俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

言論の暴力

2013-11-29 09:43:07 | Weblog
 ローカルな話だが、伊勢に「赤福」という菓子屋があり、伊勢神宮の内宮前で「おかげ横丁」という江戸時代の街並みを模した商店街の運営もしている。その赤福の前社長が「おかげ横丁には外人は来てほしくない」と発言したとして朝日新聞と毎日新聞に非難された。
 毎日新聞に掲載された言葉をそのまま引用する。「外人は来てほしくない。いたらおかしいでしょ。来ないでくれとは言えないが、英語の表記をするような気遣いはしない」
 この発言がなぜ非難記事になるのか分からない。悪意を持って揚げ足を取っているとしか思えない。この発言の前後にどんな話があったのか知らないし、発言内容が正確かどうかも分からない。記事に合うように多少細工をしているとは思うが正確であると前提する。
 私はこの発言をこう解釈する。「江戸時代の街並みに外国人は不釣合いだ。景観を損なって欲しくない。増してやローマ字表記などとんでもない話だ。」多少好意的過ぎるかも知れないが少なくとも「おかげ横丁」の赤福の店の看板に「Akahuku」と表示すべきではない。興醒めだ。
 赤福の本音は「外国人でも日本人でも赤福を買う客は良い客だ」であろうから外国人でも大歓迎だろう。
 人は事実をそのまま認知することはできず、知覚する前から既にスキーム(枠組み)ができておりその枠内で解釈する。多分この記者は「外国人をおもてなしせねばならない」と確信しておりそのために「外国人への偏見」と解釈したのだろう。
 もっと穿った見方をすればこれは赤福に対する恫喝かも知れない。非上場企業なので経営内容はよく分からないが、赤福の宣伝費は余り多くない。企業規模が今よりもずっと小さかった時代にテレビCMをやっていたが今の宣伝費は当時と比べれば圧倒的に少ない。「もっと新聞広告をしないと嫌がらせを続けるぞ」と脅しているように思えてならない。新聞は悪意を持った記事を幾らでも掲載できる。今や第四の権力であるマスコミに睨まれたら一民間企業など一溜りも無い。それを避けるために宣伝費を使っている企業も決して少なくない。

武装解除

2013-11-29 08:56:18 | Weblog
 宗教は排他的なものだ。自分達だけが正しく他は邪悪だと信じる。ヨーロッパでのこれまでの戦争の多くが宗教絡みであったし、イスラム圏での内紛の大半がシーア派とスンニ派による争いだ。中国での易姓革命は新興宗教と農民による反乱が原因になっている。かつて十字軍がキリスト教徒とイスラム教徒(ムスリム)の争いであったように現代の火種はキリスト教徒対イスラム教徒、およびユダヤ教徒対イスラム教徒だ。インドではヒンズー教徒とイスラム教徒による争いが続いている。
 中世のヨーロッパではこんなことがあちこちで起こった。魔女裁判の拷問に耐えかねた人は「魔女と認めれば命だけは助けてやる」という言葉を信じて魔女と認め火炙りの刑に処せられた。こんなやり方を卑怯と思うのは非キリスト教徒だけだ。キリスト教徒にとって魔女は人間ではない。人間でないものとの約束など無効だ。植民地を支配した西洋人はキリスト教を知らない現地人を人間として扱わなかった。
 オウム真理教を宗教団体ではなく狂人グループだと考えたがる人が少なくない。しかしこれこそ宗教の本来の姿だ。自分達だけが正しいと信じれば、自分達を認めない社会は悪魔によって操られた悪しき社会であり破壊せねばならない。理屈としては筋が通っている。
 こんな危険極まりない宗教団体が安全なものになったのは織田信長の功績に拠るところが大きい。「仏敵」信長は宗教弾圧者ではない。武力によって仏教界を武装解除させた功労者だ。信長以前の寺社は武装集団であり利権集団でもあった。武蔵坊弁慶のような僧兵がいて武力によって利権を守っていた。信長による楽市・楽座とは宗教勢力から利権を剥奪する改革だった。危険な宗教団体から毒を抜いた、つまり「武・教分離」という世界に類を見ない偉業を成し遂げたということだけでも信長は世界屈指の英雄と言えよう。

