俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

精神医療

2016-04-30 15:25:51 | Weblog
 肺炎の初期症状は風邪と似ている。それは免疫力の対病原体対応がワンパターンだからだ。病原体が侵入すれば免疫力が体温を上げる。体温が上がれば患者は不快だが病原体にとってはもっと苦しい。これが最も有効な抗病原体対応だ。だから風邪症候群と思える症状を訴える患者の中には肺炎などの他の疾病の患者が常に含まれている。
 欧米では風邪に対する薬を処方しない。風邪の治療薬は未だ発明されていないからだ。医師は休息と栄養を勧めて帰宅させる。肺炎らしき症状が現れてから対応しても充分に間に合う。風邪をこじらせても肺炎にはならない。風邪は所詮風邪であって肺炎とは別の病気だ。風邪の患者に肺炎の治療を施しても有害無益なだけだ。
 日本では風邪の症状を訴える患者に対して対症療法薬だけではなく「念のために」と抗生物質まで処方されることが多い。抗生物質は細菌にしか効かない~ウィルスが原因で発症する風邪に対しては全く効果が無い。しかしごく一部を占める肺炎の患者は発症が未然に防がれる。但し抗生物質の濫用は多剤耐性菌を増やすことになるから、厚生労働省も最近になってようやく抗生物質の濫用を規制するようになった。
 肺炎であれば見解の相異で済む問題かも知れないが癌や精神病であれば重大な問題になり得る。癌の疑いがあれば早期発見・早期治療の原則に基づいて手術が行われ、精神病の疑いがあれば抗精神病薬が投与される。どちらも少なからぬ危険を伴う医療だ。
 軽度の神経症的症状の患者に対して抗精神病薬を処方することが正しい医療だろうか。軽度の神経症は大半が精神病の初期症状ではなく一時的な精神のバランスの崩れだろう。原因を無視して危険性を伴う薬によって症状だけを抑え込もうとするべきではない。実際に苦しい思いをしているのであれば苦しいと感じるのは当然であり、この苦しみを感じなくさせることは正常化ではなく異常化だ。これは薬ではなくカウンセリングなどを通じて地道に克服すべき課題だろう。ブラック企業で扱き使われて疲弊した人が抑鬱的な精神状態になるのは決して異常な反応ではなく正常な反応だ。薬によって苦しみを感じなくなることが狂人への第一歩となる。
 軽度の精神病として治療を受けている人の多くは、実は初期症状ではなく一時的な軽度の神経症だろう。これを精神病として治療しようとするから人為的に本当の精神病患者にされてしまう。少なからぬ異常な犯罪者が精神病院への通院・入院歴を持っている。これは、治療をしたにも拘わらず、ではなく誤った治療が施されたことによる狂人化が原因と考えてほぼ間違いなかろう。医原病の恐怖に対して人々は余りにも無知だ。
 癌の早期発見・早期治療も大半が癌ではなく良性腫瘍を切り取っているだけだ。大半の癌は相変わらず不治の病のまま放置されている。
 

