俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

資源ごみ

2008-02-26 20:05:07 | Weblog
 和歌山県有田川町で資源ごみの収集運搬・処理業務を初めて競争入札したところ「マイナス12万円」で応札した業者がいたそうだ。他にも「1円」という応札もあったらしい。町の予定価格は1,078万円だったそうだ。(新聞記事はコメント欄に掲載)
 お役所のやり方は「儲かる筈」のことでもわざわざ下手にやって金を使う。資源ごみが儲かることはゴミの日のアルミ缶の奪い合いぶりを見れば誰にでも分かることだ。置いたら10分以内にアルミ缶だけが無くなる。噂では1個3円ぐらいで売れるそうだ。
 これまでは随意契約で毎年数千万円払って委託していたそうだが、こんな儲かるものを金を払って回収してもらうなんて馬鹿げている。このことに気付かない無神経さに呆れる。

ロシア人

2008-02-26 19:56:51 | Weblog
 日本人はロシアという国が嫌いだ。「嫌いな国」についてアンケートをすると大抵アメリカ、北朝鮮と並んでワースト3を占める。(今なら中国という答も多かろう。)アメリカは一方で「好きな国」のアンケートでも殆どでトップを占めているが、ロシアと北朝鮮は「好きな国」では決してランクインしない「大嫌いな国」だ。
 三国干渉や日露戦争以来、シベリア抑留や北方領土などロクな話が無い。但し国としてのロシアと民衆としてのロシア人は区別する必要がある。ドストエフスキーやトルストイが描いたロシアの農民は善良かつ素朴でまるで「古き良き日本のお百姓さん」のようだ。
 ロシア人が善良であることが最近証明されたと思っている。ロシアで振り込め詐欺が多発して被害者が100人以上出ているそうだ。振り込め詐欺に引っかかるほどお人好しな民衆は日本人以外ではロシア人とフィリピン人ぐらいではないだろうか。少なくともドイツ人やフランス人には振り込め詐欺は通用しないだろう。

中国産とアメリカ産

2008-02-26 19:46:01 | Weblog
 厚生労働省の「平成18年輸入食品監視統計」に基づく国別の検疫違反率ランキングは次のとおり。
①エクアドル3.91%②ベトナム0.35%③台湾0.17%④アメリカ0.12%⑤インドネシア0.10% ⑥タイ0.10%⑦中国0.09%⑧フィリピン0.09%⑨オランダ0.07%⑩イタリア0.04%
 アメリカのほうが中国より検疫違反率が高い。多分しばしば問題になる柑橘類のポストハーベストが違反率を高めていると思うが、なぜアメリカやエクアドルやベトナムは余り問題にされず中国ばかりが槍玉に挙げられるのだろうか。少なくともサッカーでのラフプレイとは切り離して考える必要がある。
 特にアメリカは輸入食品の約4割を占め、約15%を占める中国を遥かに凌ぐ最大の輸入元だけにこの違反率の高さは大問題だ。
 イタリアの違反率は低いが品目が違うから比較しづらい。野菜や果物と比べてワインやパスタやオリーブオイルなどの加工品が汚染されている可能性は随分低いから、このデータだけでは「ヨーロッパ産の食品なら安全」とは言えないだろう。

時効

2008-02-26 19:34:14 | Weblog
 三浦和義容疑者の逮捕のニュースを聞いて、アメリカの一部の州では凶悪犯罪には時効が適用されないということを初めて知った。
 「時効」という概念は日常会話でも「あの件ならもう時効だよ」というように使うほど常識になっている。しかし考えてみれば変な制度だ。民事ならともかくなぜ刑事事件に時効があるのか不可解な話だ。アメリカ同様、凶悪犯罪を時効の対象から外しても良いだろう。
 今年の1月31日に、殺人の時効を認めない控訴審判決が出た。
 1978年に足立区の小学校教諭が殺された事件で同じ小学校の元警備員が時効成立後の2004年に自主した。時効が成立しているので刑事裁判は開かれず民事裁判となった。1審の東京地裁では民法の除斥期間を適用したうえで、「遺体を隠し続けたこと」を時効後に犯した犯罪と見なして330万円の慰謝料の支払いを命じた。しかし今年1月の東京高裁では除斥期間の適用を認めず4,200万円の賠償を命じた。
 (もとの記事はコメント欄に掲載)
 私は心情的には2審を支持するが法的には1審が正しいと思う。現在の日本の法律では最長25年での時効が認められており、法律を曲解した判断は許されない。
 法律が誤っているなら裁判官が勝手な判断をして是正するのではなく、ちゃんと法を改正するべきだろう。

