俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

月に豚

2008-05-27 12:09:14 | Weblog
 「月には豚がいる」と大学生時代の彼は主張した。彼は狂人ではない。今では大学教授になり、学者としてNHK教育テレビにも出るほどの聡明な人物だ。
 彼はこう主張した。「月に馬がいる可能性を50%とする。猫がいる可能性や犬・猿・パンダがいる可能性も50%とすれば、何らかの動物がいる可能性は1-(1-1/2)(1-1/2)(1-1/2)(1-1/2)・・・=1=100%となる」ということだった。
 勿論これはジョークで論理と確率が好きな私をからかったのだが、この論理は根本的に間違っている。
 ①可能性の意味
 可能性は決して1対1ではない。サイコロで1が出る確率とその他の目が出る確率は当然ながら1対1ではない。1対5が正しい。それと同様に「ある」と「ない」も対等ではない。月に馬がいる可能性は1兆分の1以下であり先ほどの数式は1-(1-1/1兆)(1-1/1兆)(1-1/1兆)(1-1/1兆)・・・≒0となる。
 「3つ目の動物が存在する」という可能性はゼロではない。しかし現実的にはそんな動物は存在しない。「可能性がゼロではない」と「可能性がある」を混同するのは確率のイロハも知らない人だけだ。
 ②生命が存在する条件
 馬がいない場所にはロバもラバもいないだろう。原始的な生物さえいない場所に高等動物がいる筈が無い。このように生命が存在する可能性は独立ではなく相関性を持つ。
 生命が存在するためには様々な条件を満たすことが必要だ。空気や適度な温度や水などが必要とされる。宇宙では地球とは全く違った生命の「可能性」があるが、月に原始的な生命さえ存在しないと分かった時点で高等動物が存在する可能性はゼロになる。従って月には豚もパンダもいないことは自明となる。

共同幻想

2008-05-27 11:45:45 | Weblog
 共同幻想から免れることは難しい。共同幻想は第二の本能のように人間に付き纏う。共同幻想に頼らなければ生きられない人も少なくない。
 共同幻想の世界では充たされない願望が充足される。①人は永遠の生命を得る②悪は裁かれ善は報われる③あらゆる苦痛や苦悩から解放される、etc. etc.
 不条理に満ちたこの世よりも共同幻想の世界のほうが誰にとっても魅力的で、時には合理的とさえ思われる。だから理想主義者は共同幻想に憧れる。共同幻想こそ真の世界で、この世などは悪魔が見させている悪夢にすぎないと信じたがる。
 しかし実際にはこの世だけが実在する。共同幻想など妄想にすぎない。自分を含めた総ての人間が死ぬことは事実だ。この事実を否定するために妄想の虜となりこの世を否定することは生きることそのものを否定することに等しい。永遠に生きたいという欲望が現世の否定というとんでもない錯乱を招く。
 嘘に基づいて理想を築けば砂上の楼閣しか生まれない。せめて人は総て死に、死んだあとは無だという事実から目を背けるべきではない。
 嘘は嘘を生む。現実から遊離した理想からは妄想しか生まれない。嘘まみれになって生きるよりは事実に基づいて生を全うしたいものだ。

殉教と天国

2008-05-27 11:29:58 | Weblog
 各宗教の殉教者は天国へ行けることになっているようだ。但し殉教としての自殺については三大宗教で評価が分かれる。キリスト教では禁止され、仏教では容認され、イスラム教では奨励されているようだ。
 キリスト教では自殺という行為が神に対する罪とされている。イギリスにはかつて「自殺をしたら死刑」という奇妙な法律があったらしい。自殺者を生き返らせて改めて死刑にするなど不可能な話だが、神に対する罪はその生死に関わらず極刑にすべしという趣旨らしい。
 イスラム教ではマホメットの教えを守る行為は総て正義とされる。イスラム教のために戦うことは聖戦(ジハード)であり、原理主義者はイスラム勢力を守るための殉教者は天国に迎えられると説いているから自爆テロが跡を絶たない。
 天国へ行けると信じて命を捨てたのに天国が無かったら・・・詐欺のようなものだ。存在しないものを信じて自分を犠牲にしたのにその見返りは何も無い。
 宗教という共同幻想を全面的に否定するつもりは無い。夢は生きがいに繋がるのだから夢を持つことは無駄ではない。しかし共同幻想が現世を否定するなら私は徹底的に反対する。嘘が事実を否定することは絶対に許されない。勿論、嘘にも様々なレベルがあり真っ赤な嘘から白い嘘まであるだろう。許されるのは白に近い嘘であって真っ赤に近いレベルの宗教的な嘘は徹底的に糾弾されねばならない。

