俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

思考停止

2015-07-31 10:14:53 | Weblog
 トヨタには独特の企業文化があり、書物を通してではあるが私も多く教えられた。その中でも一番好きなのが「言われたとおりにやるな」という言葉であり、私はこの言葉に感動して職場のスローガンとして勝手に使った。
 一般の企業では「言われたとおりにやれ」が常識だ。上司の指示を噛み砕いた上でそれぞれの職場に相応しい目標を定めるのが中間管理職の仕事だろう。上司からの指示が目標でありその目標を達成するための手段が部下にとっての目標になる。
 仮にトップの指示が収益力の改善であれば人事部は人件費の削減を目標にして人減らしが肯定される。しかし人材を失えば収益力は低下する。私は人材とは人財であり、経費ではなく資産と考える。安易な目標設定は却って収益力を悪化させる。
 あるいはどこかの衣料品店が「テーマカラーは白」と打ち出せばどの売場にも白い服がベタベタ並ぶことになる。これでは思考停止だ。全然面白くない。私なら白を重点的に並べながら、赤や青を点在させることによって白を引き立てようとするだろう。つまり会社として白をテーマにしても白一辺倒にはせず何らかの工夫をして白を際立たせようと考える。
 言われたとおりにやることは思考停止だ。責任は総て上に押し付けた安易な仕事だ。何の創意工夫も無い。
 指示命令が守られない原因の90%は上司にあるだろう。東芝のような粉飾決算の命令は論外だが、誤った指示や誤解される命令は決して少なくない。趣旨をとちゃんと理解させていれば、優秀な部下が指示に更に一工夫を加える。
 「言われたとおりにやるな」とは「言われた以上のことをやれ」という意味だと私は理解している。それぞれの職場にはそれぞれの特徴があり従業員も取引先もそれぞれ異なる。現場ではそれらを特長として生かさねばならない。抽象的な指示を特殊的・具体的な形で表すことが現場の役割だろう。
 管理主義的な人は言ったとおりにやらせようとする。自分の狭い知識の範囲で完結させようとする。これでは良い仕事はできないし部下も育たない。部下に自分よりも優れているところがあればそれを自覚して、任せるべきところは任せたほうが良かろう。指示から多少はみ出したほうが良い仕事になるだろう。
 

栄養

2015-07-31 09:38:35 | Weblog
 医療に可能なことは時間稼ぎに過ぎない。目に見えるだけに傷の治療が一番分かり易い。大きな傷なら縫合する。医療ができるのはこれだけだ。傷口は自然治癒力によって接合される。傷が接合した後で抜糸できるのも自然治癒力があるからだ。抜糸でできた穴は自然治癒力によって埋められる。再生力があるからこそ傷口は治癒され、医療の役割はあくまで一時凌ぎだ。
 病気から快癒できるのも自然治癒力に依存する。医療にできることは殺菌だけだ。殺菌さえすればそれ以上悪化しないから、損傷を受けた体が自然治癒力によって快復する。
 ウィルスであれば殺せないから打つ手が無い。エボラ出血熱に対して医療ができることは点滴だけだ。点滴によって体力の回復を図り、免疫力がウィルスを退治するのを待つしか無い。
 確実に治療できるのは欠乏症ぐらいだろう。ビタミンなどの欠乏症であればビタミン剤で治療できる。しかしこの場合、正しく原因を特定せねばならない。対症療法や間違った栄養補給では治療できない。これは医学と言うよりも栄養学の領域だ。本来ならサプリメントよりも食品によって補給すべきところだ。しかし医師は栄養学の知識が乏しいからビタミン剤やサプリメントを処方する。これが過剰摂取による障害を招くことがある。ビタミンAやDなどは過剰摂取すれば有害物になる。ウコンのサプリメントでは死亡例まである。やはり日常的な食事で多くの食材から微量ずつ摂取したほうが安全だろう。
 実際には未知の栄養素は沢山あるだろう。蛋白質・脂肪・炭水化物・ビタミン・ミネラルの5大栄養素と食物繊維だけで充分とは思えない。納豆にはナットウキナーゼが含まれると言われている。これは他の食品には無い栄養素であり納豆菌が作る。同じように発酵食品にはそれぞれ独特の栄養素があっても不思議ではなかろうし、植物ではないキノコ類の栄養価は大半が謎のままだ。
 欠乏症の治療薬は通常の薬とは全く役割が異なる。欠乏症の患者は本来必要な栄養素が足りないために発病する。水によって渇きが癒されるように、足りない物を補えば正常状態に戻る。一般の薬は栄養素ではない。毒に近い。毒を以って毒を制しているだけだ。
 栄養素の補給によって劇的に回復することを経験すれば薬信仰に陥り易いが、栄養と毒を混同すべきではない。体に異常反応を起こさせる類いの薬と、体を正常な状態に戻す栄養素はその機能が全く異なる。