be

2016-04-29 11:12:17 | Weblog
 観念論ではなく実在論の立場を採らない限りこれは無意味な主張になるが、人には死後に残せるものと残せないものがある。残せないものはその人の死と共に消滅する。残せないものの多くはbe(である)によって表現され、残せるものはhave(を持つ)によって表されることが多い。
 beとは自分自身だ。自分がそうであったということは変えようが無い。どんな容姿でどう生まれて育ったかということは本人と不可分なものだ。これは正に自分自身であって良かれ悪しかれ唯一無二のものだ。
 haveは自分に所属するが不可分ではない。財産であれ地位であれ自分を特徴付ける重要な要素ではあるが自分から分離することができる。但しbeとhaveの境界はかなり微妙であり、日本語では「家族がある」と表現するところを英語では「家族を持っている」と表現する。これは家族に対する連帯感の違いの現れだろう。家族や仲間とは多くの記憶を共有する。自分自身の一部とも言える大切な記憶を共有するからこそ連帯感が強まる。
 私はhaveよりもbeを重視して生きた。知識を得る(have)ことよりも知恵を身に付ける(be)ことを重視した。単なる知識ではなく自らのための知恵として活かすために積極的に知識を求めた。身に付けるどころではなく自らを知識と同化させて成長の糧とした。それが間違っていたとは思わない。しかしいざ死を迎えることになれば困ったことが起こる。haveであれば社会に還元することができるがbeは私に付随して消滅してしまう。この世に残せるhaveとは違って私と不可分のbeは私の道連れになってこの世を去る。これを何らかの形にしなければこの世には残せない。私と共に滅びさせるのではなく少しでも多く残したいと思うのが人情だろう。
 私のbeは私のhaveよりも遥かにレベルが高い(と本人は思っている)。そのbeは私の道連れになってしまう。残された短期間で、共有されないbeを共有され得るhaveへと可能な限り焼き直したいと思う。以前であれば15年ほど掛けて徐々に実践すれば良いと考えていたが、私が焼き直すために許された時間は数か月あるいは数十日に過ぎない。ここに私の焦りがある。知識を吸収することは比較的易しいが知恵を具象化することは極めて難しい。具象化して言葉にできれば他者と共有できるが抱え込んだままの理想は私と共に滅ぶ。生きる人は自分の行動によって理想を実践できるが近々死ぬ者にはそのチャンスが与えられない。書き残すしか無い。
 人類の文明は文字を得ることによって長足の進歩を遂げた。文字によって時間・空間を超えた伝達が可能になったからだ。私の知恵が人類の叡智に貢献できるなどと思い上がったことを考える訳ではないが、不完全な知恵のほうが却って叡智以上に役立つこともあるだろう。

野菜

2016-04-28 09:36:02 | Weblog
 私の乏しい経験に基づくなら、日本人は世界で最も多く野菜を摂取する民族だろう。これはあくまで私が海外旅行で得た印象だ。ビュッフェ(バイキング)形式の朝食で日本人はワンパターンだ。生野菜ばかりを食べるのは日本人女性で、男性は必ずライスかパンを食べる。西洋人は大半が肉類ばかり食べている。
 フィリピンやタイで数人の女性と付き合ったことがあるが、彼女らは驚くほど少食で妙にフライドチキンが好きだった。野菜嫌いの彼女らにとってはフライドチキンがヘルシー食に当たるのだろうか。
 タイのフードコートで食事をしていて「ベジタリアンか」と尋ねられたことがある。殆んどの日本人の食事は外国人にはベジタリアンであるかのように見える。
 国内で中華料理をよく食べるが、日本の中華料理は野菜を多く使う。例えば酢豚と中国の「古老肉(クールーロー)」は随分異なる。古老肉は揚げた豚肉に甘酢を絡めた料理であって野菜を殆んど使わない。日本の酢豚はシンガポール料理のsweet and sour porkに似ていると思う。
 ステーキ以外の洋食はすっかり和食化されている。外国の料理に野菜の付け合わせは殆んど無く、大量の刻みキャベツが付き物の日本風洋食とは大いに異なる。
 こんな日本に住んでいれば嫌でも野菜の摂取量が多くなる。そして奇妙なことに日本では野菜を好むことが道徳的に正しいこととして奨励されているようにさえ思える。子供の偏食は99%確実に野菜嫌いを意味する。周囲の人はムキになって野菜嫌いを改めさせようとする。そのために窃盗癖や暴力癖を改めさせる以上の情熱が注ぎ込まれるのは、これが単なる食文化や健康だけではなく宗教的活動であることの現れなのではないだろうか。
 肉も魚も果物も殆んどの食物が生のままで美味しく食べられるのに、野菜だけは煮炊きしたり調味料まみれにしなければ食べられない。野菜とは最も不味い食材であり、漫画の「美味しんぼ」34巻での海山雄山の指摘「人間は生野菜を、本質的に好きではない」は「美味しんぼ」全編でも最も食の本質を突いた名言だと思える。
 通常、快いものは有益で不快なものは有害だ。ところが進化のプロセスのどこかで狂いが生じたらしく人類は臭くて不味い野菜を食べなければ健康を維持できなくなってしまった。
 これは動物と植物による生存競争だろう。動物の生命は植物に依存している。肉食動物は草食動物を食べるが、草食動物は植物に依存する。だから植物が存在しなければ動物は生きられない。植物は動物に食べ尽くされないために臭く不味く有害な物へと進化したのではないだろうか。
 野菜は健康のために欠かせない食材だがそれが決して美味しくないという事実は認められるべきだろう。抗癌剤による味覚障害のせいで野菜の不味さを痛感するようになったために社会通念の歪みを痛感させられた。障害者の立場から見れば社会は嘘と偽りに満ちている。

