俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

三上

2016-05-31 09:26:38 | Weblog
 約3か月半に亘って「思いて学ばず」の状態が続いていたがようやく読書を再開できる状態まで回復した。読書をできなかったのは机に向かって座っているだけで疲れるからだ。スポーツ選手は座って休む。ボクシングにせよ野球にせよ座ることが休憩であり寝転ぶ人はいない。私も長年、座るだけで充分だと思っていたが今はすぐに横になりたくなる。考えてみれば、魚類から哺乳類に至る進化史において内臓は常に横に並んでいた。人類だけが2足歩行を始めることによって内臓を縦に並べた。これは足と腰だけではなく内臓にとっても負担になる筈だ。
 昔からアイデアは「三上」(さんじょう)で生まれ易いと言われている。中国で千年以上前に生まれた言葉らしいが、馬上・枕上・厠上を指す。スウェーデンではBars Bathrooms Busses Bedsの「4B」が好条件と言われている。沈思黙考してもアイデアは生まれにくくむしろ多少リラックスしたほうがクリエイティブになれるようだ。
 読書をしなければ考える時間が増える筈だが余り考えなかった。刺激が無ければ問題意識も深まらない。堂々巡りをしていることが多かったような気がする。
 アイデアのためならリラックスが重要かも知れないが思考を深めるためには新しい情報が有効だろう。既に蓄積されている知識と新しい情報が対立した時に生まれる新しい知恵が大切だ。知恵を深めるためには既存の知識を否定する類いの情報に対する許容力が欠かせない。
 読書を欠いていた期間に情報源として役立ったのは新聞だった。時代遅れのメディアではあるが情報の質は際立って高い。その一方でテレビから得られる情報の質の低さには呆れる。テレビはタテマエ論ばかりで、明らかに嘘と分かるしらじらしい言葉を平気で垂れ流す。放送禁止用語の存在も大きい。放送禁止用語は余りにも多い。これは、公園の禁止条項と同様にヒステリックな抗議がある度に追加されて膨れ上がったからだろう。大量の放送禁止用語によって制約されるテレビ番組で言論の自由について議論しようとすれば自ら定めた規制によって雁字搦めになってしまう。一般論として言論の自由について問う前に、放送禁止用語の是非が問われるべきだろう。言葉の禁止はその言葉が関係する事項についての議論の禁止にも繋がる。放送禁止用語の氾濫のせいでテレビというメディアは豆腐を使わずに麻婆豆腐を作ろうとするような馬鹿げた状況に自らを追い込んでいる。
 言ってはいけないことがこんなに多ければ言論の自由などあり得ない。言論の自由が無い状態で言論の自由について議論することは悲劇を通り越して喜劇のレベルだろう。テレビは言論の自由を擁護するためのメディアにはなり得ない。言論を陳腐化・軽薄化して劣化させるだけだ。

