俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

朝三暮四

2008-09-25 17:01:33 | Weblog
 もし「景気のテコ入れをするために増税をする」と主張したら国民に総スカンを喰らうだろう。
 しかし「景気にテコ入れするが増税はしない」と言えば賛成する人が多い。これでは朝三暮四の猿のレベルだ。日本人はいつから猿知恵になってしまったのか。
 民間企業の場合、支出額はゼロサムになる。つまり何かの支出を増やすならどこかで支出を減らさねばならない。例えば設備投資を増やすなら人件費や宣伝費などを削らざるを得ない。
 景気テコ入れ策を行うなら、何かに使う筈の金を回さねばならない。テコ入れ策のための資金は無駄遣いを止めるだけでは到底足りない。
 テコ入れ策を実施しても無駄遣いが増えるだけだ。それよりも取り敢えず徹底的に無駄遣いを減らして、ほんの少しでも減税してもらいたいものだ。

最強の格闘技

2008-09-25 16:52:31 | Weblog
 本気で闘った場合、ボクシング・空手・K-1などの打撃系より、柔道・柔術・レスリングなどの組技系の格闘技のほうが強いことは間違いない。組技系の格闘技には寝技と関節技があるからだ。
 組技系の技は大きく分けて立ち技と寝技に分類できる。立ち技は華やかで見栄えがするが、寝技は地味で見栄えがしない。寝技はショーとして魅力が無い。相撲のように寝技の無い格闘技があるのもこんな事情からだろう。
 打撃系の格闘技には当然ながら寝技はない。だから観客にとっては面白い。しかしいざ異種格闘技と闘うなら寝技は避けられない。
 打撃系が必ずしも強くないことを実証したのはあの「世紀の凡戦」のモハメッド・アリ対アントニオ猪木の試合だ。寝技に引きづり込もうとする猪木と寝技では勝ち目の無いアリという立場の違いから闘いは成立しなかった。
 それから数ヶ月後(だったと思う)、こんな異種格闘技戦があった。最強のチャンピオンのモハメッド・アリと善戦して映画「ロッキー」のモデルになったチャック・ウェプナーがプロレスラーのアンドレ・ザ・ジャイアントと対戦した。ウェプナーは左右のフックを振り回すが巨漢のアンドレはパンチを物ともせずノッシノッシと前進してウェプナーを捕まえた。この瞬間に勝負は決まった。
 ハイレベルな闘いではパンチやキックは一撃必殺とはならない。しかし組技系の格闘技には一瞬で相手の戦闘能力を奪う関節技という必勝技がある。
 寝技と関節技があるから組技系のほうが打撃系より強い。

三日月湖

2008-09-25 16:33:41 | Weblog
 蛇行する川のそばにはしばしば三日月湖が見られる。
 川の曲がり目では、外側の流れが速く内側は遅い。そのため外側はえぐられ、内側には土砂が溜まる。その結果として益々蛇行は大きくなる。小さな蛇行が徐々に大きな蛇行になる。
 ところが氾濫が起こるとバイパスができてしまう。バイパスができると蛇行部分には水が流れなくなって三日月湖として取り残される。
 9月23日付けの「轍」で思考におけるシナプス結合を轍に譬えたが、蛇行する川と三日月湖に譬えても良かろう。
 若い頃の考えは先鋭化し勝ちだ。温厚な考え方は中途半端と感じられるし、極端な考えのほうが理解し易いし主張し易い。このようにして偏った極端な考え方へと曲がった思想はいずれ破綻する。破綻した残骸はポツンと三日月湖のように残る。永久革命や宗教的原理主義や芸術至上主義や恋愛幻想などの過激思想がそれだ。

漢字名の読み方

2008-09-23 19:01:03 | Weblog
 中国人や南北朝鮮人の名前を日本読みせず現地語読みをすべきだという意見がある。私はこのことに賛成しない。
 漢字は表意文字だ。表意文字である限りは文字の持つ意味を尊重すべきであって音を重視すべきではない。中国では同じ文字が地域によって様々に発音されて口語ではまるで別の言語のように違う。
 そもそも中国語や朝鮮語をカタカナで表記できる筈がない。
 金正日はキン(キム)セイニチで構わないし毛沢東もモウタクトウで良い。中国語や朝鮮語を知らない人にとってはこのほうが分かり易い。
 ヨーロッパでも事情は同じだ。ローマ人のユリウス・カエサルは英語ではジュリアス・シーザーだし、英国人のシェークスピアはフランスではシャクスペルだ。読み易いよいに読めば良いことだ。せっかく漢字という文字を共有しているのだから、ヨーロッパ人が文字文化を共有するように、音ではなく文字で共有すれば良い。

アホの上司

2008-09-23 18:50:12 | Weblog
 「アホの上司」というタイトルをどう解釈しただろうか。この際アホなのは上司なのか部下なのか?多分、部下がアホなのだと考えた人のほうが多いだろうが、上司がアホだと考えても間違いではない。昔「アホの坂田」という芸人もいた。
 言葉遊びはこれぐらいにして、アホな上司とアホな部下はどちらが迷惑か検討したい。多分アホな上司のほうが遥かに迷惑だろう。
 アホな部下なら「馬鹿と鋏は使いよう」と昔から言われているように何とか使える。しかしアホな上司は使いようが無い。間違った指示を出されて振り回される部下は惨めだし、アホはうつる。アホに仕事を教えられるとアホになる。そのうち組織そのものがアホ集団になってしまう。
 困ったことにアホは自分のことをアホと思っていない。アホは自分だけが賢くて、周囲の人は皆アホだと思っている。

