俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

給水

2014-09-30 10:17:50 | Weblog
 高校1年生の時、熱中症で倒れたことがある。夏休みのサッカー部の練習の休憩時間に、訳の分からぬ叫び声を上げて意識を失った。多分、脳がオーバーヒートしたのだろう。意識が戻った時には灌木の上に寝かされて水を掛けられていた。その日はそのまま帰宅したがそれからが悲惨だった。寝かされたのがウルシの木だったらしく全身がカブレた。熱中症のせいではなくカブレのせいで夏休み中医院に通うことになり、大切な時期に体力・知力ともに伸ばし損なった。こんな事故が無ければもっと賢く健康になっていたのではないかと悔やむ。
 当時はスポーツ中に水を飲むことは厳禁されており、間違った常識の被害者になった。この原因が給水規制にあったと気付いたのはそれから10年以上経ってからのことで、事故の時点で分かっていれば間違った医療常識を否定するために医師を志していただろうと思う。
 傷口の消毒が有害とされたのはここ数年のことであり、それまで延々と有害な治療が行われていた。総合感冒薬、下痢止め、頭痛薬なども明らかに有害な薬でありながら漫然と使用され続けている。
 乳癌の乳房全摘手術もエビデンスが不十分であることが分かり激減しているそうだ。私は大半の精神病薬も降圧剤もアイシングも有害だと思っている。しかしこれらは一部の医師が指摘しているだけであり、医師でもない私が幾ら騒いでも無視されるだけだ。
 科学であるはずの医療がなぜオカルトになっているのだろうか。実験できない、ということが最大の原因だろう。患者を使って実験することは倫理上許されない。だから間違った医療が温存される。科学が科学たり得るのは実験によって検証可能だからであり、検証不可能であれば誤っていても見直されず、権威主義が罷り通る。日本では薬効を確認するための二重盲検でさえ充分に行えない状況だそうだ。
 専門家(医師)が改めないのであれば素人(患者)が改めさせるしかなかろう。幸いなことに患者には自分の治療法を選ぶ権利がある。自分が罹った病気について自分で勉強して、標準治療しか行おうとしない医師に認識を改めさせても構わない。これは専門家である政治家を市民が監視せねばならないのと同じことだ。医師の大半が科学者ではなく古い知識に盲従する技術屋に過ぎない。医師を過信して損をするのは患者だけだ。医師は全く損をしない。
 

ゼロ・サム

2014-09-30 09:41:58 | Weblog
 資源はどう分配されているだろうか。誰の所有物でもなければ、早い者勝ちになる。公海の魚であれば獲った人の物になるし、共同漁業であれば予め決めたルールに基づいて分配される。誰かの所有物であれば金銭で置き換えられる。供給者の意向に沿った金額を支払う人がそれを得る。
 分配は必ず不公平を招く。誰かが多く取れば他の人の取り分は少なくなる。早い者勝ちであれば資源は必ず枯渇するし、金銭による購入であれば貧富の差が問題になる。前者については漁獲制限が、後者については価格統制が行われることがある。しかし当初は誰もが安く買えるために行われた米価の統制が世界一高い米価を招いたのは何とも皮肉な話だ。
 こういった問題が発生するのは有限な資源を奪い合うからだ。戦争も大半が資源と領土を巡る争いだ。国家レベルでさえ殺し合いになるのだから個人レベルで解決することは困難だ。
 無限に増やすことは不可能だが、協力すれば資源が増やせるのなら奪い合いを回避できる。そんな夢を実現したのが農業だ。今10でしかない物が1年後には100に増えるのであれば、今分配するよりも協力して育成してから分配したほうが得だと誰もが考える。食物の増殖という大変革が人の絆を作った。
 タイには「豚は太らせてから食え」という諺があるらしい。日本人も野生の子豚を捕まえたら、すぐには食べずいくらか育ててから料理するだろう。
 高度経済成長期の日本企業にも同じような思いがあった。協力して企業を育てれば自分達の収入も増えると本気で考えていた。だから労使協調も可能だった。
 かつて原子力が「夢のエネルギー」と考えられたのは枯渇しないエネルギーだからだ。核分裂と核融合を繰り返せばエネルギーは減らず逆に増え続ける。燃え尽きない太陽を人工的に作れると考えられた。増殖炉とはそういう意味だ。だから原子力とは資源争いを防ぐ「平和のための」エネルギーになり得る筈だった。しかしそれは文字通り「夢のエネルギー」に終わった。
 ゼロ・サムの社会は奪い合いでしか無い。誰かが多くを取れば他の人は貧しくなる。己の足を食べるタコのような縮小均衡ではなく成長戦略が求められる。現在あるものを分配するのではなくそれを育ててから分配すれば連帯も生まれる。
 この250年間の人類の繁栄は化石燃料に依存している。しかしこれは数億年掛けて地球が蓄えたエネルギーを数百年で蕩尽する使い捨て経済だ。原子力が夢に終わったのだからそれに代わる枯渇しない資源が必要だ。農業のように増やせる資源は決して夢ではなかろう。

