俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

図書カード

2008-08-29 15:06:29 | Weblog
 金券ショップで私は全国共通百貨店商品券以外に図書カードと図書券をよく買う。500円図書カードは477円、1,000円図書カードは953円、図書券は485円が私が買う基準値だ。
 図書券の買値が高いようだが、うまく使えば決して割高ではない。図書券はお釣りが出るからだ。具体例に基づいて説明しよう。
 私がよく買う本は新書と文庫と漫画雑誌だ。話を単純化するために、新書を700円、文庫を500円、雑誌を300円としよう。
 300円の雑誌を買う時には図書券を使う。500円の文庫を買うときは500円の図書カードを使う。700円の新書を買う時は500円の図書カードと図書券を使う。1,000円以上の本なら1,000円の図書カードと他の券を併用する。
 こういう使い方をする理由は次のとおり。
 700円の新書を1,000円の図書カードで買ったあと300円の雑誌を買って使い切れば現金の場合と比べて47円安くなる(1,000円-953円)。一方私の買い方だと53円安くなる(500円-477円+15円+15円)。これが釣り銭が出る図書券のメリットだ。

靴のセールスマン

2008-08-29 14:51:44 | Weblog
 ビジネスマンにはよく知られているこんな寓話がある。
 ある靴の商社が2人の調査員を南方の未開地に派遣した。2人が目にしたのは現地の人が誰一人靴を履いていないという現実だった。2人はこの事実に基づいて全く違うレポートを本社に送った。1人は「当地の可能性はゼロ。当地では靴を履く習慣が無い。」と送信し、もう1人は「当地には靴という文化がまだ届いていない。市場を独占できるので無限の可能性がある。」と送った。
            *                 *
 同じ事実を見ても人の解釈はこれほど異なる。正反対の結論を導くことができる。
 ところでもし私がこの商社の海外事業担当者だったら「つっかけ」の拡販を指示するだろう。西洋人の価値観では靴を履くことは当然だろうが、靴は決して快適な道具ではない。靴を履く習慣の無い人に履物の有効性を伝えることが最優先課題だ。
 靴という道具は日本人にとって決して快適な代物ではない。夏には高温多湿になるこの国で靴を強制することは無茶だ。水虫が国民病となってしまったのは風土特性を無視して一年中靴を履いているせいだ。夏にはサンダルや「つっかけ」が相応しい。

神無き世界の倫理

2008-08-29 14:37:55 | Weblog
 宗教の欺瞞性は今後益々明らかになり、「無神論」が世界の常識とならざるを得ない。
 しかし西洋の倫理はキリスト教に基づいているので西洋人は「神を失えば倫理は崩壊する」と考える。西洋の隠れ無神論者は「神は秩序を守るために有効な嘘」と割り切って、迷信と知りながらその権威を利用する。
 しかし神は倫理のために本当に必要なのだろうか。日本人という世界で最も神を信じない民族がいる。その日本人は世界で最も倫理を欠いた民族だろうか。最近は少なからずレベルダウンしているとは言え、世界でも有数の行儀の良い民族だろう。神からの報酬をアテにして倫理を守る西洋人と比べて、自らの意思で倫理を確立する日本人は何と驚異的な文化を持っていることだろうか。
 高い感受性と思いやりの心さえあれば神などという嘘が無くても倫理は成立する。この事実を世界に広く発信すべきではないだろうか。神という嘘に頼らない新しい倫理を体系立てることでは、最初から神を持たない日本人の独壇場となるのではないだろうか?
 かの天才カントでさえキリスト教道徳の呪縛から逃れられなかった。ニーチェはキリスト教道徳の否定に一生を費やした(≒無駄遣いした)。
 神による呪いから解放されて初めて人間は自由を獲得することができる。

クロール

2008-08-26 19:05:52 | Weblog
 クロールは一番早い泳法なのでダイナミックな泳法と思われることが多いが、実はロスが最も少ない静かな泳法だ。
 人間をカヌーに見立てるような泳法で体幹部は殆ど動かさず、手足のみで推進力を得る。このことはオリンピックの自由形を見れば一目瞭然で一流選手の体は呆れるほど動かず左右にうねるだけだ。手足の動きは体の延長線上から殆どはみ出さないから水の抵抗が最も小さい。
 水中で大きな推進力を得ようとすれば同時に大きな抵抗が生まれる。バタフライは最も推進力の大きな泳法だが抵抗も最も大きいので体力を無茶苦茶に消耗する。
 このようにクロールはコンパクトな泳法なので場所をとらない。1コースで3人か4人が泳げる唯一の泳法だ。平泳ぎや背泳ならせいぜい2人、バタフライなら1人しか泳げない。狭い日本のプールにはクロールが向いている。

一体化

2008-08-26 18:53:03 | Weblog
 団体競技では「一体化」や「一丸となって」頑張ることが求められるがそんなことはすべきでない。むしろ「機能化(専門化)」すべきだと思う。
 野球の守備にその典型を見ることができる。いくらバッテリーが重要でも二番手の投手が捕手に回ることは殆ど無い。二番手の投手は控え投手となる。
 早く走ることや早い球を投げるといったことだけに頼る一元論的な価値観ではなくそれぞれのポジションへの適性という多元論的な価値観に基づいて選手は選ばれる。
 スポーツ以上に実社会は多元論の世界だ。誰が偉いかといった一元論ではなく、それぞれが何をできるかという多元論で成り立っている。
 集団として成果を残すという目標は共有して良い。しかしそれを実現するためには各自が自分の役割を果たすべきであって「同一化」や「一体化」をすべきではない。「一体化」するのは独裁者が大好きなマスゲームだけで充分だ。