エンゲル係数

2016-04-27 09:38:49 | Weblog
 エンゲル係数が少し高まるとマスコミはすぐに「格差だ、貧困だ!」と騒ぎ立てる。なぜ彼らは一面的な捉え方しかできないのだろうか。まるで、小学校で教わった「南ほど暑い」を鵜呑みにして、軽装で南極に出掛けようとする人のような幼稚さだ。
 エンゲル係数が高まる主因は外食や中食が増えるからだ。そして外食や中食とは家事のアウトソーシングに他ならない。企業活動と同様に、家事のアウトソーシングの目的は経費削減だ。適切なアウトソーシングを行えば、たとえそのことによって経費が増えても全体としての経費は削減される。
 根本的な誤りは、人件費と見なすべき炊事を無償労働と評価していることだ。暇を持て余している人が炊事をするならその人件費など無視しても構わない。しかし現代人はそうではあるまい。寸暇を惜しんで働き個々の文化活動に勤しんでいる。炊事に時間を掛ければその分、労働時間や睡眠時間などが削られる。
 内食の金銭価値には「見なし人件費」を加算する必要がある。1時間の炊事であれば最低賃金は1,000円ほどであり、これを加算すれば少人数世帯の内食はかなり高価なものになる。
 私は現役時代、ごく簡単な朝食以外は総て外食だった。それは時間が勿体ないからだ。名目上での私の時間給は5,000ほどだったが、たとえ就業時間以外は自由であっても、自炊に費やす時間があれば、少しは自己啓発のために使うべきだろう。現役時代の時間はそれほど高価だった。それに時間当たりでの人件費で5,000円に相当する高コストな自炊をするよりも外食をしたほうがずっと良質で旨い物が食べられる。内食でファストフードと同質の食事をしようとすれば数倍・数十倍、高コストになる。外食や中食のほうが遥かに安上がりで手軽だ。もし自分で牛丼を作ろうとすれば大変な時間と手間が掛かる。そんなことに時間と労力とお金を費やすよりも牛丼屋に行ったほうがずっと得だ。「男の手料理」に代表されるように、内食とは贅沢な道楽でもある。
 先進国ではスペインのエンゲル係数が最も高く約34%だ。これは日本よりも10ポイントほど高い。このデータを見てスペイン人は貧しいと考える人はいない。スペインのエンゲル係数が高い主因は、外食費が17.5%と日本の4.5%よりも数倍高いからだ。スペイン人は炊事をアウトソーシングすることによって豊かな生活を楽しんでいる。決して食うや食わずの悲惨な生活をしている訳ではない。外食がハレの場ではなく日常生活の一部となった現代日本において、人件費を無視するエンゲル係数は最早、貧困度を測る尺度として役に立たない。
 

