俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

フィリピン人の作業

2009-05-29 15:18:15 | Weblog
 旅行先のフィリピンのセブ島で見たことだ。
 ビーチ一杯に広げたテントを分解して筏のような小さな船で対岸へ運ぶという作業なのだが日本人とは全然違った手順を使っていたので面白かった。
 日本人なら分解した部品を中央の波打ち際に集めて一回の積み込みで作業を終了するだろう。
 しかし彼らは部品を中央にも波打ち際にも集めなかった。部品を最寄の場所にある程度集積して放置した。その後しばらく休憩した。いや、正確には潮が満ちるのを待った。潮が充分に満ちてから、船をこまめに何度も接岸して荷物を積んだ。
 考えれば当然のことだが、テントは満潮でも水没しない場所に設置される。これをわざわざ干潮時に海辺まで運ぶことは無駄な作業だ。満潮時に積み込めば10m以上の運搬作業を軽減できる。満潮を待つのは当然だ。
 また荷物を中央に集める作業よりも船の接岸のほうが楽ならこのやり方も理に適っている。船ではなく台車を使うなら日本人も同じようにやるだろう。人力で運ぶよりも台車で運ぶほうが楽だからだ。
 しかし潮の干満という自然現象を利用するという発想はやはり海に生きる人々の生活から生まれた知恵だろう。

ルーズソックス

2009-05-29 15:06:37 | Weblog
 一時期、女子中高生にルーズソックスという不細工なファッションが流行った。これは格好が良いという理由ではなく「みんな」が履いているから違う格好をするのが恥ずかしいという理由で大流行したと思われる。
 金太郎の腹掛けのようなバカデカイ変なネクタイが流行った時代もあった。
 流行っているとそれに従わないと流行に取り残されるように思って流行に従ってしまう。関西地区の昨今のマスク姿もそうだ。通常ならマスクをすれば目立つが新型(豚)インフルエンザの流行で8割の人がマスクを着用していればマスクをしていないと恥ずかしくなる。
 思考においても同じことが起こる。マスコミが何かを取り上げると世論はすぐにそちらに靡く。マスコミは世論を先取りしている訳ではないし、世論を主導している訳でもない。ただ単にその時期の多数者に喜ばれそうなことを報道しているだけだ。こうして多くの人が同じ考えを持つとその流れは益々強くなる。
 周囲にすぐに同調してしまう日本人はもしかしたら世界で最も言論統制がし易い民族なのかも知れない。

偏見的総合判断

2009-05-29 14:52:44 | Weblog
 カントは「純粋理性批判」で先験的総合判断の限界を明らかにした。つまり無限とか永遠とかいった経験不可能なものを根拠にした思弁は必然的に矛盾に陥るということを証明した。
 多くの人は偏見的総合判断(私の造語)に基づいて主張するので議論が噛み合わない。もし論理学の基礎的な知識と正しい情報さえあればこんな事態に陥ることはない。
 例えば「白馬は馬でない」という詭弁がある。もし白馬が馬なら黒馬は馬ではなくなるという理屈だ。これは論理の基礎である「逆は必ずしも真ではない」という事実を知っていれば簡単に見破れるパラドクスだ。
 「白馬が馬である」という命題を勝手に「逆」にして「馬は白馬である」と読み替えるからこんなパラドクスが生じる。「白馬が馬である」ということと「黒馬が馬である」ということは何ら論理的に矛盾しない。
 正しい情報の不足も偏見的総合判断を招く。北朝鮮のように「我が国のミサイルや核兵器の成功が世界中から賞賛されている」などと言論統制による嘘の報道が続けられれば、国民がこの件に関して正しい判断をすることは不可能だ。事実に基づかなければ正しい判断は生まれ得ない。
 論理に対する無知と情報不足や経験不測が偏見的総合判断を生む。

民営化の効果

2009-05-22 13:48:09 | Weblog
 格安チケット店での切手の相場が下がっている。ほんの2・3年前までは額面金額の98%ぐらいが相場だったが、90%を割る店まで現れ始めた。
 かつては切手は第二の通貨だった。雑誌の有料の懸賞に応募する場合には現金か切手を送ることが求められた。
 現在の第二の通貨の地位は百貨店共通商品券やクレジット会社のギフトカードやクオカードあるいは図書カードなどが取って代わってしまった。
 なぜ切手の価値が下がったのか。これは民営化の影響が大きい。民間企業では社員にノルマを押し付ける。営業部門だけではなく事務部門にも情け容赦なく押し付ける。ノルマを押し付けられた社員は自腹を切らざるを得ないこともある。自腹を切って購入された切手は格安チケット店に流れる。供給が増えれば価格が下がるのは当然のことだ。
 郵政民営化がチケット店での切手の相場を下げるとは誰も予想しなかったことだろう。

