俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

僭越

2016-08-31 10:07:48 | Weblog
 カント以前の哲学者は理性の能力を無限と考えて砂上の楼閣とも言うべき形而上学を築き上げた。彼らは世界の起源とか神の存在証明などの無意味な思弁のために2000年を費やすことになってしまった。カントは有限世界の現象しか知覚できない人間には無限に関する思索は不可能として理性の限界を説いた。だから彼の主著は「純粋理性批判」「実践理性批判」「判断力批判」であり彼の哲学は「批判哲学」と呼ばれている。しかし彼は不可知論や懐疑論を唱えた訳ではない。逆に、理性の限界を示すことによってその範囲から逸脱せずに思考することを哲学のあるべき姿とした。
 科学の時代を迎えて科学を万能と考える愚かな人が少なくない。しかし科学の源は「自然哲学」だ。ニュートンは自ら自然哲学者と名乗っているしアリストテレスの著書の多くは哲学書と言うよりも博物学に関する著作だ。哲学と同様に科学もまた可能なことと不可能なことを仕分けして科学に可能なことに専念しなければオカルトに堕落しかねない。
 僭越の典型例は地震学者だ。彼らは地震の発生場所と時期を予告できるとして研究費を掻き集めた挙句何の成果も残さなかった。彼らに可能なことは将来地震予知を可能にするための基礎研究であり現在の地震予知ではない。騙した地震学者やその片棒を担いだマスコミが悪いのは勿論のことだが、騙された官僚や政治家や国民も阿呆だ。
 地震学以上に暴走しているのが医学だ。漫画の神様・手塚治虫氏の代表作の1つである「ブラックジャック」では主人公の天才外科医が医療の限界に突き当たっては自らの無力を呪っているが、現実の医師は傲慢そのものであり何でも治療できると思い上がっている。しかし現代医学に何が可能なのかを把握しておく必要がある。私は医学に可能なことは3つしか無いと考えている。自然治癒力の支援と特定の感染症の治療と栄養障害の克服だ。
 医学の本来の役割は自然治癒力の支援だ。医療は怪我や骨折さえ治療できない。医療に可能なことは一時凌ぎだけだ。自然治癒力が上手く働けるように止血や整骨などによって環境を整えることが最善の仕事であり、治療の主役は自然治癒力だ。
 医学は多くの感染症を克服した。このことが医学を思い上がらせて傲慢にしたと言える。しかしそれは、感染症の正体が病原体であることを突き留めてその一部を殺害できるようになったに過ぎない。しかも薬品を使って殺せるのは生命体に限られる。つまり病原菌や寄生虫が原因であればその生命を奪うことによって患者を治療できるが、生命体ではないウィルスを殺すことなどできない。ウィルスによる感染症に対して医学は殆んど無力であり、医療として可能なことは免疫力の支援に限られる。つまり充分な栄養を補給することなどによって患者の自然治癒力を高めることぐらいしかできない。最もありふれたウィルス性感染症である風邪でさえ治療できないのが現状だ。
 病原菌との戦いの旗色も悪くなりつつある。医師が馬鹿の1つ覚えのように抗生物質を乱用するから病原菌が多剤耐性菌に進化しつつある。個々の寿命が短い病原菌は猛烈な早さで進化するから抗生物の進歩が置き去りにされている。進化と進歩の競争は細菌の側の勝利に終わりかねない危機的な状況だ。
 森鴎外が軍医として大失敗をしたのが脚気の治療だ。鴎外は脚気を感染症と信じて全力を尽くしたが却って患者を増やすことになってしまった。脚気の治療に必要なのはビタミンB1の補給であり、医療ではなく栄養補給によって快癒する。
 このように医学に可能なことは極めて限定的だ。医学はこの事実を踏まえて、可能な治療に専念すべきだ。治せない病である癌に対する悪足掻きや病気ではない贋患者に対する医療紛い行為からは一旦手を引いて、基礎研究に徹すべきだろう。できないことをできると信じてデタラメを続けていれば患者を苦しめるだけではなく、国民の資産を食い潰す金食い虫になってしまう。 

