俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

天使の羽

2010-05-28 16:33:39 | Weblog
 天使は昆虫から進化したのだろうか。
 鳥類もコウモリも翼竜(プテラノドンなど)も前肢が翼になっている。ところが天使の羽は背中に生えている。背中に羽が生えるのは昆虫だけだ。昆虫と天使と悪魔だけが前肢とは独立した羽を持っている。
 進化は決して降って涌くものではない。既存の器具の役割を変更して進化する。魚の浮き袋が肺に変わったように「在り合わせ」のものが使われる。合目的的にではなく常に当座の場当たりの「おざなりな」対応でしかない。
 天使があの貧弱な羽で飛ぶためには、天使の体重は限りなくゼロに近くなければならない。従って天使はその形態そのものが、それがあり得ないものであるということを証明してしまう。もし天使には体重が無いのならその羽は飛ぶためではなく飛ぶ方向を変えるために使われるのだろう。

原子

2010-05-28 16:22:14 | Weblog
 地球上の原子の質と量は常に一定だ。勿論、若干は変動する。隕石が落ちればその分増えるし、地球外へロケットを飛ばせばその分減る。水素爆弾を爆発させれば水素がヘリウムに変わるし、ウランは自然状態でも徐々に崩壊して安定元素へと変わる。
 こんな例外はあるものの基本的には殆ど変動しない。と言うことは、人間が増えた分、何かが減った筈だ。人間の体は主に炭素と窒素と酸素で作られている。人間が増えた分、何が減ったのだろう。他の動物と植物と石油・石炭が減った。地球上の原子の質と量が一定である以上、人間が増えるためには他の生物を減らさざるを得ない。これ以上人類が増えるためには家畜と食用植物以外の生物を絶滅させざるを得ないということになるだろう。それとも石油・石炭を活用したように鉱物に含まれる原子から人体を作るのだろうか。
 地球の原子の質と量は無限ではない。有限であり、常にゼロサムの状態だ。

脱皮

2010-05-28 16:08:32 | Weblog
 海老や蟹などの甲殻類が成長するためには脱皮をせねばならない。それまでの小さな殻を脱ぎ捨てることによってより大きな体へと成長する。
 人間にはこんな機能は無いためずっと同じ皮を被っているが、私は年に2度、春と秋に脱皮する。昨日フィリピンから帰国したばかりで、今、日焼けした肌が生まれ変わりつつある。そのせいか私の肌は年齢不相応に若々しいと時々(お世辞を)言われる。
 精神こそ脱皮することを厭うべきでない。脱皮をすればそれまでの知恵や知識が少なからず無駄になるが、それによって確実に賢くなれる。それまでの自分の延長であることと脱皮することとは全然違う。ある考えに基づいて生きて来た上で違う考え方に到着した人は深みが違う。脱皮できない人は蝶に成れない青虫か蛙に成れないオタマジャクシのようなものだ。
 脱皮しない人間は物事をそれまでの延長線上に無理やり納めようとする。プロクルステスのベッドのように現実を歪めて曲解しようとする。事実と見解(価値観)が食い違った場合、間違っているのは事実ではなく見解のほうなのだが、多くの人は見解を優先して事実を否定してしまう。悲しいことだ。

ゆ党

2010-05-21 16:43:19 | Weblog
 健全な「ゆ党」があって欲しいと多くの国民は願っているのではないだろうか。つまり「や党」でも「よ党」でもない、その中間の「ゆ党」だ。
 与党による専政は好ましくない。現在の鳩山政権が期待外れだと感じるのは、自民党政権と同様に数による横暴がまかり通っているからだろう。
 与党は多数派だから好き勝手なことをする。一方野党は反対のための反対しかせず議論は噛み合わない。個々に「これは民意に背く」と是々非々の立場で主張できる「ゆ党」があれば与党の暴走を少しは食い止められるのではないだろうか。これは理想論に過ぎないだろうか。
 民主党に専政をさせるために国民は民主党に投票した訳ではない。腐った自民党の専制政治を改めてくれることを国民は期待した。その期待に背いて自民党よりも酷い専政を行っている。これでは支持率が10%台に落ちて当然だ。空前絶後の1桁台という支持率を記録するのも時間の問題だろう。
 アメリカの民主党は与党になっても専制政治はしないしできない。国民の支持を得られないことを強行しようとすれば与党から造反者が出て否決してしまうからだ。また超党派で議決されることも少なくない。日本の民主主義はアメリカと比べて明らかに未熟だ。