エスカレータ

2015-07-28 10:20:35 | Weblog
 JRなどがエスカレータ上を歩くなと呼び掛けているが、これは責任逃れのための卑劣なキャンペーンだと思う。エスカレータでの事故であれば管理責任を問われるが、責任を問われない階段であれば幾ら事故が起こっても構わないという無責任体質丸出しの発想だ。
 様々な施設には様々な目的を持った人が集まる。分かり易いのはプールだ。泳ぎたい人と水遊びをしたい人が集まり、後者のほうが圧倒的に多い。だからどこのプールも水遊び場にされてしまう。かつて扇町にあった「大阪プール」は水深1.5mの「水遊びできないプール」だった。だから京阪神全域から水泳好きが集まった。
 駅に集まる人も様々だ。乱暴な分け方だが、急ぐ人と急がない人がいる。急ぐ人にとってもエスカレータは便利だ。エスカレータは人が歩く速度と同程度に設定されているからこの上を歩けば通常の2倍の速度になる。
 エスカレータの移送効率は片側あけによって1.5倍になる。エスカレータ上を歩けば計算上2倍の人が通れるからだ。もしエスカレータ上を歩かせないのであれば、事業者は現在の1.5倍のエスカレータを設置すべきだろう。そうしなければ駅構内での現状の移送効率を維持できない。
 もしエスカレータ上を歩く人が階段に追いやられた場合、トータルでの事故数は数倍になるだろう。エスカレータ上を歩けば安全に2倍の早さで進めるが、階段で2倍の早さを得るためには走らねばならない。階段を走ることがどれほど危険かは小学生でも知っている。エスカレータ上を歩くことと階段を走ることの危険性を比較して基準を定めるべきだろう。最優先して考えるべきことはトータルでの安全性であり、エスカレータでの事故さえ減らせば良いという問題ではない。階段を走らせようとするのは階段で幾ら事故が起こっても自己責任とされて駅は責任を問われないからだ。
 大阪環状線などのように便数が多ければ1本乗り損ねても大して困らない。しかし便数が少ない路線で載り損ねたら長時間待たされる。だから急ぐ人に対する配慮は欠かせない。
 エスカレータでの事故を馬鹿騒ぎするマスコミにも責任の一端がある。階段での事故であれば殆んど無視するのにエスカレータでの事故であれば大袈裟に騒ぎ立てる。このことと並んで子供の自殺についての報道にも義憤を感じる。欧米では子供の自殺については極力報道しないよう努めている。子供は感化され易いからだ。マスコミが騒げば騒ぐほど悲劇のヒーローになろうとする子供が増える。人命よりも儲けを優先するマスコミには良心の欠片さえ無い。
 現実として駅構内では急ぐ人と急がない人が混在する。こんな時にどちらかだけの肩を持つのは片手落ちだ。片側あけは両者の共存を図る優れたルールだと思う。だからこそ定着した。横一列になって道を塞いで歩いてはいけないように、狭いエスカレータで二人横並びで立ち止まるべきではなかろう。急ぐ人に対する配慮があるべきだ。

醜い性器(5)