野党の野合

2016-04-26 09:52:33 | Weblog
 AかA以外かという選択は良くない。以前にツタヤ図書館の問題で指摘したことだが、「ツタヤ図書館は是か非か」という類いの住民投票をすればほぼ確実に否定される。ツタヤに反対という意見以外に、図書館の存在に反対という人も反対票を投じるからだ。これでは二者択一にならないから、こんな住民投票をすれば大半の案件が否定されてしまう。
 ニュージーランドで行われた国旗変更についての住民投票の手法が正しい。まず新国旗の候補を選んでからこれを現行国旗と競わせた。こうすれば国民の意見が比較的正確に反映される。もし先に現行国旗の是非を問えば多分否定する意見のほうが多いから、それから新国旗を選べば現行以下の物が選ばれかねない。勿論いきなり多数の候補作を比較しても失敗する。多くの候補作から1つを選べば見慣れている現行国旗が最も多くの票を集めることになるだろう。
 このように、投票というやり方ではその手順によって結果まで変わってしまう。できるだけ民意が正しく反映されるように、決定するまでのプロセスに充分な配慮がされねばならない。
 こう考えれば現行の選挙制度がいかに不合理なものか分かる。現職が有利になるように設計されている。どこの馬の骨か分からない人が何人立候補しようとも実績のある現職に勝つことは難しい。だから政党政治という手法を使わざるを得なくなった。
 しかし自民か反自民かという選択は、ツタヤか反ツタヤかと同じくらい不合理だ。自民党に不満を持つ人でも自民党の全政策を否定している訳ではあるまい。それなりに理念のある自民党の政策よりも全く方針の無い烏合の衆のほうがマシとは思えない。自公政権は連立与党であり政策協定を結んでいるが、民・共は「連立野党」ではないから政策を共有しない。何を否定するかが曖昧なままで現状にNo!と言っても建設的な新政には繋がらない。選挙は国民の代表を選ぶための場であって不満の受け皿として利用すべき場ではなかろう。
 かつて自民党に対する反発から民主党政権を選んだ日本国民はとんでもない不幸を味わうことになった。自民党以外に権力を与えれば少しはマシになるだろうという甘い期待は見事に裏切られた。
 半世紀以上に亘って政治を支配している自民党には人材が揃っている。他の政党の政治家の大半が自民党からは見向きもされない二流政治家に過ぎず到底、取って代われるだけの能力を持っていない。こんな二流政治家に頼るのではなく、元々矛盾を抱えた自民党が何らかの事情で分裂してくれることに期待したい。頼りにならない野党ではなく与党内の野党による政権交代に期待する。

「罪と罰」

2016-04-25 15:23:14 | Weblog
 ドストエフスキーの名作「罪と罰」の主人公はこう考えた。「あんな老婆が金を持っていても宝の持ち腐れにしかならない。むしろ俺があの金を奪って活用したほうが社会のために役立つ。」彼はこう考えて高利貸しの老婆を殺害した。高校生だった私はこの奇妙で身勝手な理屈に妙に納得したものだった。実はこれと酷似した理屈が暴力革命の正当化のために実際に使われている。老婆に当たるのはブルジョアジー階級であり「俺」に当たるのが革命の主体となる市民階級だ。
 日本の資産の多くを老人が持っている。豊かな老人ばかりではなく、貧しいと思われていた孤独死老人の死後に思わぬ大金が見つかることもしばしば話題になる。彼らはなぜ犯罪に巻き込まれるリスクがあるにも拘わらず使うアテもないまま蓄財に励むのだろうか?
 自分が老後を迎えてから家族のお荷物になったためにこんな選択はできなくなってしまったが、自由な独居老人の時代に「寄付預金」という制度について考えていた。
 身寄りは無いが資産のある老人は決して少なくない。彼らの一部は死後に財産を寄贈することを選択するが、折角寄贈して喜ばれるのなら死んでからではなく生きている内に寄贈して笑顔に触れたほうが気持ちが良い筈だ。彼らはなぜそうしないのだろうか。寿命が不確実であるだけではなく、生きていればいつどんなことでお金が必要になるか分からないからだ。将来に対する不安が彼らの善意を妨げる。
 お金はこの世でしか使えない。それならこの世で最も有効に使いたいと思うのが人情だろう。しかし実際に綺麗に使い切る人は人はごく珍しい。歳の功を積み重ねた筈の彼らの知恵を以てしてもそれは困難だ。
 いざという時には一部が返還される寄付制度があれば便利だと思った。もし寄付金の50%なり80%なりに請求権が保留される寄付があれば将来に不安を持たずに寄付することができる。これは寄付という形を取った安全な預金でもあり得る。
 多くの老人は決して貪欲ではない。資産を手放せない理由は欲がではなく将来に対する不安だ。犯罪に巻き込まれるリスクが高まると分かっていても資産を手放せない老人は貧乏人を演じることになりそのことで必要以上に質素な生活で生涯を終える。将来に対する不安さえ取り除かれれば彼らは資産による呪縛から解放されて自由になれる。眠っている資産をが目覚めさせればそれだけ経済が活性化する。老人が持つ資産を有効に活用するためにこんな「寄付預金制度」があっても良いのではないだろうか。