加工

2008-08-26 18:41:40 | Weblog
 北京オリンピックの開会式での美少女の口パクや56の少数民族の多くに漢人が扮していたことが偽装として非難されている。しかしこのことの責任を総合プロデューサーの張氏に問うことはお門違いだ。もし責任を問うなら映画監督である張氏を総合プロデューサーに任命した共産党幹部が悪い。
 映画監督や小説家は「現実」を不完全なものと考える。「現実」は醜いから虚構によって物語は美しくなると考える。彼らは現実という素材を加工することによって「美」は生まれるという信念を持っている。言わばナマの素材を調理することによって料理は成立し得るという価値観を持っている。
 私もナマの米をそのまま食べたいとは思わない。米は炊いたほうが絶対に旨い。
 加工したほうが良いなら堂々とそう主張すれば良い。加工したものを加工していないように見せかけようとすることが悪い。
 美が皮膚1枚に頼っておりそれを剥がせば化け物になることは事実だ。しかしその事実を「皮膚は尊い」と考えるか「美は虚しい」と考えるかは各人の勝手だ。
 「人は死ぬ」という事実を「生は尊い」と考えるか「生は虚しい」と考えるかは各人が判定すれば良い。
 やってはならないことは事実と加工をゴチャマゼにしてプロパガンダとして使うことだ。

文化大国

2008-08-19 16:09:00 | Weblog
 「竹取物語」は世界最古のSFだと思っている。かぐや姫を迎えにきた宇宙船は宙に浮かび(反重力装置か?)、宇宙船に向かって放たれた矢は空中で止まる(バリヤーか?)。
 最近の日本文化は漫画とアニメが代表しているように思われる。海外での評価は日本では考えられないほど高い。
 これまで日本は技術大国や経済大国として評価されて来た。むしろ文化大国を目指すべきではないだろうか。
 他の文化を有難がり過ぎることなく従来からの既存の文化との融合を図ることは日本人の素晴らしい特技だ。洋食や中華のアイテムにライスとスープ(時には味噌汁!)をセットして定食とするのは和魂洋才の現れと言えるだろう。
 新しい文化をそれまでの文化と対立させず固有の文化と融合させて取り入れることができるのはその文化の懐の深さを物語っている。
 浮世絵のように、外国で評価されて初めてその価値に気付くような愚行は避けたいものだ。

2008-08-19 15:55:42 | Weblog
 先日のオリンピック開会式のテーマにも使われた中国の4大発明(紙、印刷、羅針盤、火薬)は総て「宋」までの発明だ。つまり「元」以降には中国による偉大な発明は無い。
 言い換えれば西暦1,000年まで中国は世界の最先進国だったが、1,000年以降は世界文明史に貢献していない。1,500年くらいまではイスラム圏が、それ以降はヨーロッパが文明をリードしている。
 もし「元」という異民族支配が文明の停滞を招いたのなら、「元」という通貨単位を中国が使っていることは先進文明国を自負する中国にとっては大いなる皮肉と言わざるを得ない。

ばら撒きと減税

2008-08-19 15:44:57 | Weblog
 景気対策という名目でばら撒きが容認されている。「官の金を民に移す」ということが役人の理屈だが「官の金」という言葉に大いに不満を感じる。「官の金」ではなく「国民の金」ではないだろうか。
 官が自力で生み出した金ではない。様々な口実で国民から徴収した金だ。それなら国民に返すのが筋だ。
 官による不要不急の公共事業によって潤うのは一部の業者だけだ。それも多くは天下りや賄賂で癒着した業者だ。こんな業者を通じて間接的に景気浮揚を図るよりは、減税により国民の負担を軽減するほうが遙かに公平だ。
 無駄の多い官の出費は必要最小限に抑えるべきだ。国の仕事は防衛・防災・治安だけで良いとさえ思っている。他は民間に任せたほうが遙かに効率的だろう。

0×∞=0

2008-08-19 15:33:54 | Weblog
 次のことを前提にしないなら議論は虚しい。
 ①人は必ず死ぬ。
 ②死後は「無」になる。(余談:「死後ハムになる」のは豚だけ)
 極楽浄土も天国も最後の審判もあり得ない。これらは願望が生んだ妄想でしかない。誰も実際に見聞している訳ではないし、あの世から還って来た人もいない。死後の話は「嘘の塊」だ。
 死後の「無」とは何か?「無」の状態が永遠に続くことだ。0×∞を「有」と錯覚する人もいるようだが0はどれだけ積み重ねても0にしかならない。存在しないもの、例えば地球大のダイヤモンドを想定しても、存在しないものは何兆年経とうと存在しないままだ。永遠に続く「無」は「無」でしかない。死後の「無」は丁度生まれる前の数十億年が「無」であるように「無」でしかない。