惨事のニュース

2016-08-30 09:45:49 | Weblog
 NHKの「3時のニュース」の冒頭の「3時になりました」にはいつも過剰に反応してしまう。「惨事になりました」に聞こえるからだ。しかし今日の3時は、これが笑い話では済まされないように思えて怖い。東北地方がどんな惨事になるのかと想像すると怖い。これほど悪条件が重なることは珍しいからだ。
 ①東北地方への上陸は観測史上初めてとのことだ。これまで大きな台風に直撃されたことが無かっただけに、暴風雨に対する免疫力が育成されておらず想定外の被害が起こり得る。
 ②昨日まで西日本に大きな被害をもたらしていた線上降水帯が北上して丁度3時過ぎ頃に東北地方で台風と合流するのではないだろうか。片方だけでも大変なのにこれが重なれば1+1=3ともなって更に重大な被害を招きかねない。
 ③今は大潮の時期に当たるそうだ。潮位の高い時期に台風による潮位の上昇が加わることになる。しかも東北地方東部の満潮時が3時過ぎで台風の上陸の時刻と重なりそうな状況だ。台風の直撃と満潮が重なれば伊勢湾台風の二の舞にもなりかねない。
 ④東北地方の東部は2011年の東日本大震災で地盤沈下をした地域が少なくない。当然、高潮に対して弱い。
 ⑤東日本大震災で破壊されて未だ修復されていない防波堤・防潮堤が少なくない。他の悪条件も重なるだけに気象津波あるいは高潮に襲われた時には弱点を晒すことになる。
 これほど悪条件が重なっているのだから、台風が直撃すれば大きな被害を避けられない。今更、対策は無かろうから極力、積極的に避難をして災害から逃れる以外に手は無かろう。あとは運を天に任せるだけだ。3時が過ぎてから、杞憂だったと思いたいものだ。

排除

2016-08-29 09:50:49 | Weblog
 こんなことが認められていることなのかどうか知らないが、先日、薬局が勝手に判断をして医師の指示とは違った薬を私に処方した。そんなこととは露知らぬ私は以前と同じ薬だと思って飲んでいたが全然効かなかった。効かないジェネリック鎮痛剤を服用している間中、私は腹痛に苦しめられていたが本来の先発薬に戻せば痛みは緩和された。しかしこれは痛みから解放された訳ではない。感じにくくなっただけだ。
 呼称とは違って鎮痛剤は痛みを鎮める薬ではない。痛みを感じにくくすることだけがその効能だ。痛みそのものは継続しているがそれを知覚しにくくしているだけだ。
 目を閉じれば眼前の風景が見えなくなる。これは風景が消滅したのではなく知覚されなくなっただけだ。鎮痛剤の効能はこれと同じであり、痛みが発生し続けることをそのまま放置してそれを感じにくくしているだけだ。痛覚を鈍化させる薬だ。
 痛みは警鐘だ。痛みの存在は不具合があることを意味している。だから痛みはただの不快感ではない。料理の味が薄ければ調味料を加えれば良いし、部屋が臭ければ消臭剤が有効であり暗ければ灯りを点せば良い。しかし痛みに対して鎮痛剤はそんな働きをしない。原因を放置したまま知覚力だけを操作する。
 踏切の警報器を破壊したり、火災報知器やガス感知器の電源を切っても安全になる訳ではない。逆に以前よりも遥かに危険な状況になる。痛みを感じなくなることはこれらの愚行と同じことであり危機の克服ではなく隠蔽だ。危険な状況は全く変わらないまま危険であることが分からなくなるだけだ。
 免疫力は体内に入った異物を排除しようとする。異物の正体を知ることは難しいからその素性を問わず一律に排除を試みる。移植された臓器や私の食道に装着されたステントと呼ばれる金属などは人体にとっては異物なのだから徹底的に排除しようとして免疫力は攻撃を仕掛ける。
 外国人に対して人々は免疫力と同じように反応する。正体が分からないまま排除しようとする。しかし免疫力とは違って人には理性的思考力が備わっているのだから無差別に排除すべきではなかろう。中国などからの犯罪者集団であれば徹底的に排除すべきだろうがそうでない限り好意的に迎え入れるべきだろう。
 ハイブリッド化した日本人がスポーツにおいて卓越した才能を発揮することは昨今の混血アスリートの活躍ぶりをみれば明らかだろう。長年、海によって隔離されていた日本民族が遺伝的多様性を欠いていることは明白であり、ハイブリッド化は体力だけではなく知力においても有益と思われる。当事者は混血であることによって苦労をするかも知れないが多分その苦労は報われるだろう。

