nakazumi's blog

文化・歴史・城郭をメインに、時々『気になる事』を記す婆娑羅ブログ!

大給城

2018年12月08日 | 愛知県の城郭・環濠

 大給城は、西方眼下に九久平の集落を見下ろす標高204mの急峻な山上に築かれている。九久平は足助街道と新城街道との交差点であると同時に、巴川の水運と陸上輸送との中継地でもあるという交通の要衝であった。

 城の東西には、屋根づたいに攻めてくる敵の侵入を防ぐために、堀切A・Bを設けている。東側からの進入路を通ると、門や櫓などで防御され虎口(入口)Cを抜け、曲輪2を経て主郭1へと至る。城内のいたるところには花崗岩の巨石がみられ、主要な部分は石垣で固められている。Fは物見岩と呼ばれ、ここからは尾張の国をはじめ遠く鈴鹿の山々を望むことができる。岩上には一辺数センチメートルの穴が並んでいるが、いつ何のために開かれたかは不明である。D・Eは石垣を駆使して谷に設けられた大規模な取水施設である。主郭1から南に下ったところにある3は城主の館跡と考えられる。

 本城は、もと土豪長坂新左衛門の城であったが、岩津(岡崎市)に進出した松平宗家三代の信光が攻略し、三男親忠(松平宗家四代)に与えた。親忠は細川城(岡崎市)とともにこれを次男乗元に譲り、乗元が大給松平の初代となった。大給松平二代乗正は永久7年(1510年)までに城の大修築を行った。以後、乗勝、親乗、真乗、と続き、天正18年(1590年)六代家乗のとき徳川家康の関東への国替えに伴って上野国(現 群馬県)に移り大給城は廃城となった。現在、大給城址(松平氏遺跡)は、国指定史跡となっています。

[所在地:愛知県豊田市大内町]

<アクセス>名鉄豊田市駅からタクシーで約25分。

大給城の縄張り図

              ▼道路から山の中に入る

松平乗元(大給松平初代)の概要

松平乗元(大給松平初代)の墓

              ▼虎口

櫓台           ▼土塁

大給城址碑        ▼物見岩(F)からの眺め

水の手曲輪

2018.09.01 訪城


荒子城

2016年06月01日 | 愛知県の城郭・環濠

 荒子城は、前田利昌が織田家より荒子の地二千貫を給わり、天文13年(1544年)に築城した前田城の出城である。 規模は東西約68m,南北約50mで、一重堀を巡らしていた。戦にそなえたというよりは一族の生活の居城である。荒子城主は前田利昌、前田利久(利昌の長男)、前田利家(利久の弟)、前田利長(利家の子)と続いた。前田利家が天正3年(1575年),越前・北ノ庄へ封じられ、天正9年(1581年)には前田利長も越中府中へ移ったために廃城となった。現在城址には、冨士権現天満宮が建立されています。

[所在地:名古屋市中川区荒子4丁目]

アクセス>名古屋臨海高速鉄道おおなみ線・荒子駅下車徒歩約10分

荒子城の概要

城址に建つ冨士権現天満宮 ▼前田利家卿誕生の碑址

 

前田利家と荒子城の概要

 2016/05/14 訪城 


前田城

2016年06月01日 | 愛知県の城郭・環濠

  前田氏は尾張国海東郡の土豪で、ここ前田城を居城として近在に勢力を張っていた。前田城は規模が東西約109m,南北約218mの平城である。居城した前田利昌は、織田信秀の与力である。前田利昌の四男の前田利家は、荒子城ではなく、この前田城で天文7(1538年)年に生まれ,7歳の時に前田城の出城の荒子城へ移ったという説もあります。

 天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦の際、羽柴秀吉についたため、織田信雄・徳川家康連合軍に攻められ、前田城主前田長定など前田一族の多くが討死し、前田城を守っていた前田城主前田長定の子前田長種は降伏し、加賀前田家を頼って落ち延びた。戦後前田城は破壊された。前田氏発祥の地である城址には、後に前田利家の叔父・前田利則が出家して、前田速念寺初代となる浄土真宗・前田速念寺を建てた。

