俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

虚言

2013-09-30 10:16:02 | Weblog
 昔、マスコミは嘘をつき放題だった。朝日新聞などが北朝鮮を地上の楽園と讃え、それを真に受けた在日朝鮮人とその家族などが北朝鮮へと移住して悲惨な目に会っている。このことについて朝日新聞などは未だかつて自己批判をしていない。
 インターネットの普及などもあり嘘がすぐにバレるようになってからは露骨な嘘は難しくなり、より巧妙に嘘をつくようになった。「○○がこう言った」が典型例だ。○○が言ったということは事実でありマスコミが自ら嘘を言ったことにはならない。しかし明らかに嘘と思える発言でも都合の良い内容であれば堂々と垂れ流して自らは責任逃れをしているのが現状だ。
 IPCCの第5次報告書が27日に発表されることは事前に告知されていたので私もその数日前から期待していた。結果は正直な話、期待外れだった。これまでの発表を殆んどそのまま踏襲するような内容だったからだ。
 大半のマスコミはその面白味の無い内容をそのまま報じていたが毎日新聞だけは違った。「猛暑、台風 脅威に IPCC報告書」という見出しで危機を煽った。
 IPCCの報告書についての記事に、無関係の学者の意見を入れることは何ら問題無い。情報を分かり易くするために必要なことだろう。しかしその発言をIPCCの報告であるかのような見出しにすることは偽装だ。IPCCが報告していないことを学者に発言させて、それが恰も報告書の内容であるかのような見出しにすることは報道倫理として許されないことだ。これは偽装記事だ。
 日本人のデマ好きは今に始まったことではないようだ。徒然草の第73段にはこんな文章がある。
 「世に語り伝ふる事、まことはあいなきにや、多くは皆虚言(そらごと)なり」(現代語訳:「情報は、事実のままではつまらないからか、デマばかりが広まっている。」) 
 日本人は700年前の昔から、事実よりも面白さを重宝していたようだ。こんな国民性だから世に虚言が蔓延るのだろうか。
 *毎日新聞の記事はコメント欄に記載。

混ぜる

2013-09-29 13:49:58 | Weblog
 絵具は混ぜるほど汚い色になる。このことを知らなかった小学生時代の私は、綺麗な色を作ろうとして絵具を混ぜて、一時期は汚い絵しか画けなかった。混ぜてはいけないことを知ってから初めてまともな絵が画けるようになった。
 飲食店では混ぜたがる人をしばしば見掛ける。牛丼に紅生姜と七味をたっぷりかけて混ぜている人やカレーライズを掻き回してグシャグシャにする人などだ。これらは見た目も汚いし、多分味も悪くなる。混ぜて均質化しないほうが美味しい。私は卵かけご飯でさえ混ぜ過ぎないほうが旨いと思っている。
 最近、弁当がbentoとして国際語になりつつあるそうだ。仕切りのある弁当は見た目も美しいし、それぞれの味を楽しめる。仕切りの無い器に入れられた料理は混ざってグシャグシャになる。
 人も「朱に交われば赤くなる」と言う。大抵の人は朱に交わることによってつまらない人になる。マスコミの受け売りばかりで自分で考えなくなるからだ。
 情報を混ぜることは犯罪的とさえ思える。毎日新聞の昨日(28日)の朝刊の見出しは「猛暑、台風 脅威に IPCC報告書」だったが、これなど悪い典型例だ。IPCCの報告書には「台風の脅威」など書かれていない。本文を読めばこれがIPCC報告書ではなく名古屋大学の教授の発言だと分かるが、これは明らかに誤解させることを狙った見出しだ。
 IPCC報告書は21世紀末に気温が0.3~4.8℃、海面水位が26~82㎝上昇するという内容で余りセンセーショナルではない。これでは面白くないと考えて名古屋大学の教授の話を混ぜたのだろうが、この見出しは明らかに危険を煽ろうとする魂胆が現れており、悪意すら感じる。情報は絶対に混ぜてはいけない。混ぜれば嘘になる。