学校教育

2010-05-21 16:31:16 | Weblog
 学校は知識を与える場所で良い。知識を知恵に高めることは自分でやるべきことであって、「自ら学ぶ意欲」など学校では教えられない。教えられるのはせいぜい「学ぶ面白さ」であり、意欲を教えることなどできない。そんな不可能なことをしようとして「ゆとり教育」のような間違った教育をやってしまった。
 教えることが可能なのはあくまで知識だ。進化論を学んでそれを単に知識として受け止めるか生き方の1つの指針とするかは各人が決めるべきことだ。
 金利を学んでそれを単に数学と考えるか生活に役立てるかは学んだ者が選べば良い。
 最初から知恵を教えることはできない。知識を与えられた者が知恵に昇華させねばならない。しかし知識が基礎にならなければ知恵は生まれない。知識と知恵は対立しない。それどころか知識は知恵を生む。口から摂取した食物が体を作るようなものだ。それを詰め込み教育と批判して知識の量を減らせばそれに正比例して知恵の量も減る。
 そもそも子供は教わったことを全部覚えられる訳ではない。せいぜい6割しか覚えていない。もしそれまでの7割しか教えなければその6割の42%しか覚えないことになってしまう。むしろ沢山教えて沢山忘れさせたほうが有益だろう。

負担の軽減

2010-05-21 16:18:12 | Weblog
 普天間の基地を辺野古と徳之島に移すことが負担の軽減になるのだろうか。とんでもない。これは負担の拡散であり、もっと厳しく言えば負担の拡大であり、民主党の得意のバラ撒きだ。これまで普天間が負担していた基地を辺野古と徳之島に負担させるのだから負担者は今よりも増える。「最低でも県外」という公約を一部でも実現してツジツマ合わせをするために徳之島は犠牲にされようとしている。
 もし誰か一人だけが重い荷物を持っていれば分担すれば良い。しかし誰かが蜂の群れに襲われている時にその蜂を他の人を襲うように仕向けるべきではない。これは被害の拡大にしかならない。
 蜂の群れに対しては追い払うか退治するよう努力すべきであり、皆で痛みを分かち合う必要は全く無い。皆が平等に不幸になることは悪平等でしかない。
 核兵器は危険物だが、アメリカに大量にあるのが危険だという理由で世界に分散しようと言っても誰も賛成しない。基地の拡散もこれと同じようなもので集約したほうがまだマシだ。
 重い荷物なら分け合えば良い。しかし沖縄県民の痛みを知るために痛みを感じさせられる側に回ろうとは思わない。
 

路上喫煙

2010-05-18 16:09:17 | Weblog
 最近、路上喫煙者が増えているように思える。世間ではマナーの問題として捕らえているようだが、これは18世紀のヴェルサイユ宮殿と同じく、施設の不備によるものだ。
 ヴェルサイユ宮殿は臭かったそうだ。トイレが無かったからだ。トイレが無いとなぜ臭くなるのか。トイレが無ければ庭がトイレと化してあちこちに糞尿が撒き散らかされた。言わば庭全体がトイレになってしまったのだ。トイレの掃除なら簡単にできても、広い庭を掃除するのは大変だ。賢い筈のフランス人がなぜこんな馬鹿なことをやったのだろうか。
 日本ではトイレではなく喫煙所が無くなった。全館禁煙のビルもある。こんな状況では喫煙者は路上へ逃れざるを得ない。屋内での喫煙を禁じられた夫がベランダへ出てホタル族になったのと同じ事情だ。
 僅か3割のマイノリティは7割を占めるマジョリティによって喫煙する権利を奪われてしまった。逃げる場所は路上しか無い。
 喫煙所を作ることこそ路上喫煙を減らす唯一の方法であるにも関わらず禁止一辺倒だ。これでは路上がヴェルサイユ宮殿の庭になってしまう。

