俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

自由と責任

2007-12-25 09:09:33 | Weblog
 本来は個人の自由と個人の責任がセットになる。ところが近頃では管理責任が個人の自由を侵害しているケースが目立つ。管理する側が勝手なルールを作って個人の自由を奪っている。
 海水浴場にはロープが張られてその外では泳げない。エスカレーターでは歩けない。子供の動く遊具(ブランコやシーソーも含む)は撤去される。喫煙は屋外でさえ規制される。
 まるで小学校の校則だ。管理責任が問われる可能性のあるものは何でも禁止される。
 管理する側が責任逃れをすれば個人の自由な行動は一層危険になる。木登りが禁止されれば安全な木登りの方法は伝授されない。ビーチの沖で泳げないから危険な浜で泳ぐ。エスカレーターで急げないから階段での事故が増える。過保護としか思えないルール作りはかえって危険を生む。
 もし日本にグランドキャニオンがあれば全域立入禁止にされるだろう。それでもグランドキャニオンを見たい人は夜中に不法侵入して・・・多くの人が事故に会い命を失うだろう。そして更に厳しく立ち入り規制がされるだろう。自己責任で良いから楽しみたい人にとっては暮らしにくい世の中だ。

暇潰し

2007-12-25 08:54:38 | Weblog
 異論はあるだろうが、人が働くのは生活をするためだ。金が目的で労働はそのための手段だ。ところがどういう訳か労働が目的になっている人がいる。働くことが生きがいになっている人がいる。これはどういうことだろうか?多分彼には労働以外に何の楽しみも無いのだろう。
 人が一番嫌うのは何もしないことだ。何もしないことは非常に苦痛だ。何でも良いから暇潰しをしたがる。俗悪テレビ番組でもウソだらけの週刊誌でも暇潰しになるなら歓迎する。禁固刑受刑者の殆どが望んで作業をすることからも明らかなように、禁固刑より懲役刑のほうが退屈せずに済む。人は「無」よりは「無意味」を求める。
 世の中には様々な暇潰しの方法が溢れている。有償のものも無償のものもあるが、概して楽しいものほど高額になるのは仕方が無い。したいことをするためなら金銭的負担も惜しくない。一方誰もやりたがらないが必要な行為では報酬が得られる。やりたくない嫌なことを金という代償のためにやむを得ずにするということ、これが「仕事」の本質だ。特別つまらないか苦痛を伴う暇潰しだからそれをすることによって賃金を得ることができる。
 暇潰しとして最低のものを生きる目的にする人は本当に何もすることの無い絶望的な暇人なのだろう。もっと楽しいことや有意義なことを求めず、金を得るための手段にすぎない仕事でさえ目的になるとは恐ろしいことだ。
 

罪と罰

2007-12-18 19:42:08 | Weblog
 今年の漢字に「偽」という文字が選ばれたように食品の偽装が相次いだ。しかしこれは厚生労働省の犯罪的行為と比べたら大した問題ではない。少なくとも石屋製菓(白い恋人)、赤福、船場吉兆では1人の食中毒患者も出しておらず、13,420人の集団食中毒事件となった雪印乳業やのべ5千万人に被害を与えた消えた年金とは全然違う。
 被害者さえ出さなければ偽装をしても構わないなどと言うつもりは全く無いが、偽装をしたということだけで経営危機に陥っている企業がある一方でのべ5千万人に被害を与えながらボーナスまで支払われる厚生労働省・・・ひどい不公平だ。
 しかも厚生労働省の悪事はこれだけではない。薬害C型肝炎や非加熱製剤によるHIV感染もある。これらの事件はただの過失ではなく明らかに怠慢や責任逃れに基づいており事件発覚後も隠蔽工作を図って被害を拡大させている。言わば集団食中毒が発生していることを知りながら商品を回収しないどころか在庫品の売り逃げまでやっている。これほどの悪事を働けば民間企業なら100%間違いなく倒産する。ところが厚生労働省では何事も無かったかのように民間並み以上のボーナスまで支給されている。これらの悪事のツケは国に回され、国は国民から搾り取った税金で賄うだけだ。なぜ公務員の悪事が総て国民の負担となるのか。
 佐世保での散弾銃乱射事件でも散弾銃の所有を許可した長崎県警の責任が問われるべきだ。もし飲食店の料理人が包丁を振り回して暴れたらその経営者(包丁を持たせた責任者)が責任を問われる。一番悪いのは、許可を出したあとは放ったらかしにして住民の通報を無視した警察だ。
 許認可権はそれほど重いはずだ。その責任を厳しく問わなければ役人の無責任体質はいつまで経っても改まらないだろう。