分かる

2008-02-26 19:19:37 | Weblog
 分かるとは「分ける」ことだという話を聞いたことがある。新しいものを既存の知識の中で分類することが「分かる」ということだ。
 人間は未知の物を恐れる。これまでに知っている物には安心する。新しい経験を既知のものに分類して安心感を得ようとする。人間は新しいものが嫌いだ。
 但し実際はすべてが新しいものだ。木々は1本ずつ違うし、虫も獣も1匹ごとに違う。そんな不安定な状態から脱するために人は総てを既存の知識の中で分類しようとする。新しいものを古い知識の中で位置づけることが「分かる」ということだ。
 パンダが熊の1種だと知っただけでパンダのことが分かったつもりに成る人がいる。これは単に分類しただけであってパンダのことを何も分かってなどいない。分類しただけで分かったつもりになる人は思考がそこで止まってしまい、それ以上知的に成長することは不可能だ。
 「分からない」という感覚を持つほうが「分かったつもりになる」よりずっと大切だ。

本能が壊れた動物

2008-02-26 19:09:24 | Weblog
 人間は本能が壊れた動物なので、自然状態に放置すれば人間どころかまともな動物にさえ成れない。乳児は誰かが食物を与えなければ殆どが、いや多分全員が餓死するだろう。それほど人間は不完全な状態で生まれる。食物だけが与えられて教育は施されなければ、四つ足で這い回る食欲と性欲しか無い豚のような動物に育つだろう。
 映画の「猿の惑星」の人間は2本足で群れていたが、第一世代の野生の人間は四つ足で群を成すだろう。但し本能が壊れているので猿ほど文化的な集団には成らず、群れていながら自分勝手な烏合の衆に成るだろう。文化を失った人間は猿以下の動物にしか成れない。何世代か掛かってやっと猿に近い文化レベルを獲得できるだろう。
 以上から人間を劣った動物と決め付けるつもりは全く無い。本能が壊れているということは本能から自由であることを意味する。本能の定めるとおりにしか動けず「学習する」という能力を持たない昆虫とは逆に、人間は本能に拘束されずに自分の意志を持つことができる。これこそが人間の偉大さだ。
 言葉を操る能力も他者を愛する能力も高い知能も人間には「可能性」として与えられており、人間のみがこの能力を発揮することができる。但しあくまで可能性として与えられているのだから、それぞれの文化に基づいて正しく育成されなければ人間には成れない。狼に育てられれば狼少年になってしまう。猿に育てられたら猿少年に成る、決してターザンには成れない。

薬のリスク

2008-02-20 19:43:18 | Weblog
 薬はもともとは毒薬だ。少量で体に顕著な影響を及ぼす危険物だ。最も身近にある毒物だ。例えば血圧降下剤を高血圧症ではなく低血圧症の人に投与すれば危険な状態を招く。残留農薬や食品添加物より遥かに危険だ。有害かつ有益で、有益性のほうが大きいものが薬として認められているにすぎない。「毒にも薬にもならない薬」だけが絶対安全な薬(?)だろう。
 薬の効果は「毒を以って毒を制する」と考えるべきなのだが、毒という意識が希薄だから薬好きの人も現れる。
 比較的毒性の低い胃腸薬でさえ困ったことを引き起こす。体調を崩してある特定の物質の分泌量が減った時にその物質を胃腸薬として飲めば体調は良くなる。しかしその薬を長期間飲み続けると胃腸がその物質を分泌することをやめてしまう。使わない筋肉が衰えるのと同じ現象が胃腸にも起こる。その結果その薬を一生飲み続けねばならなくなってしまう。
 私は薬は極力飲まない。風邪をひいても寝たら治る。出勤しなければならない場合だけ不本意ながら市販の風邪薬を飲む。たまにしか薬を飲まないからよく効く。薬は習慣性があるので頻繁に飲んでいると段々と強い(危険な)薬でないと利かなくなるそうだ。

