俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

共感性

2016-07-20 08:49:54 | Weblog
 サディズムやいじめによる快感は私にとって最も理解し難い感覚だ。他人が苦しむことがなぜ快感になるのか分からない。ドラマで拷問のシーンがあっても不快になる。しかしそんなシーンが放映されるのはそれを悦ぶ人がいるからだろう。
 その感覚を理解したくてマルキ・ド・サドの主要著作「悪徳の栄え」や「美徳の不幸」などを読んでみたが全く共感できず、不快や不潔という印象だけが残った。こんな不快なだけの本は「ロリコン」の語源となったウラジーミル・ナポコフの「ロリータ」以外には殆んど思い当たらない。
 もしかしたら正の共感性を持つ人と負の共感性を持つ人の2種類に大別できるのではないだろうか。サディズムやいじめなどに悦びを感じる、負の共感性を持つ人ならきっと犯罪性向も高いのではないだろうか。これは意外と役に立つ尺度かも知れない。動物をいじめる子供はきっと残酷な大人になるだろう。
 「喜びを共にすること・・・我々を噛む蛇は我々に苦痛を与えたと思って喜ぶ。最も下等な動物も他人の苦痛を想像することができる。しかし他人の喜びを想像して喜ぶということは最高の動物の最高の特権であり、その中でも最も選り抜きの模範的な者にのみなし得る。・・・従ってこれは1つの稀な人間精神だ。だから喜びを共にすることを否定した哲学者もいたほどだ。」(ニーチェ「人間的、余りに人間的」「様々な意見と箴言」62)
 以前に「共歓」という記事でも引用した、私の好きな言葉だが、もしかしたら他人を苦しめることに悦びを感じる人と他人の苦しみに同情して不快を感じる人に大別できるのではないだろうか。勿論、大半の人はその中間のグレーゾーンに位置する。しかし黒と白に位置する人同士であればお互いに理解し合うことは殆んど不可能だろう。
 なぜこんな単純と思える事実が認められないのだろうか。これが差別に繋がるからだろうか。善人と悪人が明確に区別できるならこれほど便利な分類は無い。「悪人」に属する人々がこの視点を「差別」として否定しているのではないだろうか。充分に研究されていないからこの違いがどの程度先天的なものかよく分からないが、これを「差別」として否定することは倫理学史上最大かつ根本的な誤りだったのではないだろうか。これは差別ではなく必要な区別だろう。

