俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

善玉血液

2014-05-31 10:00:39 | Weblog
 コレステロールが有害という説はほぼ否定された。そもそもコレステロール有害説の発端はロシアの科学者がウサギに無理やりコレステロールを摂取させて動脈硬化を起こさせたという馬鹿げた実験に基づいている。草食動物のウサギがコレステロールのような動物性栄養素を受け入れられる筈が無い。多分、牛や羊にとってもコレステロールは有害物だろう。
 コレステロール有害説が疑われ、更にコレステロール値を下げれば癌や鬱病に罹り易いことが分かり始めると今度は善玉コレステロール(HDL)と悪玉コレステロール(LDL)に分類するようになった。学者とは従来の説に固執したがるものだがここまで来ると狂気とさえ思える。HDLとは肝臓に回収されるコレステロールでありLDLとは肝臓から全身に運ばれるコレステロールのことだ。元々区別されなかったようにこの二者は表裏一体のものだ。
 血液を考えてほしい。心臓から送り出されて動脈を流れる血液は酸素を多く含んでおり、静脈を流れる血液は酸素が少なく多くの老廃物を含んでいる。これを前者は善玉血液で後者は悪玉血液と呼んで納得する人がいるだろうか。これは表裏一体だ。前者を増やして後者を増やそうとしても全く無意味だろう。
 仮にコレステロールが有害であっても、現在使われているコレステロール低下剤には大きな問題があるようだ。一部の研究者の報告であり私はまだ確証を得ていないが、薬によって下がるのはコレステロールではなくコレステロール値だけだとのことだ。つまりコレステロールを変質させて計測されなくしているだけとのことだ。コレステロールそのものは全然減らないらしい。もしこれが本当なら何とも馬鹿馬鹿しい話だ。
 勿論コレステロール値が非常に高ければ病的な状態だろう。しかしこれは結果であって原因ではない。何らかの異常があるからコレステロール値が上がっているのであってコレステロール値だけを薬で下げても問題は解決しない。コレステロール値に限らず様々な検査数値は影のようなものであってそんな影の形を変えることではなく本体の改善こそ問題にされるべきだろう。

黙読

2014-05-31 09:28:39 | Weblog
 黙読の歴史は驚くほど短い。黙読が定着したのは、西洋では16世紀頃、日本では明治維新以降だ。中国については記録が見つからないが、多分かなり早い時期から行われていたと思われる。それは漢字が表意文字だからだ。表意文字は音にしなくても意味が分かる。漢字は今でも中国国内でさえ地域によって読み方が異なるし、日本や南北朝鮮では独自の読み方を採用している。これは漢字が音にすることを必要としない表意文字だからこそ可能なことだろう。
 黙読は音読よりも早い。どれだけ早口で話しても黙読の速度には敵わない。話す速度だけではなく聞き取る力も黙読ほど早くない。これは視覚と聴覚の能力の差だろう。ほんの一瞬で1ページを読み取るという超人的な能力を持っている人もいるらしいが、10文字程度なら誰でもできるだろう。面白いことに、画数の少ないかなよりも画数の多い漢字のほうが読み取り易い。
 視覚の情報量は多い。文字と同時に画像も知覚できる。漫画は絵と文字を同時に伝えるだけに優れた情報媒体だと思う。これを子供向けに限定してしまうのは余りにも勿体ない。
 今後コミュニケーションは聴覚から視覚へと移行するのではないかと私は本気で考えている。通信が電話からメールへと移りつつあるのはその兆候ではないだろうか。コミュニケーションが視覚に移れば咽が過重労働から解放される。人は咽によって呼吸と飲食と会話を行っている。それぞれの機能の対立が病気の原因になることさえある。
 一方、目は見るという機能しか持っていない。高等動物ほどそれぞれの機能は特化する。ミミズと比べれば哺乳類は遥かに多くの特化した器官を備えている。生殖器と排泄器が独立したメスのほうがオスよりも高等な動物だと私は信じている。

