俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

ニセ中華料理

2008-04-30 19:42:25 | Weblog
 中華料理ではないものが日本では代表的な中華料理だと信じられている。ラーメンも冷やし中華も焼き餃子も酢豚もジンギスカンも中華料理ではない。天津飯は天津には無いそうだ。
 ラーメンは台湾にはあるが、大陸中国から伝わったものではなく日本から伝わった料理だ。世界に誇る素晴らしき保存食のインスタントラーメンは100%日本発だ。
 冷やし中華は多分韓国の冷麺がアレンジされたものだろう。
 焼き餃子は中国では殆ど見られず、蒸し餃子が一般的だ。餃子の王将は敢えて焼き餃子を看板商品にして中国でもある程度評判になっているらしい。
 酢豚は中華料理ではなくシンガポール料理らしい。中国の古老肉(クールーロウ)は野菜を使わず揚げた豚肉に甘酢をかけた料理らしい。
 ジンギスカンはモンゴルの羊鍋を北海道の料理人は羊を使った焼肉としてアレンジしたものらしい。
 ニセ中華料理がなぜこれほど日本では普及しているのか理解に苦しむ。しかし少なくとも中国人には何の責任も無いだろう。日本人が勝手に広げたものだろう。
 ニセ中華料理に対する評価に基づいて中華料理について語ることは中国政府に対する反感だけで中国を非難するようなものだ。

中国嫌い

2008-04-30 19:26:38 | Weblog
 中国嫌いの人が増えている。チベット問題や農薬入り餃子などの粗悪品や大規模な環境破壊や、あるいは日本国内での集団犯罪など沢山の理由が考えられる。しかし嫌う対象は中国か中国人か中国政府なのかぐらいは明確に区別する必要がある。中国政府は共産党独裁政権であって中国人民の民意を反映したものではない。もし中国政府を悪辣と考えるなら、一部の支配階級を除いた13億の中国人民は被害者であって断じて加害者ではない。正しい国際情報すら知ることのできない不幸な人々だ。
 民主主義の筈の日本でさえ福田政権の支持率は20%しかない。現在の政府が嫌いな人は多いが、日本や日本人が嫌いだと考える人はそれと比べれば随分少ないだろう。

交通事故

2008-04-30 19:17:46 | Weblog
 外国では交通事故が起こるという前提で車体が作られている。だから自動車だけではなく電車の車体も頑丈に作られている。
 日本ではアマチュアが運転する車と違って、プロが運転する電車は事故があってはならないと考える。だから電車には強度基準さえ無い。
 たとえ事故を起こしてはならないという考え方が健全であっても、事故を前提とした対策を怠るということは不健全な考え方だ。そんな考え方に基づいているからいざ事故が起こると大惨事になってしまう。
 どんなに努力してもミスが無くせないのと同様、事故も無くならない。事故が起こることを前提として、事故後の被害を最小限に食い止めるための対策を立てることが必要だろう。
 もしかしたら・・・日本の原子力発電所は事故が起こらないことを前提に作られているのではないかと考えると恐怖を感じる。


繊細な人

2008-04-22 16:18:28 | Weblog
 最近、鬱病で仕事を休む人が増えているそうだ。民間企業だけではなく公務員にも多いらしい。
 精神の病を患う人はそれだけ繊細なのだろうか。そんなことはない。ただ単に「弱い」だけのことが多い。箸より重い物を持たない人が金槌を持てないようなものだ。
 傷つき易いという特徴が同じでも、弱さと繊細さは区別されねばならない。弱い人はそれまで過保護に育ってきたために耐えることを知らない。丁度、注射を怖がって泣き叫ぶ子供のようなものだ。
 「弱い人」の特徴は自分に対する過敏さと他人に対する鈍感さといったアンバランス性に現れる。彼らは自分に対する攻撃には過剰に反応するが他人の状況には驚くほど鈍感だ。自分に対して敏感なだけで他人に対しては鈍感な人は「繊細な人」とは言えない。単に「わがままな人」と呼んでも差し支えなかろう。
 一方、繊細でありながら平常心を保ち続ける人がいる。ずっと繊細であり続けた結果、精神的にタフになったのだろう。こんな人は自分の傷みにも他人の傷みにも敏感なので、その結果として気配りができる「優しい人」になる。近頃の若者に流行りの「他人に無関心な優しさ」とは全く異なった優しさだ。