2016-04-24 11:56:13 | Weblog
 私の消化器系は悪化する一方だが、奇妙なことに他の傷害からは回復しつつある。体重が20㎏以上減少している最中に体調が改善するなど本来あり得ないことだ。改善した症状は殆んど総てが抗癌剤の副作用でありその毒が少し抜けたからと考えて間違いなかろう。
 思考力の低下や全身の倦怠感はかなり軽くなった。味覚障害が今でも残っているかどうかは今更調べようも無いが、多分少しは改善しているだろう。
 結果論になるが、直近の2か月間を無駄遣いしたことが悔やまれる。すっかり「寝たきり老人」に近い状態になっていたからだ。残り少ない人生を無為に過ごしてしまい、良き友人や恩人に挨拶回りをするための機会の大半を失ってしまった。
 脳味噌が少しはまともに機能するようになったのはほんの数日前からだ。丁度ブログを再開した日のことだ。それまでは「寝たきり老人」としてテレビの視聴に明け暮れる毎日だった。
 抗癌剤は恐ろしい。全身に無差別に作用するからどんな副作用がどこで生じるかは誰にも分からない。無差別テロリスト集団のようなものだ。
 抗癌剤の有害性は誰もが知っておりそれなりに覚悟して使われているだろうが、多くの医薬品はそれが有害であることさえ自覚されていない。特に抗精神病薬と生活習慣病の数値を改善するだけのために使われている贋薬はメリットよりもデメリットのほうが大きい。こんな有害物が放置されていることは大問題だ。
 日本人は世界で最も薬好きだと言われているが、薬、特に内服薬や注射が人体を内部から破壊しかねない恐ろしい毒であることはもっと広く知られるべきだろう。この危険性を広く告知できなかったことが大きな心残りだ。この危険性に気付いて勉強を始めるのが遅過ぎたようだ。

2016-04-24 10:28:07 | Weblog
 主に芸術において、日本では知的所有権が認められている。しかし知は所有すべきものだろうか。知とは共有すべき人類共通の財産ではないだろか。
 無知は不幸を招く。くだらない迷信は人生をつまらなくさせる。正しい知識を持つことによって人は自由になれる。オウム真理教の信者は間違った信仰を持ったばかりに自分も他人も不幸にしてしまった。
 学校は良い典型だ。共通知を共有することによって人々が幸福になれるのだから、知は囲い込まれるべきものではなく開放されるべきものだ。
 昔から「知は力なり」と言われる。しかし知は競われるべきものではあるまい。自らを律するためにこそ使われるべきだ。知を自慢する人には知性が欠けている。
 似た作品を見付ける度に「盗作だ!パクりだ!」と騒ぎ立てる人がいる。真実は1つなどと言うつもりは全く無いが、優れた思想や優れた作品が似るのは当然だろう。誰が計算をしても2+3=5であり、地球は太陽の周りを回っている。こんな知恵を個人が独占しても無意味であって広く共有すべき人類の知的財産と位置付けられて然るべきだ。
 固有知は所詮、個人的かつ個別的なものに過ぎない。より重要なのは普遍知だ。科学の発見のように、優れた知が広く公開されてこそ知の価値が高まる。
 私が「避難船」という記事を書いたのは20日のことだった。昨日(23日)、自衛隊は民間のフェリーをチャーターして避難民に開放した。この行動と私の提言との間に何らかの因果関係があったかどうか私は知らないが、多分、無関係だろう。それはどうでも良いことだ。ある理想を掲げてそれに近いことが実現されたならそのことで充分に満足できる。知恵は共有されるべきものであって手柄を競うためのものではない。良い意見であれば見知らぬ誰かがそれを実現してくれるかも知れない。