2015-07-28 09:35:44 | Weblog
 ペニスは醜いがそれ以上に醜いのはだらしなくぶら下がっている皺だらけの睾丸だ。ペニスが勃起しても睾丸は力無く垂れ下がって何とも情けない格好だ。睾丸は機能性に特化したからこそこれほど醜い形態になったのだろう。睾丸を美しい物として描くことはどんな美術家にもできまい。
 昨今のように猛暑が続くと嫌になるが元々、動物は暖かさを好む。変温動物は低温では動けなくなってしまう。恒温動物は自ら熱を作り出すことによって低温でも動ける体に進化した。
 漢方医学では温めることを重視して冷やすことを嫌う。そのせいか中国人は熱い食べ物を好み、冷たい食べ物や飲み物を嫌う。冷たい懐石料理を出されれば怒り、熱いラーメンを喜ぶ。ほんの数年前まではビールでさえ碌に冷やさなかった。
 日本人はなぜか暑さを嫌う。吉田兼好の「徒然草」には「家の作りやうは、夏をむべとすべし。冬はいかなる所にも住まる。暑き比(ころ)わろき住居は堪へ難き事なり。(第55段)」と書かれている。日中の温度差を感じずにはいられない。このように日本人は昔から涼を好む。氷室を作ったりアイスコーヒーも発明した。
 睾丸も暑さを嫌う。精子を作るためには哺乳類の体温以下のほうが好都合だ。これは睾丸の機能が変温動物の時代からそのまま受け継がれたからだ。進化の方向性は2つあり得た。高温でも充分な精子が作れるように睾丸の機能を変えるか、睾丸の周囲を低温にするか、だ。哺乳類が選んだのは、本来内臓である睾丸を体外に放り出すことだった。だからこんな醜い外見になってしまった。
 女性器ではこんな不都合は生じなかった。なぜか知らないが、卵子を作るためには高温でも構わなかったようだ。人類独自の進化は性器の位置の変更だ。両足の間にある。男性器は交合し易い位置にあるのに女性器は最も交合しにくい位置にある。これはメスがオスを選別するための進化だろう。殆んど無数回交尾できるオスとは違って限られた回数しか出産できないメスにとって、できるだけ良いオスを選ぶことは子孫繁栄のために欠かせない。だから非力なメスでもオスを拒絶できるように、最も力の強い足の間に性器を据えてオスを選別できるようにしたのだろう。

怪物

2015-07-27 10:28:38 | Weblog
 「怪物」と呼ばれる1年生スラッガー清宮幸太郎選手が所属する早稲田実業が甲子園出場を決めた。0ー5の劣勢から、8回に一挙に8点を奪うという派手な逆転勝ちだった。
 ところで「平成の怪物」と呼ばれた松坂大輔投手は相変わらずファーム暮らしで、3年12億円と言われる大型契約をしたソフトバンクにとってはとんだ高い買物になったようだ。松坂投手が平成の怪物と呼ばれたのは「昭和の怪物」がいたからだ。そんな元祖・怪物とは江川卓投手だ。実は彼が怪物と呼ばれたのは単に力量がズバ抜けていたからではなかった。藤子不二雄氏の漫画「怪物くん」の主人公と耳がよく似ていることからクラスメイトが付けたあだ名とのことだ。このことを知れば江川氏が妙に可愛く感じられる。
 江川氏はドラフト制度の「空白の一日」という盲点を突いて不正に入団しようとしたせいでダーティなイメージを持たれ勝ちだが実はフェアな投手だった。プロ野球の9年間での与死球はたった23回。頭部を掠めるような際どい球は見た覚えが無い。際どい球を「投げなかった」のか「投げられなかった」のかは定かではないが、高校1年の時に受けた死球がトラウマになっていることは間違いなかろう。秋の関東大会の対前橋工業戦で頭部に死球を受けて入院したという苦い経験を持つだけに死球の怖さを人一倍知っていたのだろう。
 ベースに被さって構える打者にインハイの球を投げることは許されている。仮に当たってもそれがストライクゾーンであればデッドボールにはならずストライクになる。ケンカ投法とも評された東尾修投手であれば迷わずにインハイに投げた。ルール上、当たるほうが悪いからだ。インハイに剛球を投げれば打者に恐怖心を植え付けて投手が有利になる。しかし江川氏はそれをしなかった。勝負に徹しない姿から「手抜き」とまで言われたがこれは氏の優しさの表れだろう。
 江川氏のイメージを悪化させたプレイがある。ピッチャーライナーから逃げたからだ。あの大きな体で形振り構わず逃げる姿は滑稽だった。9人目の野手であることを放棄したこのプレイは散々非難された。しかしその後、何人かの投手がピッチャーライナーを捕ろうとして怪我をしたことを考えるなら、これは決して間違った対応ではあるまい。硬球の怖さを誰よりも知っているから迷わずに逃げたのであり、格好悪いが1つの勇気ある行動とも言えるだろう。

