俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

危険な職業

2015-04-29 10:27:29 | Weblog
 クラレが毎年、新1年生を対象にして行っている「就きたい職業」の調査で今年は男児では①スポーツ選手②警察官③運転士・運転手④消防・レスキュー隊⑤アニメキャラクターだったそうだ。「会社員」は史上初めて20位圏外になったそうだ。「警察官」は女児でも10位にランクされ子供には人気があるようだ。これはテレビドラマでの格好いい刑事に憧れてのことだろうが、実は3K(危険、きつい、汚い)の職業だろう。
 何よりも注意すべきことは、軍隊以外では唯一の暴力が許される職業であることだ。警官だけが拳銃と警棒の携帯が認められている。これは必要とあれば武器を使う義務があるということだ。虫も殺したくない優しい人にこんな過酷な業務が勤まるだろうか。
 何人か警官を知っているがその風貌には共通点がある。KGB出身のプーチン大統領と同様、眼光が鋭く威圧的な雰囲気があることだ。危険に身を晒しているからだろう。凶悪犯と刑事が手錠で繋がっていれば、どっちがどっちなのか分からないほどだ。
 アメリカの警官の過剰防衛が日本でもしばしば報じられるが、常に命の危険に晒されているからこそ暴力的になるのだろう。滅多に危険に晒されない日本の警官とは事情が違う。日本での警官の殉職者数は年平均5人程度だが、アメリカでは約200人だ。凶悪犯が銃を持っていることと交通事故の多さが原因らしい。
 もっと危険なのが中国だ。年平均で400人ほどが殉職するらしい。なぜか勤務中の突然死が半分を占めるそうだから、中国の警官は不眠・不休を強いられる過酷な業務なのだろうか。今後I.S.に影響を受けてウィグル族の反政府活動が過激化すればもっと危険な職業になるだろう。
 中国には警官以上に危険な職業がある。炭鉱労働者だ。政府は毎年1,000人以上が亡くなっていることを認めているが実際の犠牲者数はその数倍らしい。
 何とも中国らしい話だが、率であればこれらよりも遥かに危険な職業がある。共産党政治局常務委員だ。共産党創設以来70人がこの地位に就いたがその内27人が失脚して多くは家族まで含めて酷い目に会っているらしい。近年、習近平主席が粛清を進めているから、習氏自身の失脚の可能性も含めて、この比率は更に高まるかも知れない。まるでかつてのスターリンや連合赤軍のような恐怖政治だ。