銃のメリットとデメリット

2007-12-18 19:12:39 | Weblog
 何事にもメリットとデメリットがある。メリットとデメリットを比較すればそれが必要かどうか判断できる。銃の個人所有について検討すればどうなるだろうか。
[メリット]
・戦争で役に立つ・・・[反論]戦争でしか役に立たない物を平和時に持つ必要は無い。
・強盗に襲われても戦える・・・[反論]「荒野の七人」のような状況は現代の日本ではあり得ない。
・ストレスの解消・・・[反論]周囲にそれ以上のストレスを生む。
・熊や猪と戦える・・・[反論]熊や猪と戦わねばならない人だけが持てば良い。
・他者の生殺与奪権を握れる・・・[反論]論外
[デメリット]
・犯罪に使われる。
・暴発・誤射等の事故の恐れがある。
・人を狂わせる。
[結論]
 以上より、銃を一般人が持つことは百害あって一利無しと思われる。したがって銃の取得資格を思い切り厳しくして、プロの猟師か聖人君子のような人しか持てないようにしても良かろう。但し聖人君子のような人が銃を持ちたがるとは思えないが。
 また銃の私有も禁止して良かろう。警官や自衛隊員でさえ銃を自宅には置かない。銃は公的な場所に厳重に保管して、たとえ猟師でも複数の人の立会いのもとでしか銃を持ち出せないようにすれば安全性は飛躍的に高まるだろう。

安全のコスト

2007-12-15 18:47:13 | Weblog
 中国では日本より遥かに物価が安い。しかし日本と同じだけの「安全」を求めるなら多分日本より高くつくだろう。
 安全な食品を探すだけでも大変だ。安全な食品を手に入れるために日本の数倍の費用負担を覚悟せねばなるまい。
 安全に出歩くためには屈強な武装ガードマンを雇う必要があろう。それだけではない、ガードマンに裏切られないためにどれだけの負担が必要になるか想像することさえ難しい。
 「水と安全がタダの国」は実は非常に生活費が安い国だと言える。

祈る人

2007-12-15 18:40:19 | Weblog
 こんなジョークがある。
 熱心な信者がいた。彼は神に祈ることによって願いがかなうと信じていた。
 彼の村を洪水が襲った。消防士がやって来て避難するように勧めた。彼は「私には神が付いているから大丈夫だ」と言って避難を断り祈り続けた。
 水嵩が増して彼は2階へ逃れた。救急隊員がボートでやって来て避難を勧めた。しかし彼は断り、祈り続けた。
 更に水嵩が増して彼は屋根に登った。軍隊のヘリコプターがやって来て縄梯子を彼の目の前に降ろした。しかし彼は手を伸ばそうとせず祈り続けて・・・溺死した。
 霊になった彼は神に「なぜ助けてくれなかったのか」と文句を言った。神は答えた「ワシは3度も助けに行った。最初は消防士として、次は救急隊員として、最後には兵士にまでなって助けに行った。お前がワシの助けを拒んだのだ。」
                  *             *
 「天は自ら助くる者を助く」という言葉がある。人事を尽くさずに天命を待っていては天にも見捨てられるだろう。

タテマエとホンネ

2007-12-15 18:26:17 | Weblog
 自転車のハンドルは両手で握るべきであって片手を離してはならない。賞味期限や消費期限の切れた食品は食べてはならない。エスカレーターは乗る物であって歩いてはならない。ジェットコースターで手を離して万歳をしてはならない。
 これらは管理する側が決めたタテマエにすぎない。公に認めれば問題が発生するのでタテマエだけが横行するが、自己責任でやるなら全く構わないことだ。こんなことを他人に強制しようとする人はタテマエだけの石頭だとしか思えない。