真剣勝負

2016-07-19 08:53:49 | Weblog
 「ドラゴンボール超(スーパー)」の主題歌では「♪負ければ強くなる♪」となっているが、原作でのサイヤ人は、死にそうな酷い目に遭うと強くなるという設定だった。
 「♪涙の数だけ強くなれるよ♪」は岡本真夜さんの代表作TOMORROWのイントロだ。「艱難汝を玉にす」のように苦労を奨励する名言は多い。人は成功よりも失敗から多くを学ぶ。成功している時は余り反省しないが失敗をすればどこが悪かったのかと熟慮をする。
 江戸時代であれば事情が違う。「武者修行とは四方の剣客と手合わせをし、武技を磨くものだと思っていた。が、今になってみると、実は己れほど強いもののあまり天下にいないことを発見するためのものだった。」(芥川龍之介「侏儒の言葉」)武者修行中に負けた人の多くは命を落とすか再起不能になる。だから敗北を教訓にして強くなることは極めて珍しい。勝負を挑むとは命を賭けるということであり負ければ死ぬという覚悟が必要だ。武者修行とは自分を高く売り込むためのパフォーマンスであり宣伝活動だった。
 昨年、大阪都構想の是非を問う住民投票で敗れた時の橋下市長の答弁は興味深かった。負けても命を奪われない民主主義という政治形態を絶賛した。ラグビーの「ノーサイド」と同等の爽快感を訴えた。何度でも再戦が可能な社会であればこそ「負ければ強くなる」ということが可能になる。
 負ければ終わりになる社会であれば再戦はあり得ない。スポーツを舞台にしたドラマであれば、ライバルとは何度でも戦いその度にお互いに強くなる。ところが文字通りの真剣勝負であれば再戦は殆んどあり得ない。だから対決を盛り上げるためには対戦相手を詳しく描かざるを得ない。宮本武蔵に負けるために登場する佐々木小次郎であってもそのエピソードに多くのページを割いてその天才剣士ぶりを強調せざるを得ない。これはストーリー展開上大きな支障になる。
 この問題を解決した漫画家が故・横山光輝氏だ。彼は忍者漫画に団体戦の手法を導入した。
 主人公の強さを強調するためには敵役が強くなければならない。しかし敵役は所詮、主人公に倒される引き立て役でしかない。だから敵役の紹介に何ページも使えば話が間延びする。このジレンマを解消したのが「伊賀の影丸」で使われた団体戦だ。
 これは画期的な手法だった。主人公の影丸のピンチを仲間の忍者が助ける。この話によってその忍者が影丸と同等以上に強いと印象付ける。ところがその強い忍者の秘術を破って倒す強敵が現れて影丸と対決する。この手法であれば話が脇道に逸れることなく敵役の強さを強調できる。
 今では当たり前の手法であり講談の「真田十勇士」などの先駆的作品もあるが、漫画にこの手法を使って話を面白くした功労者は横山氏だろう。「漫画の神様」の手塚治虫氏もこの影響を受けてアトムにチームを組ませた団体戦の作品を描いた。戦後の漫画の功労者のNo2は石ノ森章太郎氏だと世間では評価しているようだが横山氏の功績も偉大だと思っている。忍者漫画以外に連載誌での「少年」では「鉄腕アトム」のライバルだった「鉄人28号」や「三国志」などの中国史シリーズなども今尚ファンが多い。

正規分布

2016-07-18 09:43:14 | Weblog
 多くの自然現象は正規分布曲線を描く。平均値近辺が最も多く平均値から外れるほど少数になる。
 人に関する統計も正規分布することが多い。身長も体重も平均値近辺が最も多く、大きい人も小さい人も徐々に少なくなる。
 人の寿命はかなり右に寄った正規分布に近いが0~1歳に不自然な山ができる。これは出産が難行であること以外に、多くの先天性異常児が淘汰されるからだ。
 学力は正規分布しない。義務教育期の学童の学力は平均値に窪みができてその両側に山ができる。これは落ちこぼれやドロップアウトが原因だ。自然法則に逆らうことは困難だが、こんな人為的な歪みは人為的に改善できる。この層を重点的に教育すれば最大限の効果が得られる筈だ。一部の教師が熱心に取り組んでいる最低レベルの向上はこれと比べれば効果が乏しい。10点の生徒を20点に上げることと20点の生徒に40点を取らせることに必要な労力は多分同程度だろう。最低レベルのボトムアップは全体の平均点を高めるためには余り役立たないが、社会にとってお荷物にしかならない筈の児童が何とか使えるレベルに高まるのであれば、学校にとってではなく社会にとって有益であり得る。
 政治意識も正規分布する。最近は右傾化していると言われるが戦後しばらくの左傾化のほうがずっと酷かった。これはアメリカのGHQが日本の戦前・戦中を否定するために朝日新聞などのマスコミを過度に左傾化させたことが原因だ。日教組も総評も明らかにイデオロギー集団だった。しかし人為的に歪められた社会が徐々に正常化するのが自然の法則だ。日本においては右傾化こそ歴史の必然だ。
 私はアンケートやランキングの結果が妙に好きだ。これは社会に迎合するためではなく、自分が世間の基準からどの程度外れているかを確認するためだ。自分の外れ具合を理解すればある程度客観的になれる。
 政治思想では困ったことが起こり得る。イノベーター(革新者)を自称する人々がおり、彼らは左翼より左あるいは右翼より右に自らを位置付けることによって自分の地位を獲得する。右派は更に右寄りになることで自らの立ち位置を確保できるが、左派は位置取りが難しくなった。敗戦直後に右派から左派へと日和った歴史を持つ朝日新聞はこれまでの嘘を認めることによって起死回生を図っているが、同じように日和った進歩的文化人は「転向」できずに困り果てている。
 ジリ貧の社民党は政党としての資質を満たすことさえ困難になり、あろうことか小沢一派と統一会派を組むことになった。貧すれば鈍すだ。悪足掻きはやめて潔く滅んでくれなければ元支持者の怒りは収まるまい。諦めが悪過ぎる。