娯楽

2013-11-28 10:05:05 | Weblog
 映像というメディアは一方的に働き掛ける。決して双方向性を持たない。テレビに子守役を任せて育てられた子供は知能の発育が遅れるという説があるが多分本当だろう。
 文章を読めばイマジネーション力が養われるが映像に対しては完全に受動的になる。受動的である時、脳は殆んど働かない。流水プールに浮かんでいるような状態だ。
 人の知力は正規分布しており、中央つまり平均付近が最も多く、両端つまり高レベルも低レベルも徐々に少なくなる。しかし映像に対する反応は富士山型のように思える。つまり高レベルは少なく低レベルほど多くなる。
 これは映画やテレビの致命的とも思える弱点だ。エロ・グロ・ナンセンスは人間の基本的快楽だから誰からも広く支持される。グロをアクション、ナンセンスをお笑いと言い換えれば殆んどの人が納得するだろう。
 かつて娯楽に徹するハリウッド映画と、芸術性も求めるヨーロッパ映画が競った時代があった。結果は、ハリウッドの圧勝だった。興行収入に頼る限り、芸術性は娯楽性には勝てなかった。誰にでも楽しめるエロ・グロ・ナンセンスが最強だった。
 テレビではかつて「低速番組」が問題になった。最近はそんな話は殆んど聞かれない。では低俗番組は無くなったのか。逆だ。低俗か低俗でないかは相対的なものだ。殆んどの番組が低俗番組になってしまえば比較的マシなものが高尚な番組に格上げされる。NHKのニュースさえかなりワイドショーに近付いてしまった。日本のテレビは映画と同様、娯楽一辺倒になってしまった。これは映画が興行収入によって淘汰されたように視聴率によって淘汰されたからだ。今更、芸術と言えるレベルまでは望まないが、エロ・グロ・ナンセンスだけに頼るのはやめて欲しいと思う。貴重なメディアの無駄遣いだ。

守備力

2013-11-28 09:36:00 | Weblog
 大半の球技で守備は脚光を浴びにくい。サッカーで目立つのは攻撃とゴールキーパーだ。キーパー以外の守備陣は目立たない。スポーツニュースで放映されるのは大半がゴールシーンであり、これは逆に言えば守備陣が崩された状況であり、ディフェンスは引き立て役だ。
 プロ野球の投手が「スポーツニュースは嫌いだ」と発言するのを聞いたことがある。ニュースになるのは殆んどが打たれたシーンだからだ。
 私は守備のほうが攻撃よりもずっと難しいと思っている。守るためには相手の行動を予測して先回りせねばならない。攻撃する側は動き易いように動いても構わないが守る側は相手の攻撃に合わせて臨機応変に動かねばならないから何倍も疲れる。
 よく守った、と誉められる守備は最高の守備ではない。守備陣形が崩されたからピンチを招いたと言える。窮地を切り抜けるプレーよりも窮地を招かないプレーこそ望ましい。最高の守備は目立たない。チャンスを作らせないからだ。観客は好守備があったことにさえ気付かない。相手チームのフォワードだけが、攻めにくいと苛立つ。
 野球でもファインプレーと称賛され易い凡プレーがある。目測を誤って一旦違う方向に走った外野手が一か八かのダイビングキャッチ、これは見た目には派手だが凡プレーだ。本当に上手い選手なら最短距離を走って楽々捕球する。
 企業においても守備力は正当に評価されていない。守備の上手い人はトラブルを芽のうちに摘んでしまうから問題が発生しない。下手な人はトラブルになってから対処する。問題を起こさない人こそ優秀なのだが、何も起こっていないのだから周囲だけではなく本人まで良い仕事をしていることに気付かない。
 トラブル対応の上手い人よりもトラブルを起こさない人のほうが遥かに優秀だ。残念なことにこの能力は余り高く評価されない。人事異動などでいなくなってから初めてその人の貴重な働きが理解される。私が宣伝部に所属していた時は際どい表現は絶対に許さず総てボツにしていた。しかし私が転出して更に退職した今秋、虚偽表示企業の1社として世間に恥を晒すことになってしまった。