ミクロとマクロ

2009-05-22 13:32:39 | Weblog
 「木を見て森を見ず」という諺があるように、ミクロの視点よりマクロの視点のほうがレベルが高いと考えられ勝ちだ。しかしこれらは相互補完的な関係でありどちらが高尚かという問題ではない。木も森も見るべきだ。
 トヨタには「言われたとおりにやるな」という名言があるが、私はこれを「マクロの視点からの方針をミクロの視点から補正せよ」という意味に解釈している。トレンドに基づいた発言は多くの人の共感を得易い。しかし常に逆のトレンドも存在しているのだから、大きな流れに流されることは新しい芽を摘んでしまうことにもなりかねない。
 重箱の隅を突くような批判は見苦しい。全体が見えない人に限って枝葉末節に目を向けたがる。しかしミクロの視点が不必要な訳ではない。大作「最後の審判」においてミケランジェロは細部を軽んじただろうか。ミクロとマクロは併せ持つべきものだ。
 ところでいしいひさいち氏の漫画「がんばれタブチ君」にこんな話がある。
 当時は暗いイメージがあった王監督が試合中にマウンドへ行って投手を指導しようとした。コーチは「監督が余り細かいことを言うと選手が萎縮する」と言って諌めた。王監督は「分かった」と言ってマウンドへ向かいたった一言「優勝するのだ」と暗い顔で言った。
 私はこれを読んで大笑いしたが残念ながら私の拙い表現力ではこの面白さの1/100も伝えられない。ぜひ原典を読んで欲しいが、ミクロとマクロのギャップを見事に描いた傑作だと思っている。
 

寄生体

2009-05-22 13:19:30 | Weblog
 ウィルスや細菌の多くは独立して生きることができない。他の生物に寄生して生きる。宿主の中で充分に増殖してから宿主を通じて他の動物に感染する。
 こういうメカニズムで繁殖するのだから強毒性であることは増殖のための必要条件ではない。むしろ弱毒性のウィルスや細菌のほうが増殖し易い。宿主にクシャミや咳や下痢を起こさせることは寄生体の増殖の機会を増やす。こうやって宿主以外にまで寄生を広げる。しかし宿主を死なせてしまっては元も子もない。宿主が元気に活動して寄生体の子孫をバラ蒔いてくれなければそのウィルスや細菌は増殖できない。宿主を死に至らしめる病は自滅する。
 マスコミは新型ウィルスの強毒化の恐ればかりを強調するが、強毒化とは実は劣化であり弱毒化こそ進化だ。
 今回の豚インフルエンザは当初メキシコでは強毒性ウィルスとして発生した後、弱毒性ウィルスに進化して世界に広まったと考えられる。もはやメキシコのインフルエンザとは別物であり、メキシコでの死亡率を根拠にして騒ぎ立てることは誤りだ。

ひ弱な日本人

2009-05-19 15:30:59 | Weblog
 日本人は病原菌に弱い。これが事実であることとその原因は歴史を考えれば明白だ。
 陸続きの諸国と違って島国の日本は海によって交易も交疫も妨げられた。ヨーロッパのようにペストやコレラやチフスなどの伝染病によって町が滅んだような歴史も無い。江戸時代末期にコレラ(コロリ)が流行ったくらいだ。
 これまで疫病に苦しめられなかったことは幸いなことだが未来を考えるなら不幸なことだ。なぜなら疫病は淘汰を生む。淘汰を通じて病原菌に強い民族へと進化するからだ。
 今更、病原体に強い体質を作ることは不可能だ。病原体に強いかどうかは先天的なものであり後天的にはどうすることもできない。
 生命力は「植物的」か「動物的」かに分類できる。植物的生命力とは疫病に強い・飢餓に強い・環境の変化に強いなどの特性であって、動物的生命力とは違って訓練を通じて強化できるものではない。
 強いて言えば基礎体力を高めたり栄養バランスを良くして、病気そのものではなく「症状」に耐え得る体質を築くしかない。しかしそれでも感染し易いという遺伝的短所を克服することはできない。
 今回の新型(豚)インフルエンザで感染者数では日本は世界で4番目の感染国(5月18日現在)になってしまった。これによって日本人の大弱点が暴露されてしまった。今後社会活動がますますグローバル化すればこの弱点は致命的とも成り得る。かつてバリで日本人だけがコレラに感染したようなことが世界のあちこちで起こることだろう。

話せば分かる(?)