邯鄲の夢

2016-07-17 10:42:09 | Weblog
 「邯鄲の夢」(あるいは「邯鄲の枕」)と呼ばれる物語がある。若者が仙人から枕を借りて長い長い夢を見た。夢の中で彼は波瀾万丈の人生の主人公であり栄華を極めて生涯を全うした。しかし目覚めてみれば眠っていたのはほんの短時間だった。
 実際に見る夢はこんなにリアルではない。夢想ならともかく夢は余り楽しくない。当たり前のことだが実感が乏しく快感も不充分だ。その癖、恐怖心だけは妙にリアルに実感させられる。
 夢がこんな性質であることを進化論的に解釈すれば、楽し過ぎる夢が有害だからだろう。もし眠る度に素晴らしい夢を見られるのであれば、困った時には眠れば良い。くだらない現実より素晴らしい夢が生甲斐になる。しかしこんな人であれば生存も繁殖も困難だ。だから素晴らしい夢を見るという性質を持つ人は淘汰される。現実が夢よりも重要なのは現実が優先権を持つからだ。夢の中で死んでも現実に戻るだけだが、現実で死ねば夢を見ることさえできなくなる。
 しかし個人の幸福感だけに注目すれば素晴らしい夢は捨て難い。たとえ奴隷の身分であっても毎晩、王侯貴族になった夢を見ていれば決して惨めではない。生存と繁殖には役立たない夢であっても主観的幸福のためには充分に役立つ。主観世界に生きる限りにおいては夢は現実と等価値たり得る。
 アニメおたくにとって現実の女性は興味の対象外だと言う。三次元の女性は欠点も併せ持つが二次元のヒロインは完全無欠だ。非現実のほうが現実より魅力的だから不幸な人は夢想に浸りたがる。不幸な老人は素晴らしかった過去の思い出に喜びを見出す。
 高校生なら現実的な未来よりもロマンチックな夢に憧れる。画家にとってはモデルよりも彼が描く美人画のほうが遥かに美しい。あらゆる芸術至上主義者にとって現実など芸術(夢想)のための素材に過ぎない。それは料理人にとって料理が主役であり素材など脇役に過ぎないのと同じことだろう。人工物こそ自然以上に素晴らしいものであり、善も美も現実の中から発掘するものではなく自らの理念の中で創造され得る。個人の幸福というレベルで捕えるなら醜い現実を直視する必要性など全く無い。
 私はテレビゲームには疎い。初期のインベーダーゲームで終わってしまいRPG(ロールプレイングゲーム)については殆んど無知だ。彼らがなぜあれほどゲームに夢中になるのか理解できない。
 実は彼らは文字通り「夢の中」にいるのだろう。邯鄲の夢にも匹敵する素晴らしい夢に浸っている。彼らが愛するのは夢の仮想現実化だ。
 最近ポケモンGoというゲームが大ヒットしているらしい。これの魅力は現実とゲームの融合だろう。現実の中にゲームのキャラクターが現れる。しかも現代版「邯鄲の夢」のプレイヤーは、ゲームが共有されることによって、「ゲームの達人」として現実界でもヒーローになれる。しかし現実を軽視してゲームを重視していれば、現実世界で劣化することはほぼ確実だろう。