「中国」

2008-09-23 18:40:47 | Weblog
 中国は自らを「発展途上国」と位置づけながらどこか「大国」意識を持っている。人口大国であり消費大国であるという事実以上にやはり「中華思想」を捨てられないのだろう。
 大国という意識は傲慢さを生む。周囲の蛮族を文明化しようとして侵略を図る。
 発展途上国であるという現実を踏まえて「大国」でも「小国」でもない「中国」というスタンスを採れないものだろうか。

轍(わだち)

2008-09-23 18:36:14 | Weblog
 思考はシナプスの結合を通じて行われる。そのため同じシナプス結合を繰り返しているとその結合が強化される。これが思い込みや偏見に繋がる。
 言わば道にできる車の轍のようなものだ。同じ経験や思考を繰り返すと思考の轍ができてしまう。轍ができると脳は自動操縦状態になってしまい疑うことを忘れてしまう。このことは迅速な判断をもたらす反面、厳密には常に異なる筈の個々の事象を同じものと考えて同じ対応をしてしまう。
 人が年をとると保守的になるのはこんな事情からだろう。轍が固まってしまう前の人は轍に拘束されにくい。若い人のほうが思考がフレッキシブルで新しいものを受け入れ易く、年長者が頑固になるのはこんな事情からだろう。

かっぱえびせん(2)

2008-09-18 17:42:41 | Weblog
 なぜ日本の「かっぱえびせん」はこんなに不味くなったのだろうか。当初の「かっぱえびせん」は正しく「止められない止まらない」と言えるほど旨かった。その頃と比べて明らかに不味くなっている。
 一方フィリピンやタイの「かっぱえびせん」は日本の「かっぱえびせん」より遥かに旨い。なぜ日本の元祖「かっぱえびせん」が本家であるにも関わらず不味いのだろうか?
 カルビー社に猛省を促したい。多分少しずつ海老の含有量を減らして行ったせいだろう。茹でガエルのようなもので、少しずつ劣化させていても購買者は継続して購入する。少しずつ質を落とせば売価はそのままで原価だけが下がるので企業としての儲けは増える。
 「かっぱえびせんベスト」だろうと「かっぱえびせん海老増量」だろうとネーミングはどうでも良いから、現状の不味い「かっぱえびせん」ではなくフィリピンやタイ並の旨い「かっぱえびせん」を企業としての誇りを賭けて復活させて貰いたいものだ。

自由

2008-09-18 17:28:05 | Weblog
 自由は不自由を招くことがある。決して無条件に肯定できない概念だ。
 例えば「職業からの自由」は「生活の不自由(金銭での不自由)」を招く。「言論の自由」は必ずしも実現されず「言語のタブー」や「言霊(ことだま)」を招き、不可解な自主的言論統制まで現れる。「思想の自由」には殆どの人が耐えられず、宗教やイデオロギーに魂を売り渡したり権威に頼ろうとする。
 自由に生きるとは自分で責任を取るということだ。
 言われたとおりにやっていれば自己責任は発生せず、指導者に責任を転嫁できる。自分で責任を取りたくない人は自由よりも「安定と安心」を求める。
 自由を謳歌するためには精神的な強さが必要不可欠だ。

客観と無関心

2008-09-18 17:19:42 | Weblog
 客観的になるためにはそのことに対して無関心であることが必要だ。関心を持てば考えが偏る。
 自分に関係のあることに対しては関心を持たざるを得ないから①関心のあることと②関係のあること、に対しては客観的になれない。裁判官は法廷で議論されたこと以外の余計な情報を持たないために、自分が担当する事件に関するニュースは極力見ないそうだ。そのために市民の感覚とは懸け離れた判決がしばしば出されるが、これはある程度やむを得ないことだ。
 どんな公正な人でもファンになったら客観性を失う。アバタも笑窪になってしまう。阪神タイガースのファンは絶対にタイガースの選手を客観的に評価することはできない。
 客観的であるためには①自分が関わることに関しては他人の意見を尊重すること②思い入れをしないこと、の2つが必要だ。
 しかしそもそも客観的であることがそれほど重要なことだろうか。人は自分の感覚器官を通じてしか知覚できないし、自分の肉体を使ってしか周囲に働きかけることはできない。「客観」とは「神の目」に代わるものとして、自分の主観と他者の主観の元になるもの、言わば「物自体」のようなものとして想定された仮説に過ぎない。
 無理やり客観的であろうとすれば周囲に対して無関心な態度を取らざるを得ない。無関心なら周囲は総て「他人事」であり客観的(「対物的」)に対処できる。
 カミュの名作「異邦人」の主人公のムルソーは正にそんな存在だ。母の死も殺人も恋人との情事も、そして自分に対する死刑判決でさえも彼は無関心に他人事として捉える。
 抽象的な客観性を無条件に讃美するのではなく具体的な主観性をもっと評価すべきだろう。快感や喜びを感じるのは主観であり、主観は偏見に捉われ易いという欠陥はあるものの生き生きとしたナマの印象だ。客観的であろうとする余り、人生に対してシラケてしまうことは本末転倒だ。勿論、シラケを客観性と思い誤る政治家などは論外だ。