西と東

2013-11-26 10:14:11 | Weblog
 なぜ白人が世界を支配したのか、これは誰もが持つ疑問だ。白人が優れた民族だからと考えるのは一部の人種差別者だけだろう。壮大過ぎるテーマから離れて、なぜ中国が西洋に追い越されたのかを考えたい。
 漢民族なら異民族支配を原因に挙げるだろう。確かに中国文明が確実に世界の最先端であったのは宋代までだ。しかしその後、明の永楽帝の時代にはアフリカ東岸にまで軍隊を派遣している。西洋の大航海時代よりも百年近く早い。海の覇権を握ることは充分に可能だった筈だ。
 皮肉な話だが中国は統一され西洋は分裂していたから追い越されたのではないだろうか。よく言われることだが、戦争は技術革新を促す。兵器だけではなく民生技術も進歩する。戦争をしなくても競合国に負けないために学問も奨励される。
 中国は余りにも長く巨大帝国として独立していた。そのために競争よりも統制が重視された。文明が外へではなく内へ、内政へと向かった。明による南海制覇も皇帝の一存によって中止された。この時、仮に中国が南北に分裂していれば南朝は海外制覇を推進していたのではないだろうか。
 良かれ悪しかれ、西洋の発展は植民地支配に負うところが大きい。南北アメリカ大陸やアジア・アフリカなどからの搾取によって膨大な利益を得た。このことが西洋を覇者たらしめた。これは西洋が分裂して競争状態だったからこそ可能だった。
 分裂は決して悪いことではない。私はアメリカとは「合州国」だと思っている。stateを州ではなく国と考えるなら「合国国」だ。それぞれの州が独自の権限と法律を持っている。
 中国は分裂して連邦制国家になったほうが良いように思える。中央集権で抑え付けるよりも地域・民族の独自性を生かしたほうが却ってトータルでの国力は高まるのではないだろうか。

正しい知識

2013-11-26 09:42:00 | Weblog
 専門家でも正しい知識を持つことは難しい。地震学者や医者などの多くが誤った知識に基づいて情報発信をしている。
 こんな状況で素人が正しい知識を得ることは至難の業だ。特定秘密法案であれTPPであれ、大衆は正しい知識を得られない。正確な知識を得ることを初めから諦めて大まかな知識で充分だと考える。だからイメージだけで判断する。テレビや新聞で批判される人に対して本当に悪いかどうかを問わずに「悪い人」と決め付ける。事実よりも雰囲気に流される。
 正しい知識を国民が求めなければデタラメが横行する。例えば麦はTPPの聖域として扱われているが、自給率が10%程度でしかも大半が米の減反のために作られる粗悪品であることを人々は知らない。米が聖域であれば麦も聖域だろうと思い込んでいるだけだ。
 麦ほど自由化のメリットが大きい商材は無い。現時点で麦を最も多く輸入している国はイタリアだ。世界中から良質な麦を輸入して加工したパスタを輸出することによって大儲けをしている。麦が自由化されれば日本もイタリアと同様の加工貿易が可能になる。確実に有望なのはインスタントラーメンとビールだ。どちらも輸出は少なく世界中に工場を作って現地で生産している。麦の国内価格がべらぼうに高いために、せっかく世界有数の良質な水に恵まれているのにそれを生かせる筈のビールまで現地生産をせざるを得ない。こんな馬鹿な形で産業の空洞化を招いて国益を損なっている。
 不可解なのはマスコミの対応だ。多分担当者は、麦の自給率が10%程度しか無く、農林水産省の天下り団体による独占貿易によって国益に背く省益が追求されていることを知っている筈だ。知っていながら報道せずに、こんな犯罪的行為が放任されている。
 JR北海道や飲食店の偽装など小さな問題だ。それと比べて麦による搾取は巨額であり、産業と国民に与えている被害は甚大だ。国民として正しい知識を持つことは難しくても誤った知識を信じ込むことは避けたい。