電子投票

2016-07-16 09:58:20 | Weblog
 何度も書いたことだが賛否を問う住民投票には重大な欠陥がある。賛成意見は一様だが、反対意見は多様なのに二者択一を強いられることによって一様な「反対」に集約されてしまう。この欠陥を克服する方法として、アンケートなどで多用されているように複数の選択肢を設定することを提案する。
 この方法の欠点はデータが膨大になるので従来のような手作業による集計では対応できず自ずから電子投票に変更せざるを得ないことだ。
 抽象的な話では訳が分からないので、これまでに何度も取り上げた図書館の新設を例にしよう。
 選択は五択として有権者は○×式ではなく持ち点5点を自由に配分できるものとする。選択肢は次のとおり。①原案どおりにツタヤに委託する②委託料を(  )円に減額した上でツタヤまたは他の事業者に委託する③(  )円で直営図書館を作る④図書館は作らない(代わりの使い道については改めて別の住民投票で民意を問う)⑤現在の首長や議員による不正が横行しているから先に選挙を実施する。
 この5つの選択肢は思い付きだから到底ベストとは言い難いし五択より三択や四択のほうが良いかも知れない。それは案件ごとに柔軟に対応すべきだろう。市民は官公庁からの提案に対して、例えば①と③に2点ずつというように評価する。持ち点は必ずしも使い切る必要は無いが超過はできない。この電子情報を利害の異なる2つの組織(例えば市役所と共産党など)に送信する。
 現状とは余りにも違う改革案なので不備もあろうが、このままでも現状の二者択一制度と比べれば遥かに正確に民意を汲み取れる。主権者たる国民に二者択一を強いることは国民が政治に参加することに対する重大な侵害だと私は考える。自由回答が理想だが流石にそれでは集計不可能になるから、次善策として多数の選択肢を用意すべきだろう。
 住民投票はこれによって改善できるが通常の選挙の改善は容易ではない。一昨年の衆議院選挙で実際にあったことだが、立候補者が公明党と共産党だけであれば半分以上の有権者は意思表示をできない。これはゴキブリかダニかの「究極の選択」のようなものだ。「マイナス票」という案もあるが、電子投票であれば他地域の候補者に対する投票を認めるべきだろう。国会議員は本来、地域の代表ではないのだから地域に縛られる必要などあるまい。他地域に対する投票は1/2票になるなどのハンディを付ければ、大半は地元に投じられ、どうしても地元に投票できない人の救済策として他地域の候補者が選ばれる。中には1/2票になることも覚悟の上で積極的に他地域に投票したいという人がいても構わない。

信号機

2016-07-15 09:52:52 | Weblog
 通行人も通行車両も多いのに信号機が1つも無い道路があった。「なぜこの道路には信号機が無いのか?」と尋ねたところ、地元の警官が答えた。「先日まではあった。しかし誰も信号を守らないから却って事故が増えて危険だと分かって撤去した。共産党は社会問題を科学的に分析して合理的に解決している。今、中国全土で『危険な信号機』を撤去しつつある。これは科学の勝利だ。」
 これは中国での実話に基づくジョークだ。良いルールは庶民を守る筈だがそのルールを誰も守っていなければルールに従えば却って危険になる。一昔前の交通標語「さあ青だ いやもう一度 右左」は中国などの非文明国では今尚有効だ。
 最近では余り使われていないが日本にも「正直者が馬鹿を見る」という格言がある。戦後しばらくの混乱期の犯罪数は現代とは比較できないほど多かった。「人を見たら泥棒と思え」は切実な教訓だった。ほんの70年前の現実なのに平和ボケした一部の日本人はこれがリオデジャネイロでは必要な教訓であることを忘れて被害に遭う。これは自己責任だ。太宰治の「走れメロス」のような今読めばくだらない友情賛美・ヒューマニズム賛美の小説が愛読されたのは当時の人々の心がそれほど荒んでいたからだろう。現実的ではないからこそ美しかった。
 「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において」(日本国憲法序文)であれば「武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段として、永久にこれを放棄」(憲法9条)することもできよう。しかし近隣にそうでない国が複数あれば「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」(憲法9条2項)という宣言は危険極まりない自殺行為だ。そんなことを本気で主張するのは、騎士道物語の理想に燃える狂人ドン・キホーテのような人だろう。自分がルールを守っていれば周囲も守ると信じることは妄想であり、それと比べれば冒頭のジョークにおける警察の対応のほうがずっと正常だ。かつての第二党からジリ貧の社民党は自らの狂気を総括して未来永劫跡形も残さずに消滅すべきだろう。
 日本と国境を接している国は4国しか無い。ロシアと韓国と中国と中華民国だ。北朝鮮とは国境を接していないが間違いなく隣国だ。これらの国々を「平和を維持」しようとしている善良な国々と見なせるだろうか。こんな状況で武装放棄をすることは、リオデジャネイロのスラム街で米ドルの札束を見せびらかしながら歩くようなものだ。
 馬鹿げた妄想は一人で見るものだ。寝言は布団の中以外では言うべきではない。私は癌で死ぬことであれば容認するが、狂人に付き合って一緒に死のうとは思わない。狂気の沙汰はできるだけ他人には迷惑を掛けない形で一人で完結させて貰いたいと思う。