[所在地:名古屋市中川区前田西1丁目]

<アクセス>近鉄名古屋線・伏屋駅下車徒歩約5分

前田城址に建つ前田速念寺山門 ▼前田城址碑

 

前田城址に建つ前田速念寺本堂

              兜のような本堂

2016/06/14 訪城


田原城

2016年04月22日 | 愛知県の城郭・環濠

  田原城は、文明12年(1480年)頃、戸田宗光によって築城され、 戸田氏の渥美半島支配の拠点となった。天文16年(1547年)、戸田康光の時、人質として今川義元の本拠地駿河に送られる松平氏の嫡男竹千代(後の徳川家康。戸田康光は義母の父にあたる)を護送する任を受けるも、寝返り竹千代を今川義元の敵方の織田信秀に送ってしまったため、今川義元の怒りを買い、田原城は、今川義元に攻略され落城。城主戸田康光も戦死した。その後、今川氏に属する城主が入るが、桶狭間の戦いの後、今川氏から自立した松平元康(後の徳川家康)に攻略され、松平氏譜代の本田広孝が城主として入城。天正18年(1590年),徳川家康が関東に移封すると吉田城主として入封した池田輝政の重臣の伊木忠次が城代として入城した。江戸時代には、譜代大名の城となり、寛文4年(1664年),三宅氏が12000石で入封、そのまま明治維新まで三宅氏の居城となった。湾の形が巴形であったため巴江城とも呼ばれた。明治維新の廃城令で建物は解体されたが、本丸には巴江神社が建てられ、現在、二の丸隅櫓と桜門などが復興されています。

[所在地:愛知県田原氏田原町巴江]

<アクセス>豊橋鉄道渥美線・三河田原駅下車徒歩約10分

田原城の概要

田原城の縄張図

桜門(復興された桜門)

 二階建の櫓門で、門の周辺の塀は漆喰の白壁に瓦が埋め込また海鼠塀(まなこべい)です。

二の丸          ▼三の丸

 

二の丸櫓(復興された二の丸櫓)

 田原城には天守がなく、この二の丸櫓が天守の代行をした。

2016/04/16 訪城


吉田城

2016年04月21日 | 愛知県の城郭・環濠

 今川氏の武将牧野古白が今川氏親の命により,永正2年(1505年)に今橋城を築き、のちにその名を吉田城に変えた。戦国時代には東三河支配の拠点であり、徳川家康が三河を取り戻すと、配下の酒井忠次を置いた。徳川家康の関東入国で、天正18年(1590年)に池田輝政が15万石で入城すると、城の大規模な整備拡張と城下町の整備を行って,現在見られる吉田城の基礎を築いた。しかし、池田輝政が、播磨姫路城へ移封され、その後、城主は、徳川譜代の大名がめがぐるしく交替し,寛延2年(1749年),浜松城主、松平(大河内)信祝の子松平信復が入城し、以後7代続いて松平信古の時、明治維新を迎えた。天守はなく鉄櫓をもって天守代用とした。明治維新後には、吉田から豊橋の改名に伴ない豊橋城とも呼ばれた。明治の廃城令で建物は、解体されたが、昭和29年(1954年)、隅櫓の鉄櫓が鉄筋コンクリート造りで模擬再建された。現在、城跡は豊橋公園となっています。

[所在地:愛知県豊橋市今橋町豊橋公園内]

アクセス>JR豊橋駅下車徒歩約20分

 吉田城の概要

吉田城の略図

吉田城本丸二之丸略絵図

本丸南御多門跡      ▼吉田城址の碑

 

本丸跡          ▼本丸井戸跡

 

                                                 ▼腰曲輪

 

復興鉄櫓と櫓台の高石垣

 

復興鉄櫓         ▼復興鉄櫓よりの眺め   

 鉄板が張られた扉がつくなどの三重櫓。天守の代用とした。                                              

 

