家は代々続き明治維新を迎えた。明治の廃城令で、現存の建物以外の櫓・城壁等は解体された。現在、城跡は、国の史跡に指定され、解体修理された天守閣と大手一の門、大手二の門等が、重要文化財に指定されています。

[所在地:香川県丸亀市一番町]

アクセス>JR丸亀駅から徒歩10分

 大手門から見た天守閣(重要文化財)

丸亀城の歴史

丸亀城の略図

内堀

 

          ▼城内側の櫓門一の門

            堀端の高麗門が二の門です。   

 

大手二の門(重要文化財)  ▼大手一の門(重要文化財)

 大手二の門(高麗門)には、門の屋根とは別に控柱にも屋根を設ける形式である。

 

山麓から山頂の本丸まで、三層の石垣がおりなす光景を目にすれば、築城の名手の山崎家治の腕の確かさを知ることができます。

三の丸・北側の石垣

丸亀城の中でも最も高く、20m以上の城壁が続きます。隅角部の石垣は算木積みされた美しい曲線美で、『扇の勾配』と呼ばれています。

 

三の丸・西側の石垣

 

三の丸・南側の石垣

 

二の丸

 

南側から見た天守閣

三階三層の現存の木造天守閣です。高さ約15m,一階北側には、石落や狭間があります。唐破風や千鳥破風で意匠を凝らしています。この天守閣は、四国で最も古く万治3年(1660年)に完成しました。日本で一番小さな現存の木造天守閣です。昭和18年(1943年)に国指定の重要文化財に指定されました。

南西から見た天守閣

天守閣よりの眺め

 

2015/04/03 訪城


今治城

2015年04月09日 | 愛媛県の城郭・環濠

 築城の名手として名高い藤堂高虎は、関ヶ原の戦功で伊予(愛媛県)半国20万石を領し、慶長7年(1602年)に来島海狭を望む海辺に位置する地に築城を開始しました。約6年の歳月をかけて慶長13年(1608年)に三重の堀に囲まれた今治城は完成しました。藤堂高虎は、その後、伊勢・伊賀(三重県)に転封で、今治城には養子の藤堂高吉が在城します。寛永12年(1635年)に伊予・松山城主・松平(本性は久松)定行の弟の松平定房が3万石で今治城主となり、明治維新まで続きました。明治の廃城令で城の建物は全て解体されましたが、城の中心部の石垣と内堀がほぼ完全に残っており、昭和28年(1953年)に愛媛県史跡に指定され、地元の企業・市民の寄付等で天守閣・櫓・城門などが再建されました。

 [所在地:愛媛県今治市通町]

アクセス>JR予讃線・今治駅から徒歩約20分

復興された天守閣

今治城の概要

今治城の略図

内堀・・・内堀で50m以上の幅があり、防備の弱い平城を守る幅の広い堀。

 

多門櫓(左)・鉄御門(中央)・武具櫓()の全景

鉄御門・・・扉や門柱に鉄板を張り詰めた厳重な門である。

 

武具櫓          土塀

 

本丸跡(吹揚神社)     ▼藤堂高虎公像・・・平服姿の騎馬像です。

 

天守閣

 

天守閣

 創建時の五層天守閣は、各階を順次小さくして積み上げる史上初の「層塔型」でした。従来の望楼型と比べて構造が単純で容易に建立できるため、その後の天守閣のモデルになりました。現在の天守閣は、本丸跡の北側に昭和55年(1980年)に五層六階の天守閣で再建されました。

天守閣からの眺め     ▼武具櫓・鉄御門・多門櫓

 

天守閣からの眺め     ▼山里門・山里櫓

 

2015/04/03 訪城


松山城(伊予国)