進化論

2016-07-14 10:12:02 | Weblog
 進化論が西洋人に与えたショックは地動説に匹敵すると言われている。これらが聖書の教えを否定する科学だからだ。
 しかし進化論の革新性はその程度では収まらない。科学の大半がHOW(いかに)しか問わないのに対して進化論はWHY(なぜ)を問うという稀な性質を備えている。これまでの人々は進化論のこの特性を充分に理解していなかった。進化論的手法は科学の枠内には収まらずに、学際的いや超学際的に活躍する。それは、時間軸に注目するからだ。現在を幾ら調べてもHOWしか分からないが時系列的に捕えればWHYに迫れる。人類の困った特性である「なぜ」を問うことに対して答えを提供してくれるのが進化論だ。
 進化論の根幹はかなり単純な事実に集約される。自然淘汰と性的淘汰(言い換えれば「種族外競争」と「種族内競争」)だ。前者が生存競争(狭い意味での「適者生存」)へと導き後者がメスによる選別を招く。このことについての説明は省略するがこの帰結は「子孫を残した生物種のみが生き延びる」という極めて単純でしかも重大な事実だ。こんな簡単な設計図で豊饒な生物世界が作られている。
 私は動物における進化をコンラート・ローレンツから学び、それを大胆に人間社会にも適用する手法を竹内久美子氏と長谷川眞理子氏から教わった。哲学や社会学、あるいは経済学などまでが進化論に基づいて新たな視点で解明できることに驚かずにはいられなかった。進化論はこれまでHOWの解明に終始していた学問全体に対して根本的な見直しを要求している。
 進化論に基づく回答を例示しよう。「なぜ人間は利他的であり得るのか・・・群居動物だったから」「なぜ伝染病を克服できないのか・・・細菌やウィルスとの生存競争が今尚続いているから」「なぜオスとメスの違いがあるのか・・・進化するために有利だから」「なぜ哺乳類と鳥類のような懸け離れた種においてツガイによる子育てという類似した戦略が採られるのか・・・少子化という同じ戦略を選んだから」「なぜ人類だけが虫歯を患うのか・・・農業を始めて穀物を常食するようになったから」こんな例を挙げれば切りが無いが、私の記事にユニークさがあるとするならその大半は進化論による洗礼に基づくものだ。
 この際、進化論に対する誤解を解いておきたい。
 一番大きな誤解は、弱肉強食を奨励するという酷いレッテルだ。進化論は弱肉強食とは全く逆の考え方だ。進化論の根本は「適者生存」でありこの適者は強者を意味しない。現存する生物は総てそれぞれの環境における最適者であり、進化論は生物に優越差を認めない。異常な環境に適応している生物は普通の環境では不適者になり得るがそれは優劣ではない。
 もう1つの誤りは、個体は進化しないということだ。微妙な個体差が世代ごとに積み上げられることによって初めて別種へとし進化する。進化は個体の死を前提として次世代以降で実現される。だから自動車もイチロー選手も決して進化せず「進歩する」と表現すべきだ。進化は個体の死と次世代への継承によって初めて実現するから寿命の短い単細胞生物のほうが人類よりも早く進化する。寿命の短い細菌やウィルスの進化は人類の文明の進歩よりも早いからこそ感染症の克服は容易ではない。