2016/04/16 訪城


西尾城

2016年04月20日 | 愛知県の城郭・環濠

 西尾城は、承久3年(1221年)の「承久の乱」の戦功により、足利義氏が三河守護に任じられたことに始まる。この時、足利義氏が築いたのが西条城だという。ここに土着した足利義氏の子足利長氏は吉良氏と称し、この地を治めることとなる。忠臣蔵の敵役吉良上野介はその後裔である。永禄2年(1559年)織田氏と結んだ吉良義昭が今川氏と対抗して敗れ、永禄3年(1560年)には,今川氏に属する牧野成定が入城。しかし、同年に桶狭間の戦いが起こり、今川氏の勢力は衰えてしまう。翌年には松平元康、のちの徳川家康が今川氏から独立し、翌年西条城を手に入れた。西条城がいつ、西尾城に名を変えたのかは諸説があるが、酒井正親が城主の時に変えたと思われる。酒井正親の次男酒井重忠が城を継ぎ、天正18年(1590年)には、酒井重忠に代わって、豊臣秀吉の武将田中吉政が入城し、近世城郭へと変貌させた。城は丘陵地に築かれた平城で、二の丸に天守が建つという特異な城であった。

 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦功により、筑後一国と柳川城を与えられた田中吉政に代わり、慶長6年(1601年)本田康俊が、西尾藩2万石の初代藩主として城に入った。その後譜代大名の間で城主が次々に代わっている。ようやく落ち着いたのは明和元年(1764年),出羽山形藩から松平(大給)乗祐が入ってからだ。松平氏は廃藩まで5代にわたって西尾城主を務めた。明治の廃城令で天守をはじめ建造物のほとんどが解体された。現在は、石垣、土塁、堀等の遺構、再建された本丸丑虎櫓と鍮石門のある西尾市歴史公園となっている。

[所在地:愛知県西尾市錦城町231-1]

<アクセス>名鉄西尾線・西尾駅下車徒歩15分

木造で復元された三重の本丸丑寅櫓

西尾城の概略図(西尾市歴史公園)

鍮石門          ▼天守台

 二の丸の正門で、二階建ての櫓門。

 

天守台の概要

御殿の略図

旧近衛邸         ▼本丸と二の丸間の堀

 京都にあった旧近衛邸の書院と茶室が、移設された

 

西尾神社         ▼本丸跡

 

本丸の石垣        ▼丑虎櫓

 

丑寅櫓の概説

 

丑寅櫓

 木造で復元された三重の丑寅櫓。本丸の北東に建てられており、内部に入ることもできる。

 

西尾市資料館       ▼水堀

 

2016/04/16 訪城 


小牧城

2014年07月06日 | 愛知県の城郭・環濠

 永禄3年(1560年)の桶狭間の戦に勝利した織田信長は、永禄5年(1562年)に徳川家康と清州城において清州同盟を結び、完全に東側の猛威が亡くなったので、永禄6年(1563年),小牧山に山城を築城し、清州から居城を移しました。南に大手口を設け、大手道は直線的に中腹まで登り、右に折れて屈曲しながら山頂の主郭に至ります。小牧山の南の原野には、東西1km,南北1.3kmの範囲に城下町が整備されました。小牧山城に移った織田信長は、犬山方面を支配下に置き尾張を統一するとともに、積極的に美濃攻略を行いました。4年後の永禄10年(1567年)には、美濃稲葉山城を攻略して、岐阜と名を改め居城を移しました。これにより、小牧山城は廃城となり、城下町は一部を残して衰えました。天正12年(1584年),小牧・長久手の合戦が起こると、徳川家康と織田信雄の軍勢は、織田信長の廃城に大規模な改修を行い、堅固な陣城を築きました。山の周りの二重の土塀や堀、虎口等はこの時に築かれたものです。小牧付近では大規模な戦は起こらず、戦の収束に伴い小牧山城は再び廃城となります。現在、小牧山城に残る城の遺構はこの時の小牧山城の姿です。江戸時代には尾張藩、明治時代には尾張徳川家の手厚い保護を受け、山中の堀や土塁等の残存状況は非常に良好で、日本城郭史上、貴重な資料になっています。昭和2年(1927年)に国の史跡指定を受け、昭和5年(1930年)に尾張徳川家から小牧町(当時)へ寄贈され、現在に至っています。山頂にある天守閣風建物(小牧市歴史館)は、昭和42年(1967年)に名古屋市の実業家の平松茂氏(故人・小松市名誉市民)が西本願寺の国宝「飛雲閣」(聚楽第の遺構)をモデルに私財を投じて建設し、小牧町(当時)に寄贈されたものです。現在は、小牧山全体が公園(史跡公園)となっています。