奴隷

2016-05-30 09:42:04 | Weblog
 古代ギリシの社会は奴隷が支えていた。市民の数倍の奴隷が働き市民は殆んど働かなかった。市民は毎日、政治や芸術や哲学談義に時間を費やしていた。だからこそ優れた芸術や哲学などが生まれてヨーロッパ文明の礎となっている。
 奴隷と言っても現代人がイメージする奴隷とは随分異なる。市長などの公務まで奴隷の仕事だった。奴隷は市民によって所有されるがかなりの自由が認められていた。奴隷と市民というよりも、中世の庶民と王侯貴族の関係に近いかも知れない。奴隷と庶民が働き、市民と王侯貴族が搾取するという役割分担と考えたほうが理解し易いかも知れない。
 かつて「猿の惑星」(1968年・米)という映画が大ヒットした。シリーズ化やリメイク、あるいはテレビドラマ化やアニメ化までされたから様々なバリエーションがあるが、最も完成度の高い第1作はこんな話だ。
 宇宙船が到着した星の支配者は猿だった。猿のような姿の動物が地球とそっくりの文明を築いており、人類によく似た野生動物も住んでいた。実はこの星は核戦争後の地球であり、人類が退化する一方で猿が急激に進化したためにこの奇妙な世界が作られていた。
 この作品には原作があり重要な点で映画とは異なっている。猿が進化したのは核戦争後ではなく人為的なものだ。人類は猿を品種改良して奴隷として使っていたが賢くなり過ぎた猿が革命を起こして文明を乗っ取ったという筋書きだ。
 中国に似た民話があり私のブログで「猫の惑星」として紹介したことがある。この民話に拠ると、かつて世界の支配者はネコだった。ネコは不快な労働から免れるために魔法を使うことに決めた。当時の世界にはヒトという野生動物がいた。ヒトは体が大きく手先も器用だったがどうしようもない怠け者でネコが目を離すと忽ち飲食や交尾を始めるから家畜としては全く役に立たなかった。その一方でアリという野生動物もいた。アリは体が小さいが勤勉で死ぬまで働き続けることも厭わなかった。ネコは魔法を使ってアリにヒトの体を与えた。こうして作られたアリ人間はネコの期待通りに身を粉にして働いたからネコは働くことをやめて毎日大好きな日向ぼっこをして暮らした。現代社会に勤勉な人と怠け者がいるのは、前者が魔法によって作られたアリ人間で、後者が本来のヒト族の子孫だからだ。
 これらの話に共通することは、労働を奴隷に任せることによって支配者層は豊かで自由な生活を満喫できるということだ。
 ロボットに仕事を奪われると騒ぐ人がいる。しかしロボットこそ理想的な奴隷だ。賃金が不要であるだけではなく24時間働かせても文句を言わないし家族サービスのための休暇も生理休暇も要求しない。たとえ過剰労働を強いたために障害が発生しても管理責任が問われることも無い。仮に人一人当たり1台の奴隷ロボットを所有すれば現状を遥かに凌ぐ労働力が世界に満ち溢れる。
 個人も豊かになる。奴隷であれ労働者であれ相手が人である限り搾取には限度がある。彼らにそれなりの見返りを与えなければ死んでしまう。ロボットであればメンテナンスとエネルギー補給さえしていれば24時間働き続ける。ロボットの生産性は人の3倍以上になるだろう。ロボットから思う存分搾取をすれば所有者は貴族のような暮らしができる。
 労働などロボットに任せて人間は皆、失業すれば良い。技術革新だけはロボットには難しかろうから研究者だけが働けば充分だろう。
 1つだけ問題がある。70億の人類とその数倍のロボットが住むことになれば土地が足りなくなる。この問題を解決するためには人口減少が必須となる。人類が数億人程度まで減りロボットに頼り切った時、この世が理想郷に変わる。

悪循環

2016-05-29 09:47:31 | Weblog
 アメリカでの大統領候補選びのための予備選挙の結果に驚かされる。州ごとに余りにも異なるからだ。現代日本にはこんな全国統一での選挙が無いからあくまで推定でしか言えないが、沖縄を除けばこんな極端な結果にはならないだろう。地域ごとの違いはアメリカと比べて随分小さい。アメリカでの地域ごとの違いが異常なのか、日本での均一性が異常なのか、あるいはどちらも異常なのかはよく分からない。
 アメリカは人種の坩堝であり民族構成比の違いによって民意も異なるだろう。実質的に単一民族である日本とは事情が異なる。しかしそれにしても差が大き過ぎると感じるのは私だけではあるまい。
 全国紙が無いことも一因だろう。良かれ悪しかれ全国紙は全国一律に似た情報を提供する。しかし地方紙は地元の世論に迎合して情報を選別する。地元で関心を持たれ易い情報が選ばれるから、私のように三重県に住んでいればまるで名古屋が日本の中心であると錯覚しかねないほど情報は偏る。地域特有の価値観に基づいて新聞が報道するからその価値観が強化される。沖縄の政治意識が特異であるのは、その歴史の特殊性だけではなく、地元2紙の占有率が極端に高く(約98%!)全国紙などリゾートホテル以外では殆ど見掛けないことも大きな要因ではないだろうか。
 ロシアではプーチン大統領は神格化されるほど人気がある。北朝鮮の金正恩委員長も日本では考えられないほど高い支持を得ているのだろう。これらは情報操作に依るところが大きい。偏った情報しか無ければそれが正しい情報と位置付けられる。
 アメリカの大統領はこれまでなぜ広島を訪問できなかったのだろうか。世論の反発を恐れていたからだ。アメリカの国民の多くは原爆投下が正しかったという誤った歴史観を持っている。政治家は学校の教師ではないのだから国民の誤りを正す義務など無く、誤りに便乗して地位を守るほうが得策だ。アメリカの歴代大統領は国民が誤りに気付くまで、あるいは原爆投下に疑問を持ち始めるまで待たざるを得なかった。
 民主主義は民衆の総意に基づく。総意が黒と言えば黒く、白と言えば白い。それが事実かどうかなど大した問題ではない。自分達が慣れ親しんだことや都合の良いことのほうが事実よりも優先される。
 キリスト教徒が多い社会ではイエスの教えが正しくイスラム教は邪教だ。勿論ムスリム(イスラム教徒)の社会ではその逆になる。国民がそう信じている限り権力者であろうともそれを否定できない。下手に邪教を擁護すれば異端者扱いされかねない。社会に蔓延る偏見に背く発言はマスコミやネットなどによって袋叩きにされるかも知れないから穏便で当り障りの無い発言に終始する。
 現代の日本人は中国人が大嫌いだ。こんなに中国人嫌いの人が多いのに自分自身の経験に基づいて嫌っている人はごく一部に過ぎないだろう。マスコミが煽るだけで世論など簡単に操作できる。
 民主主義は所詮ポピュリズムだ。多くの人が同じ偏見を共有すればそれが世論であり、マスコミも読者や視聴者に迎合しなければ自分達が損をする。こうして悪循環が生まれる。
 民衆を信じると語る政治家は大嘘つきだ。彼らは民衆の偏見に迎合する風見鶏に過ぎない。テレビが報じるのはそんな人々による空疎な言葉ばかりだ。
 