スポーツと寿命

2014-09-28 10:16:45 | Weblog
 大妻女子大学の大澤副学長らによる、スポーツと寿命に関する研究が発表された。これはあくまで相関性であり必ずしも因果性を意味しない。短命については因果性がありそうだが長寿はそうではない。スポーツ以外の要因が長寿へと導いている可能性が少なくない。
 長寿は①陸上中距離(80.3歳)②スキー(77.3歳)③剣道(77.1歳)とのことだ。これらのスポーツに励めば寿命が延びると考えるのは軽率だ。例えばスキーの場合、最も贅沢で金の掛かるスポーツの1つだろう。金持ちで良い食生活をしていれば長寿になる可能性は高まる。とは言え、これらが寿命を短くするスポーツではないと言っても良かろう。
 短命は①相撲(56.7歳)②自転車(57.0歳)③ボクシング(61.5歳)となっている。1位は案の定相撲だ。あの異様な体型が有害であることには誰もが納得できよう。力士ではないが元プロ野球選手のドカベン香川氏が26日に52歳で亡くなった。肥満体は健康のために良くないようだ。
 2位は意外なことに自転車だ。これは日本だけの特殊事情だろう。日本で訃報が報知されるほどの自転車の選手は大半が競輪の選手だろう。ヨーロッパのような長距離の選手は少ない。長距離の選手であれば陸上の中距離の選手と同様に長寿なのではないだろうか。
 3位のボクシングは納得できる。無理な減量と脳の損傷が原因だろう。
 大体の傾向としては瞬発力を競う種目は短命で、持久力の種目は長寿なようだ。とは言え、最長寿の陸上中距離しか日本人男性の平均寿命(80.2歳)を上回っていないのは驚きだ。アスリートのような動物的生命力が強い人は植物的生命力は弱いということだろうか。あるいは過酷なスポーツは有害ということなのだろうか。
 余り考えたくないことだがドーピングの可能性も否定し難い。薬物による筋力強化はスポーツ界に蔓延しており、発覚した数の数倍・数十倍の選手が利用しているようだ。ドーピングは一時的に身体能力を高めるが長期的には健康を蝕む。
 「ゾウの時間ネズミの時間」という名著がある。これによると心拍数の少ないゾウは長寿で心拍数の多いネズミは短命、つまり一生での心拍数はどの動物でも殆んど違わないとのことだ。人間についても同じことが言えるのだろうか。長距離選手の心拍数は、練習中や競技中にはかなり増えるが、普段の心拍数は非常に少ないそうだ。このことと寿命の長短は無関係ではなさそうだ。