2015年04月09日 | 愛媛県の城郭・環濠

 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦で徳川家康側に従軍し、その戦功を認められて20万石となった加藤嘉明は、慶長7年(1602年)に伊予正木(愛媛県松前町)から道後平野の中央にある標高132mの勝山山頂に城郭を移すため工事に着手し、松山と命名した。しかし、完成まじかに加藤嘉明は会津に転封。替わって入封した蒲生忠知の代に松山城を完成された。嗣子なく蒲生氏が断絶したあと、徳川家康の甥・松平(久松)定行が入府。この時、5重から3重に改築された天守閣は、天明4年(1784年)落雷で焼失したが、安政元年(1854年)悲願の天守閣が再建された。現在、天守閣、一の門、戸無門等21棟の重要文化財をもつ四国最大の名城です。 

[所在地:愛媛県松山市丸の内]

アクセス> JR松山駅から伊予鉄道で道後温泉行きで約10分「大街道駅」下車徒歩5分

 本丸の建物位置図

南側から望んだ天守閣

隠門続櫓         ▼太鼓櫓

 

戸無門(右)と筒井門西続櫓(左) 筒井門

 

隠門

 

 

井戸           ▼本壇(天守閣を中心とした曲輪)の建築群

 

天守閣(右)小天守(左)

 天守閣は、三重三階地下一階の層塔型天守で、黒船来航の翌年落成した江戸時代最後の完全な城郭建築。

 小天守は、二重櫓、小天守東櫓とも呼ばれ、大手(正面)の二の丸・三の丸方面を監視防衛する重要な位置にある。

 天守閣、小天守、隅櫓を渡櫓で互いに結び、武備に徹したこの天守建築物軍はわが国の代表的な連立式天守を備えた城郭と言われている。

              ▼一の門

 

土塀・・・狭間(攻撃用の小穴)が設けられた戦闘的な土塀。

 

              ▼二の門

 

内庭からの天守閣(重要文化財)

大天守からの眺め

 

加藤嘉明公像

 加藤嘉明は豊臣秀吉家臣では珍しい三河出身者。関ヶ原の戦では東軍に属し、石田三成軍を破るなどの戦功で松山藩主となる。のち会津藩主。

 

2015/04/02 訪城

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久万(くま)山百姓一揆  寛保元年(1741年)

 財政再建を目指す松山藩の椿紙の専売強行などに反対し、久万山の農民が大挙して大州藩領内に逃散した。藩主の頼みで久万大宝寺の住職斎秀が説得し、多くを帰村させた。松山藩、藩史上最大の一揆。


湯築(ゆづき)城

2015年04月08日 | 愛媛県の城郭・環濠

 中世の城郭である湯築城は、14世紀の前半、伊予国守護・河野氏によって標高71mの丘陵地に築城され、近世の城郭が持つ石垣や天守が無く、地形を利用した南北約350m,東西約300mの平山城であった。南北朝期から戦国期(14世紀前半~16世紀末)まで約250年間にわたって河野氏が居城としていました。湯築城を築いた河野氏は風早郡河野郷(旧北条市)を本拠とした一族で,源平合戦(1180年~1185年)で河野通信が源氏方として功績を挙げ、鎌倉幕府の有力御家人となり伊予国の統率権を得ました。河野通盛の時(1335年頃)、風早郡河野郷から温泉郡湯築へと本拠を移した河野氏は以後、足利将軍家や近隣の大内氏、大友氏、毛利氏などと同盟を結びながら伊予を支配し続けた。天正9年(1581年)以後,四国制圧を狙う土佐国の長宗我部元親が中伊予に侵入し、城主・河野通直は、交戦した。天正13年(1585年)四国平定ををめざす豊臣秀吉の命を受けた小早川隆景率いる伊予侵攻軍に敗れ、城は開城。天正15年(1587年),福島正則が城主になるが、国分山城を居城としたため廃城となった。明治21年(1888年),県立道後公園として整備され、城郭の堀や土塁などの縄張り遺構が良好に残り城郭発達史からみても貴重で稀な中世の主要な守護大名の拠点城跡であることから、平成14年(2002年),国の史跡に指定されました。

[所在地:愛媛県松山市道後公園]