財政出動

2016-05-28 10:13:05 | Weblog
 税金には2つの目的があると思う。富の再分配と富の効率的使用だ。役所仕事は非効率の象徴と見なされ勝ちだが、これは本来の主旨から考えれば大きく逸脱している。この悪弊は戦後の過剰雇用が大きな原因であり、昨今では新規雇用者の質的向上が進んでいるだけに彼らによる構造改革を通じて本来の姿が獲得されることに期待したい。
 富の再分配の具体例として累進課税が挙げられる。収入の多い人の富を収奪してそれを年金などに充当すれば国民全体が豊かになる。必ずしも貧しくない人まで優遇する所謂「格差の解消」は過剰な再分配だと私は考える。
 富の効率的使用については2つに分けて考える必要がある。通常時と非常時だ。通常時の政策として分かり易いのは、警察・消防・インフラなどだろう。これらは個人で対処するよりも公共の財産にしたほうがずっと良い。自力で自分を守るよりもそのための組織に投資したほうが効率的であることは確実だ。必要な公共財産のために税金を使うことは公益に適っている。その一方でヒグマしか通らないような場所に道路を作ることは全く合理性を欠いている。
 災害対応は非常時に属するが通常の出費の延長と考えられる。救助活動では特定の個人のために公費が使われることになるがこれは結果的に個人が救助対象になるということであり公益に含まれると考えて支障は無かろう。しかし対象が限定される類いの救助、例えば登山での事故であれば公費ではなく民間の保険に依存すべきだと私は考える。
 判断が難しいのは経済対策としての公費の使用だ。大恐慌でのニューディール政策などは必ずしも必要な事業ばかりではなかったがカンフル剤として公益に適っていたとして肯定されている。その一方でリーマン・ショックの時の日本政府の対応は他国と比べて小規模かつ小出しであったために殆んど功を奏しなかったと言われている。当時の政府は責任を果たせない無能力集団だったと酷評せざるを得まい。
 現在の経済状況は不安定だ。中東での政治的混乱とそれに伴う難民問題、あるいは中国経済の失速など問題が山積している。これらに対処するために財政出動が必要だと自民党は主張する。しかしそれが必要かどうかはその内容が適切かどうかに基づくべきであり、一般論として財政出動が必要かどうかなど論じられない。現在の財政出動論に具体策は全く無い。政府は白紙委任状を求めている。こんな無責任な話は無い。具体策が無いのであれば最良の景気対策は減税だろう。このことは仁徳天皇の昔から変わらない。
 経済状態が悪いのであれば減税をすべきであって、増税と財政出動の同時実施など狂気の沙汰だと思う。これはアクセルとブレーキを同時に踏むよりも悪い。不完全なアクセルをブレーキと同時に踏んだ場合、ブレーキだけが働く可能性が高い。
 有効な対策案を欠いたままで、政治家のスタンドプレーに過ぎない財政出動など要らない。もし実施したいのであれば予めその内容を明かして国民に信を問うべきだろう。
 安倍政権は消費増税を諦めたようだが、無駄遣いにしかならない財政出動も早く諦めて欲しいと思う。もしそれが必要と言うのであれば具体策を明示すべきだ。こんな大切なことを無条件で委任できるほど国民は政府を信用している訳ではない。
 サミットの首脳宣言では意外な言葉が使われていた。サミット直前まで安倍首相が好んで使っていた「財政出動」という言葉が影を潜め、「財政戦略」や「財政政策」という言葉に置き換えられていた。多分財政出動に否定的な英・独の意向に沿ったものと考えられるが私も訳の分からない財政出動など慎んでもらいたいと思う。
 