[所在地:愛知県小牧市堀の内1-1]

<クセス>名鉄小牧線・小牧駅下車徒歩約25分

市街地から小牧山(小牧城)を望む

 ▼史跡・小牧山

小牧山公園略図

 

表示板をたよりに、登っていくと頂上に出る。

 

尾張徳川家19代徳川義親氏の像

 

模擬天主閣(小牧市歴史館)

 

模擬天守より東側を望む           

 

模擬天守より南側を望む           

 

縄張の概略図

小牧・長久手の戦の時、堀・土塁等が補強された。

2014/07/05 訪城

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牧・長久手の戦 天正12年(1584年)

 織田信長死後の跡目争いで、織田信勝が徳川家康に援軍を要請。織田信勝・徳川家康軍20,000騎と豊臣秀吉軍70,000騎が、小牧付近で対峙し、長久手の戦では、豊臣秀吉軍大敗。豊臣秀吉の中入りで三河撹乱作戦失敗。


犬山城 (別名白帝城)

2014年01月02日 | 愛知県の城郭・環濠

   犬山城(別名,白帝城)は、織田信長の祖父の織田信康が、天文6年(1537年)に木之下城を移して木曽川南岸の三光寺山に平山城を築いたのが始まりとされています。天正12年(1584年)小牧・長久手合戦の際には羽柴(豊臣)秀吉は大軍を率いてこの城に入り、小牧山に陣をしいた徳川家康と戦いました。その後、城主は何代か代わり、文禄4年(1595年)石川備前光吉が入り、慶長4年(1599年)城を改修し、天守を造りました。しかし光吉は、関ヶ原の戦いで西軍に属したため、犬山城は、東軍に攻略され、慶長5年(1600年)に小笠原和泉守吉次が入城しました。慶長12年(1607年)徳川家康の九男義直が清州に入り、その家臣の平岩新吉が犬山城主になりましたが、平岩新吉が慶長16年1611年)に死去したため、その翌年から、成瀬正成は、竹腰正信とともに尾張藩の付家老として政務に携わり、元和3年(1617年), 成瀬正成が二代将軍徳川秀忠から犬山城を拝領して以後は幕末まで代々世襲で、犬山城主と尾張藩付家老を務めました。明治維新に犬山城は廃城となり、天守閣を除いて櫓や門の大部分は取り壊され公園となりました。天主閣は、昭和10年(1935年)に国宝に指定されました。

[所在地:愛知県犬山市大字犬山字北古券8]

アクセス>名鉄犬山線犬山遊園下車徒歩約15分

犬山城の概要

犬山城脾

 

            本丸門

 

                                              天守閣

 

天守閣

石落しの間      ▼つけ櫓

 

国宝指定書      ▼天主閣からの眺め

 

天主閣からの眺め

 

 

2014/01/01 訪城

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平岩親吉(1542~1611)

 徳川家康の人質時代から側近として仕える。姉川・長篠の合戦に活躍。天正7年,家康の長男、信康の傅役をつとめていたが,信康の自刃後、その責任を感じ、謹慎。のち家康の命により、再出仕する。天正10年、甲斐郡代に任じられ、13,000石を領す。関東入国後、上野厩橋33,000石、関ヶ原合戦後、甲府63,000石を与えられ、家康の九男、義直の付家老となる。慶長12年、義直の尾張転封に従い、犬山123,000石を領す。

成瀬正成(1567~1625)

 徳川家康に小姓として仕える。小牧・長久手合戦で功があり、天正18年、下総葛飾郡に4000石を与えられる。関ヶ原合戦には、根来衆を率い、使番をつとめる。戦後、和泉堺奉行となる。家康の側近になって、本田正純、安藤直次らとともに、政務の中枢に参与。慶長12年家康の九男義直の付家老となる。元和3年、犬山城を与えられ、同6年35,000石を給される。