事実と真実

2014-09-28 09:37:27 | Weblog
 朝日新聞はなぜ嘘をつき続けたのか。もし馬鹿の集団であれば偏見に凝り固まることもあろうが、朝日新聞を否定する人でもそう思ってはいない。知的レベルの高い人の集まりだろう。朝日新聞は事実を超える真実があると信じたのではないだろうか。だから良心に恥じずに事実を歪曲できたのだろう。
 これは宗教だ。言わば「アサヒ真理教」だ。宗教に共通する問題点は事実よりも願望が優先することだ。「神があって欲しい」が「神があるべきだ」に変わり「神は存在する」に化ける。神の存在を否定する事実を無視して神の存在を信じて公言する。来世・転生であれ霊魂の不滅であれ、事実と異なることが真実に祭り上げられる。
 これは朝日新聞と宗教に限ったことではない。最近のマスコミによる「異常気象」の乱発には閉口する。台風が頻発して巨大化すると騒ぐが、今年の8月に台風が発生しなかったという事実は無視する。温暖化の恐怖を煽るがこの8・9月の冷夏には触れない。大洪水も旱魃もどちらも温暖化が原因だと言う。そんな馬鹿な!
 真実という妄想を捨てて事実に対して謙虚であるべきだ。なるほど事実はバラ付いており全体を把握することは難しい。その際、大切なことは「真実」のために都合の良い事象だけを摘み食いすることではなく、統計的に把握して確率論に基づいて考えることだろう。
 世の中には確率的に考えるのが苦手な人が多い。確率はグレーの世界だ。白か黒かではなくグレーの濃淡を見る。当然、白に近いグレーも黒に近いグレーもある。実際の話、真の白も真の黒も殆んど無いのだから、グレーを識別できることが最も重要だ。白と黒しか見ない人には世界の99%が見えない。
 飛行機を怖がり宝くじを買う人は確率が分かっていない人だ。概して人は低い確率を高く、高い確率を低く見なし勝ちだ。こんな人は数学を勉強し直すべきだろう。私は飛行機を利用するし宝くじは絶対に買わない。

出所者

2014-09-26 09:20:33 | Weblog
 出所者に対する支援が必要であることに異存は無い。出所者が就労できなければ再犯の可能性が高まる。だから就労の機会を与えるべきだ。しかし就労させれば問題が解決する訳ではない。問題を正しく理解する必要がある。
 出所者と一括りにすることがそもそも間違いだ。出所者は非常に様々だ。やむを得ない事情に同情できる人もいれば危険極まりない累犯者もいる。特に性犯罪者の再犯率はかなり高いらしい。アメリカでは性犯罪者の人権はかなり厳しく制約されている。
 就労した出所者の5年以内での再犯率は7%で、非就労者の再犯率は30%だそうだ。この数字だけを見て「就労させれば再犯率が1/4に減る」と考えるならかなりお目出度い人だろう。就労しても再犯率が7%であれば年当りでは1.4%だ。これは日本人の平均よりも随分高い。就労させても再犯の可能性はかなり高いということだ。
 就労しなかった人の再犯率が更に高いことを、就労できなかったから再犯率が高いと考えるのも根本的に間違っている。就労不可能な人が含まれているからだ。すぐに激昂する人や明らかに虚言癖のある人を雇う企業などあるまい。就労で門前払いを食らうような人の再犯率が高いのは当たり前だ。原因と結果が混同されている。
 私は出所者の更生の邪魔をしたい訳ではない。誤解し易いデータに基づいて雇用を促進しようとする総務省の姿勢を糾弾したいだけだ。こんなデータと各種優遇策に騙されて出所者を雇用して迷惑を被った企業こそ被害者だ。
 出所者の中には「レ・ミゼラブル」のジャン・バルジャンのような立派な人もいるだろう。あるいは帝政ロシアという特殊な状況下とは言え「死の家の記録」でドストエフスキーは懲役囚を「彼らは我が国の民衆全体の中で最も才能豊かな、最も力強い人なのではあるまいか」とまで誉め讃えた。素晴らしい人材が誤って犯罪者になることもあろうが、大半の出所者は標準以上に危険な人だろう。
 出所者の就労率を高めたいのであれば法務省もリスクを負うべきではないだろうか。例えば出所者のランク付けをして、トラブルが起こればそのランクに応じて補償をするという仕組みがあっても良かろう。使用者側に全責任を押し付けるのは無責任過ぎる。
 出所者の就労率を高めたいという意図は理解できる。しかしそのために誤解を招き易いようなデータに頼るべきではない。安全性も危険性も事実に基づくべきだ。危険を煽ることも安全と偽ることも誤魔化しだ。正しいデータに基づかなければ判断を誤る。