節税策

2016-05-27 09:44:39 | Weblog
 日本にもタックスヘイブン制度がある。所得税が最大7割も軽減される。しかもその恩恵に与かるためにはその土地に住むこともその土地で働くことも不必要で、特定の自治体に納税すれば良いという革命的な税制だ。その制度は「ふるさと納税」と呼ばれている。
 当初の「ふるさと納税」は納税した人に対する返礼としてその地域の特産品を贈るという制度だった。これは宣伝効果を狙ったものであり、余り知られていない特産品を贈ることによってその良さを知ってもらい、あわよくばその商品のファンになってもらおうという狙いだった。通販の試供品と同様、リピーターの増加による町興しを目論んでいた。
 ところが徐々に違った意図が働き始める。本来、他の地域に収めるべき税金が自分の自治体に収められるなら坊主丸儲けになる。たとえ納税額の9割を返礼しようともそれは本来であれば無かった筈のアブク銭だ。ゼロつまり無が有に化けた棚ボタ収入だ。
 自治体にとっては確実に増収に繋がるのだから競争が起こることは必定だ。他地域よりも有利な条件を提示するだけで増収できるのだから無能な役人でも手柄を立てるチャンスになる。こうして地域間での返礼品競争が激化した。
 納税する側にとっても美味しい制度だ。本来であれば全く還付などあり得ない納税がかなりの高率で還付される。還付率が高い、つまり高額な返礼品を提供する自治体が納税先に選ばれて合法的な節税策として浸透しつつある。
 この制度では当事者の双方が得をするウィン・ウィンの関係になるから、平成25年は145億円、26年は389億円、27年は約1,300億円と倍々ゲームどころではなく3倍増を続けている。もしこのペースを維持すれば富裕層の所得税は総て「ふるさと納税」になってしまいかねない。しかし全自治体を見渡せば損失になる。公から民へという資産の移動があるだけだ。トータルの税収額が同じなのに、ふるさと納税、つまり還付金付き納税を受け入れた自治体が返礼品相当額を負担するのだから、全体として考えれば、裕福な納税者が受け取る返礼品を公費で賄っているだけだ。こんな馬鹿げた制度は他に無い。
 これはタックスヘイブンと全く同じ構造だ。極端に低い法人税率を設定すれば世界中から企業が集まりその地域の税収は増えるが、企業が流出した国の税収はゼロになる。他国を犠牲にする税のダンピングだから国際問題になっている。「ふるさと納税」は自治体間での無駄な競争を煽ることによって他の自治体に収めるべき所得税を収奪させようとすると共に、庶民から集めた税金を富裕層の節税策のために浪費するというとんでもない制度だ。一刻も早く廃止すべき金持ち優遇策だ。