書店

2013-11-24 11:11:45 | Weblog
 大阪在住時は阪和線の杉本町という駅の近くに住んでいた。近隣に大阪市立大学があるので駅前には書店が3店もあったが順次閉店して今では1店も残っていない。これは大学生の本離れが最大の原因だろうが、書店というビジネスモデルの欠陥が現れたとも思える。 
 出版不況の中で大型店が増えているのは資本の論理ではない、単に規模の論理だ。書店は大きいほど有利だ。理由は2つある。
 1つは、大きい書店ほど品揃えが豊富になることだ。出版物は非常に多いので小さな書店ではその一部しか店頭に並べられず、客は品揃えの豊富な大型店に集まる。
 もう1つの原因は委託取引制度だ。委託取引なら返品が自由なので小売店が一方的に有利な制度のように誤解され勝ちだが、決してそうではない。委託取引は利益率が低いからだ。不良在庫という危険を避けるために書店は低い利益率に甘んじなければならない。そしてこれが招く最大の問題は返品作業だ。返品ほど無駄な業務は無い。返品される本とは売れなかった物だ。売れなかった物を返品するために納品と返品という2度の作業が必要になる。つまり利益ゼロのために2度も作業をせねばならないということだ。これと比べれば衣料品店では広く行われているバーゲンセールのほうがずっと合理的だ。たとえ原価割れで販売しても収入にはなり、しかも返品という無駄な作業が発生しない。書店の経営改善のために私は前号の雑誌のバーゲンセールを提案したい。出版社にとってもゴミにしかならない古本に使っている物流費が削減できるので両者にとってメリットがある。
 返品率は小規模な書店ほど高くなる。そのため小規模な書店の従業員は返品作業に多くの時間を割かねばならない。これは本来、販売や商品知識の向上のために割くべき時間だ。返品作業のせいで店頭サービスが低下して売上が減るだけではなく万引きの増加まで招く。このことが更に負の連鎖を生む。返品率が高ければ取次店から逆選別を受ける。つまり売れ筋品が入荷しなくなる。これではジリ貧にならざるを得ない。こういった事情から書店は大型店に集約されている。

アメとムチ

2013-11-24 10:37:10 | Weblog
 人を動かすためにアメとムチのどちらのほうが有効だろうか。私はアメのほうが断然有効だと考える。理由は極めて単純で、私自身がそうだからだ。
 叱られると萎縮する。指摘されたことだけではなく総てに対して消極的になってしまう。できるだけ何もせずに済ませようとする。逆に誉められると積極的になる。やらなくても構わないことまでやろうとしてやたら働く。年間4000時間以上働いた経験もあるがこれは煽てられた豚が木に登ったからであり決して強制された訳ではない。自主的に働く時に人は最もよく働く。
 中国人は全然違った考え方をする。彼らは今尚、戦国時代の法家の思想を受け継いでおり、人をムチによって強制しようとする。しかしムチによる強制には大きな弱点がある。ばれなければ良いと考えるから目の届かない所では手抜きや違法が横行する。市場も正当な競争ではなく騙し合いになる。9月25日付けの「厳罰主義」に書いたことだが「日本人が拾った財布を届けるのは容赦の無い法律があるからだ」と本気で考える国だ。
 多様で自己主張の強い中国人が自由になれば国が崩壊するかも知れない。少なくともウィグルとチベットは独立して中国は分裂するだろう。しかしそれは決して悪いことではなかろう。ソ連の分裂の再現だ。権力者以外の大半の国民は今よりも却って幸福になるだろう。日本のような小さな国でさえ地方分権が必要なのだから、巨大過ぎる中国は超中央集権国よりもEUのような緩やかな連携国家群のほうが多分良かろう。
 西洋人はムチの代わりに神を捏造した。全知全能の神の前では誤魔化しは通用しない。しかしこれにも弱点がある。神が捏造だと分かってしまえば見張り番がいなくなる。
 日本人の倫理の基準は中国人とも西洋人とも異なる。基準になっているのは優しさと思いやりだろう。架空の物語の登場人物にさえ同情する心優しき日本人が現実の人に迷惑をかけようと思う筈が無い。勿論、衣食が足りていることによる余裕に拠るところも少なくなかろう。

