俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

マスコミの責任

2016-07-27 09:41:02 | Weblog
 託児所や保育園が近い将来において過剰になることは分かり切っている。今後一層の少子化が進むからだ。それにも拘わらず政治家とマスコミはこれらの充実を主張する。都知事選の主要3候補も揃ってソフト・ハード両面での充実を公約に入れている。これは「保育園落ちた、日本死ね」のブログを政治家とマスコミが過剰に騒ぎ立てたことの弊害だろう。
 正当な批判が世論になるのは良いことだ。そのことによって社会が改善される。しかし不当な主張が世論に祭り上げられると、間違っていると分かっていても批判できなくなる。無理が通れば道理は引っ込む。これが空気による支配だ。
 一旦空気が醸成されてしまうとそれを批判できなくなる。これが戦前・戦後に共通する日本人の最大の欠点だ。戦前・戦中であれば「日本が負ける」という言葉がタブーだったし、戦後は「自由」と「民主主義」が最高善だ。批判は許されない。
 なぜ日本人は集団ヒステリーに陥るのか。元凶は批判精神も責任感も持ち合わせないマスコミだろう。戦前・戦中に戦争を煽ったように、煽り立てて託児所や保育園を作らせた挙句、作り過ぎたら非難する。関係者という意識は全く無い。責任など微塵も負おうとしない。
 この体質は今に始まったことではないしジャンルを問わず暴走する。かつて肺癌治療薬イレッサが発売される時「副作用の無い夢の新薬」と散々囃し立てた。ところが死亡例が続々報告されると、手の平を返して「危険な薬」として糾弾を始めた。当事者意識を全く欠いたマッチポンプだ。自ら煽っておきながらその責任を煽られた側に押し付けるのがマスコミの常套手段だ。
 言論の自由がしばしば問題にされるがマスコミ自ら「言論の責任」に触れることは無い。言論の責任=言論弾圧という構図に仕立て上げて免責ばかりを主張する。だから嘘を垂れ流し続けた朝日新聞の責任は問われない。
 憲法は思想や表現の自由を保護するが、言論の自由とは本来誰のための権利なのだろうか。これは国民の権利ではないだろうか。少なくとも特定の企業が嘘を報じて儲けることが公認されているとは思えない。不良品を購入させられた消費者が良品を要求するのは当然の権利だ。マスコミが守っているのは言論の自由ではなく言論の無責任だ。これは安倍内閣よりも酷い憲法歪曲ではないか?