放射線治療

2016-05-26 09:56:08 | Weblog
 先月(4月)の下旬、私は余命数か月との宣告を受けた。抗癌剤による治療を受けるために2度入院したにも拘わらずその効果は全く無く、食道から肺と動脈に浸潤した癌は治療不可能だと告げられた。内科医はステントによって癌細胞を押さえ付ける延命策を勧めたが私はこれを拒否して、成功する可能性は僅か数%でそれによって食道と肺を隔てる正常細胞が破壊されて却って死期を早めかねないと言われた放射線治療を強硬に要求した。転院も辞さないとする強硬姿勢とその剣幕に圧倒された医師は渋々放射線治療を承諾した。
 それから約1か月、予想に反して私の癌は縮小し肺炎の炎症も軽減した。放射線科医は想定外の経過に驚くと共に、これまでよりも照射範囲を狭めて癌をピンポイントで攻撃するための見直しを実施した。同時に当初は50グレイを限度として設定していた照射量を60グレイにまで拡大した。
 自覚症状の変化は、量は決して多くないが固形物を食べられるようになったことが最も大きい。水分の摂取可能量も大幅に増えたので今後の夏場の脱水症や熱中症に怯える必要性も殆んど無くなった。抗癌剤による副作用が原因と思われる味覚障害も徐々に治癒しつつあるようだ。
 このように放射線治療は奇跡的と思えるほどの効果を齎したが、まるで魔法とも思える奇妙な印象を患者に与える。音も光も熱も痛みも感じないままに治療が進むからだ。治療をしたという実感が全く無い。外見上でも治療の痕跡は全く残らないから治療が行われたということさえ分からない。証拠は治療効果があったという事実だけだ。まるでハンドパワーか神通力で治療されたような妙な気分だ。
 放射線治療機のメーカーは真面目過ぎるから余計な機能など付けようとは考えないのだろうが、少しぐらいコケオドシがあっても良かろう。患者に熱や痛みを感じさせる必要は無いがおどろおどろしい音や神秘的な光があっても良かろうと思う。これは決して無駄な機能ではない。心理的効果が期待できる。家庭用の赤外線炬燵が必ず赤色光を伴うように照射を実感することも必要だろう。
 近藤誠氏の著書の愛読者である私は標準的な日本人と比べて随分放射線治療を理解しているつもりだったが、これほどの効果は全く想像していなかった。世界で唯一の被爆国である日本人は必要以上に放射線を怖がっておりその有効性を過小評価していると思える。こんなことで有効な治療法が充分に利用されていないとは嘆かわしい。欧米での放射線治療は手術と同程度に普及しているらしい。マスコミには国民の偏見に付け込んで不安を煽るばかりではなく正しい情報を伝える義務がある。
 いつものことだが、マスコミがバラ撒く情報は偏向している。手術や抗癌剤にばかり頼らずに放射線治療を受けていれば助かっていた人も少なくなかろう。
 その一方で放射線治療の限界も理解しておく必要がある。放射線には発癌性があるからこの治療によって新たな癌に罹る可能性がある。もう1つの欠点は照射許容限界の存在だ。過剰照射は患者を殺してしまう。だから許容限界に近付けばそれ以上の照射はできなくなり、癌細胞の取り残しが起こり得る。これが将来新たな病巣になった場合、既に許容限界に達しているから放射線による治療はできず他の治療法に頼らざるを得ない。