Yの悲劇(3)

2015-07-27 09:51:03 | Weblog
 無性生殖をする生物は自分のクローンを作る。放射線などの影響で遺伝子が傷んでいれば変種のクローンが生まれる。これは殆んどが環境に不適応であるために淘汰されてしまう。偶然、環境に適応した個体であれば新種として増殖するがそんな僥倖は滅多に起こらない。変異体の殆んどが淘汰される運命にある。
 有性生殖をする生物の場合、子供はオス・メス双方から1つずつ異なった遺伝子を受け継ぐ。常染色体の基本構造はお互いに等しいからどちらかにエラーがあれば対応する他方の染色体によって修復される。一対の染色体の内、顕現するのは片方の染色体の性質だけであり他方は修復に使われる。有性生殖をする生物は2種類の遺伝子を受け継ぐことによって遺伝子を修復し続けている。オスとメスが存在して双方の遺伝子が次世代の個体を作るから、過大な変異は抑えられ、適度な個体差は温存される。当たり前のことのようだが、オスとメスの存在は極めて優れたシステムだ。だから総ての高等生物は有性生殖によって増殖する。
 人類は22対の常染色体と一対の性染色体を持つ。メスの性染色体はⅩだけなので23対の染色体が螺旋構造を作る。問題はオスだ。ホモである常染色体やXXであるメスの性染色体は修復され得るが、オスの性染色体はXYの2種類でありヘテロだ。だからオスにおいては性染色体が修復されない。X染色体はXXであるメスの個体において修復されるが、YYという個体は存在しないからY染色体は修復される機会が無い。修復されなければ個体の変異がそのまま保存されるし、コピーをコピーしていれば徐々に不鮮明になるように劣化し続ける。
 人類のY染色体は既にかなり退化しているようだ。Y染色体が持つ遺伝情報量はX染色体の1/10以下と言われている。このままでは将来、オスが滅ぶ。オスが滅べば人類も滅ぶ。滅びないまでもオスが劣化し続けることは間違いなかろう。取り返しが付かなくなるまでに人類は遺伝子医療によって劣化を止めようとするだろう。その時重要なのは、余り退化していないY染色体を見つけることだろう。多分、退化のレベルは民族や個人ごとに異なっているだろうから、元々の機能を多く温存しているY染色体を使って遺伝子治療を行うことになるだろう。人類に対する遺伝子操作は危険な科学技術ではあるが、自然任せでは行われていないY染色体の修復のためと割り切る必要があるだろう。

借金

2015-07-25 10:29:03 | Weblog
 私は借金をしたことが無いので借金には詳しくない。もしクレジットカードも借金と見なすなら毎月借金をしていることになるが、口座残高以上の買い物をしたことは無いのだから借金ではなかろう。
 借金を返すために借金をすることによって借金の泥沼にはまる。サラ金が街に溢れ返っていた時代、徐々に金利の高い借金に頼るようになってますます苦しくなったという話を聞いたことがある。
 借金を返すために借金をしていれば感覚が麻痺するらしい。お金が天から降って来るように感じるらしい。ギリシャがそんな状況だ。EUやIMFあるいは他国から借金をして借金返済に充てている。これではいつまで経っても返済を終えられない。
 かつてのギリシャはもっと悲惨だった。他国から借金をしてそれを返済する時には当時の通貨のドラクマの価値が下落していてかなり高い金利負担になっていた。国家財政を粉飾してまでユーロに加入したのはこんな苦い経験に基づくからだろう。
 不快感を薬で抑えることはこれと似ている。鎮痛剤で痛みが薄らげばそれで安心して、もし再発しても鎮痛剤を飲めば良いと考える。これは根本的に間違っている。鎮痛剤は傷みを感じにくくするだけであって治療効果は全く無い。治療をせずに不快感だけを抑えることに終始していれば病気は更に進行する。
 生活習慣病はその名のとおり、生活習慣を改めなければ治らない病気だ。それは薬では治らない。運動や食事制限よりも楽な薬に頼ることは借金を重ねる心理に似ている。根本的な対策ではなく安易なその場凌ぎだ。
 健康のためには栄養・休養・適度な運動が必要だろう。生活習慣病の多くは生活が怠惰か過酷かのどちらかが原因だろう。生活習慣を改めずに薬に頼ることは借金を返すために借金をすることに似ている。借金を返済するために最優先すべきことは基本財政の改善だ。病気を治す、あるいは病気に罹らないためには普段の生活こそ大切だ。薬や借金はあくまでカンフル剤であって、こんなものに頼るべきではなかろう。頼る患者も頼らせる医師も悪い。