膨らむパイ

2013-11-22 09:26:39 | Weblog
 資源が有限であればゼロ・サムになる。誰かが多くを取れば他の人の取り分は少なくなる。資源の絶対量が足りなければ公平に分配しても全員が不満を持つことになる。こんな状況では競争で勝つか競争相手を減らすかしか無い。これが「パイの奪い合い」の状態だ。
 日本の経済はこの20年間成長しなかった。成長しない中で人口が増えたのだから当然一人当たりの資産は減る。これが「コップの中での争い」を招き、一方では少しでも多く取ろうとする者、その一方では格差の拡大を非難する者、つまり富裕者層から資産を奪おうとする者が現れた。皆が「吾、唯、足るを知る」の境地に達すればこんな争いは起こらないのだが、聖人君子になれる人ばかりではない。
 殆んどの人を満足させるには2つの方法しか無い。1つは日本の資産は現状のままで人口を減らすことだ。人口が減れば分け前が増える。私はこれを支持するが賛同してくれる人は余りいない。
 もう1つは一時期は軽蔑されていたGDPの拡大、つまり成長戦略だ。池田内閣の所得倍増計画のように国が成長すれば国民の収入も増える。今、日本はこれを目指している。パイが大きくなりさえすれば、たとえ今のままの不公平な配分率であろうとも個人の取り分が増える。
 中国が多くの矛盾を抱えながらも何とか秩序を保っているのは経済が成長しているからだ。しかしこのことは経済の成長が止まれば不満が爆発するという危険性を孕んでいる。危険な自転車操業のようなものだ。
 ゲーム理論には「容疑者のジレンマ」という良く知られた話がある。共犯と思われる二人の容疑者がいてお互いに相手の犯罪について証言をすれば罪が減免されるという条件が与えられている。両者が相手を無罪だと主張すれば二人とも無罪になれるのだが、自分だけが罪を被せられることを嫌って共倒れになることが多いそうだ。
 この容疑者のようにこの20年間、日本人は足の引っ張り合いをしてお互いに損をしていた。助け合いの精神を取り戻せば未来は明るい・・・?

精神病

2013-11-22 08:54:37 | Weblog
 こんな小咄がある。腕に矢が刺さった兵士が外科医を訪れた。外科医は鋏で矢を切り取って「完了」と言った。驚いた兵士が尋ねると医師は「外科の仕事はここまで。あとは内科の仕事だ」と言った。
 最近ではこんな風刺かジョークかよく分からない話が伝わっている。外科医は「内」臓にしか興味を持たず、内科医は「外」見しか見ない。
 ところで精神病とは何だろうか。当然、脳の病気だろう。しかしここで一度立ち止まって考える必要がある。それが内因性か外因性かということだ。もし内因性なら医師の出番だ。医師以外には治療できない。しかし外因性であれば医師の手に負えないかも知れない。もし矢が刺さったままの状態であればそれを抜くことから始めるべきだ。矢が抜けなければ治療は困難だ。
 精神病の外因としては家庭や職場での問題の可能性が高い。精神病医に外因を取り除けるだろうか、不可能だ。精神科医にできることはせいぜい離婚や転職を勧めることぐらいだ。精神科医は外因を治療できない。だから手の届くことだけをする。治療と称して様々な薬物を投与する。これは矢が刺さったままで治療をしようとするようなものだ。
 では投与される薬とはどんなものだろうか。薬の定義に戻る必要がある。薬とは異常な状態の体に異常な反応を起こさせる劇物のことだ。従って精神病の薬とは脳に異常な反応を起こさせる劇物のことだ。「毒を以って毒を制す」ことこそ薬の本質だ。
 こんな劇物が脳を刺激すれば何が起こるか。異常な状態なら怪我の功名で正常に戻るかも知れない。しかし心理的に多少不安定になっているだけの人にこんなものが投与されたら異常になるに違い無い。少なからぬ精神病患者が治療すればするほど悪化するのはこんな事情からではないだろうか。精神病の多くが実は医原病だろう。