いざ鎌倉

2016-05-25 10:10:40 | Weblog
 ダルビッシュ有投手はトミー・ジョンの手術のために生じた1年半のブランク期間中、体力作りに専念したそうだ。その甲斐あって基礎体力は故障以前よりも高レベルに達しており以前にも増して力強い球を投げているらしい。
 イチロー選手は第4あるいは第5の外野手と位置付けられてここ数年はベンチを温めることが多い。それにも拘わらず出場機会が与えられれば全盛時と変わらぬ俊敏な動きを見せて活躍する。とても42歳のロートル選手とは思えない。レギュラー時代と同等あるいはそれ以上の質の高い練習を積み重ねているからだろう。
 鼻先にニンジンをぶら下げられた馬が一所懸命走るように人はチャンスになれば「ここぞ」と頑張る。しかし頑張るべき時には誰でも頑張るものだ。人間は馬よりも賢いのだから人間にしかできない頑張り方があっても良かろう。
 「鉢の木」という謡曲がありこんな粗筋だ。
 出家した第5代執権の北条時頼は旅の僧に扮して佐野源左衛門常世に一夜の宿を借りた。佐野は貧しく薪にさえ不自由していたから初対面の僧に寒い思いをさせないために大切にしていた鉢植えを囲炉裏にくべた。僧(時頼)は彼の徳の高さに驚いて素性を尋ねたところ、佐野は自分が落ちぶれた御家人であり、それでも「もし幕府に一大事が起これば(中略)一番に鎌倉に馳せ参じ、一命を投げ打つ所存でござる。」と語った。その後、実際に一大事が起こって多くの武士が鎌倉に駆け付けた。その中には周囲から嘲笑されるほどみすぼらしい身なりの佐野の姿もあった。時頼は佐野の忠義を大いに喜び、佐野が失っていた領地と併せて新たな土地を恩賞として授けた。
 落ちぶれようとも武士の魂を捨てない佐野の高潔さこそ武士の鑑だ。逆境においてこそ人間の本領が発揮されるものだ。
 私はこんな高潔さとは縁遠く、仕事上での方針は「チャンスとピンチのメリハリ」だ。つまりチャンスには積極的に攻めピンチには悪足掻きを避ける。こんな姿勢は上司にとっては不愉快だっただろうが私なりに理由があってのことだ。良い状況での仕掛けのほうが有効だからだ。業績を伸ばせる販促策を仕掛けるなら追い風に乗ったほうが良いことを数学的に証明できる。1割増にする販促策を、5%増の状況で仕掛けた場合と5%減の状況で仕掛けた場合とを比較すれば、前者が1.05×1.1=1.155であるのに対して後者は0.95×1.1=1.045になる。対策を実施しない場合との差はそれぞれ1.155-1.05=0.105と1.045-0.95=0.095だから対策による増収額は前者のほうが多くなる。
 実例を挙げよう。私はサラリーマン時代に2度消費税対策に取り組んだ。導入時と増税時だ。どちらも同じ手法でどちらも成功したと思っている。それは導入前や増税前に目一杯仕掛けるという戦略だ。残念なことにこの戦略は上司からは充分に理解されなかったようだ。計画の時点では納得するのだが、いざ不振時を迎えるとすっかり血迷ってしまう。それを無駄な悪足掻きとして否定する私の姿勢は、知恵に溺れて地道な努力を軽視しているかのように映ったらしい。
 私とて不振時の努力を否定しない。しかし行動は合理的であるべきだ。不振時にスタンドプレーで足掻いて見せるよりも、来るべき次の好機に備えた準備を整えることのほうが重要だと今でも考えている。
 ピンチにはピンチ時の対策がありそれはチャンス時とは全く異なる。もしダルビッシュ投手が手術後もそれ以前と同じ練習を続けていれば再起不能になっていただろう。「いざ鎌倉」の心情を否定する気は無いが、効率性を無視した悪足掻きを肯定することはできない。無暗に頑張るよりも知恵を使うべきだと考える。知恵を使わずに無暗に頑張って見せることこそ誠意を欠いた姿勢だろう。
 私は癌に対しても戦いを挑もうとは思わない。攻めは放射線に任せて、私自身は可能な限りでの栄養摂取に努めて守りを固める。ピンチでの対応策はチャンスとは違った発想に基づくべきだ。