同一労働

2016-08-28 10:57:05 | Weblog
 同一労働同一賃金という理念は虚構に基づく雇用制度改革であり到底容認できない。同じ人間などいないように同じ仕事も無く、同一労働という概念は嘘を正当化するための幻想に過ぎない。
 もし同一労働があり得るならそれは完全にマニュアル化された仕事だろう。マクドナルドの接客マニュアルが完璧なものであれば従業員はマニュアル通りに働けば良いということになり同一労働と呼べるかも知れない。しかしそんな完璧なマニュアルなどあり得ないし、同じアルバイト従業員でも勤続1か月と3年とでは同じ労働とは思えない。少なくとも仕事の習熟度の違いぐらいならあるだろう。
 比較的就労し易いとされる販売員の仕事でも同一労働ではあり得ない。アメリカのノードストロームというデパートにはカリスマ販売員がいてその給料は経営者レベルだそうだ。この事実は同一労働同一賃金とは余りにも懸け離れている。どんな仕事においても能力差は存在する。
 職務給という考え方がある。職位だけではなく人事課長や総務課長といったポストに賃金を連動させる給与体系だ。それでも職能給を外すことはできない。それぞれのポストでの成果が賃金に反映されなければ勤労意欲が失われる。たとえ単純労働者であっても熟練度に応じた昇給を望むのは当然だ。職能給が認められる限り同一労働同一賃金はあり得ない。
 昔は、アルバイトの賃金は一律だった。短期間の補助的な仕事しか無かったからそれでも良かった。しかし昨今では長期の習熟したアルバイト従業員が珍しくなく、社会の趨勢としてはたとえアルバイト従業員であっても賃金に差を付けるのが当たり前だ。現状に逆行してまで同一労働同一賃金を推進しようとするのは表向きとは違った意図を隠し持っているからだろう。それは正規雇用労働者からの特権の剥奪だ。
 戦前の家族的経営に戦後の民主的経営が加味されることによって日本の労働者は世界に類を見ない特権を獲得した。それが終身雇用制であり手厚い福利厚生制度だ。これらが特権だからこそ非正規雇用労働者はその対象外とされた。企業は正規雇用労働者での大きな負担を非正規雇用労働者の犠牲によって埋め合わせようとした。それほど日本の正規雇用労働者の労働条件は恵まれたものだった。しかしこの雇用制度は一方では会社のために必死で働く社畜を生みもう一方では企業に寄生する不良従業員の温床としても利用された。
 一旦与えてしまった特権を剥奪することは難しい。正規雇用労働者を簡単には解雇できない会社側は「追い出し部屋」とか「離職コンサルタント」などの様々な奇策を駆使して追い出しを図ったがこれらは違法と見なされつつある。手詰まりに陥った財界は政界と結託して労働慣習を破壊しようとした。それが同一労働同一賃金という制度だ。これが狙っているのは非正規雇用労働者の待遇改善ではなく正規雇用労働者の非正規化、つまり両者の一本化だ。正規と非正規との中間に両者を収容することによって過度に保護されていた正規雇用労働者という地位を日本から消滅させることこそ彼らの狙いだ。
 極端に労働者に有利だった労働条件が適正化されるなら日本の将来のためには良いことなのかも知れない。しかし突然待遇が改悪される当事者にとっては迷惑この上ない。転職の仕組みが未だ未整備な状況で放り出されることを自覚しておかないといざという時になって大慌てをすることにもなりかねない。