メタ認知

2015-07-25 09:45:54 | Weblog
 メタ認知とは心理学用語で、自分自身を認知すること、あるいは認知を認知することを言う。
 酔うと気が大きくなる人がいる。自分は常に正しく自分は万能だとさえ思い込む。こんな人に「酔っているのだからそれ以上はやめておけ」と注意しても聞く耳を持たない。
 メタ認知能力を欠いた人が飲酒運転事故を起こす。彼の主観世界はこんなものとして把握されているだろう。
 ヤケに無謀運転や信号無視が多い。こちらが抜群のドライブテクニックで躱しているが、ジグザグ走行をする車や突然飛び出す歩行者はケシカラン。
 彼の主観にはこう映る。しかし実際にジグザグ運転や信号無視をしているのは彼だ。ハンドルを正常に操作できないから車は真っ直ぐに進めず、注意力が衰えているから信号にも歩行者にも気付かない。歪んだ主観にとっては自分だけが正常で他者が異常と映る。
 喫煙者は喫煙によって頭が覚醒すると主張する。これも飲酒運転と似た錯覚かも知れない。ニコチンとCO2によって脳の機能が低下するから夜郎自大になっているだけなのかも知れない。
 動物や子供はメタ認知能力を欠いているのだからこれは言語や共感力と同様、人間のみが後天的に獲得できる能力だろう。この能力が不充分であれば自信過剰や悲観主義に陥る。何でもできる人がいないのと同様、何もできない人などいない。そんな極論に走る人の最大の欠点はメタ認知力の欠如だろう。
 ギリシャのアポロンの神殿には「汝自身を知れ」と掲げられていたと伝えられているが、メタ認知とは自分を認知することだから自分対自分という構図になる。それは現在の自分対過去の自分であったり、欲望を満たしたい自分対モラルを守りたい自分であったり様々だが、基本的に自分対自分だ。メタ認知があるからこそ自分を社会内で正しく位置付けることができる。
 かつて福田元首相は退陣に当たって「私は自分を客観的に見ることができるんです。」と語った。しかしその後がいけない。「あなたとは違うんです。」と言ってしまった。
 メタ認知力を欠いた人が描く構図は自分対他者だ。自分に有利なものは善であり不利なものは悪だ。こんな人が社会に対する復讐という理屈を使って通り魔事件を起こす。自分対自分という構図が無いから、現在の自分対他者という構図になり他者を無差別に攻撃する。
 こんな意見は少数派だろうが、初等教育で最も大切なのはメタ認知能力の育成ではないだろうか。発達障害という精神病質があるが、これは正しくメタ認知力の欠如だろう。