アクセス>JR予讃線・松山駅から伊予鉄道市内電車「道後温泉行き」で約20分、道後公園駅下車徒歩1分。

湯築城(道後公園)の概略図

 城の縄張りは、現在でも完全な形で残っています。二重の堀と土塁で囲まれています

湯築城を遠望

 

内堀

 丘陵部の麓には内堀が現存します。幅は約12m、深さは約2.5m、断面はU字型です。

 

土塀

 

武家屋敷1

ある日の武家屋敷

武家屋敷1

 家臣が生活した家臣団居住区には武家屋敷が立体復元されています。

主室の様子

台所の様子

湯築城と河野氏の歴史

河野氏の略系図

2015/04/03 訪城

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鳥坂(とさか)峠の戦   永禄11年(1568年)  

 河野軍と援軍の毛利軍が、鳥坂峠(西伊市)付近で、侵攻してきた土佐一条氏・宇都宮軍を撃破する。

道後湯築城の戦   天正13年(1583年)

 豊臣秀吉の四国征伐の命で毛利方の小早川隆景の軍勢が中伊予に侵攻し、湯築城で龍城戦を行う。1ケ月の籠城後、小早川隆景の降伏勧告で名族・河野通直(牛福丸)が開城する。

一遍   延応元年(1239年)~正応2年(1289年)

 延応元年(1239年)伊予国(現在の愛媛県)の豪族、別府通広の次男として生まれる。鎌倉幕府の有力御家人であった本家の河野氏は、承久3年(1221年)の承久の乱で京方について祖父の河野通信が陸奥国(岩手県北上市)に配流され没落。幕府方に着いた別府通信の子、河野通久の一党のみが残り、一遍が生まれた時にはかっての勢いを失っていた。10歳で天台宗継教寺で出家、13歳になると法然の孫弟子に当る聖達の下で10年以上浄土宗西山義を学ぶ。その後,摂津の四天王寺、紀伊の高野山などで修業に励み、各地を念仏勧進し、時衆を率いて遊行を続け、民衆を踊念仏と賦算とで極楽浄土へ導いた。勧進帳に記名した入信者数は250万人に達したという。鎌倉時代に、時宗を興した一遍は、鎌倉新仏教の開祖の中で、唯一比叡山で修学した経験のない人物である。


大州(おおず)城

2015年04月07日 | 愛媛県の城郭・環濠

 鎌倉時代末期に伊予国守護として国入りした宇都宮豊房が、元弘元年(1331年)に築いた城は、237年南伊予支配の拠点の城郭であったが、その後乱世を反映し、大野直之、小早川隆景、戸田勝隆らが相次いで城主に成りましたが、文禄4年(1595年)に藤堂高虎が入城すると近世の城郭として整備を開始し、慶長14年(1609年)に淡路の洲本から脇坂安治が入城し、この二人によって大州城は、近世城郭の完成をみる。大州は、かって「港」を意味する「津」を用いて大津と呼ばれていたが、脇坂安治が地名を大津から大州に変更した。そのために城の呼び名も大津城から大州城となった。その後、元和3年(1617年)に米子から6万石で加藤貞安が入城し、以後加藤氏が12代250年余りにわたり大州藩主として治政をおこない明治維新を迎える。明治の廃城令で、城内の大半の建築物は解体されましたが、地元住民の要望により本丸の天守閣・櫓は一部保存された。しかし天守閣は老朽化のために明治21年(1888年)解体されたが、平成16年(2004年)に地元の企業・市民の寄付等で伝統工法の木造で四層四階の天守閣が復元されました。

[所在地:愛媛県大州市大州903] 

アクセス>JR予讃線・伊予大州駅から徒歩約20分。

大州城

 大州城には天守閣に従う2基の格調高い櫓をはじめ4基の櫓が現存する。

大州城と城下町の略図

 

 

 

天守閣(右)と高蘭櫓(左)  ▼左から高蘭櫓、天守閣、台所櫓

 

高蘭櫓(左)と天守閣(右)

大州城の模型

天守閣からの眺め

 

2015/04/02 訪城

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坂(とさか)峠の戦   永禄11年(1568年)