安全

2014-09-26 08:37:51 | Weblog
 「日本人とユダヤ人」でイザヤ・ベンダサン(山本七平氏)が「日本人は、安全と水は無料で手に入ると思いこんでいる」と指摘してから44年経った。今でも水と安全は非常に安く手に入る。
 中国は物価が安いと思っている人があるだろうが、安全な物は非常に高い。中国の金持は中国製品を避けて高価だが安全な日本製品を買うと言う。これでは日本に住むよりも日用品の価格が高くなってしまう。日本でなら水道水をガブ飲みできるが中国でそんなことはできない。わざわざ輸入品のミネラルウォーターを買わざるを得ない。
 自転車について面白い話を聞いたことがある。中国製の新品よりも、一旦、日本に輸出されて逆輸入された中古品のほうが安全と考えられているそうだ。日本の工業規格に従って作られた中古品のほうが、国内規格さえ満たすかどうか分からない新品よりもずっと安心だということだ。
 暑い夏の日に一泳ぎすることも大変だ。海も川も汚染されているしプールは芋を洗うような混雑ぶりだ(中国では「餃子のよう」と表現するらしい)。自宅にプールを作ればとてつもなく高く付く。
 治安も中国では高コストになる。犯罪率は高いし警察は頼りにならない。自分の身は自分で守らねばならないのだから住居の安全対策費はかなり高額になる。
 新幹線の安全性も日中で雲泥の差がある。仮に運賃が1/10であっても危険性が100倍であればそれを好ましいとは思えまい。
 中国では空気でさえタダではない。地域によっては外出のためのマスクが欠かせない。家庭では空気清浄機が必需品だ。これは空気を吸うことでさえ金が掛かるということだ。
 情報・娯楽費も高コストで危険が伴う。政府に統制されていない情報・娯楽を楽しむことは高コストであり、しかもいつ国家権力によって摘発されるか分からない。
 少なからぬ法律が日本では国民の安全を守るために定められているが、中国では憲法さえ無視されて共産党が恣意的にルールを定める。司法でさえ共産党の意のままになるのだから法律は総てザル法だ。無法地帯に住んでいるようなものだ。
 ビジネスも大変だ。役人は賄賂を求め支払わなければ様々な嫌がらせをする。しかし支払えば別の危険が待っている。その役人かその上司が失脚すれば贈賄罪に問われることになるだろう。
 中国の高額所得者の多くが外国に移住したいと考えるのも無理は無かろう。外国人は日本の自動販売機に驚くそうだ。誰も見張っていない自動販売機のが盗まれないことに彼らは驚愕する。イラクやシリアなどは論外だが、安全な日本に住んでいるということだけでその経済的メリットは大きい。

スポーツ観戦

2014-09-24 10:27:19 | Weblog
 スポーツ観戦が好きな人は2種類いると思う。勝ち負けに拘る人と一流アスリートの妙技を楽しむ人だ。前者は贔屓のチームや選手が勝つことを最優先にする。彼らにとって競技とは筋書の無いドラマだ。贔屓チームが負けそうになるとハラハラドキドキを通り越して怒り始める。
 後者は敵味方を問わず良いプレイを楽しむ。私はこちらのタイプで特に野球の内外野手の好プレイを見るのが大好きだ。
 5日のボクシングも感動した。負けた八重樫選手の逃げないボクシングは素晴らしかった。観客も同じ思いだったようで敗者を讃える拍手が鳴りやまないという極めて珍しい光景だった。
 勝ったローマン・ゴンザレス選手はとてつもなく強かった。プロアマ通じて127戦無敗という戦績からも分かるようにスピード・テクニック共に最高レベルの選手だ。パウンド・フォー・パウンド(全階級で最高の選手)は彼かウェルター級のフロイド・メイウェザーのどちらかだろうと思う。
 昔はスポーツ中継も勝ち負けに拘り過ぎていた。「前畑頑張れ!」のような実況中継を今やれば多分非難されるだろう。今でも関西の某球団のファンは贔屓の引き倒しをすることがあるがこれは県(府)民性だろうか。
 サッカーのワールドカップで日本も韓国も一次リーグ最下位で敗退した。しかし帰国時の空港での光景は全く対照的だった。日本代表は大歓迎されたが韓国代表はまるで国賊のような扱いで飴を投げつけられた。これも国民性の違いだろうか。今開催中のアジア大会でもあちこちで歪んだナショナリズムが発揚されている。困ったものだ。
 今はどうか知らないが、一時期、小学校の運動会で手を繋いでゴールすることが推奨されていた。これは結果の平等を信奉する一部の親の意向が反映されたのだろう。勝ち負けしか見ないから「負けた子が可哀想」という発想になる。児童が一所懸命に走っている姿を健気とは感じないのだろうか。
 小学生の頃、体育の授業で「ヒットとは正しく打つこと」と教わったせいか、私はクリーンヒットが好きでボテボテの内野安打を余り評価しない。メジャーリーグで当初、松井選手がgrounder king(ゴロ王)と酷評された時、妙に納得したものだ。
 やはり野球観戦では投手の速い球と鋭い変化球、打者の強烈な打球、野手の華麗な守備を楽しみたい。勝つ・負けるにしか興味を持たない人はそれだけ観戦の楽しみを損なっている。勝ち・負けは確かに重要であり、選手も監督も勝つために頑張っているし勝者は美しい。しかし敗者が醜いとは思わない。結果としての勝敗よりもそれに至るプロセスを楽しみたいものだ。