自力の救命策

2016-04-23 15:41:27 | Weblog
 手の付けられない癌として余命数か月との宣告を受けた私に今更何ができるだろうか。座して死を待つよりも一か八かの放射線治療を選択したが、あとは医師と運命に身を任せる以外に無いのだろうか。そうではるまい。自力でできることは必ずあり、たとえ微力であろうともそのために努力することを怠るべきではなかろう。
 食道癌のために日に日に食べられなくなっているからこのまま放置すれば癌で死ぬ前に餓死する。たとえ餓死しなくても病気や放射線障害を治癒するための力が失われる。何とかして戦うためのエネルギーを補充する必要がある。一時期、私はヨーグルトを主食にしていた。半液体であれば比較的容易に摂取できたからだ。しかし半液体でさえ胃に通りにくくなり始めた。いよいよ液体だけが頼りだ。
 少量食から半液体を経て液体食へと私の食事情は悪化し続けている。いずれその内、水さえ飲めなくなるだろう。その時には胃瘻や点滴に頼らざるを得ない。しかしそれまでには少しだけ時間がある。自力で何もできなくなるまでに自力でできることでベストを尽くすべきだろう。自力で抵抗できる残り少ない時間であろうとも可能な範囲で抵抗を続けたい。
 しかし少量の液体しか摂取できない私に何ができるだろうか。この2か月間頼りにしていた栄養飲料のエンシュア・リキッドにはもう頼れなくなった。半液状であるこの飲料でさえ胃に流し込むことは困難になった。
 最近、新しい栄養飲料を見付けた。意外なことにそれはカロリーメイトだ。これは決してあのお馴染みの「バランス栄養食」のことではない。こんな固形物は食べられない。偶然、液体のカロリーメイトがあることを知って早速取り寄せて試してみると、ほぼ液体であるために今の私でも水と同程度になら飲むことができる。たった200mlを2時間掛けて飲んでいる。今となってはこれとヤクルトが最も重要な栄養源だ。
 癌や放射線と闘うためにカロリーメイトやヤクルトに頼らねばならないとは何とも情けない話だとは思うが今のところこれらよりもマシな戦力を見付けられていない。蟷螂の斧のように微力であろうとも可能なことを試みるしかあるまい。
 こんな細やかな抵抗でも少しは功を奏しているのかも知れない。20㎏以上痩せ衰えた今でも自転車を使って通院している。

澱粉

2016-04-23 10:28:46 | Weblog
 私は小学校の家庭科で、澱粉・蛋白質・脂肪を3大栄養素として教わったが、昨今、澱粉という言葉が使われることは少ない。炭水化物や糖質という言葉が使われ勝ちだ。しかしこれの言葉は正しく使われていない。これらは決して類義語ではなく全く異なった概念だ。こんな、日常生活にとって重要な用語が不正確に使用されれば誤解を招く。
 炭水化物とは炭素と水の化合物を指す化学用語であり、化学であれば食物繊維を炭水化物と呼んでも差し支えなかろう。しかしこれを澱粉と同一ジャンルに含めて日常生活用語として使うべきではない。重要なカロリー源である澱粉質と、人類には殆んど消化吸収できない食物繊維とでは栄養価が余りにも違い過ぎる。この二者は栄養価としては正反対のものだ。澱粉と食物繊維の総称としての炭水化物という言葉はあくまで化学用語であって食物の評価のためには不適切な用語だ。この二者の混同は炭とダイヤモンドの同一視にも等しい愚行だろう。
 糖質という言葉もよく使われる。澱粉質の摂取量を抑える減量食は糖質制限食と呼ばれることが多い。しかしこの呼称も誤解を招く。辛党の人は甘い食べ物を嫌うが決して澱粉が主成分の食品を嫌う訳ではない。甘く感じない澱粉質は食物の主役であって辛党の人もこれらを好んで食べる。糖質という言葉に澱粉質を代表させるべきではない。糖質とは、人類に甘味を感じさせる特殊な澱粉質であってこんな例外者に澱粉質を代表させるべきではない。
 化学と栄養と味覚がゴチャゴチャになって訳の分からない分類になっている。澱粉と食物繊維を一括して食物繊維と呼んでいるから栄養学はは混乱し、澱粉と糖質を区別しなければ料理は成り立たない。ジャンルごとに使い分けるべき用語を無頓着に混同して使うべきではあるまい。用語は正しく使われて初めて意味を持ち、間違った用語は文化を破壊する。