『絶望の国の幸福な若者たち』(古市憲寿著)を読書中。20代の研究者による若者論です。喋っているような、大人世代に対する揶揄調と、自己ツッコミが文体の特徴。多くの文献を渉猟した、確かな分析です。
このタイトル、逆だと思いますよね。
絶望の国>国民は不幸
希望の国>国民は幸福
これが一般的な図式です。なぜか? この解説は、主に元京都大学教授の大澤真幸氏の研究より引用されているのですが、「なるほど」と思いました。つまり、こういう図式です。
A)未来があると、「頑張ればもっと良くなる」と感じるがゆえに、現状に不満を感じ、不幸だと思う。
これとは逆に、
B)未来がないと、「頑張ってもしかたない」と諦めるがゆえに、現状を肯定し、幸福だと(無理にでも?)思うようになる。
「現状を幸福だ」と思うのは、年代でいうと高齢層が多いとか。確かに高齢層は、平均余命で見ると、若者ほど時間的な未来はないですよね。
ナショナリズムのくだりは、新たな認識を多く得られました。人々に「国民」意識が芽生えたのは明治期でなく、階層が除かれ、メディアが発達し、文化や考え方やらが津々浦々で均一化した昭和期というのです。
明治期さえ、徴兵制では対象年齢層の10%未満しか兵に取られなかったとか。(以下引用)「日清戦争の頃で5%、明治末から大正期にかけても約20%。みんながみんな、軍隊に行っていたわけではなかったのである」。これは、精鋭主義だからとか。体格や運動神経などで選別されたんですね。
徴兵者の割合が増えていったのは、昭和期。いよいよ戦争が泥沼化していく頃です。国家総動員するため、メディアなどが利用される。残ったものも「銃後」として食料生産や軍需工場の労働力に駆り出される。この流れは、戦後の「会社主義」につながっていきます。
著者は、「明治維新から1930年代までが「ナショナリズム1・0」だとすると、(国家総動員が始まった)1940年前後から「ナショナリズム2・0」とも言える現象が始まる」と述べます。「明治維新」や「終戦」といったピンポイントの区切りがあるわけではないんですね。この辺も、認識を新たにできた点です。
ぼくの故郷(近畿圏)には、忠魂碑があります。碑板には、犠牲になった村人の名前が彫ってある。最初は西南戦争。2人が没している。鉄道もない古い時代に、こんな田舎から遠く九州まで出征したんだ、と驚いたことがあります。もちろん日清、日露、日中、太平洋と時代が下るにつれ、犠牲者数は多くなっています。
サッカーのワールドカップの応援の盛り上がり。「一度も会ったことがないはずなのに、「日本人」というだけで仲間という意識を持てる。(中略)「日本」や「日本人」というのは、「僕たち日本人」とみんなが想像することで成立しているのである」。これについて、著者は、こんな例え話をします。
「海外旅行から帰ってきて、飛行機が成田空港に着いた。(中略)多くの人は「日本に帰ってきた」と思うだろう。ちょっとホッとするかもしれない。(中略)成田出身の人は別だが、多くの人は成田に縁もゆかりもないにもかかわらず」
仮の話、明治時代の人を海外旅行に連れて行く。帰国時、成田でどう思うか? 確かに周囲が日本語を喋っているから、「日本だ」とは思うだろうけど、しみじみ「日本」に帰ったとは感じないでしょう。たとえば世田谷の旧粕谷村にある「別れの一本杉」、啄木が「言うことなし」と詠んだ山。そんなものを目にし、やっと「母国(=故郷?)」に帰ったと感じると思う。
太平洋戦争での、大陸からの引き上げ兵は、舞鶴の港で、どう感じるか。これは、しみじみ「日本に帰った」と感じるでしょうね。ナショナリズム2・0です。
以上はメモ。長くなりました。まだ読書中ですので、後日、改めてまとめる(かもしれません)。
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