資源

2014-09-24 09:45:29 | Weblog
 資源は有限だから奪い合いになる。それが貴重なほど激しい奪い合いが起こる。19世紀のアメリカのある農場で砂金が見つかった。農場主はこのことを秘密にしようとしたがどこからか情報が漏れて瞬く間にこの農場は大勢のゴールドハンターによって不法占拠され勝手に町が作られた。この不法占拠によって生まれた町が現在のサン・フランシスコだ。
 漁業は早い者勝ちだ。逸早く魚群を見つけて一網打尽にしてしまえば獲物を独り占めできる。だから多くの漁船は多少燃費が悪くても強力なエンジンを搭載しているそうだ。近海の魚を獲り尽くしても魚は沖から湧いて来る。沢山獲らなければ損だ。こんな分捕り合戦を続けているからスケトウダラやマグロなどの水産資源が枯渇するのは当然だ。ウナギの稚魚の捕獲制限が日中韓台で合意されたがどの程度守られることやら。自分が獲らなければ他人が獲るのだから少しでも多く獲ろうとする。この心理は砂金を漁るゴールドハンターと同じだ。
 狩猟採集民は決して協調的ではなかっただろう。獲物は少なく獲った者勝ちなのだから家族以外の他者は競争相手でしかない。できればいなくなって欲しい邪魔者だ。ゼロ・サムの社会であれば、誰かが多く取れば他の人の取り分は減る。つまり他者の取り分を減らせば自分の取り分が増えるということだ。
 人が協調的になったのは農業を始めてからではないだろうか。農業によって資源が定量ではなくなった。定量の資源を分け合えばゼロ・サムにしかならないが、増やすことができる不定量であればゼロ・サム状態ではなくなる。協力すれば食料が増やせるということになれば敵対するよりも協力したほうが有利だ。
 勿論、一足飛びで高度な農業が可能になる筈が無い。その過渡期のモデルになるのが青森県の三内丸山遺跡だろう。未だ全貌が解明されてはいないが、縄文時代から既に大規模な集落があり栗などが栽培されていた。
 資源が有限だから争いが起こる。農業のように協力すれば資源が増えるのであれば争いは起こりにくくなる。現在、各国が通貨流通量を増やすことによって経済を拡大させているがこれはバブルに過ぎない。エネルギーなどの新しい資源が見出されない限り実体経済は拡大しない。日本の高度経済成長期のように全体の資産が増える状態の時、ゼロ・サムの奪い合いを超えた協調的な繁栄が生まれ得る。企業や国が成長するなら、奪い合うよりも、成長のために協力したほうがそれぞれの取り分が増える。