山羊

2013-09-29 10:08:56 | Weblog
 インドで牛が尊ばれているのは殺生をしないからだ。牛は葉を食べても決して根を食べない。根さえ食べられなければ多くの植物は再生できる。だから神聖な動物とされている。
 一方、山羊は植物を根こそぎ食べてしまう。山羊が棲み付いた草原は荒野になり、山羊は食べ尽くした荒野を去って次の草原を滅ぼす。まるで敵を殲滅して行進する軍隊のようだ。山羊が立ち去った跡にはペンペン草さえ生えていない。山羊は生態系の破壊者だ。西洋の悪魔が山羊をイメージして描かれることが多いのはこんな事情からだろう。
 こんな困った動物の上手な使い方があることを最近知った。雑草の除去だ。空き地や種蒔き前の畑に山羊を入れれば雑草を根こそぎ駆除してくれる。植物のエネルギー価は低いので山羊は一日中殆んど休まずに食べ続ける。除草剤を使うよりも遥かに安全で安上がりだ。山羊の糞は肥料として使える。流通経路が曖昧な飼料で育った山羊とは違って100%天然の餌だから多分安全だろう。
 こんな有益な事業は本来、国や自治体が行うべきだろう。普段は遊休地で飼育しておいて、除草が必要な土地に有償で貸し出せば、餌代がタダでしかも安全な畜産業になる。
 麻薬犬は最新の検出機器よりも正確に麻薬所持者を嗅ぎ当てる。山羊は除草剤よりも遥かに安全に雑草を駆除する。科学に頼るよりも動物や植物の力を借りたほうが上手く行くケースは他にも沢山あるだろう。藻類を使ったバイオエネルギーはかなり有力視されているし、もしかしたら鯰を使った地震予知も可能かも知れない。

子孫

2013-09-29 09:42:04 | Weblog
 物体は時間の経過と共に劣化する。生物なら老化する。機械なら部品を取り替えれば劣化を妨げることができる。もし当初よりも良い部品に取り替えれば改良することさえ可能だ。
 無生物は最初の姿のままで劣化し続ける。生物は細胞を再生し続けて生きているのでその再生が完璧であれば若さを保てるが、再生する際にコピーミスが生じてこれが老化へと繋がる。コピーミスは偶然に起こることもあれば外因によることもある。放射線や紫外線や薬物などは遺伝子の一部、多分特定の部分を傷付けるだろう。
 有性生殖によって新しい生命が生まれるのは異系交配が行われるからだ。つまりオスとメスから提供された遺伝子が再結合されて傷んでいないほうの遺伝情報が使われる。オスの遺伝子の一部が傷んでいればメスの遺伝情報によって修復され、メスの遺伝子の傷んでいる部分はオスの遺伝情報が修復する。こうして真っさらな遺伝子を持った子供が生まれる。
 機械とは違って生物のためのスペアの部品は無い。両性から提供された遺伝子が相互のスペアとして機能する。つまり生物はスペアの遺伝子を持っていないから異性から得た遺伝情報がスペアとしての役割を果たすということだ。これは2台の中古自転車から良い部品を集めて、元の2台よりも良質な1台を作るようなものだ。
 ところが両者の遺伝子の同じ部分が傷んでいれば困ったことになる。より破損の少ないほうの遺伝情報を使わざるを得なくなる。つまり完全な修復には至らないということだ。こう考えると子孫のために配慮すべきことが2つあることに気付く。若い内に出産することと違った環境の人を選ぶということだ。
 歳を取ればその分、遺伝子の破損が進むだろうし、似た環境にいれば遺伝子の同じ場所が損傷している可能性が高い。同病相憐れんでの結婚は子孫のためには好ましくない。病気の原因が遺伝子の同じ場所の損傷が原因かも知れないし、同じ薬を使っていれば同じ遺伝情報が傷付けられている恐れもある。あるいは大量に紫外線を浴びるサーファー同士や放射線技師同士の結婚も危険性が高いだろう。 

JR北海道

2013-09-27 09:20:52 | Weblog
 JR北海道では事故や不祥事が相次いでいる。保守点検業務においては点検されても保守作業が行われないという信じられない状況になっていた。このことでマスコミはJR北海道を非難するし、私もこんな人命軽視の鉄道会社を容認する気にはなれないが、最も悪いのは分割民営化の枠組みであり、JR北海道はその犠牲者とさえ思える。
 JR北海道の経営環境はJR他社と比べて極端に悪い。寒冷地であるために雪害などによる維持費が嵩み、路線距離が長いのに沿線人口は少ない。こんな悪条件でまともな経営などできる訳が無い。二番目に条件の悪い東北地区はJR東北として独立せずに、最も経営条件の良い関東地区と一体化されてJR東日本になっている。JR北海道は分割時から既に見捨てられていたとしか思えない。
 JR北海道を民営化することなど無理なことは初めから分かっていた。他のJR各社のように赤字ローカル線を廃止すれば、北海道には札幌・函館間と札幌・千歳間以外の路線は殆んど残らないだろう。こんな将来性の乏しい企業に就職しようとする奇特な人は少ないから当然ながら人材難に陥ってそれが更に経営を悪化させる。悪循環だ。
 独立採算が不可能な事業を民営化するのがそもそも間違いであり、経営安定基金という名目での年間約300億円の補助金に頼っているから旧国鉄以来の「親方日の丸」意識から脱却できない。この際、JRグループの再編が必要なのではないだろうか。ドル箱の東海道新幹線を持ち他社と比べて圧倒的に有利な立場のJR東海との合併を私は提案する。他社が吸収合併しなければJR北海道は滅んで、北海道から電車が無くなるということにもなりかねない。
 