2009-05-19 15:17:42 | Weblog
 話せば分かる訳ではない。話しても分からないから多数決という手法が使われる。多数決とは話しても分からない、「話せど別る」ということに基づいた決定方法だ。
 いくら話し合っても結論が出ない場合、2つの選択肢がある。①解決を先送りにするか②何らかの方法で結論を出すか、だ。
 ②の場合は更に2つの選択肢がある。①多数決にするか②誰かに一任するか、だ。
 一任された人にはこれまた2つの選択肢がある。①自分の意見を貫くか②双方が納得する第三の案を提示するか、だ。
 日本ではこれまではこうやって解決されることが多かったが、最近ではいきなり多数決にされることが増えているように思われる。
 多数決は一見民主的な方法のようだが危険な手法だ。意見の質を問わず量(頭数)に還元してしまうからだ。例えばA氏の財産を没収するかどうかを多数決で決めればA氏以外の全員が賛成してA氏の財産を没収してしまうという暴挙も可能だ。多数決は、多数者が少数者の権利を剥奪する手法にも成り得る。多数決はベストの手法ではなく、やむを得ずに採らざるを得ないワーストの手法と言えるだろう。

ナチス

2009-05-19 15:01:56 | Weblog
 ナチスに偏見を持たない日本人は少ないだろう。特にユダヤ人虐殺は、アメリカによる原爆投下や東京大空襲と並ぶ非人道的行為だと思っている。
 しかし第一次世界大戦の敗戦国で巨額の賠償金を課せられてハイパーインフレに苦しみ、更にアメリカ発の大恐慌にも巻き込まれたドイツがなぜあれほどの国力を持てたのだろうか。愚挙によって覆い隠された多くの善政がある。
 ドイツは景気対策および失業対策として大規模な公共事業に取り組んだ。これはどこの国でもやることだが一番大きな特徴は建設費の46%が労働者の賃金に充てられたということだ。公共事業費の大半がゼネコンの懐に入るどこかの国とは全然違う。
 少子化対策として結婚資金貸付法を定めて結婚資金1,000マルク(約200万円)を無利子で貸し付けた。単に無利子なだけではない。子供が1人生まれるごとに1/4が返済免除になるので4人の子供が生まれれば全額返済免除となった。
 あるいはスポーツ局を作って労働時間内での有給レクリエーションを奨励したり、食の安全にも配慮して世界で初めて合成着色料を規制したそうだ。
 どうもアメリカに倣うよりもナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)に倣ったほうが現在の日本の苦境を克服できそうな気がする。ナチスを頭から否定せずに是々非々のスタンスで、歴史から葬り去られつつあるナチスの政策を再評価しても良かろう。

製造業と小売業

2009-05-12 13:23:03 | Weblog
 昔から日本は「経済一流・政治二流」と言われて来た。しかし経済でも一流なのは製造業だけであり、小売業も金融業もサービス業も三流ではないだろうか。そうなってしまった原因を現代史に基づいて考えたい。
 製造業は常に国際競争に晒され続けた。戦後しばらくは欧米の製品と、その後はNICSや中国などと国際レベルでの競争をせざるを得なかった。それだけではない。昭和46年のドルショックや昭和48年の石油ショックも乗り越えた。こうして厳しい経営環境の中で優秀な経営者が育った。
 一方、小売業は昭和30年代および40年代前半は、商品さえ並べておけば売れる時代だった。40年代中盤の石油ショックや狂乱物価も「売上増」という追い風に繋がった。こういう楽な経営環境の中で無能な経営者が増殖した。
 50年代の小売業は「行け行けドンドン」の時代だった。売り場を増やせば収益も増える。こぞって拡大戦略を採った。そごうと西武百貨店とダイエーやマイカル(ニチイ)はこの路線を続けたためにその後破綻した。
 平成不況を迎えて無能な経営陣と彼らに育てられた無能な後継者達は何ら手を打てなかった。そのまま現在に至り、勝ち組とされるセブン&アイでさえセブンイレブンの加盟店のロイヤリティ収入で稼いでいるだけで本体は火の車だ。デパートはボロボロ。小売業で元気なのはユニクロだけだ。
 ユニクロは製造・小売業だからこそ強い。安楽な経営で人材が育たなかった小売業と違って、レベルの高い製造業のノウハウに基づいているから小売業で唯一の勝ち組となった。
 「艱難汝を玉にす」と言われるとおり苦労をした業界は能力を持ち、苦労しなかった業界では多くの企業が破綻へと向かう。