便器の蓋

2014-09-22 10:08:30 | Weblog
 昔の和式便器には蓋があった。物を落とさないためでもあり、何よりも汲み取り式だったから臭いを拡散させたいために蓋が必要だった。水洗式になってからは蓋は見られなくなった。
 洋式トイレにも蓋が付いていた。多分これも当初は臭いを拡散させないためだっただろうから、水洗式になった時点で本来、不必要になるものだ。しかし西洋では蓋が役に立った。バスとトイレが隣接するので入浴するために脱いだ服を置く場所として利用できたからだ。
 日本で洋式トイレの蓋が無くなり始めたのは10年ぐらい前からだろう。それまで誰も見直そうとしなかったのは、見慣れた物を正しい物と人は考えてしまうからだ。
 駅や商業施設や学校などで蓋を撤去することは利用者・管理者の双方にとって役立つ。
 利用者にとっては蓋を開けるという無駄な動作を省略できるので緊急時には助かる。水洗レバーを押す時も蓋が邪魔にならない。無駄な時間が減ればその分、早く用が終わるので次の人の待ち時間が減る。
 管理者のメリットはもっと大きい。部品が減るのだから設置費が下がるし運送費も少しぐらい減るだろう。余計な部分が無くなれば故障が減るし清掃時間も短縮される。トイレの回転率が上がれば客数が増えてもトイレを増設せずに済むから施設の面積効率が下がらない。
 以前、総合企画本部に所属していた私が蓋の撤去を大真面目に発表したら散々批判された。「臭いが広がる」「安っぽい」「流さない人がいれば汚い」などだった。巷の便器から蓋が取り払われつつある現状を考えるなら、これらの批判が的外れだったことは明らかだ。
 和式の便器に蓋が付いていれば誰もが「これは何だ?」と思うだろう。ところがと洋式トイレの蓋についてはそんな無駄な構造が疑われずに何十年も放置されていた。
 可動式の便座が今も使われているが、これも大半の公衆トイレでは無駄な機能だ。便座を上げることの無い女子トイレや「大」専用の男子トイレであれば固定式のほうが壊れにくいし安上がりだ。人は固定観念に凝り固まり勝ちであり見直すことが苦手な動物だとつくづく思う。

誉める効果(2)

2014-09-22 09:35:38 | Weblog
 当たり前の話だが平均点50点の人は毎回50点を取れる訳ではない。毎回50点を取ることは毎回100点を取るよりも難しい。30点から70点ぐらいの間でバラ付いて、その結果として平均点が50点になる。つまり実力の変化が無くても、運が良ければ70点を取れて運が悪ければ30点になるということだ。
 70点を取った時、本人も周囲も何かの成果だと考える。努力の甲斐があったと思うだろう。しかし大半の場合ただの運だ。何度も試験を受ければ良い時も悪い時もある。
 70点で誉められた人は次の試験では実力どおりに50点前後に戻る。これは確率的には当然のことだ。幸運が2度続くことは殆んどあり得ない。ところがこれが正当に評価されない。誉めたにも拘わらず成績が悪化したと誤解される。
 30点であれば本人は悔やむし叱られるかも知れない。しかし次の試験では実力どおりの50点前後に戻るだろう。これは反省したからでも叱られたからでもない。平均へ回帰することは必然とさえ言える。
 人が誉められるのは実力以上の結果が得られた時だ。だから誉められた後はほぼ確実に実力相応の結果に戻る。逆に、叱られるのは実力以下の結果だった時だ。当然、次は実力相応の結果に戻る。叱られたからではない。こんな事情から誉める効果は過小に、叱る効果は過大に評価される。
 全盛期のイチロー選手でも毎試合、5打数2安打のペースで打てた訳ではない。チャンスで悉く凡退した翌日、大当たりをしてもそれはマスコミに叩かれて発奮したからではない。大当たりの翌日、ノーヒットに終わってもそれは天狗になったからではない。あくまで偶然のことだ。
 成績はバラ付くものだ。叱れば上がると思うのは錯覚に過ぎない。だから誉めて気分を良くさせるほうがずっと良い。少なくともやる気が高まることは確実だ。このことを総ての親と教育者に理解して貰いたい。
 伊勢にある南部自動車学校は「ほめちぎる教習所」として全国に知られている。地方都市の人口減少と若者の自動車離れという二重の逆風の中でこの学校の業績は好調だ。本人の成績だけではなく経営にとっても誉める効果は大きい。カリスマ販売員もやはり誉め上手だ。