有性生殖

2015-04-29 09:50:02 | Weblog
 繁殖するためには無性生殖のほうが有利だ。快適に生存できる環境さえあれば自分のクローンを作れるからだ。その点、有性生殖は不利だ。異性のパートナーを見つけねばならないからだ。それにも拘わらず多くの動植物、それも高度な動植物が悉く有性生殖によって増殖するのはそのことに大きなメリットがあるからだ。と言うよりむしろ、有性生殖という手法を獲得した動植物でなければ高度な生物にまで進化できなかったと言って差し支えなかろう。進化するためには有性生殖のほうが有利ということだ。
 まず有性生殖と無性生殖の根本的な違いを押さえておこう。有性生殖では両方の親から1つずつ、合計2種類の遺伝子を受け継ぐ。一方、無性生殖では1種類の遺伝子しか持たない。子において2種の遺伝子の特性が平均化されて顕現する訳ではない。様々な特性はそれぞれ優性と劣性を持つ。誤解されることは無いとは思うが優性・劣性は適・不適を意味しない。あくまで顕現での優先順位を意味する。血液型であればABOの3種類の遺伝型があり、AOはA型、BOはB型として顕現する。つまりO型は劣性でありOOの遺伝型を持つ人だけがO型として顕現する。AとBには優劣が無い。
 ここで架空の動物Aを想定する。話を単純化するためにこの動物が寒冷地に住んでいて、寒さに強いことと少食で足りることだけが生存を有利にする条件とする。
 Aが無性生殖をする場合、偶然起こる突然変異によってのみ進化する。たまたま1匹が特に寒さに強いという性質に変異すればそのクローンが繁栄する。他に、より飢餓に強いという変異をした個体があってもこの両者は何の繋がりも持たない。両方の特性を併せ持つ個体が生まれるためにはどちらかが新たに変異するまで待つしか無い。
 Aが有性生殖をするなら、環境に適応した両者による繁殖があり得る。その場合、子孫が両方の長所を受け継ぐとは限らずメンデルの法則に従って様々な個体が生まれる。同じ両親の子であっても、一卵性双生児以外の子が同じ遺伝子を持つことはあり得ないから、自然淘汰を通じて適者が選別される。
 Aが寒さに弱く暑さに強いという変異をした場合、Aのクローンは総て不適者でありいずれ血筋が途絶える。しかし有性生殖であれば、その子孫に不適切な遺伝子が受け継がれても、それが劣性であれば顕現しない。顕現しなければその遺伝子が淘汰されずに細々と生き残る。これが遺伝の多様性に繋がる。もし環境が変わって暑さに強いほうが有利になれば、潜在していた遺伝子が日の目を見る。暑さに強いという遺伝的特性が淘汰されない所が有性生殖の強みだ。無性生殖と比べて有性生殖のほうが遺伝的に多様化する。無性生殖であれば折角新しい特性を獲得してもそれがその時点での環境に適応していなければ淘汰されてしまうが、有性生殖であれば劣性として温存され、それが非常時には適応のための条件として活かされ得る。様々な変異が簡単には淘汰されないからこそ環境の様々な変化に対応した適応が可能でありこれが進化へと繋がる。

認知症

2015-04-27 10:19:08 | Weblog
 つんく♂氏は声帯を摘出して声を失った。歌手でもある彼にとって声を失うことは苦渋の決断だろう。声よりも命を選んだということだ。
 筋萎縮性側索硬化症という難病がある。車椅子の物理学者ホーキング博士や徳洲会の徳田虎雄氏などが発病した全身の筋力を失う病気だ。声だけではなく全身の行動の自由まで失う恐ろしい病気だ。
 しかしこれら以上に恐ろしいのは知力を失うことだ。知力を失った人間は運転者のいない自動車のようなものであり、どんな暴走をするか分からない。無人の自動車になるよりは自動車であることをやめたいものだ。
 時々、頭が思うように働かないと感じることがある。思考が集中せず上手く考えをまとめらなくなる。考えようによってはこれは良いことだ。脳機能の低下を自覚できるほうが自覚できないよりもずっとマシだ。普段から深酒をしては思考力の低下を経験しているからこそ脳の不調が分かるのだろう。酔っていることを自覚できない酔っ払いとは違って、脳の機能低下を自覚できることを喜ぶべきだろう。
 脳に大きな外傷を負った人の多くが知力だけではなく人格まで劣化したと言われている。高齢者の多くは認知症を恐れている。自分が自分でなくなり廃人になることは大きな恐怖だ。頭をよく使えば認知症に罹りにくいと言うが当てにならない話だ。歴史に残る天才カントやレーガン元大統領やサッチャー元首相まで認知症に罹るのだから予防は困難だろう。幾ら脳を鍛えても罹る時には罹ると覚悟するしか無かろう。
 私はいつも対症療法を批判しているが、こと認知症に限ってはそれでも構わないと思う。勿論、治療できることがベストだがそれができないのであれば一時凌ぎでも構わない。仮に余命が半分になろうとも思考力を維持したいと思う。それどころかたった1時間正常に戻るために命を賭けても構わない。
 呆けないように努力することは必要だが罹ってしまえばどう対処すべきだろうか。幸いなことに認知症の症状の軽重には周期性があるらしいから、意識が確かな時に自らケリを付けることが、晩節を汚さないためには必要かも知れない。しかしここで大問題が生じる。意識が確かだと判断する自分の意識を確かな意識であると信じて良いものだろうか?自己評価のパラドクスだ。