絶滅

2016-05-24 10:13:47 | Weblog
 バナナの収穫量が激減しているそうだ。これはカビによる新パナマ病という感染症が原因だ。
 農作物の絶滅はこれまでに何度も繰り返されている。1840年代の後半にアイルランドではウィルスによる立ち枯れ病によって主食のジャガイモが壊滅的な打撃を受けて100万人以上が餓死し200万人以上がアメリカなどに移民をしたと言われている。ケネディ家はこの時の難民の末裔だ。1890年頃フランスののボルドー地区などのブドウは昆虫によって絶滅した。このようにカビやウィルスや昆虫といった様々な感染症によって農作物が絶滅するのは、同一品種に頼っていることが大きな原因だ。品種が同じであれば同じ病気に弱い。バナナの場合、単に同一品種というだけではなくクローンなのだから長所も短所も全く同じであって大感染を招き易い。遺伝子が多様であれば様々な変化や感染症に対してどれかが対応できる。生物として多様である種ほど生き残れる可能性が高くなる。
 しかし多様である生物を管理することは難しい。気温や水の量や必要な肥料などが異なる植物を同一の土地で成育させることは不可能だろう。管理することを優先して考えるから、たとえ絶滅の危険性があると分かっていても同質化させたくなる。
 このことを人類に当て嵌めて国民を同質化しようとした政治家がいた。ヒトラーはユダヤ人を排除してゲルマン民族を純血化しようとしたがこれは過去の話では済まされない。社会主義とは実は全体主義であり、全体の利益というタテマエの元で権力者による管理主義が横行してとんでもない政策が実行される。
 ウクライナ問題の背景はソ連時代まで遡らねば理解できない。ソ連はクリミアの住民をロシアに移住させ多くのロシア人をクリミアに居住させた。こうして国民の同質化を図ったが異なる民族が融和することは共産党が考えたほど容易ではなかった。民族対立の原因はロシア時代の均一化政策にある。
 中国はウィグルやチベットを同質化しようとしてソ連と同様に民族の入れ替えを図っている。しかしこんな政策が成功する筈が無い。無宗教に近い漢族とイスラム教徒のウィグル族、あるいは仏教徒のチベット族は水と油のように乖離する。更に困ったことには、管理主義に基づく民族の均質化は同一化ではなく少数者固有の希少で貴重な文化の破壊となり勝ちだ。
 短期間で国民を同質化することなど不可能であり軋轢を生むだけだ。そもそも同質化は生物としての人類にとって好ましいことではない。異文化の破壊ではなくそれぞれの長所を認め合う多様性こそ人類にとって望ましい。
 多様性には大きな長所がある。農作物の同質化を避けることによって感染症による絶滅が避けられるように人類もまた多様化によって感染症などの様々な変異に強くなる。血液型の違いがあるのは単に血液の性質が異なるだけではなく免疫機能の違いであり、血液型ごとに病気に対する得手・不得手が異なる。だから恐ろしい感染症に見舞われても絶滅を免れ得る。一部の人だけでも元気であれば看護と療養が可能だが全員が同時に倒れてしまえば対処できない。
 人類にとっての危機は感染症だけではない。イデオロギーや宗教といった怪物に支配された人々による暴走は感染症以上に危険だ。自らを正義と信じる集団が多数者になれば弾圧が強化される。少数者との共存、つまり多様な価値の相互承認が人類の繁栄のためには欠かせない。
 日本人は元々雑種民族だったから変化に強かった。海によって隔てられたこともあろうがパンデミックは殆んど起こらなかった。ところが孤島に隔離されている内に同質化してひ弱になってしまった。日本人との混血アスリートの身体能力が驚異的に高いことを考えれば、日本人がハイブリッド化すれば元のそれぞれの民族以上に優れた能力を発揮できるのではないかと期待してしまう。日本民族もまた貴重で希少な遺伝子の宝庫なのかも知れない。

連帯責任

2016-05-23 09:53:32 | Weblog
 組織的犯罪は例外であって大半は個人による犯罪だ。それにも拘わらず日本では、言い掛かりに近い形での連帯責任が問われ勝ちだ。
 人は社会から分離して存在できず何らかの形で繋がりを持っている。しかし繋がりは必ずしも因果を意味しない。この2者を混同すべきではない。不祥事があればすぐに組織の責任が問われるが大半は理不尽なものだ。
 凶悪な犯罪が行われた場合、親族など関係者の多くが道義的責任を感じる。この感情に付け込んで責任を追及することは卑劣な行為だろう。子供の犯罪で親の責任が問われるならともかく、親の犯罪で子供が罪を負わされるべきではない。親には子供に対する保護責任や教育責任があるが子供にそんなものがある筈が無い。
 企業などの組織の責任はどうだろうか。個人的な犯罪に対して企業が社内で処罰することは正当だが、社会には企業を罰する権利は無い。もしあるメーカーの従業員が凶悪犯罪を犯した場合、「犯罪が起こったのはあの工場があるからだ。工場の存続を許すな」という主張に賛同できる人は殆んどいないだろう。企業は人を集める。人が集まればその中から一定数の犯罪者が生まれるだろう。それを企業の責任にはできない。非難されるべきなのは犯罪者個人であり工場の責任を問うことはできない。
 警察官や裁判官であれば事情は異なる。犯罪を抑止すべき立場の人による犯罪であれば組織としての責任が問われる。
 米軍は警察でも裁判所でもない。だからその所属員による犯罪は一民間企業の従業員の犯罪と同等に扱われるべきだろう。今回の暴行殺人事件を根拠にして米軍基地の撤去を主張することは無理筋だ。増してや今回の犯人は軍人ではなく基地に勤務する民間人に過ぎない。公人ではなく明白な私人だ。
 原爆投下は組織による犯罪だ。ルーズベルトとトルーマンは国民によって選ばれた公人でありその指示に基づいて原爆は投下された。これは公人としての戦争犯罪だからアメリカ国民はその責任を負わねばならない。
 個人の犯罪を組織の犯罪に摩り替えるためには無理な理屈が必要だ。「米軍は本質的に悪い。悪い組織には悪人が集まる。だから米軍基地の存在そのものが悪の温床だ」という理屈は通用しない。米軍を暴力団や暴走族と同一視しない限りその存在を否定できない。
 坊主憎けりゃ袈裟まで憎いという感情は理解できる。しかし感情は個人的なものだ。中国人による犯罪の被害者が中国人を毛嫌いしても許容される。個人的感情を咎めることは難しい。しかし彼が「中国人を地上から殲滅せよ」などと主張するなら許容できなくなる。それは公私の混同だ。
 今回の事件において日米地位協定は捜査の妨害をしなかった。だから日米地位協定とは無関係であり、今回の事件を根拠にして地位協定を否定することは不可能だ。日本側として可能なことはせいぜい綱紀粛正の要請までであってそれ以上の要求は米国側の反発を招くだけだ。