間違った法律

2008-04-22 16:03:33 | Weblog
 山口県光市の母子殺害事件の被告の元少年に死刑判決が下された。私個人としては被告と弁護団に対して強い不信感を持っているが、そんな個人的感情はさておき、この判決は未成年者の犯罪の罰を軽減するという少年法に背いている。もし少年法のこの規定が間違っているなら法律を改めるべきであって済し崩し的に既成事実を積み重ねるべきものではない筈だ。
 間違った法律がある場合にそれを捻じ曲げて解釈して市民感情に合う判決を下すことは法の番人たる裁判所の採るべき態度ではない。間違った法律に基づいて市民の感情を逆撫でする判決を下すべきだ。そうすれば法律そのものが見直される。一時凌ぎをすることによって間違った法律が放置されることのほうがずっと危険だ。
 「悪法も法なり」と言い残して毒杯を仰ったソクラテスを私は尊敬する。正しいと思えない法律であろうとそれが法律として定められている限り国民はそれに従わざるを得ない。それが法治国家というものだろう。もし法律が、裁判官が恣意的に解釈して良いものなら困るのは善良な国民だろう。合法的な行為がある日突然非合法とされ犯罪者にでっち上げられてしまったら堪らない。安全な日常生活が脅かされてしまう。法律を捻じ曲げて解釈することを容認すればこんな危険な事態を招きかねない。

得する快適省エネ生活

2008-04-22 15:47:18 | Weblog
 省エネと言えば不便な生活を我慢するというイメージがある。そんな生活は耐える苦しみが募って長続きしない。もっと快適で合理的でしかも経済的な省エネを目指すべきだ。
 ハイブリッドカーは燃費効率が良い。液晶テレビはブラウン管テレビより消費電力が少ない。蛍光灯は白熱電球より低コストだ。こんな観点から見直せば省エネと快適生活は両立できる。
 最新のエアコンは以前のものと比べて冷暖房力が強い。以前なら1時間留守にする場合ならエアコンを点けっ放しにしていただろう。留守の間に室温が外気温に近づいてしまい、エアコンが効いて快適室温になるまでに時間が掛かっていたからだ。最新のエアコンならすぐに快適室温になるので使わない時は切れば良い。無駄に点けておく必要が無い分エネルギーを節約できる。
 良いことをするために禁欲的になる必要は全く無い。知恵を使えば省エネと快適生活は両立できる。変な禁欲主義は捨てて合理性を追求すれば良い。
 どういう訳か日本人は禁欲的でなければ良いことはできないと考え勝ちだ。辛い勉強をして、一所懸命働いて、裏切りに耐えてこそ立派な人間になれるとされている。こんなのは嘘っぱちだ。楽しく学んで、労働と私生活のバランスを保って、良い仲間と楽しく過ごしていても良いことはできる。プロスポーツの選手でなければ体を鍛えるために食事制限をして猛練習に耐えるよりは、美味しいものを食べてスポーツを楽しんだほうが健康に良い。
 苦しんで、良いことをするというカント的なリゴリズムから脱却して楽しく快適に良いことをすべきだ。楽しみが良いことに繋がるなら楽しみそのものも一層楽しくなるだろう。