権力と多数決

2016-08-27 09:58:00 | Weblog
 多数決という危険な制度はこれまでに様々な少数派から財産を奪い、追放し、命まで奪った。これは歴史的事実に留まらず今現在も続けられている。
 多数決は民主的な制度ではない。極めて専制的な仕組みだ。少数者の権利を否定して多数者の横暴を肯定する強権的で危険な手法だ。
 中東を大混乱に陥れIS(イスラミック・ステート)という極悪の犯罪集団を生んだ元凶は多数決だ。多数者が数的優位に基づいて好き勝手に振る舞えば少数者は弾圧される。多数決が認められる限り少数者は「正義」たり得ない。「悪」とされた少数者は自らの正義を守るためにテロに頼らざるを得なくなった。
 ウィグル地区における多数者はウィグル族だ。だからウィグル地区において正義を決める主体はウィグル族であるべきだ。しかしウィグル地区は漢民族によって支配されている。そのためにウィグル地区は中国の一部に過ぎず、ウィグル地区における正義をウィグル族が自ら決めることはできず、中国における多数者である漢民族がウィグル族の正義を決める。漢民族はウィグル族が意思表示をすることさえ許さない。これが多数決の実態であり少数派は多数派によって弾圧されている。
 私は子供の頃から多数決が大嫌いだった。自分自身が多数派であれば極力多数決を使わずに少数派との宥和を図ろうとした。しかし少数派に属した時には多数者によって理不尽なルールを押し付けられたものだった。
 戦後しばらくの間、教師は多数決という宗教の伝道師として生徒に多数決を植え付けた。多数決という武器を与えられた子供達はその武器の危険性を理解せずに弄んだ。一部の狂った学級では、物理の法則まで多数決によって否定するという暴挙まで行われたらしい。多数決は事実をも凌駕する究極の武器にまで祭り上げられた。
 枠組みが流動的であれば議論を通じて少数派が多数派に転じることも可能だ。思想なら流動的だから少数派も多数派も固定されない。しかし地位や民族や宗派などの枠組みが前面に持ち出されれば多数派と少数派は対立し、多数決という強権的な手法によって社会は分断される。民族や宗教の対立を煽り立てるように階級の対立をクローズアップすれば、社会は多数を占める貧者と少数の富者の対立という架空の構造に再構成できる。多数者が正しいのであれば貧者による独裁が正義となる。
 多数決では枠組みを悪用すべきではないと私は考える。多数の貧者とか多数の高齢者といった枠組みを重視すれば多数者による横暴という極悪の社会が肯定される。これは民族や宗教による分断と同様、多数者による「正義」の独占を招く。正義の側に所属できない少数者はテロを通じてしか自分達の正義を主張できなくされてしまう。
 もしかしたら議会制民主主義は根本的に誤っているのかも知れない。多数派に権力を預ければ権力者は多数派のみを優遇して「多数派の多数派による多数派のための政治」が理想とされこれが民主主義の名の元で行使される。これがポピュリズム民主主義でありタイのタクシン派やギリシャのチプラス派が典型例だ。
 日本ではこれまで圧倒的多数を占めるサラリーマンの利害を代表する政党の力が乏しかった。皮肉なことに、多数派が権力を握らなかったことが政治を上手く機能させていたのではないだろうか。今後、多数者である高齢者の利益を守ろうとする政党が権力を握り続けることによって政治が歪められて社会は劣悪化するのではないだろうか。多数派に権力を預けるべきではなく、権力を預けられた少数派が多数派に配慮する時に、初めて民主主義は上手く機能するのではないだろうか。