治療と治癒

2008-05-24 15:03:20 | Weblog
 果たして治療は可能なのだろうか?治療と思っていることは実際には治癒の補助でしかないのではなかろうか?
 傷口や骨折は接着剤でくっつける訳ではなく自然治癒力に頼っている。自然治癒力が働かなければ傷口は開いたままだし骨は折れたままだ。
 風邪を治療する薬さえ無い。解熱などの対症療法があるだけなので快癒するためには自然治癒力に頼るしかない。
 壊死した手足やガンに冒された場所を切り取ることはできる。しかしそれは機能が悪化した部分を切り捨てるだけだ。回復させる訳ではない。
 精神病に至ってはもっと頼りない。抗鬱剤は一時的に鬱状態を緩和する効果しか無い。重度の統合失調症(精神分裂病)は治療不可能だ。性欲過多の男の性犯罪者に対しては「切り取る」以外に抜本的対策は無いのではなかろうか。頭を切り取る訳には行かないので、重度の精神障害に対して何ができるだろうか。
 肉体の治療さえできない現代文明に精神の治療など期待しても無駄だ。もし精神の治療が可能なら死刑制度は必要なかろう。

無限と連続

2008-05-24 14:50:04 | Weblog
 1cmの線分上には無数の点の存在を想定できる。しかし無数の点が存在するからと言ってそこを通過するために無限の時間が必要な訳ではない。秒速1cmなら1秒で、歩く早さに匹敵する秒速1mなら1/100秒で通過できる。
 もしこの無数の点が散在するならその無数の点を辿るためには無限の時間が必要だろう。
 黒から白の間には無限のグラデーションがある。この無限のグレーを1つずつ表示することは不可能だ。しかし光学的に黒から白へのグラデーションを作れば無限の筈のグレーを表示できる。
 非連続の中で無数を表示することはできないが、連続の中でなら無数を表示することができる。

本能が壊れた動物(2)

2008-05-24 14:39:58 | Weblog
 2月26日付けの「本能が壊れた動物」にも書いたとおり、人間は本能が壊れているからこそ「自由」が獲得できると私は考えている。
 この考え方は「人間は本能が壊れた猿」をスローガンとする岸田秀氏とは大きく異なる。岸田氏は本能が壊れた人間は本能の代替物として共同幻想に頼らざるを得ないと考えている。しかし共同幻想の究極の形態は宗教であり、こんなマヤカシに頼りたくないということが私の基本スタンスだ。
 私は論理と慈悲を信じている。共同幻想などに頼らなくても、事実に基づいた平和な共同社会が実現できると考えている。
 詭弁を排除すれば論理は非常に便利で普遍的なツールだ。正しい論理を身に付ければ正しい思索と正確なコミュニケーションが可能だ。
 慈悲や思いやりも人間に普遍的な能力だ。慈悲を欠いた人間が存在することはこのことの反証にはならない。壊れたテレビがあってもテレビの存在が否定される訳ではない。壊れたテレビも壊れた人間も例外にすぎない。
 人間には論理や慈悲を理解する能力が先天的に備わっている。但しこの能力は「可能性」として備わっており、育むことが必要だ。育まないと幻想に頼ることになってしまう。

虫ケラの殺害

2008-05-11 10:55:23 | Weblog
 「罪と罰」のラスコーリニコフはこう考えた。「金貸しの老婆が金を持っているよりも貧しい大学生の自分が有意義に金を使ったほうが社会的には良いことだ。人間が家畜や虫ケラを殺しても構わないように私には老婆を殺して金を奪う権利がある。」こういう考えに基づいて彼は凶行に及んだ。彼は老婆を虫ケラと見なして殺害して金を奪った。
 彼の論理の誤りは、彼が老婆を虫ケラと見なしても老婆が虫ケラに「なる」訳ではないということだ。彼にとっては虫ケラであっても老婆の家族にとっては大切な家族であり、老婆の友人にとってはかけがえのない友人であるという事実を彼は見落としている。
 誰かを「犬畜生にも劣る奴」と考えてもそれは主観的判断であり事実であるとは限らない。自分を「世界で一番重要な人間」と考えるのは勝手だが客観的事実ではない。「と思う」や「と信じる」ということと「~である」ということとは大きく懸け離れている。妄想の世界以外で「と思う」と「~である」が完全に一致することは無い。その意味では長時間ヴァーチャルの世界に浸ることは危険を招くと言えよう。