肥満米人

2014-05-30 10:08:57 | Weblog
 アメリカでは富裕層よりも貧困層のほうが肥満率が高いそうだ。以前から不思議に思って私なりに2つの仮説を立てていた。①豊かなアメリカだから貧困層でも結構お金を持っている。②ジャンクフードに頼るから脂まみれになって太る。
 どうもこの仮説は2つとも間違っていたようだ。アメリカの貧困層は日本の貧困層よりも貧しくジャンクフードを食べるような贅沢な暮らしをしている訳ではないからだ。ではなぜ肥満者が多いのか。
 日本の貧しい人がどんな食生活をするかが手掛かりになる。栄養価の低い物しか食べられないからできるだけ多く食べようとする。彼らが外食をする時にどんな店を選ぶだろうか、食べ放題の店だ。勿論、焼き肉食べ放題の店になど行かない。ライス食べ放題、大盛り同額、替え玉無料の店を選ぶ。炭水化物なら安いから食べ放題にしても店の負担は小さい。
 アメリカの食品は日本と比べて遥かに安い。私はハワイとグアムにしか行ったことが無いが、米本土と比べて物価が高いと言われるこれらの地域でさえ日本よりずっと安い。それでも貧困層はその中でも最も安い物を選ぶ。日本と同様、炭水化物だ。彼らは炭水化物をたらふく食べバケツ1杯ほどの清涼飲料水を飲む。清涼飲料水には大量の砂糖が含まれている。結局、彼らが太るのは炭水化物過多が原因だ。最もカロリーが高い脂質ではなく低カロリーの筈の炭水化物の大量摂取が原因で栄養不良の状態で肥満する。アメリカの富裕層は美食で太り、貧困層は粗食で太る。
 私がカロリー論に疑問を持つのはこんな現実を知っているからだ。厚生労働省お勧めのご飯におかずという食事は決してヘルシーではない。米、特に白米は他の栄養素が殆んど無い炭水化物の塊りであり栄養バランスが悪い。軍医でもあった森鴎外は白米偏重の食事を勧めて多くの兵士をかっけにしてしまったが、米に偏った食生活は栄養不良の状態で太る。
 太りにくいと言われる人の多くは肉食系で、ラーメンライスのような炭水化物偏重の人が醜く太っている。カロリーばかりを見るのは危険な一元論だ。

専業主婦

2014-05-30 09:38:09 | Weblog
 日本の近現代史が歪められているように思える。配偶者控除などの議論で、専業主婦がまるで戦後の高度経済成長期に生まれた新制度であったかのように言われると違和感を覚える。これは全く嘘だろう。
 元々、日本では専業主婦が当たり前だった。江戸時代以前は勿論のこと戦前・戦後まで専業主婦以外に女性の選択肢は殆んど無かった。当時の女性の職業は主に次の4種類だろう。旅館の仲居や飲食店の女給および小売店の販売員などのサービス業か、実質的に腰掛けに過ぎない企業での「お茶くみ」か、今では家政婦とか「お手伝いさん」と呼ばれている女中、そして過酷な境遇として語り継がれている「女工」だ。私が子供の頃、女児に将来の希望を尋ねれば殆んどが「お嫁さん」か「お母さん」と答えたものだ。たまに教師などを挙げる人もいたがそれらも多くは腰掛けで最終的には専業主婦を目指していた。
 流行語の歴史を見てもそれは明白だ。大正から昭和初期にかけて、働く女性はモガ(モダンガール)と呼ばれた。BG(ビジネスガール)が流行語になったのは昭和32年頃だ。OL(オフィスレディ)がBGに取って代わったのは昭和42年頃だ。キャリアウーマンに至っては昭和50年頃だ。男性と同等に働くことが珍しかったからこそ流行語になった。
 こんな歴史を無視した議論は総て空論に終わる。少子化を防ぐ最善策は専業主婦の優遇だろう。働きながらの子育てなど無理だ。できっこない。家電の普及や外食・中食の充実などによって家事は著しく軽減された。「三食・昼寝付き」という言葉も生まれた。しかし姑との別居が大半なので育児の負担は以前よりも大きいということを見逃すべきではない。
 若い女性が働くことよりも育児を選ぶようになれば現代日本が抱える問題の大半が解決される。まず出生率が高まる。次に失業率が下がる。更には、労働人口が減るので賃金が上がる。ついでに、児童の学力も向上するだろう。
 私は有能な女性が働くことを否定する気は無い。外で働きたい人は働けば良い。それは本人の自由だ。しかし専業主婦の否定は家事、特に育児に対する軽視であり、それは職業選択の自由および生き方の自由に対する侵害だ。