喧嘩

2010-05-18 15:58:19 | Weblog
 喧嘩の強い人と弱い人が争えば強いほうが勝つ。しかし多くの場合、正義は弱い人のほうにあるだろう。弱い人は正義を諦め、暴力に屈するという二重の屈辱を受けることになる。
 弱い人は強い人と喧嘩などしたくない。負けることが分かっているからだ。それでも喧嘩をするのは余程の事情があってのことだろう。生命・財産などの安全が脅かされない限り、弱い人は喧嘩を仕掛けることは無いし、仮に仕掛けられても逃げるだろう。
 弱くない普通の人でも喧嘩は避けたい。痛い思いをするだけだ。もし喧嘩をするなら絶対に勝てる相手としかしたくない。少なくとも2mを超える大男や格闘技の選手とは絶対に喧嘩をしたくない。
 当たり前のことばかり書いたようだが、戦争ならどうだろうか。古代中国の兵法家の孫子は戦わずして勝つのが最善で、戦うなら勝てる相手としか戦うなと説いた。
 ということは戦争を仕掛けるのは強国か狂国しか無いということになる。日米戦争は狂国が仕掛けたのだろうか、それとも強国が仕掛けさせたのだろうか。

必要悪

2010-05-18 15:45:57 | Weblog
 市民(シチズン)は負担を嫌う。一番嫌な負担は兵役で、二番目は納税だろう。
 兵役は自由を奪うだけではなく命までも奪いかねない。だから最も嫌われる。
 納税は「命の次に大切な」金を奪うものだ。だから増税策は必ず反対される。その結果与党も野党も減税を公約に掲げる。
 ところで民主主義という仕組みは市民が主権を持つ。従って市民の利益が最優先される制度だ。それなら兵役と納税のような市民が望まないものがなぜ廃止されないのだろうか。必要悪だからだ。
 必要悪は受け入れざるを得ない。納税が無ければ国も自治体も成り立たない。兵士がいなければ武力によって強制的に併合されかねない。「平和、平和」と念仏のように繰り返しても平和になる訳ではない。
 必要悪を否定して兵役の廃止と減税を訴えるような政党はポピュリズム(人気取り政策)に過ぎない。年率10%の配当のような実現不可能なことを約束する詐欺師に等しい。高福祉を実現するためには財源が必要なことは子供にでも分かる。お役所の無駄遣いを無くしても足りなければ、議員および議員報酬の削減と増税しか無い。国債によるツケ回しなどサラ金での借金のようなものだ。

失業者

2010-05-14 16:21:56 | Weblog
 先月の1日から失業者になった。勤務先が希望退職を募集したのでそれに応募した。
 それなりに蓄えもあり金銭的には不自由していないので、読書三昧の高等遊民の生活を夢見ていたが理想は叶っていない。社会から分離することで軽い鬱状態に陥ってしまった。
 もともと私は自分を社会の歯車にしようなどとは考えていない。如何にして自立するか、個人主義をどこまで貫けるかを信条とする。それでも組織から離れることによって気力が低下した。
 人間は同僚を必要とし、同僚の賞賛を求める動物であるということを改めて痛感した。
 私のような個人主義者でさえ社会との絆を失うことで気力を損なうのだから、「生きるとは社会に貢献すること」と無邪気に信じる「社会的人間」が失業した場合はどれほどショックを受けることだろうか。彼らにとっては仕事をすることを通じて社会に貢献するということこそ自分の存在理由なのだから。彼らが生きる意欲を失うのも無理は無い。
 4月以降の私のブログの記事は少なからず質が下がっているように思える。軽い鬱状態が災いしているようだ。いずれは克服できるとは思っている。
 自由は決して全面的に快適なものではない。自由を犠牲にしてでも連帯を求めようとするのは群居動物である人間の本能のせいかも知れない。