岡崎城

2013年06月25日 | 愛知県の城郭・環濠

 15世紀中頃、三河国仁木氏の守護代で土豪の西郷氏によって矢作川と乙川の合流点にある龍頭山という丘陵を利用して築かれた平山城。当時は、龍燈山城と呼んだ。のちに家康の祖父である松平清康が、西郷信貞から奪い取り改修拡張整備して本格的な岡崎城にした。徳川家康は、ここ岡崎城で誕生した。当主が二代に渡って急死したことから、勢いを失った。そのため、松平竹千代(のちの徳川家康)は、今川方の人質となり、苦難の少年時代を過ごす。桶狭間の合戦によって今川義元が討ち死にすると、家康は岡崎城を取り戻す。以後、家康の長男信康、豊臣氏の家臣田中吉政等が城主となる。江戸時代には、譜代・親藩大名が城主を歴任し、本多氏5万石の時代に明治維新を迎えた。明治6年(1873年)の廃城令によって廃城となり、城内の天守以下の建物および土地を払い下げ、一切の建物を失ったが、現在、敷地は、龍城神社、岡崎公園として整備され、天守閣、東隅櫓、城門等が復元されている。

[所在地: 愛知県岡崎市康生町]

アクセス>名鉄名古屋本線・東岡崎駅から徒歩約15分。

岡崎城の概略図

大手門

 

徳川家康公銅像  ▼松平元康の像 ▼本田平八郎忠勝公銅像

  

            隅櫓

 

 

 

 

岡崎城天守閣

龍城堀         ▼東隅櫓

 

 2013/6/23 訪城

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小豆坂の戦①  天文11年(1542年)

  今川義元、松平広忠40,000騎で三河に侵攻する織田信秀を圧倒し、尾張攻略を図る。だが織田信秀4,000騎の不意打ち反撃にあい、今川方敗北。織田方勝利。

小豆坂の戦②  天文17年(1548年)

  織田信秀4,000騎で、岡崎の松平広忠を攻撃する。松平広忠は、今川義元に救援を依頼する。雪斎和尚、朝比奈康泰能(やすよし)10,000騎で織田信秀軍を撃破。今川方の勝利。織田方との人質交換で、尾張熱田にいた松平竹千代(のちの徳川家康)が今川方へ。

三河一向一揆  永禄6年(1563年)

  徳川家康の家臣・菅沼定顕が「不入」権を侵害して、一向宗の上宮寺から強制的に、糧米を徴発したことから領内に一揆が勃発。家康一族の大草松平、家康の諸将(酒井忠尚、本多

  農民一揆勢約5,000人余が足助、挙母城下で打壊し。岡崎藩兵と尾張藩兵によって鎮圧される。

夏目吉信  (1518年~1572年)

  永禄6年(1563年)の三河一向一揆では、一揆側に加担、のち、徳川家康に許されて再出仕。元亀3年(1571年)の三方原の戦の時、幡豆郡六栗城主だった夏目吉信は、敗勢の中で決死の突撃をはやる家康に退却をすすめました。夏目吉信は、徳川家康が、肯かないと見ると、刀の棟で乗馬の尻を叩き、浜松の城へ向けて疾駆させた。そして自らは、寡兵を率いて敵中に入り、家康の名を大音声(だいおんじょう)に呼ばわりつつ、ついに身代わりとなって討ち死にした。

村家政(家存)  (1541年~1577年)

  旗本先手の将(与力30騎)から家老職に進み、上杉謙信との同盟に力を尽くした三河統一期の功臣。植村氏は、美濃土岐氏の一族で岡崎北本郷に来住し植村を名乗り松平長親から代々従いました。家政(家存)の父は、清康、広忠の殺害者を討ち取りました。天正5年に死去。その子家次が家を継ぐが、信康事件によって、徳川家を離れる。のち、榊原康政の力添えで再出仕する。その後、子孫の植村家政は、寛永14年(1640年)大名に取り立てられ、25,000石で大和高取城へ入城して城主となりました。

本多正信 (1538~1616年)