容疑者のジレンマ

2007-12-15 18:20:02 | Weblog
 日本には無い制度だが、司法取引では共犯者について白状した容疑者は減刑される。例えば容疑者Aが白状してBは白状しなかった場合、Aは懲役3年、Bは懲役10年となる。二人とも白状した場合は仲良く懲役8年となる。二人とも白状しなければ証拠不充分で無罪となるかも知れない。
 一番得な戦略は二人とも白状しないことだが、お互いが余程信頼し合っていなければこの戦略が採られることは無い。多くの場合は両者が自分の刑罰を軽くするために共犯者を売る。
 ゲーム理論では3種類の生存戦略が想定されている。「善人」と「悪人」と「普通の人」だ。善人は相手に譲歩する人で、悪人は譲歩しない。「普通の人」は相手が譲れば自分も譲るし、相手が譲らなければ仕返しをする。コンピュータ上でこの3者に生存競争をさせると、初めは悪人が猛烈な勢いで増える。ところが悪人同士で争うようになって行き詰まり、最終的には「普通の人」が栄えるらしい。
 私はこの戦略をマネている。初対面においては誰に対しても善良であろうと心掛ける。しかし一旦相手に悪意が見えるとその人に対して心を閉ざして警戒するようにする。当初はノーガードで近付いて、攻撃されなければノーガードのままでいるが、一旦攻撃されればガードを固める。
 「みんなエゴイストばかりだ」と嘆く人がいるがその責任は自分にあることに気付かないのだろうか。自分が利害を基準にして生きていれば周囲の人もその人に対して利害関係の枠内でしか関係を持たないのは当然だ。

銃の規制

2007-12-15 18:00:57 | Weblog
 佐世保での散弾銃乱射事件は容疑者の自殺で終わった。本人が死んでしまえば法的にはどうしようもない。責任追及などできる訳ではない。自己の死を覚悟したテロを規制することは不可能だ。
 しかしこの際、銃の規制を強化することぐらいならできるだろう。銃砲の所持者は定期的に精神鑑定を受けることを義務付けるだけではなく、近隣の人から申請があれば一時的に銃を剥奪することができるようにしても良かろう。「気違いに刃物」という諺があるが銃は刃物より何百倍も危険だ。刃物を振り回すことと銃の乱射では危険性が全然違う。
 覆水は盆に返らず、失われた人命は戻らない。こんな悲劇を繰り返さないための規制強化なら誰も反対するまい。

ユダヤ史の捏造

2007-12-11 13:15:25 | Weblog
 他の理由もあろうが、ユダヤ人は主イエス・キリストを処刑させたために差別され続けている。しかしこれは濡れ衣であり、捏造された歴史に基づいている。
 「マタイによる福音書」にはこう書かれている。
 (ローマ総督の)ピラトは「この人(イエス)の血について私には責任が無い。お前たちの問題だ」と言った。(ユダヤ人の)民衆はこぞって答えた「その血の責任は我々と子孫にある」。・・・( )内は私が補足
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 原典に目を通して頂かないとこの文章の不自然さに気付いて貰えないが、残忍なローマ提督のピラトが突然物分りの良い善良な人物に変貌してイエスを救おうとする。100%間違いなく、イエス殺害の罪をローマ人からユダヤ人になすりつけようとしている。権力者であるローマ人が聖書を改竄したと思う。勿論私の推理でしかないが事実は多分「イエスの助命を願うユダヤ人民衆の泣き叫ぶ声を無視してピラトは見せしめのためにイエスを十字架に架けた」ということだろう。これではローマ人が「神殺し」の罪を背負わねばならなくなる。このような事情から聖書は改竄され、キリスト教徒は改竄された聖書を信じ続けている。
 これは改竄された歴史書である古事記や日本書紀を一語一句疑わないのと同じほど不合理なことだ。