大男

2015-04-27 09:43:23 | Weblog
 「大男総身に知恵が回りかね」と言う。大男の動きは緩慢に見える。プロレスの故・ジャイアント馬場の動きは鈍いように見えた。しかしこれは錯覚だ。体が大きければ動作はゆっくりに見える。身長2mの人が身長分動けば2mだ。これは身長170㎝の人より2割長い。これをテレビで見ていると大男の動きが緩慢に見える。一方は2m動きもう一方は170㎝しか動かないのだから掛かる時間が違うのは当然だ。
 ネズミの動作は俊敏だ。チョコマカと素早く動いているように見える。しかしこれは体が小さいから素早いように見えるだけだ。だから猫に捕まえられる。100mを走れば大男のほうが早い。ピッチが同じであればストライドで差が付くからだ。
 但し本当に俊敏な小動物もいる。熱帯に棲息するアギトアリが多分、世界一俊敏な動きをする動物だろう。アゴを閉じる速度は何と時速230㎞でそれに要する時間は僅か0.1ミリ秒だそうだ。正に目にも留まらぬ動作だ。リニアには敵わないが新幹線並みの猛スピードだ。
 殆んどのスポーツは大きい選手のほうが有利だ。特にバスケットボールのルールは酷過ぎる。ダンクシュートなど豪快でも何でもない。背が高ければ誰にでもできる。こんなスポーツは見ていても面白くない。誰のシュートなのか分かるのだから背の低い選手の得点を2倍にしても良いと思う。そうすれば背の低い選手も参加できる。
 バルセロナ・オープンを連覇した錦織圭選手の天敵もやはり大男だ。2m前後の大男のサーブは強烈だ。打点が高いので角度があるだけではなく、前傾するからその分、打点が前に出る。近距離からの角度のある打球になるからサーブでは圧倒的に優位だ。だから長身の選手は殆んどがサーブで荒稼ぎをする。中にはその長所を更に生かすためにジャンピングサーブを使う選手もいる。
 スポーツは基本的には公平だ。肌の色による差別も家柄や貧富による差別も無い。男女は初めから分かれて競うから男女差別も無い。しかし身長による差別は酷い。殆んどの種目が長身のほうが有利になっている。これでは小柄だという理由だけで、体重別以外の殆んどの競技スポーツから締め出されてしまう。長身者の優位性が余りにも大きいのだから、ルールでハンディを付けるべきだろう。例えば長身であれば使えるラケットを短くするなど、小柄な選手を優遇する仕組みがあって然るべきだろう。ところがスキーのジャンプのように長身の選手のほうが長いスキー板を使えるような不合理なルールが罷り通っている。欧米人よりも背の低いアジア人は一致団結してルールの改正を訴えるべきだろう。