汚い物

2013-09-27 08:54:20 | Weblog
 性器について子供は親から「大切な物」と教えられる。しかし子供は成長過程で疑問を持たざるを得なくなる。周囲からは汚い物と見なされるからだ。性器を露出すれば同性からも異性からも、あるいは教師からも嫌がられる。このことは葛藤を招く。親から教えられた評価と周囲の評価が違う場合、どちらが正しいのかを知りたくなる。
 性器は自分の体の一部であるだけに肯定的評価を希望する。そして肯定的評価をしてくれる人を求める。肉体関係が過大評価をされるのはこんな事情に依る。それまで汚い物と酷評されていた性器がお互いにとっては大切な物になるからだ。肉体関係を持つ男女においてのみ性器は大切な物となり、それ以外の状況では汚い物であり続ける。
 どんな美男美女であろうとも性器と肛門は醜いし、女性性器以外は糞尿の排泄器でもある。その肛門でさえ性愛においては大切な物として扱われる。性愛においてのみ、人は自分の総てが肯定されると思い込む。排泄器に過ぎず、自分でさえ汚い物と信じていた肛門が肯定されることに人は大きな喜びを覚える。
 半沢直樹でなくても、人はやられたらやり返す。攻撃されたら反撃するように、全肯定をされたら全肯定によって報いようとする。だから性関係にある男女は自分達が特別な関係だと思い込む。
 しかしこれは幻想に過ぎない。性器と肛門を大切に扱い合うだけの関係だ。汚い物を大切に扱うからといってそれ以外をも大切に扱うという意味にはならない。それは人格や行動も大切に扱うという意味にはならない。あくまで性器と肛門を大切に扱うという関係に過ぎない。こうして性愛はお互いが特別な関係ではなくone of themに過ぎないことに気付き、その時点で全肯定ではなくなる。
 

厳罰主義

2013-09-25 10:20:09 | Weblog
 20日に中国で、例によって奇妙な記事が掲載された。IOC総会での滝川クリステルさんのプレゼンテーションに対する反論で「日本人が拾った財布を届けるのは容赦のない法律があるからだ」という内容だった。7日のプレゼンになぜ今頃、と不思議に思うが、これは薄熙来氏に対する半分でっち上げとも思える厳罰を正当化するためのものだろう。秩序を守るためには厳罰で対処するしか無いという昔ながらの法家そのままの発想だ。
 ところで我々日本人は本当に「容赦のない法律があるから」拾った財布を警察に届けるのだろうか。恥ずかしながら私は遺失物等横領罪の罰則を知らず、この記事で初めて1年以下の懲役または10万円以下の罰金であることを知った。これが「容赦のない法律」なのだろうか。中国こそ容赦のない法律だらけの国であり、毎年桁違いの数の死刑を執行している野蛮な国なのではないだろうか。
 罰則が10万円以下なのだから、10万円を拾ったなら多分ネコババしたほうが得だろう。面倒な手続きも要らないし、バレることなど殆んど無かろう。それでも大半のお金が警察に届けられる。
 これは日本人が優しいからだろう。落とした人が困っていることは誰にでも分かるだけに不正な収入を潔しとはしない。大体、被災者のために寄付をする人が、他人が落とした財布、言い換えれば被害者になった人の財布をネコババするものだろうか。
 こんな記事が掲載されるのは中国ではマナーやモラルが軽視されていることの表れだ。中華帝国以来の性悪説に基く厳罰主義と恐怖政治以外では秩序を守れないと政府もマスコミも信じているからだ。中国の文化レベルは呆れるほど低い。何と情けない非文明国であることか。権力者が悉く「徳」を欠いているから13億の人民がそれを模倣しているとは考えないのだろうか。