平等と自由

2014-05-28 10:14:23 | Weblog
 原始共産制は皆が平等に貧しい社会だ。平等を優先すればそんな社会になる。もし人が同質であれば平等は難しくない。しかし意欲も能力も異なる人を平等に処遇するためにはかなり無茶な制約が必要になる。
 非現実的な仮定ではあるが、身長や体重の平等が政治的目標となった場合、平均値が目標とされるだろうか。もし平均値が目標にされるならそれなりに有益だろう。しかし実際には最下位への同調が強制されることになるだろう。背の高い者は足を切られ、体重の重い者は絶食を強いられる悪平等の社会だ。
 学校のテストであれば、全員に現在の平均点を取らせることは難しいが、全員に最低点を取らせることなら可能だ。こうやって同質化=平等が達成される。
 一方、自由と競争が認められる社会であれば一部の人が豊かになって格差が生まれる。しかしこれによって社会全体の富は増える。
 毛沢東の時代の中国が前者で、小平の「先富論」以降の時代が後者だ。競争を肯定することによって中国のGDPは大きく拡大した。
 しかしその後がいけない。先に富を得た者が牽引者になって全体を向上させようとはしなかった。丁度、高度経済成長期の日本のように全体が豊かになるべきだった。中国では富める者はますます富を集め貧しい者は放ったらかしのままだ。こんなことになったのは競争があるのに自由が無いという異常性と権力の集中が原因だろう。
 権力が分散していれば権力争いが起こる。現在のタイで都市住民と農民が争うように、英仏などでは市民革命が起こった。実権を握る少数者と貧しい少数者による対立だ。資本家は労働者による反乱を恐れて待遇を改善し続けた。こうして分厚い中間層が生まれた。
 共産主義を理想としない共産党が独裁を続ける中国ではデモもストも非合法だ。これでは権力者は搾取の手を緩めようとはしない。力と力が対立すれば弁証法的に発展して止揚される。力が抑え込まれれば発展の力学が働かずに現状が維持される。つまり権力構造が変わらない。しかしいずれ遠からずに制度疲労が限界に達して破綻することになるだろう。中国人民にとっても国際社会にとってもそれが望ましいし歴史の必然でもあるだろう。

認識

2014-05-28 09:37:24 | Weblog
 我々は知覚に基づいて認識するが、実は認識が知覚を歪めている。最も簡単に実感でき、しかも今すぐにでも体験できる実例を紹介しよう。寝転がって天井を見て欲しい。その時、天井板の四隅は総て鈍角に見えるだろう。つまり四角形の内角の和が360度を超えてしまう。これは立体を平面として捕えることによって生じる錯視なのだが、視覚はそんな主観的な画像を捕える。
 数学的に説明しよう。天井の四隅はどれも3面によって構成される。壁2面と天井面だ。四隅はそれぞれ3本の線で作られる。内角もそれぞれ3つずつある。それぞれの内角の和は360度でなければならない。すると個々の内角の平均値は120度となる。天井が約120度の内角を4つ持つ四角形であれば内角の和は約480度となる。
 この奇妙な現象は写真に撮れば納得できる。天井板が曲がって見えるからだ。まるで魚眼レンズで撮影した写真のように直線が曲がっている。
 日常的に目にするこの奇妙な光景に人はなぜ気付かないのだろうか。先に認識があるからだ。天井板の内角は直角で、壁と天井との接線は直線であると知っているから、それとは違った見え方をしてもそれを否定してしまう。
 我々の知覚はそれほどいい加減なものだということだ。見たままの像を脳が勝手に修正してしまう。偏見があれば正しい姿が見えなくなるのは当然のことだ。「アバタもエクボ」どころの話ではない。先入観に基づいて世界は知覚される。人は見たままに見ないし聞いたままに聞かない。見たいように見、聞きたいように聞く。見ようとしなければ見えないし、聞こうとしなければ聞こえない。
 好きな異性であれば触っても触られても心地良い。そうでなければ鳥肌が立つ。人間の知覚はこれほどまでに認識によって操縦されている。だから正しく知覚することは難しく正しい認識はもっと難しい。これを克服するためには不快さを悦ぶような奇妙な性質が必要だろう。幸か不幸か、私は不快を悦ぶという困った性格を持ち合わせている。自分自身が語った言葉の中で最も気に入っているものは「嫌いなことをするのが大好き」だ。