諦めが肝心

2008-02-20 19:29:18 | Weblog
 夢は叶わないのが普通だ。叶う程度の夢しか持っていないならそれこそ「夢が無い」状態だ。
 夢を追い続けると一生を台無しにしてしまう。何年も浪人をして大学受験を続けたり、司法試験に落ち続けたり、コンテストやオーディションで落選し続けることになってしまう。
 失敗したら進路を変えれば良い。「夢から醒める」ことが必要だ。
 「頑張れば夢は叶う」などという考え方はたまたま成功した人の自慢話でしかない。「自分は頑張ったから成功した。成功しない人間は努力が足りない。」と威張りたいだけだ。
 「頑張れば必ずできる」という幻想をバラ撒く人は迷惑だ。できないことのほうがずっと多い。100mを10秒で走れるのはごく限られた人にすぎない。
 一方「これをやりたい」という意欲は夢ではない。現実を踏まえた願望だ。地に足の着いた願望と見果てぬ夢を混同してはならない。現実的な願望なら叶うことも少なくない。

皮膚1枚の美

2008-02-20 19:19:16 | Weblog
 美女の美しさは皮膚1枚だけのことだ。皮膚を剥げば化け物同然になる。理科室にあった解剖模型と同じような筋と血管が露出した気味の悪い姿になる。
 美が皮膚1枚のことだという事実を「だから虚しい」と解釈するか「僅か皮膚1枚の微妙な美だからこそ尊い」と解釈するかは個人の勝手だ。
 但し名画を見て「カンバスに絵具を塗っただけだ」と主張するような悪趣味な人間には私個人としてはなりたくない。

芸能と芸術

2008-02-20 19:13:18 | Weblog
 大衆芸能の価値は多数決で決まる。ドラマの価値は視聴率で決まり、歌の価値はヒットチャートが決める。これは芸術性とは関係ない。たとえお粗末な作品でも、難解でさえなければ、時流に乗って上手く宣伝すれば支持者が増えて結果的には高く評価される。
 芸術の評価はこれとは全く違う。「違いの分かる人」が判定する。
 低レベルな芸術は多くの人に理解されるが、高レベルな芸術を理解できる人は少ない。このことは芸術に限ったことではない。数学や技術でも最高レベルを理解できるのはほんの一握りの人にすぎない。それ以外の人はたとえ専門家でも権威を信じるしか無い。
 数学や技術の場合はそれを応用することを通じて有効性を証明できるが、芸術の場合はそれ自体で完結しているためそれが優れているかどうか検証できない。勢い権威に頼らざるを得ない。
 子供か猿の悪戯描きにしか見えない絵画が「名画」として高く評価されることもあるが私にはどこが良いのか全く分からない。分かる人にはその価値が分かるのだろう。少なくとも「大家の誰それの作品だから素晴らしい」という基準で評価している訳ではないだろう。
 芸術にはレベル以外に普遍性という要素がある。例えばモーツァルトの曲は世界中で愛されているが、これは勿論レベルが低いからではなく、普遍性を持つからだ。あるいは「深い」と言っても良いかも知れない。人間の根源的なもの(ユングの術語を使えば「普遍的無意識」)に訴えるから世界中の人に愛されるのだろう。
 多くの人に支持される作品はそれが普遍的な価値を持つ場合と低レベルな場合と2種類ある。しばらく経てば忘れられる作品は低レベルだからこそ広く支持されただけであり、ブームが終わっても支持され続ける作品は普遍的な価値を持っているのだろう。
 「違いの分かる人」ならこの2者を混同することは決して無かろう。