味覚障害(4)・・・澱粉

2016-05-22 09:58:43 | Weblog
 これまで3つしか記事にしていなかったが、抗癌剤の副作用によると思われる味覚障害は4つあった。第4の障害は澱粉質に対するものだった。これを記事にできなかったのは澱粉質の旨さとは何かが分からなくなっていたからだ。
 ふと奇妙なことを思い出した。子供の頃、フルーツの香りを付けた消しゴムがあった。その香りに誘われて齧ったことがあるがとても食べられる代物ではなかった。私の狂った味覚にとって、澱粉質の食品はこんな物と同じようにさえ感じられる。
 日常の食事は澱粉質に依存している。澱粉質抜きの食事は想定することさえ難しい。ご飯やパンや麺類が無ければメニューが作れない。関西人が大好きな「コナモン」も主役は澱粉質だ。お菓子も多くが澱粉質を加工して作られている。
 人間はなぜこれほど澱粉質が好きなのだろうか。原始人の澱粉質摂取量はかなり少なかったと思える。彼らは木の実や動物の身(肉や魚介類)を主に食べていた。澱粉質摂取量が増えたのは農業を始めて米や麦を大量に収穫できるようになってからだろう。
 澱粉の最大の長所は保存性の高さだろう。米も麦も腐りにくい。その利便性が汎用性に繋がったのではないだろうか?
 澱粉質の栄養価値はどうだろうか。余り高いとは言えない。必須アミノ酸や必須脂肪酸ならあるが必須澱粉質など無い。澱粉質はカロリー源にしかならない。
 澱粉のもう1つの長所は「安さ」だろう。他の食材と比べて非常に低コストで充分なカロリーを得ることができるから貧しい人ほど澱粉質偏重の食事になる。
 農業生産の側に注目した場合、自給自足が可能な作物は穀物以外に無いように思える。勿論、現実において野菜農家も自給している。それどころか米農家よりも裕福な人も少なくない。しかしこれは市場を通じて換金が可能だからだ。作物を高く売れるから自給できているだけであり、もし換金できなければメロン農家のように高付加価値の作物で生計を立てている農家は充分な栄養を摂取できずに餓死するのではないだろうか。エネルギー効率を考えるなら穀物だけが採算の合う農業と考えられる。
 仮にそうであれば、いかにして穀物を有効活用するかということが各民族にとっての最優先課題だっただろう。つまり食文化の正体は、本来旨くない穀物(澱粉質)をいかに旨い食物に加工するかということだった。麦は殻ばかり多くて駄目な食材だろう。しかし収穫量は圧倒的に多い。こんな駄目な食材を西洋人は知恵を結集してパンやパスタに加工することに成功した。この大発明が生まれたのは必要に迫られたからだ。澱粉質は元々は駄目な食材だったが、それを旨く食べるためにソースやスープが工夫されてこのことによって快適な食材に作り変えられたのではないだろうか。
 日本でも事情は同じだ。大量に生産される米を旨く食べるために漬物などの副食が洗練され、麺類を旨く食べるために最高の出汁が作られた。澱粉質は元々旨い食材ではなかった。
 こう考えると私の味覚障害は先祖返りだったように思える。澱粉も野菜も本来旨い食材ではなく、人為的に旨い料理に作り変えられたものに過ぎない。どちらも旨いからではなく、それぞれの異なる事情から多く摂取する必要に迫られて、膨大な知恵と技術が注ぎ込まれたから味わえるレベルにまで担ぎ上げられた食物だった。私は味覚障害を患うことによって、図らずも、食文化に潜む虚構に気付かされたようだ。