 安芸国の毛利氏の援軍を得た、中伊予(道後)の河野氏が、土佐国の一条兼定の援軍を得た西伊予(大州)の宇都宮氏が、鳥坂峠で激突。宇都宮氏側が敗れ、土佐国の名門一族の一条氏が滅亡。そして、土佐に長宗部氏が台頭し、伊予国侵攻が始まる。


宇和島城

2015年04月06日 | 愛媛県の城郭・環濠

 宇和島城は、中世に築かれた板島丸串城の跡に、藤堂高虎が、近世城郭として築いた。標高74mの丘陵の頂きに本丸を置き、それを囲むように二の丸、代右衛門丸、長門丸、藤兵工丸等の曲輪が配置された。城下は、東側に、西側は、海に接しているので海城でもある。元和元年(1615年)伊達政宗の長男の伊達秀宗が10万石で入城し、2代藩主・伊達宗利が老朽化した城の改修に着手し、寛文6年(1666年)に改修を完了した。その後、伊達氏が9代にわたって城主を務め続け、明治維新を迎えた。伊達秀宗は、伊達政宗の長男として生まれたが、伊達政宗の正室・愛姫との間に生まれた次男・伊達忠宗が伊達宗家の後継者となった。徳川秀忠は、幼い時から伊達家の人質として過ごした伊達秀宗の境遇を憐れみ、10万石の領地を与えた。明治の廃城令で建物の大半は撤去されたが、天守閣、大手門などが残された。昭和9年(1934年)天守閣と大手門が重要文化財に指定され、昭和12年(1937年)には、国の史跡に指定された。昭和20年(1945年)の米軍の大空襲により大手門が焼失。昭和24年(1949年)伊達家が、天守閣と城山の大半を宇和島市に寄贈し、現在は、宇和島市が管理している。

 [所在地:愛媛県宇和島市丸之内]

<アクセス>JR予讃線・宇和島駅から徒歩15分 

 ▼丘陵山頂に建つ宇和島城天守閣

宇和島城の概略

宇和島城の略図

桑折氏武家長屋門

 桑折氏は、伊達氏と血縁関係をもち、宇和島藩の家老である。

 

石垣

 

石垣                   城山郷土館

 

石垣

 

本丸櫛形門跡       ▼天守閣

 本丸への唯一の虎口。

 

天守閣(重要文化財)

 藤堂高虎が創建した天守を、江戸時代初期の寛文6年(1666年)に、宇和島伊達家2代伊達宗利が3重3階総塗籠式、層塔型に再建したのが現在の天守閣です。

天守閣よりの眺め

 

宇和島城の井戸

井戸跡

 

2015/04/02 訪城


高知城

2015年04月05日 | 高知県の城郭・環濠

もともとこの地には南北朝時代に築かれた大高坂城があり、戦国時代には長宗我部元親が岡豊城より築城に取り組んだが、水はけが悪いために、天正19年(1591年)僅か3年で長宗我部元親は浦戸城へ本拠を移した。慶長5年(1600年),関ヶ原の戦で長宗我部元親の子・盛親は西軍に与して改易され、代わって、関ヶ原の戦功で遠州掛川より土佐一国24万2千石を与えられて入国した山内一豊は、浦戸城は城下町を開くには狭いため、長宗我部氏が一旦築城を断念した標高約44mの大高坂山に、慶長6年(1601年),新城を築くことにした。難工事の末城の全容が完成したのは10年後、二代藩主・山内忠義の治世に移った慶長16年(1611年)である。四重六階の天守は、山内一豊の前任地であった掛川城の天守を模したといわれています。高知城は、日本で唯一本丸の建物がすべて現存する江戸時代の姿を今に伝える城郭である。昭和9年(1934年)、国の重要文化財に指定されました。

[所在地:高知県高知市丸の内]

アクセス>JR高知駅より徒歩約25分

北から見た天守閣

西側(右側)に東多門櫓がついて、天守閣とともに本丸を厳重に囲い込んでいる。

 

高知城の沿革 

高知城の概略図

                          高知城の碑

 