ミスは無くせない

2008-04-19 16:28:12 | Weblog
 ミスを無くそうとしても無理だ。ミスは絶対に発生する。
 野球でエラーを無くそうとしても無理だ。プロの試合でも殆んど毎試合エラーは発生する。
 無くすという非現実的な考えではなく減らすという現実的な方向で対処すべきだ。無くせる筈だという前提ではなく発生は不可避だからいかにしてその弊害を最小化するかという方向で取り組むべきだろう。
 試験においてもケアレスミスは避けられない。「ミスを無くせ」と精神論を説いても無駄だ。ミスをしても充分な得点を稼げるような学力を身につけるほうがずっと堅実だ。

正しい思想

2008-04-19 16:21:37 | Weblog
 万人向けの靴はあり得ない。例えば24cmの靴は女の2割と男の1割しか履くことができない。つまり85%の人にフィットしない。
 万人向けの教養もあり得ない。一般教養のレベルなら可能だが知れば知るほど専門化してしまい、千差万別の知識に拡散してしまう。
 同じように万人向けの思想もあり得ないだろう。思想は各個人が自分で学んで身につけるしかない。とは言えどんな思想でも正しいという訳ではない。40cmの靴があり得ないように間違った思想は簡単に識別できる。
 その1例として「憎悪の思想」が挙げられる。これは社会に対する憎悪が思想の形態を採っているにすぎない。例えば、破壊さえすれば新しい秩序が生まれるとか人を殺せば新しい真実が見えるという考えがそれだ。これは破壊することだけが真の目的だ。秩序を否定すればあとはどうにかなるという無責任な姿勢でしかない。建物を破壊すれば残骸が残るだけで、新しい秩序は生まれない。
 正しい思想は無数にあり得るが、だからと言ってどの思想でも正しい思想である訳ではない。間違った思想や思想と呼べるレベルに達していない偽思想もある。

言論の勇気

2008-04-19 16:08:42 | Weblog
 こんな心理実験がある。通常なら90%以上が正しい答を出せる簡単な問題を口答するだけなのだが、彼が答える前にサクラを使って間違った答を次々に言わせておくと被験者の正答率が著しく低下するそうだ。設問によっては90%以上がサクラに誘導されて間違った答を選ぶそうだ。
 人はこれほど周囲に影響され易い。自分の考えより多数者の意見を正しいものと思い勝ちだ。周囲と同じことを発言すれば安心できて、周囲と違ったことを言えば不安になる。
 アカの他人の言うことでさえ流されるのだから、権威のある人や目上の人の主張には盲従する。自分の本音は抑圧されてしまう。
 マスコミが「こうだ」と言えば本音は沈黙してしまい、多数者の意見に同調してしまう。マスコミが何かを叩けば一緒になって叩く。
 傍目八目と言われるように傍観者の立場のほうが正しい判断ができ易いのに、傍観者の立場でさえ周囲に流される人が当事者の立場に立てば正しい主張をすることは殆んど不可能に近い。完全に周囲の考え方に流されてしまう。当事者であっても断固として正論を主張するためには勇気が必要だ。「言論の自由」以上に「言論の勇気」の必要性が唱えられても良いのではないだろうか。周囲に逆らってでも正しい発言をするために必要なのは「自由」ではなく「勇気」だ。
 勇気の無い人は「自由」を与えられても「多数意見に同調する」という「自由」を選んでしまう。

見えない恐怖

2008-04-15 16:17:46 | Weblog
 アメリカ、中国、インドなどで地下水が枯渇しているそうだ。北京周辺では1,000mほど掘らないと水が得られないらしい。
 黄河が渇水すればマスコミは騒ぐが、地下水が枯渇しても騒がないのは目に見えないからだろう。見えないものについて騒いでも関心は集まりにくい。映像が無ければインパクトが無い。しかし見えないもののほうが怖い。放射能やアスベストは見えないからこそ一層危険だ。
 地下水の枯渇が目に見える状態になった時には既に修復不能の状態になっているのではないだろうか。丁度、放射能やアスベストが人間の死という事態を招いてから初めて注目されるようなものだ。