不純物

2014-05-26 10:03:55 | Weblog
 自然界に存在する物は殆んどが不純物だ。金鉱石にせよ鉄鉱石にせよ様々な不純物が混じっており多くが有害物だ。これらを精製して安全な金属が作られる。
 西洋由来の科学の特性は、分解するということだろう。栄養であれ薬効であれ、それが何なのかが調べられて同じ物質を化学合成する。漢方薬では薬効のある動植物をそのまま使う。それに含まれる何が効くのかを問わず「効く」という事実が重視される。
 分解は諸刃の剣だ。分解すれば全く別の物になることが少なくない。極端な例だが、水を水素と酸素に分解すればどちらにも水の性質は残らない。分子レベルで有効成分が特定されても他の分子が触媒として有効性を高めている可能性も否定できない。
 肉の栄養価は蛋白質だけではない。亜鉛や鉄分や各種ビタミンなど様々な栄養素が含まれている。従って肉の栄養をサプリメントによって代替することはできない。
 肉を含めてどの食材にも栄養素だけではなく有害物も含まれている。これらは微量だから悪影響を与えないだけであり同じ食材に偏ると健康被害を招きかねない。
 特定の栄養素の吸収力が弱いために罹る病気がある。大抵の場合、その栄養素を多く含む食材を大目に摂取すれば治癒する。しかしそれでも足りないほど吸収力が弱ければサプリメントを活用すべきだろう。
 私は薬を毒物だと考える。薬よりは食餌療法のほうが良いと思う。しかし吸収力が極端に弱い場合は例外だ。特定の食材を大量摂取すればそれに含まれる微量の有害物が蓄積されかねない。この場合はサプリメントのほうが安全だ。純粋な成分であれば作用も副作用もある程度分かっている。それと比べれば複雑な成分の食材の大量摂取のほうが危険だ。食材とサプリメントとの関係は鉄鉱石と鉄のようなものであって純粋なほうが危険性は少ない。
 自然由来であろうが化学合成であろうが化学式が同じであれば同じ成分だ。人工的な化合物を無闇に怖がる必要は無いし、天然なら安全と信じるべきでもない。

CO2

2014-05-26 09:35:10 | Weblog
 日本がCO2排出量を減らせば地球温暖化が防げると信じているお目出度い人が今でもいるようだ。日本の排出量のシェアはせいぜい3%程度に過ぎない。それを京都議定書のとおり6%減らしても世界のCO2量は0.18%しか減らない。このことによる温暖化の遅延(防止ではない)はせいぜい1年程度だろうか。もしかしたら1日遅れさせるだけかも知れない。
 大体、日本がCO2排出量を減らしても中国が日本の10倍ほどのCO2を排出し続けるのだから、ゴミ捨て場の中で「私はゴミを捨てません」といい子ぶっているようなものだ。あるいは沈没しそうな船の水を耳かきで汲み出しているようなものだ。全く焼け石に水だ。
 私は決して環境を破壊しても構わないなどと言いたい訳ではない。優先順位が違うと言いたいだけだ。効果の無い対策に振り回されているうちに状況は悪化するだけだ。もし本当にCO2が環境を悪化さえる主因であるなら、日本は国内では打つ手が無い。仮に1990年よりも6%減らしても世界のCO2量は0.18%しか減らないし全廃できても3%しか改善されない。
 日本はもっと世界に貢献できる。こんな半分オカルトのようなもので騒ぐよりも科学振興や食料増産にでも励んだほうが有益だろう。
 昔は、資本主義は自己の利益を追求する思想だから環境を破壊する、と本気で主張する人がいた。ソビエト連邦が崩壊した時、それは真っ赤な嘘だと分かった。社会主義を標榜しながらも社会のことも環境のことも全く重視していなかった。このことは今も変わらない。最も環境を破壊しているのは社会主義の筈の中国だであって、資本主義の権化であるアメリカではない。私利私欲を追及するよりも国益を追求するほうが環境を破壊するとは奇妙な話だ。そもそもアメリカよりもジニ係数が高いとまで言われている中国は共産主義国家なのだろうか。批判を欠いた権力は腐敗するものだが、毛沢東・周恩来の時代とは全く別の国になってしまった。中国は共産主義ではなく、権力者の権力者による権力者のための政治だ。