改憲勢力

2016-07-13 09:57:16 | Weblog
 賛成か反対かで多数決をすれば大抵の場合、反対が多数を占める。人の意見は様々なのだから、A案に賛成する人よりも反対する人(つまりその他のB・C・D案などに賛成する人)のほうが多いのはある程度当然だろう。だから多数決をする前に充分に調整をしておかないと何度も否決ばかりが繰り返される。
 ツタヤ図書館に関する住民投票が典型例だ。愛知県小牧市で行われた住民投票の結果は反対32,352票、賛成24,981票だった。反対票の内訳を推定すれば①図書館は公営にすべし②図書館は不要③ツタヤが嫌い④経費削減⑤市長などに対する不信任票、その他諸々だろう。
 現行憲法を完全無欠と信じている人は1割もいないだろう。殆んどの人が何らかの不備を感じている。全く感じていない人は憲法の条文など全く読んだことの無い人だろう。
 ではなぜ改憲論が嫌われるのだろうか。マスコミによるプロパガンダが最大の要因だろう。憲法の不備を指摘しようものなら朝日新聞などのマスコミから袋叩きに遭う。改憲論が軍国主義と結び付けられているから、波風を立てたくなければ「今の憲法でええじゃないか」という立場を取らざるを得ない。
 マスコミの護憲姿勢は先日の参議院選挙でも現れた。まるで民進党の意向に沿うかのように「改憲4党が2/3を占めるかどうか」に関心を向けさせた。ところがいざ「改憲勢力」が2/3を占めても朝日新聞以外は「憲法が改悪される」と騒がない。空騒ぎだったからだ。今回の選挙は争点の乏しいつまらない選挙だった。大半のマスコミは話題作りのために2/3を利用しただけだ。
 改憲阻止を唱えているのは共産党と社民党だけだ。改憲を肯定する民進党の議員は決して少なくない。それ以前に根本的な間違いとも言うべき大きな嘘がある。共産党は護憲政党ではない。最も明白な改憲政党だ。天皇制を否定する共産党が現行憲法を肯定することの矛盾には子供でさえ気付いている。マスコミは偏向していると改めて感じさせられた。彼らは最も明確な改憲政党を「改憲勢力」には含めない。
 憲法改正を容認する政党に対してマスコミは、共産党以外を「改憲勢力」と一括りにして中傷する。この「改憲勢力」は抽象的な理念でありこの実在しない集団に対して「軍国主義」や「家父長制」などの悪いイメージを植え付けた。
 私は、社民党だけが護憲政党だと思っている。但しこれは良い意味ではなく時代錯誤の教条主義政党という意味だ。民進党の一部と共産党を含めればずっと昔から改憲勢力は2/3を上回っていた。
 衆参両院で2/3を占めればすぐにでも憲法が改悪されると多くの人が信じ込んでいる。しかし改憲のハードルは以外に高い。国民投票で過半数の支持を集めねばならないからだ。たとえ改憲派が多数であってもその意見を1つに集約することはかなり難しい。「選良」が立案して国民の過半数が賛成する改憲であれば反対する理由など無かろう。世論の分裂のために、国民が支持しない憲法が不磨の大典として鎮座していることこそ放置できない異常事態だろう。
 