逆転勝ち

2016-08-26 09:56:11 | Weblog
 スポーツにおいて逆転勝ちはなぜ起こるのだろうか。日本人には非常に悪い癖がある。すぐに精神論や根性論に結び付けたがる。これは戦前から変わっておらず、特に体育会系で受け継がれる悪しき偏見だろう。実際には運動を続ければ誰でも体力も気力も消耗する。但し体質によって消耗の仕方が異なる。基本的には瞬発力が高い人やチームは序盤に強く、持久力が高ければ終盤に強い。これを根性などの精神論に置換すべきではなかろう。
 なぜなのか分からないが日本人は概して瞬発力が乏しく持久力が高い。この傾向はスポーツに限られたことではなく日常生活やビジネスにおいても同様だ。どちらかと言えばスロースターターでありそのペースを維持する能力に長けている。これは日本人の肉体的特徴と言えるだろう。
 これは多分日本という風土によって培われた民族性だろう。海で隔てられた狭い国土に住む日本人にとっては短期決戦よりも長期的な勝利のほうが重要だったのだろう。大陸のように様々な人々が入り乱れる状況であれば先手必勝が鉄則だ。最初の戦いで負ければ殺されるから次のチャンスは無い。だから瞬発力の高い人々が生存競争を勝ち抜いた。
 日本においては負けは死を意味しない。負けても命までは奪われないことが多い。だから耐え忍んで次のチャンスに備えることが戦略として有効だった。日本の将棋では取った敵の駒が味方の駒になる。外国にはこんなルールの将棋は無く敵兵は殺す対象でしかない。狭い国土で文化を共有する日本人は、言葉も文化も異なる異民族同士での殺し合いとは異なる闘い方をしていたと思われる。
 全く違った仮説も成り立つ。短期決戦は弱者の戦略だ。弱者が強者に勝つ可能性が最も高いのはイチかバチかの大博打においてだ。じっくり戦えば地力に優るほうが勝つ。リーグ戦を勝ち抜くことが難しいチームでもトーナメント戦で奇襲を仕掛ければ勝ち残れるかも知れない。
 その一方で強者は勝ちを急ぐ必要など無い。勝つことよりも負けないことを目標にして相手の首を真綿で締め上げていればその内、相手が音を上げる。雌雄を決するよりも戦わずして勝つことこそ好ましい。
 弱者の戦略と強者の戦略を比べた場合、後者の勝率のほうが圧倒的に高くなるだろう。それは、不利な側が無理攻めをすることによって一層不利になるからだ。これを外から観察していればどう見えるだろうか。奇襲を仕掛けた側が消耗し、堂々と受けた側は序盤の不利を覆したように見える。「勝てば官軍」なのだから耐えた末での勝利が高く評価される。このことによって日本人は余計に逆転勝ちが好きになる。
 逆転勝ちの多くは堅実な勝利だ。元々地力に優る側が相手の奇襲を凌いで勝つか、持久力に優る側が相手のスタミナ切れに付け込んでの勝利だ。決して「諦めなかったから勝てた」訳ではない。地力において劣る側が玉砕覚悟で掴んだ勝利こそ真の「諦めなかったからこそ得られた勝利」だろう。こちらのほうが逆転勝ちよりも値打ちがあると思うのだがなぜか日本人はこんな勝利を余り高く評価しない。

アンカリング効果

2016-08-25 09:42:54 | Weblog
 英語でハエはflyでトンボはdragonflyだ。ではバッタは?と問われれば釣られてbutterflyと答える人がいるだろう。正解は勿論grsshopperだ。
 昔、ピザピザと10回言わせてから肘を指して「これは何?」と尋ねるゲームが流行った。多くの人が「膝」と答えたことに驚いたものだ。人は直前の情報によって少なからぬ影響を受ける。これはアンカリング効果と呼ばれており、先に与えられた情報がanchhor(錨)として働いてその後の情報を変形させる。
 この実例は日常的にもしばしば見受けられる。航空機事故の後では飛行機に乗ることが怖くなるし、強盗事件のニュースの印象が強ければ周囲の人々がまるで強盗であるかのように感じられる。
 この手法は世論操作にも使われる。Change!Change!と一緒になって叫んでいるとまるで変えることそのものに価値があるかのように錯覚して何をどう変えるべきかが問われなくなってしまう。1960年の「安保、反対」もそんな類いだった。
 「格差」という言葉にもそんな危険性がある。格差は総て悪いかのように思い込んでいる人がいるが、一人一人の働きぶりを評価してそれ相応に報いるのは当然だろう。真面目に働く人と碌に働かない人を同等に扱うべきとは思えない。本気で格差を否定したければ結婚相手も雇用もくじ引きで決めれば良かろう。人は些細な違いにも拘りたがるものだ。
 「人権」も胡散臭い言葉だ。加害者の人権を大声で叫ぶ人がいるからマスコミはいつの間にか、被害者よりも刑事被告人を大切にするようになってしまった。
 ダイオキシンや環境ホルモンについて一時は大騒ぎしたのに今では誰も気にしない。冷静に考えればダイオキシン騒動は実に奇妙なものだった。蛋白質と塩素を同時に燃焼させれば発生するダイオキシン類が猛毒とされたが、焼き鳥や鰻の蒲焼きによってさえこんな条件は容易に達成される。これらを職業とする人々にダイオキシン障害が発生していないことに気付くだけでダイオキシン騒動が胡散臭いということに気付くべきだろう。地球温暖化や首都直下型地震もそんな類いの根拠の乏しい空騒ぎだ。こんな一過性の騒動に振り回されずに真の問題をに目を向けるべきだろう。