蠱毒

2015-04-26 10:25:56 | Weblog
 蠱毒(こどく)という言葉がある。毒虫や毒獣を1箇所に集めてお互いに殺し合いをさせ、最後に生き残った最強の猛毒動物が暗殺などに使われた。
 不謹慎な話だが、昔、暴力団同士での抗争事件がある度にこの言葉を思い出したものだ。暴力団が殺し合えばその時は危険であっても双方の組員が減るのだから社会は却って安全になる。もっと殺し合えと思ったものだ。
 多くの犯罪でもこれと似た感情を持つ。通り魔や強盗などのような面識の無い人に対する犯行であれば被害者に非は無く加害者だけが悪いが、知人間で起こる犯罪の多くは被害者にも非があることが少なくない。マスコミは加害者=悪、被害者=善という構図でしか報じないが、実際にはあくどい被害者が少なくない。こんな形で悪党同士で殺し合うことは庶民にとっては決して悪いことではあるまい。
 肉食獣同士が殺し合えば肉食獣の絶対数が減るから草食動物にとっては有難い。私は決して肉食獣を悪だと言いたい訳ではない。食われる側の草食動物にとって肉食獣が減ることが僥倖だという事実を伝えたいだけだ。
 船橋市での18歳少女殺人事件の報道に違和感を覚えないだろうか。関係者に肩書きが付かないからだ。通常であれば「大学生」とか「飲食店従業員」といった肩書きが付くものなのだが、被害者も容疑者も肩書きを持たない。稀に20歳の容疑者2人に「無職」という肩書きが付くが、まともに働いていないチンピラグループだろう。親の脛を齧っているのかあるいは集団での万引や売春で稼いでいるのか知らないが、街に巣食う悪ガキだろう。こんなグループが殺し合いで滅んでくれれば街の治安が良くなる。こんな蝮(まむし)と蠍(サソリ)の殺し合いを騒ぎ立てる必要は無い。どうせ報道するなら、報道姿勢を改めて、悪い連中と付き合えば酷い目に遭うという教訓として報じるべきではないだろうか。
 群集心理は恐ろしい。2ちゃんねるなどの例からも分かるように、責任の曖昧な合議は過激化し易い。多分彼らは個人であればそれほど凶暴ではあるまい。ところがお互いに強がって強硬な主張をすれば凶悪犯罪に対するブレーキが働かなくなる。これが集団リンチに繋がる。敢えて死者に鞭打ってでも、非行グループの仲間になることが非常に危険だということの警告として報道すべきだと私は考える。

脳の進化

2015-04-26 09:45:51 | Weblog
 人類の脳の容量は100万年で3倍に増えたらしい。これはかなり不自然な進化だ。中立的な突然変異と自然淘汰によってであればこんな偏った進化はあり得ない。ラマルクの用不用説を使って説明したくなるような異常な進化だ。
 人為が働けばこんなことが起こり得るということだろう。我々が身近に見ることができるのは家畜の品種改良だ。特殊な個体を選んで掛け合わせ続ければ意外なほど急激に変異する。ダーウィンは鳩の品種改良から進化論のヒントを得たらしいが、我々にとっては犬の多様性が最も分かり易い。大きさも形態も全然異なるがどれも人為的に作られた犬だ。人間が操作すればこれほど特殊な生物を作り得るということだ。
 人類においては知恵が生存競争の武器になったと思われるがただの競争であればこんなに急激に進化しない。スパイラル構造が生じたと思われる。つまり知恵が文化を生み、文化が知恵を求めるという形で、相乗効果が働いたのではないだろうか。
 しかしこんな直線的な進化は危険だ。脳以外は充分に進化していないからだ。多くの人が腰痛に悩まされているのは背骨が2足歩行に充分に適応できていないからであり、難産になったのは産道が曲がっていることと新生児の頭が大きくなり過ぎたことが原因だ。安産で知られる犬でさえ、スコッチテリアのように人為的改造のせいで頭が大きくなり過ぎたために難産になってしまった種がいる。バランスを欠いた進化は不適応を招く。
 コンラント・ローレンツは恩師の言葉を借りて次のように語る。「クジャクの尾羽と西洋人の仕事のテンポは種族内淘汰の最も愚劣な産物だ。」(「攻撃」より)
 クジャクのメスはオスの尾羽の立派さを基準にして交尾する相手を選別する。しかし立派過ぎる尾羽は飛翔のためには障害物になる。性淘汰においける適者が生存競争における不適者になってしまった。これでは進化の袋小路に迷い込んでしまったようなものだ。
 人類の脳も種族内淘汰の愚劣な産物になる恐れがある。環境への適応を促す種族外淘汰とは違って種族内淘汰では妙な形での進化のスパイラルが起こり得る。これが実は種の存続を脅かす誤った進化となっているのかも知れない。
 かつて地球の支配者であった恐竜は当時の環境に過度に適応してしまったために多様でありながら絶滅した。人類は多様性さえ失いつつある。少なくとも武器の進歩は人類の知恵の進歩を上回る速度であり、これが人類を死滅させる可能性はかなり高い。