売買春

2008-05-11 10:41:11 | Weblog
 売買春について考える時に男と女の意見は大きく分かれる。男は男の立場で考えるから売春する女が悪いと考える。女は女の立場で考えるから買春するスケベオヤジが悪いと考える。これでは議論が進展しないから些かアブノーマルな状況を設定して考えてみたい。
 同性愛の男が性欲を満たそうとしたらどうするだろうか。身近な人に手を出して失敗すれば社会的地位を失う恐れがあるからネットやゲイバーで同好の士を探すだろう。好みの相手が見つかって性行為をするために金を支払ったとすれば金を払う側と受け取る側のどちらが悪いのだろう。
 気持ち悪い話だがそれはさて置き、どちらも余り悪くないように思える。合意に基づいた金銭の授受と思える。しかし同性愛ということを「悪」とするなら金を貰ったほうが一層悪いと言えよう。払う側は金を払ってでも欲望を遂げたいという苦しい立場だが、金を貰う側は(やはり同性愛者なのだから)楽しい思いをして金儲けをしているのだから。
 麻薬を売る側と買う側はどちらが悪いだろう。売る側がはるかに悪いと断言できる。売る側は麻薬を蔓延させて悪事を拡大してそれによって儲けているのだから。売る側の悪さを考えれば、買う側は被害者とさえ言えよう。
 贈収賄ならどうだろうか。やはり貰う側が悪い。賄賂を納める業者は喜んで納めている訳ではなくそうしなければ仕事が得られないための必要経費として賄賂を納めている。言わば被害者だ。賄賂を要求する者が加害者だ。
 偽ブランド品ならどうだろうか。やはり売る側が悪い。売る側は「買う馬鹿がいるから売っているだけだ」と開き直るかも知れないが売る側のほうが圧倒的に悪い。
 以上の類例から、私は売買春は売る側のほうが悪いと結論したいがどうだろうか。特に女性からの反論に期待する。
 霞を食って生きる訳には行かない人間が金を稼ぐことは決して悪いことではない。必要な行為だ。しかし悪事で金を稼ぐことは悪事そのもの以上に悪い行為ではないだろうか。

心神耗弱

2008-05-11 10:17:54 | Weblog
 危険運転致死傷罪が制定されてから飲酒運転事故が大幅に減っている。2000年には26,000件もあった飲酒運転事故が2007年には7,000件台にまで減った。厳罰化によって事故が減った典型的な実例でありそれなりに有効な法律だとは思うが、私は大きな疑問を感じている。刑法39条と整合していないからだ。
 刑法39条によれば心神喪失なら罪を問われず、心神耗弱なら減刑されることになっている。
 酩酊状態が心神耗弱状態であることは明らかだ。精神が異常な状態でなければかつて「走る凶器」とまで言われた自動車を酩酊状態で運転できる筈がない。
 飲酒運転事故だけは心神耗弱状態を理由に厳罰化され、その他の犯罪では心神耗弱状態を理由に減刑されているのが現状だ。法律をこんな支離滅裂な状態にしておいて良いのだろうか。
 異常な犯罪ほど被告の心神耗弱が争点となり、犯罪の事実よりも(誰にも分からない)犯罪時点での被告の精神状態に議論が集中する。弁護団が被告の異常性を強調すればするほど刑が軽くなるという奇妙な裁判が続いている。
 心神耗弱という曖昧な概念が法律に必要だろうか。公判時点ならともかく犯罪時点で被告が心神耗弱状態だったかどうかなど絶対に誰にも分からない。分からないことを裁判で争うから裁判官による恣意的な判決が横行する。これでは裁判の公平性が損なわれてしまう。

目を逸らす

2008-05-06 15:33:49 | Weblog
 子供の頃「キャー」と叫んで目を覆う同級生を馬鹿にしたものだ。目を逸らしても現状は変わらない。むしろ目を逸らしているうちに一層悪い方向へ進行する可能性のほうが高い。凶器を持った暴漢が目の前に現れたら自分の目を覆うのではなく一目散に逃げるべきだ。
 剣道で面を打たれる時に怖がって頭を下げると却って痛い思いをする。逆に打たれる時も目を逸らさずに見上げると正面の金具がガードしてくれるので全く痛くない。
 目を逸らすことは現実からの逃避でしかない。将来、問題が大きくなることが分かっていてもなぜか放置されることが多い。目を逸らしていたら事態が勝手に好転すると思っているのだろうか。
 団塊の世代の定年退職も75歳以上が急増することも昔から分かっていたことだ。分かっていることに対しては対策を立てねばならない。対策を立てないことは怠慢以外の何物でもない。それとも目を逸らしている間の奇跡が起こって総てが解決することを期待したのだろうか。