予定外

2016-07-12 14:26:21 | Weblog
 今頃は病院のベッドで大人しくしている筈だったが自宅療養ということになった。入院予定日の前日に発熱したからだ。
 ステントを装着するために病院に行ったが、発熱のことを伝えると血液検査とレントゲン検査が行われた。その結果、肺炎と診断されてステント装着は見送られ肺炎の治療を命じられた。
 医師は「肺炎が治るまでステントの装着はできない」と言うがこの理屈はよく分からない。肺炎菌の上にステントを被せることを危険と考えてのことだろうが、肺炎菌であれコレラ菌であれ巷にウヨウヨいる。無菌状態を作らない限り、ステントの下に細菌が入ることを防止できない。増してや肺炎は肺の炎症でステントを装着するのは食道だ。肺に炎症があることを理由にしてその原因となっている食道の治療を延期することは納得しかねる。
 肺炎の治療のためにはそのまま入院するべきだっただろう。元々入院するつもりで来た病院だから目的が変わっても何も問題は無い。しかし私には不愉快な記憶がありそれを躊躇させた。「無駄な入院」という記事に書いたとおり、先月、肺炎上がりの平熱の状態で無意味な入院をしたからだ。入院の前日には平熱になっていたために、飲食を止めて24時間点滴をすることだけが入院の目的になってしまった。これは治療でも検査でもない予防のための入院だ。こんな入院は切りが無い。治療であれば治癒した時点で退院できるが予防はいつまで経っても終わらない。余りにも馬鹿馬鹿しいので4日間で強引に退院した。
 今回も同じようなことになりかねないと思った。昨日の時点では病人だったがすぐに回復して偽患者になるかも知れない。私は入院を拒否して自宅療養を選んだ。案の定、今日になって平熱になった。もし入院していれば前回と同じ思いをしていただろう。結果的には入院を選ばなくて良かったとは思うが、一旦入院して経過を見るほうが正しかっただろう。少なからず感情的になっていたようだ。

入院前

2016-07-11 08:37:27 | Weblog
 今日から4度目の入院をする。ステントの装着という物理療法を施すためだ。これは癌細胞が塞いでいる場所に金属片を装着して強引に通路を確保する医療処置だ。あくまで通路を確保することが目的であり癌そのものは放置される。これは延命策と位置付けられているが本当に延命に繋がるかどうかは少なからず疑問だ。確かにこの処置によって飲食可能な期間が長くなりQOL(クオリティ・オブ・ライフ)は向上する。しかし無理やり抑え込まれた癌細胞が大人しく従うとは思えない。攻撃された癌は暴れると言うから増殖が加速されるかも知れない。
 しかし私には最早選択肢は無い。癌細胞が肺と動脈に浸潤しているのだから手術は不可能だ。抗癌剤は全く効かず副作用だけがあった。最後の賭けの放射線治療は食道と肺の間の壁を破壊して肺炎を招いたために中止された。すっかり手詰まりだ。あとは癌との我慢比べになる。延命効果がどれくらいなのか現時点では分からない。装着した時点である程度見当が付くだろう。
 随分迷った末にステントの装着を決断したのは「損切り」と同じ理屈だ。肺炎の危険を冒して放射線治療をした結果、癌細胞は少しだけ小さくなった。その後癌はジワジワと失地を取り戻しつつある。これ以上放射線治療をできないのだから適当な時点で癌と妥協せざるを得ない。
 ステントは外せないギプスのようなものだ。病巣の悪化を放置して通路だけを確保する。いずれは癌が悪化して枠から溢れることになる。これは蛮族の侵入を防ぐ万里の長城のようなものであり、チェルノブイリ原発を覆うコンクリートのドームのようなものだ。飲食可能な時間を稼ぐその場凌ぎに過ぎない。
 現時点では余命は1年程度だと思っている。その間できることをやるしか無い。私に可能な延命策は栄養の摂取以外に無かろう。癌で死ぬ人の大半が癌そのものではなく栄養不良により衰弱死するらしい。衰えた栄養摂取力で、癌細胞による簒奪を受けながらだから、体力は衰える一方だろうが、座して死を待つ訳には行かない。
 早ければ13日にも退院できる予定だ。今回は抗癌剤を使わないから多分今よりも元気になって退院できるだろう。