続・摂食障害

2015-04-25 09:59:17 | Weblog
 昨日(24日)、2月に書いた「摂食障害」に対するコメントがあった。私は基本的に批判を歓迎する。理論とは「正反合」を通じて高まると考えるからだ。
 昨日のコメントは残念ながら余り優れたものではない。多分、私のブログを初めて読んだ元・摂食障害者だろう。私の主旨は「因果と相関を混同するな」なのに「摂食障害の患者に盗癖は多い」という「臨床データがある」と指摘している。的外れな指摘だとは思うが、私の文章が言葉足らずだったのかも知れない。しつこいとは思うが、実例を追加して説明する。
 私がしばしば医療を批判するのは、医療こそ因果と相関の混同の温床になっているからだ。医療は原因を問わず症状だけを軽減する対症療法に終始する。こんなやり方では患者は治らない。原因療法に改める必要がある。
 例えば鬱病の患者に抗鬱剤を処方することを治療だと思っている。これはその場凌ぎに過ぎない。酒を飲んでドンチャン騒ぎをして憂さ晴らしをすることと何ら違わない。本当の治療のためには原因に対処せねばならない。原因は心の中にあるからカウンセリングが必要だ。カウンセリングを通じて原因を明らかにしなければ治療はできない。しかし原因が特定できても治療が可能とは限らない。多額の借金が鬱病の原因と分かっても精神科医には何もできない。こんな原因であれば本人が解決する以外に無い。
 あるいは下痢止めという有害な治療法がある。下痢は何らかの有害物を食べた時に起こることが大半だ。有害物を早急に胃腸から排泄するために下痢が起こっているのにその邪魔をすればどうなるか。和歌山の砒素カレー事件でも堺市のO-157食中毒事件でも、下痢止めを処方された患者の死亡率は有意に高かった。過敏性腸症候群(神経性下痢)であれば有害物が原因ではないから薬で症状を緩和しても有害ではないが、それ以外の殆んどの下痢は薬で抑えるべきではない。
 医者のドル箱になっている高血圧症治療も酷い状況だ。歳を取れば血管が固く細くなる。こんな状態で充分な血液を脳に届けるためには血圧を上げる必要が生じる。原因を無視して降圧剤を投与すれば脳に血が巡りにくくなって認知症のような状態を起こす。この医原病に対して殆んど効かずしかも副作用の大きい認知症治療薬が投与されるというデタラメの極みだ。
 多分、統計で見れば摂食障害者の万引率は高いだろう。しかしこれを因果と判定すべきではない。認知症でも統合失調症でも躁病でも多分、万引率は高いだろう。このデータから導くべき結論は「精神病を患えば異常行動が増える」か「異常行動が多い人は精神病の疑いがある」であり少なくとも「精神病患者は万引率が高い」ではあるまい。