追手門 

 石垣の上に渡櫓を載せた櫓門で、城の大手(正面)にふさわしい堂々たる構えの門。

石樋の説明

石樋           ▼石垣

 高知城の石垣は、近江の技術集団・穴太衆(あのうしゅう)によるもの。雨の多い土地柄を考慮し、崩れにくく排水能力も高い野面積が多く採用されています。

 

 

天守閣

 

西から見た天守閣と本丸御殿(共に国の重要文化財)

横連子の武者窓の説明

横連子の武者窓(物見用)  ▼鉄砲穴(△穴)と弓矢穴(○穴)

 

知城の模型

土佐漆喰の白壁の説明

鉄砲狭間

天守閣よりの眺め

 

西多門櫓         ▼山内一豊像

 

2015/04/01 訪城 

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長浜の戦    永禄3年(1560年)

 土佐の中央部の支配をめぐり、長宗我部国親と本山茂振が激突。長宗我部氏が勝利する。、長宗我部元親も初陣として参加。

朝倉城の戦  永禄5年((1562年)

 本山茂振が、朝倉城を攻めて、長宗我部元親と激突。長宗我部元親が勝利し、土佐国の中央部を領有する。本山氏は衰退。

安芸城の戦  永禄12年(1569年)

 長宗我部元親が、土佐統一のために安芸地域に侵攻し、安芸国虎と激突。安芸国虎が敗れ、将兵の助命を条件に安芸国虎自刃

四万十川の戦   天正3年(1575年)

 長宗我部氏に対して一条兼定が再起の挙兵する。四万十川の拠点を攻められ一条兼定は、敗走する。南伊予の戸島に隠棲し、10年後死去。長宗我部元親が五代・一条内政の後見人となる


徳島城

2015年04月05日 | 徳島県の城郭・環濠

  南北朝時代の至徳2年(1385年)に室町幕府の管領・細川頼之が四国の南朝方の勢力を討ち、城山に小城を築いたのが徳島城の始まりです。戦国時代になると、阿波の地はしばしば領主が入れ替わったが、天正10年(1582年)には土佐の長宗我部元親が侵攻し阿波が平定された。天正13年(1585年)には、豊臣秀吉の四国平定に戦功のあった蜂須賀家政が阿波一国18.6万石を賜わり、入封早々に現在の地に大規模な平山城を一年半で築いた。さらに慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦の功により淡路国を加増され阿波・淡路両国25万7千石の大名・蜂須賀家の居城となり、以後、明治維新まで280年にわたり阿波・淡路両国を治めた。明治6年(1873年)の廃城命により城内の建築物の大半が撤去された。昭和20年(1945年)7月4日の米軍による徳島大空襲により、現存していた鷲の門も焼失したが、平成元年(1989年),鷲之門が復元され、平成18年(2006年)には、徳島中央公園内の徳島城跡が、国指定史跡となりました。

[所在地:徳島県徳島市城の内]

アクセス>JR徳島線・徳島駅下車徒歩約5分。

徳島城概略図

▼三の丸の石垣と堀

 

徳島城鷲の門の概要

復元された鷲の門          ▼徳島城碑

 昭和20年の米軍のB29爆撃機の大空襲で焼失しましたが、平成元年(1989年)に復元寄贈されました。

 

下乗橋(小見付橋)

 

徳島城の舌石の概要

 ▼旗櫓跡の碑    ▼旗櫓跡

 

三の丸          ▼徳島市立博物館

 

徳島城表御殿庭園の概要

表御殿庭園・・・桃山様式を伝える名庭。国名勝。

 

表御殿庭園

 

太鼓櫓跡         ▼東二の丸跡

 

蜂須賀家政像 

 戦前は、野太刀と長槍を持った甲冑姿の蜂須賀小六正勝(家祖)の銅像が建っていましたが大東亜戦争中に金属供出で姿が消えましたが、昭和40年(1965年)に袴姿の蜂須賀家政の銅像が新しく建立されました。

 2015/04/01 訪城