着色料

2015-07-23 10:21:56 | Weblog
 私は、合成保存料はあっても良い、それどころか、あったほうが良いと考えている。保存料の危険性と食中毒の可能性を秤に掛けて考えれば、保存料は食品の安全性を高めていると言えるだろう。それだけではない。保存可能期間が長くなることによって価格が下がり家庭での長期保存も可能になるのだから経済合理性もある。保存料を使わない食品は使い勝手が悪い。店から持ち帰るためには保冷剤が必要であり、その日の内に食べ切らねばならない。
 逆に全く必要性を感じないのは着色料だ。多分、大した毒性が無いから広く使われているのだろうが、タラコをより紅く、沢庵をより黄色く見せることなど必要だろうか。これは消費者を欺くための添加物に過ぎない。新鮮で高品質であるように見せるために使われているのだから品質偽装とさえ言えるだろう。他社が使っているから競争上、使わざるを得ないのであれば、業界で申し合わせて自粛すれば済むことだ。
 確かに食物には見た目の良さも必要だ。例えばフィリピンの料理は見た目が悪く美味しそうには見えない。たとえ味は良くてもこれでは駄目だ。その点、和食やフランス料理は見た目にまで配慮されている。それでも着色料に頼るべきではなかろう。
 薬がカラフルなのも着色料を使っているからだ。これは個々の薬を識別し易くするために様々な色に染められているのだが、こんなことが必要だろうか。余りにも綺麗だから子供がお菓子と間違えて食べてしまうのではないだろうか。薬が裸で出回ることは無いのだから容器やパッケージで区別できれば充分だろう。
 市販の薬は様々な劇物がブレンドされている。特に総合感冒薬は訳が分からない。解熱剤、咳止め、鼻炎緩和剤etc.etc.。これらに加えてそれぞれの副作用抑止剤が混ぜ合わせられている。これに更に着色料が加わる。これほど様々な化合物が同時に摂取されたらどんな化学反応が起こるか、どんなアレルギー反応が起こるかなど誰にも分からない。危険性の高い薬物を更に危険にする必要は無かろう。どうせ毒性が高いのだから多少高まっても構わないとは誰も考えないだろう。毒だからこそ少しでも毒性を下げるべく最大限努力すべきだろう。

多数者

2015-07-23 09:48:34 | Weblog
 鳥取・島根・高知・徳島から選出された自民党の参議院議員などが大反対する中、自民党は合区を含めた10増10減案を正式に決定した。しかしこの案での最大格差は2.97倍であり、これでは選挙後に違憲とされる恐れがある。合区を認めるなら格差が1.95倍に収まる民主・公明の12増12減案のほうが優れている。自分の選挙区が無くなる議員は激しく抵抗して造反劇もありそうな気配だが、議席増となる地域の声は殆んど聞こえない。これはメリットとデメリットが非対称だからだ。
 議席増になる地域の議員にも当選し易くなるというメリットがある。しかし最も多くの利益を得るのは議席増によって新たに当選する議員だ。しかし彼らの声は声にならない。現時点では議員ではないからだ。彼らは未来の議員であり現在においては存在しない議員だ。
 既得権益を持つ人はそれを失うまいとする。しかしそれと関係の無い人はそんな権益があることさえ知らない。だから権益のある人の声ばかりが大きくなる。
 100年後に大災害を招く施設であれば災害を蒙るのは次々世代の人々だ。現在の世代にとってはメリットだけがあってデメリットは無い。だからそんな施設が現在の世代の多数決に基づいて作られる。施設だけではなく制度もそうだ。借金のツケを次世代に回せば被害者は次世代であって現世代ではない。だから税金は徐々に重くなる。消費税は未来永劫増税され続けるだろう。次世代もまたその次の世代にツケを回そうとするだろうから、こんなことをしていたら生活は苦しくなる一方だ。
 親の借金であれば相続を放棄すれば免れることができるが、国の借金は無条件に継承される。こんな不公正なやり方が認められるべきではない。
 民主主義が「最大多数の最大幸福」を目指すなら、未来の人々を含めた最大多数を考慮すべきだと私は常々考えている。だから私は多数決に反対する。現在の多数者は未来も含めた多数者ではない。それどころか圧倒的多数者となる筈の未来の人々を犠牲にしても構わないと考える刹那的民主主義者が多数を占める。
 戦後の日本は公害を垂れ流していた。それを否定できたのは当時の人々が被害者になっていたからだ。四日市喘息などの公害病が現実になっていたからだ。もし被害が現実化していなければ今の中国と同様に対策を先送りしていただろう。100年後の人々が蒙る害については今尚充分に考慮されていない。私は未来の人々まで含めた多数決があるべきだと考える。