戦争

2015-04-24 10:36:45 | Weblog
 日本では県と県との戦争を想像することなどできない。例えば三重県と奈良県が戦争をすることはあり得ない。それは単に軍隊を持っていないからではない。民兵による戦争でさえ想定できない。
 戦国時代には国と国による戦いがあった。しかし国民と国民が戦った訳ではない。権力者が争っただけだ。例えば武田信玄は上杉謙信と戦ったが甲斐の民が信濃の民と戦った訳ではない。戦ったのはあくまで権力者と兵士だ。権力者は領土と領民と領食(糧食)を拡大しようとして戦うが庶民にとっては迷惑なだけだ。このことから大胆な仮説を提示できる。庶民が本当に主権者になれば百害あって一利なしの戦争など無くなるのではないか、ということだ。残念ながらこれは夢物語に過ぎない。
 日本では自治体間での戦争はあり得ないが外国には沢山ある。シリアにはスンニ派地区とシーア派地区とクルド人自治区といったそれぞれが異なる価値観を持った集団があり交戦する。あるいは仏教徒のチベット族やムスリム(イスラム教徒)のウィグル族は儒教徒である漢族とは価値観を共有できない。インドからはパキスタンとバングラディシュが独立したが今尚、ヒンズー教徒とは妥協し難いムスリムが居住している。クリミアや東ウクライナであれば宗教対立ではなくイデオロギー対立とされているが本当はどうなのだろうか。
 結局、価値観を共有できない「異分子」は分離せざるを得ないということだろう。少数者を多数者に従わせようとしても内紛を招くだけだ。使い古された言葉だが「民族自決」が選ばれるべきだろう。
 戦争方法も軍隊同士の戦いでは済まなくなり、第一次世界大戦以降は悲惨な総力戦に変わった。それ以前の戦争、例えば日清戦争や日露戦争は軍隊同士での戦争だった。しかし日中戦争や日米戦争になると訳が分からなくなる。日中戦争の相手は中華民国軍なのか軍閥なのかはたまたゲリラか共産党なのかよく分からない。三竦み・四竦みになってしまった。日米戦争では日本側は米軍と闘っているつもりだったが、米軍は日本人総てを敵と考えたようで、東京・大阪などの非戦闘員に対して無差別爆撃をしたし、長崎・広島への原爆投下は核実験だけではなく許し難い人体実験も兼ねていただろう。
 アメリカの戦争には無差別攻撃が付き纏う。ベトナム戦争での北爆は常軌を逸したものと思えるし、朝鮮戦争でマッカーサーが総司令官を解任されたのは中国へ原爆攻撃をしようとしたからだと言われている。国民国家は戦闘員と非戦闘員を区別するが、人工国家のアメリカにはそんな常識は通用しないようだ。
 日本に戦国時代があったのは日本が統一されていなかったからだ。徳川幕府の時代は世界に類例を見ないほどの平和な時代だった。軍隊は不要になり治安も安定した。
 もし世界が理想を共有する地球国になれば、県と県が戦わないように、戦争の無い社会が生まれ得る。EUが成立したのも第二次世界大戦に対する反省に基いている。
 しかしそんなことが可能なのは理想を共有できた場合に限られる。価値観を共有できなければ同朋たり得ない。アラブ諸国での宗派対立や中国での民族対立を見れば、平和は余りにも困難な目標と考えざるを得ない。

共歓

2015-04-24 09:45:48 | Weblog
 思想形成において私に最も影響を与えたのは①手塚治虫②ドストエフスキー③ニーチェだと思っている。そのニーチェに反論しようと思う。
 ニーチェは群居本能を嫌った。羊飼いを評価して畜群を憎んだ。私は逆に群居本能こそ人間の長所だと考える。群居本能とは善良さであり素直さだ。従順な畜群が誤った方向に向かうことの責任は100%羊飼いにある。憎むべきなのはこの羊飼いだ。世論操作によって善良な羊を欺こうとする朝日新聞のような大嘘つきの「マスゴミ」こそ不俱戴天の宿敵だ。
 群居動物は優しい。他の動物とも共存共栄を図ろうとする。しかし羊飼いは違う。他の集団を排斥する。
 実存主義の「実存」とは自覚存在を意味する。sein(ある)ではなくexist(存在する)という意味だ。単にそこにいるのではなく問題意識を持って生きるべきだ、という意味だろう。
 私自身、他者と異なる自分を重視していた。独立した自我の確立こそあるべき姿だと信じていた。それに疑いを持たせて共存に目覚めさせたのが他ならぬニーチェのこの言葉だった。「蛇は相手が痛がると知っているから噛む。」私には強烈な衝撃を与えた言葉だが、残念ながら余り知られていないので正確に引用する。
 「喜びを共にすること。・・・・我々を噛む蛇は我々に苦痛を与えたと思って喜ぶ。最も下等な動物も他人の苦痛を想像することができる。しかし他人の喜びを想像して喜ぶということは最高の動物の最高の特権であり、その中でも最も選り抜きの模範的な者にのみなし得る。・・・・従ってこれは1つの稀な人間精神だ。だから喜びを共にすることを否定した哲学者もいたほどだ。」(「人間的、余りに人間的」「様々な意見と箴言」62)
 「最も選り抜きの模範的な者」どころかニーチェが嫌った「畜群」は皆この能力を備えている。だからこそ群居生活が心地良い。この能力を歪め悪用しようとする悪しき羊飼いこそ糾弾されるべきだ。
 ニーチェは体系哲学者ではなく良い意味での混沌だ。テーゼもアンチテーゼも剥き出しにされている。ニーチェ批判の鍵はニーチェ自身が書き残している。
 共感こそ群居動物の特長だ。そしてネガティブな「同情」ではなく「共歓」こそ大切だ。同情することによって不幸が増幅されるが、共歓すれば幸福感が高まる。群居動物の脳には他者の行動に共感するミラーニューロンが備わっているらしい。脳のこの特性を同情などに無駄遣いすることなく共歓力として活かしたいものだ。