哲学と科学

2013-09-25 09:44:40 | Weblog
 哲学は科学と相性が良い。元々科学は哲学の一部だったからだ。アリストテレスの著書の半分くらいは今の分類なら博物学と言えるだろう。scienceという言葉が生まれたのは19世紀のことであり、それ以前のニュートンの物理学は自然哲学(nature philosophy)と呼ばれていた。哲学的思考の内、人間学が哲学として残り、自然学は科学として枝分かれしたが、どちらも根本にあるのは事実に対して謙虚であるということだ。
 哲学が科学と袂を別つことになったのは、科学が「再現可能」ということを重視し始めてからのことだ。確かに再現可能という理念は素晴らしく怪しげなものを情け容赦無く追放した。
 しかし再現可能という理念は諸刃の剣であり、再現不可能なものを科学から締め出すことになってしまった。再現可能であるためには原因と結果が一対一対応せねばならない。だから単純要因に分解できないものは、単純化できるものだけしか科学の対象とはならなくなった。心理学がその典型であり、元々複雑な要因によって動く人間心理を分解して単純化することなどできっこない。心理学は科学的であるために最も単純化し易い知覚や記憶に特化した実験心理学になり、学問としての魅力を失ってしまった。
 再現可能を原理とする限り、科学は複雑なものを扱い得ない。気候変動や地殻変動は複雑な要因によって起こるので科学の対象たり得ない。複雑なものに言及する科学は殆んどオカルトに近い。周期性などによっていかにも科学であるかのように装っているが全然科学的ではない。科学は未だ複雑な事象を解明するレベルに達してはいない。

法律

2013-09-23 09:15:36 | Weblog
 信号機の無い道路を想像できるだろうか。もし日本から信号機が無くなったら事故は頻発し道路は大渋滞になるだろう。信号機というルールがありそれを皆が守るからこそ安全に便利に道路を使用できる。このようにルールが市民の役に立つ例は食品衛生法や建築基準法など少なくない。西洋でもイギリスの大憲章など多くの法律がボトムアップで作られている。
 中国では事情が違う。中国の法律は総て権力者が押し付けたものだ。従って権力者に都合が良いように定められている。司馬遷の「史記」に拠れば、秦を滅ぼした劉邦は法を僅か3章にすると布告して大歓迎されたそうだ。それほど中国の法は人民を弾圧する強権的なものだ。その後も中華帝国の法は権力者が押し付けるものであり続けた。
 そのために中国の人民の法律に対する意識は近代国家とは全然違う。違法は反権力を意味し反人民という意味を持たない。
 中国人が法の盲点を探したがるのはこんな歴史があるからだろう。これでは遵法精神など育つ筈が無い。法律は確かに権力者が有利になるように作られてはいるが、その反面、市民の安全守るという役割も併せ持っている。このことが理解されない限り、中国は法治国家ではなく人治国家であり続けるだろう。

5感

2013-09-23 08:55:39 | Weblog
 意外なことに嗅覚以外の人類の知覚は他の動物よりも優れている。
 人類の視覚は、猛禽類ほど遠目が利く訳ではないし、赤外線も紫外線も知覚できない。それでも色を識別する能力はダントツだろう。
 聴覚は、コウモリとは違って超音波を知覚できないが、微妙な音の違いを聞き分けられるから音声によるコミュニケーションが可能になっている。
 味覚は異常なまでに発達している。私は食べたことが無いがドッグフードやキャットフードは不味いらしいが犬も猫も喜んで食べているし好き嫌いも少ないようだ。
 触覚は間違いなく動物界で最も敏感だ。こんな敏感な動物は自然界では生き延びられない。触覚が敏感だから痛みにも敏感だ。軽い痛みを感じることは必要だが、強い痛みで動けなくなったり気を失ったりすればそれは死に直結する。
 人類の嗅覚は犬の1/1000と言われている。麻薬犬という実例があるように、科学の助けを借りても犬の嗅覚に敵わない。
 嗅覚は個人差が大きいようで、昔から私は香水の臭さに閉口していたものだが、最近では柔軟剤の匂いが問題になっている。一般に匂いに鈍感な人ほどきつい匂いを好む傾向があり、鈍感な人に迎合した商品が社会問題化した。これは騒音被害と類似した問題だ。
 人類はなぜ嗅覚だけが退化したのだろうか。全くの憶測だが、意思疎通と関係があるように思える。嗅覚以外の知覚は総てコミュニケーションに役立っている。人類は意思の伝達を促進する知覚を発達させて、意思の伝達に役立たない嗅覚を衰えさせたものと思える。
 嗅覚以外の知覚に快感を与える行為は大昔から職業として成立しているが、調香師の歴史はせいぜい数百年だ。日本の香や匂い袋のほうが歴史があるように思える。もしかしたら日本文化は世界で最も香りを重視していたかも知れない。香道という文化は多分外国には無いだろうし、香木は非常に珍重されていた。とは言えこれらは微妙な香りであり、化学物質のきつい匂いではない。微妙な香りを好む人はきつい匂いを嫌うものだ。