最悪

2014-05-24 10:17:54 | Weblog
 最悪を想定することは無意味だ。最悪の事態に対応することはできない。例えば小惑星が地球に激突するなら現時点では人類に対応策は無い。あの何もかも破壊するかのような核兵器でも表面を多少傷付けるだけだ。ごくごくちっぽけな小惑星しか破壊できない。
 大地震ならどうだろうか。有史以来の大地震になら対策も立てられるが、ヒマラヤ山脈が生まれる原因となったと言われるインド亜大陸とユーラシア大陸との激突に対応することは不可能だ。マグニチュードは10を大きく超え地殻変動や津波の規模は想像を絶する。対応不可能な災害は諦めるしか無い。だから学者も政治家も対応可能な最大値しか考慮しない。それ以上であればお手上げであり諦めるしか無い。
 逆に言えば技術的に対応可能なレベル以上の災害は想定から除外しているということだ。東日本大震災ではこのことの欠陥が露呈した。東日本大震災は防潮堤の限界を証明してしまった。一部の防潮堤は災害の拡大にさえ繋がった。津波が見えなかったり逃げ遅れたり、あるいは門を閉めに行ったために犠牲になった人までいた。防潮堤はそれが防げる限界を超える津波には無力だ。多分、現代の技術では東日本大震災の規模の津波には耐えられまい。逃げるのが一番だ。防潮堤よりも避難タワーのほうが有効なようだ。現代文明にできることは対応可能な最大値に想定を留めてその範囲内で最善策を練ることだけだ。それ以上なら諦めるしか無い。困ったことには対応可能な最大レベルが先にあってそれに合わせて最大限の災害が想定されている。
 こう考えると原発は危険極まりない。現代技術で対応可能な範囲しか想定せずそれを超えれば壊れるのだから諦めなさいということになっている。対応可能な範囲しか想定しないのは全く乱暴な話だ。人が勝手に最大値を定めても自然はそれに従ってくれる訳ではない。現代の技術では守り切れないということが分かっておりその時には甚大な被害を招くことになるのだから、そんなものを作るべきではなかろう。

健全な情報

2014-05-24 09:44:21 | Weblog
 「健全な精神は健全な肉体に宿る」という言葉は最近では余り使われていない。この言葉は元々誤った引用だった。ユウェナリスの言葉は「健全な精神が健全な肉体に宿れ」に近い。この言葉が使われなくなったのは身体障害者の団体からの抗議が原因らしい。「障害者は健全な精神を持てないのか」という抗議から逃れるために使用を自粛しているようだ。こんな言い掛かりを付ける人が健全な精神の持ち主と言えるかどうかは敢えて問わないでおこう。
 昭和44年にカルメン・マキという歌手の「時には母のない子のように」という歌がヒットした。この時ラジオ番組に「放送禁止にせよ」という抗議文が届いた。「♪母のない子になったなら誰にも愛を語れない♪」という部分が父子家庭に対する差別だという指摘だった。DJ(ディスク・ジョッキー)が誰だったのか覚えていないが、この葉書を紹介した上で「この歌詞は母の尊さを讃えたものであって差別とは言い難い」と言ってこの曲を放送した。
 私はこのDJの姿勢を高く評価する。異論の存在を認めた上で自らのスタンスを示すべきだと思う。現代は言い掛かりに近い苦情を回避するための事勿れ主義が横行していると思う。「群盲、象を撫でる」は私の好きな諺だ。この諺は盲人を蔑視することが目的なのではなく、我々自身が真実を知り得ない群盲であることを戒めているからだ。こんな諺まで障害者に対する配慮という理由で使えなくなっている。これは弱者に対する過剰な遠慮ではないだろうか。
 「美味しんぼ」の騒動も同根だ。福島についてネガティブな発言をしてはならないという暗黙のルールが言論の自由を奪っている。ネガティブな発言が禁じられたら嘘を言うか沈黙するかということになってしまう。風評被害を生むのはこんな言論統制だ。不安を持っている人は情報に飢えている。そんな人にネガティブな情報がそっと伝わったら「やっぱり隠蔽されていた」と思って過剰反応をする。正しく怖がることこそ必要だ。
 マスコミによる自粛は言論統制の一種だ。嘘を報じてはならないが、事実を報じないことも国民を欺く行為だ。