  幼児より家康に仕えていたが、永禄6年(1563年)の三河一向一揆では、一揆側につき、上野城に立て篭もったため、三河より追われる。のち、姉川の合戦のとき、家康に許されて再出仕。天正10年以後の甲斐経営では、活躍目覚ましく吏僚としての力を発揮する。以後、帷幕の将として重用され、天正18年、上野八幡10,000万石、ついで、相模玉縄に配される。関ヶ原合戦後処理に敏腕をふるい、また、二元政治時代は、関東総奉行として行政手腕を発揮、その謀臣ぶりを示した。元和2年79歳で死去。


清州城

2013年05月09日 | 愛知県の城郭・環濠

 清州城は、応永12年(1405年),管領斯波義重によって築城された平城です。当初は、尾張守護所である下津城の別郭として建てられたが、下津城が消失し、文明10年(1478年)守護所が清須(清州)に移転することで尾張国を支配する。その後、織田信長の居城となり、本能寺の変の後、清州城主は次男の織田信雄となり、天正14年(1586年)に、大改修され、その後、豊臣秀次、福島正則と替わり、関ヶ原戦後、は、松平忠吉、徳川義直が城主になりました。その後、徳川義直が名古屋城へ移って慶長10年(1610年)廃城になりました。現在の天守は、平成元年(1989年)RC構造で建設された模擬天守である。           

 [所在地:愛知県清須市清州字古城]

アクセス>JR東海道・清洲駅から徒歩15分。

  

                                             清州城の石垣

   

 ▼清州古城跡碑

  

                               

信長塀          ▼井戸

 

                                             庭 園

 

模擬天守     

                 

書院                          ▼天守よりの眺め

 

2013/05/08 訪城  

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織田氏内紛 文明10年(1478年)

 織田氏、織田敏定[尾張南部]と織田敏広[尾張北部]で分割支配

 織田敏定、織田敏広が争いを繰り広げる。翌年、和議が成立する。織田敏定が、清州城で尾張南部を、織田敏広が岩倉城で尾張北部を治める分割支配がはじまる。

岩倉城の戦  永禄2年(1559年)

 織田信長が尾張を統一する。

 駿河の今川義元軍25,000騎が尾張に侵攻する。織田信長軍の精鋭2,000騎は、豪雨と濃霧で油断して、桶狭間の木々の下で昼食を取っていた今川義元の本陣を午後1時に急襲する。今川本隊反撃できず敗走。大高城へ輿で逃げる今川義元の首級を上げる。

小牧・長久手の戦 大将2年(1584年)

 織田信長死後の跡目争いで、織田信勝・徳川家康連合軍20,000騎と羽柴秀吉軍70,000騎が、争う。秀吉方の、三河撹乱作戦の失敗に終わる。

  

『織田信長』の問題      

[問1] 信長が、家臣に命じていた日ごろの心構えは?  

①朝起きたら、まず、わしに向かって参拝せよ。

②食事の前には、必ず、わしに感謝して合掌しろ。

③常に、わしのいる方向には足を向けるな。

[問2]桶狭間の戦の最高の功労者はだれか?

①今川義元を討ち伏せ、首を掻っ切った毛利新介。

②今川義元の動静を探った梁田政綱。

③今川義元に真っ先に斬りかかった服部小平太。

[問3]長篠の戦いで全兵士に持参を命じた物は何か?

①火縄を1本、持ってこい。

②柵用の木を1本、持ってこい。

③鍬か鋤を1本,持ってこい。

[問4]織田家への奉公を誘われた軍師はどう答えたか?

①禄はいらない。そばにいるだけで、満足に存ずる。

②3000貫というのは安い。もう一声あってしかるべし。

③いかに禄を下されようとも、信長公には仕えたくない。

[問5]信長が整備した幹線道路の目玉はどんなことか?

①ホウキを用意しておき、掃除をさせた。

②茶店を開かせて、休息をとれるようにした。

③馬の無料レンタルショップを開かせた。

                                                                                          

 

『織田信長』の問題の答

[答1]③

[答2]② 梁田は、この地の郷士で、地理に詳しかった。『遺老物語』によると、3000貫の知行を得た。情報を重視した。

[3]②

[答4]③

[答5]①