主婦

2015-04-22 10:16:38 | Weblog
 人は収入が無ければ生活できない。収入を得るためには働かねばならない。働くとは、嫌なことを他人のために有償で行う、ということだろう。これを誤魔化すために働き甲斐という言葉をでっち上げるが欺瞞に過ぎない。多くの人は宝くじで3億円が当たったら翌日早速、嫌な上司に辞表を叩き付けて退職するだろう。
 人は最小の労働で最大の報酬を得ようとする。最小限の労役と最大限の自由時間を求める。そんな仕事があるだろうか?ある、それは専業主婦だ。子供の無い専業主婦こそ最高の仕事だ。だからこそ多くの女性が専業主婦に憧れる。「専業主夫」に憧れる男性も決して少なくないがこちらは「ヒモ」と呼ばれる恐れがある。
 電化が進んだ現代の家事は昔とは違って楽だ。洗濯は機械の仕事であり、干すことと取り入れることだけが人の仕事だ。掃除も半分ぐらいならルンバに任せられるだろう。最も手間の掛かる育児も、最初の3年間を乗り切れば随分楽になる。むしろ老人の介護のほうが大変だ。
 夫は殆んど家にいない。家にいる時間も大半が寝ている時間だ。だから出勤前と帰宅後の数時間だけ相手をすれば良い。それだけで充分な報酬を得られるのだからまるでエデンの園のような楽園だ。職場での長く不愉快な拘束とは雲泥の差だ。「三食・昼寝付き」という陰口もあった。
 昔「亭主元気で留守が良い」というCMが流行語にまでなったのは、主婦の共感を得たからだろう。収入の少ないイクメンよりも、充分に稼いで家事に介入しない夫のほうが好ましかろう。もし家事に介入されたら自分の城に侵入されるようなものだ。料理人である夫が家では余り料理をしないと言われているのは妻の欲求に応えてのことではないだろうか。
 こう考えれば「濡れ落ち葉」という言葉が流行ったのも理解できる。退職後、暇を持て余した夫が家でゴロゴロしていれば「粗大ゴミ」のようなものだ。稼ぐ力を失った夫などとっととどこかへ行って欲しいと思っていることだろう。
 キャッシュカードのような夫、つまり金蔓以外に何の役割も無い夫が1つの理想だろう。嫌なことばかりさせられる長時間の不愉快な労働と比べれば夫と共に過ごさねばならない短い時間など大した苦痛ではあるまい。コストパフォーマンスは抜群に高い。
 妻が期待する夫がこういうものであるなら夫という役割は余りにも惨めだ。「妻は性生活を伴う女中か?」と問題提起をしたのは石川達三だが、私は「夫とは種付けを伴う金蔓か?」と問いたい。