ゾロ薬

2016-08-24 09:58:48 | Weblog
 私は薬を毒物と考えている。有益な原因療法薬は、病原体を殺す機能を持つ抗生物質とビタミン剤などの栄養障害治療薬の2種類以外には殆んど無いと考えている。他の薬は対症療法薬であってメリットよりもデメリットのほうが大きい。
 最近は鎮痛剤を特殊なケースにおいてのみ有益な薬と見なすようになった。私のような治療不可能な患者にとって鎮痛剤はQOL(クオリティ・オブ・ライフ)を維持するために欠かせない。手術において麻酔薬が不可欠なのと同じことだ。麻酔のデメリットは少なくないが、手術の痛みを消せるというメリットは余りにも大きい。同様に、治療不可能な患者は痛みや苦痛を我慢するよりも少しでも楽に暮らすことを選ぶべきだろう。
 治療可能な患者にとって鎮痛剤には3つの有害性がある。鎮痛剤に対する耐性が高まってより危険な薬に頼らねばならなくなることと、副作用と、危機感知センサーである痛覚の機能低下だ。
 食道癌の延命策としてステント装着を選択した私にとって鎮痛剤は欠かせない。異物を排除することは免疫力にとって重要な仕事だから装着箇所が痛み続けることは正常かつ必要な反応だ。異物である移植臓器に対する拒絶反応と同様、起こるべくして起こる痛みだ。しかしこれは役に立たない痛みなのだから正常な機能を薬によって抑え込むことが必要になる。無理を通すためには道理を引っ込めねばならない。
 これまで薬など殆んど使わなかったから薬の実態については余りよく知らなかった。今回初めて積極的に使うことになってジェネリック医薬品の杜撰な現状について身を以って知らされることになった。
 鎮痛剤を3度処方され、たまたま3度とも違った薬になった。最初は先発薬でよく効いた。しかし頓服薬として10回分しか処方されなかったためにすぐに使い切ってしまい近所の医院で後発薬(ジェネリック)を処方して貰った。これもそれなりに効いた。ところが3回目に処方された薬は薬局の薬剤師が勝手に選んだジェネリックで全く効かなかった。その内効くだろうと甘く考えて苦痛に耐えつつパソコンで「効かないジェネリック」と入力したところいきなり「ロキソニン」と表示されて仰天した。私に処方されていた薬が正にロキソプロフェンナトリウムを主成分とするロキソニンのジェネリックだったからだ。
 ジェネリックは昔は「ゾロ薬」と呼ばれていた。特許期限切れを狙ってゾロゾロと作られる紛い物の粗悪品という意味だ。医療費抑制のために厚生労働省が推奨している現状から昔のゾロ薬とは違って信頼できる薬だと思っていた私は全く無知だった。近年のほうが昔よりも酷い状況になっていた。ジェネリックの多くは衛生管理さえ碌にできていない韓国や中国の零細メーカーから買い叩いた粗悪品らしい。主成分の特許が切れたことに付け込んで大量生産するがその製法はデタラメであり危険な副成分や不純物が少なからず混じっているらしい。薬には原産国表示が義務付けられていないからこれらが輸入されて日本のメーカー名で販売されている。買い付け価格は正規品の1~5%といわれているからたとえ先発薬の半値で売ってもボロ儲けできる代物だ。安全管理が加工食品よりも遥かに重要な薬品の原産国が表示されないのはそのことによって利益を得る集団の悪意に基づいているとしか考えられない。
 日本の医療を破壊した犯人は厚労省だが、ジェネリックにおいても彼らは国民を犠牲にして私腹を肥やそうとしているようだ。原産国表示を免除することによって訳の分からぬ粗悪品を国民に売り付けるという詐欺商法に加担している。いやもしかしたら彼らこそ首謀者なのかも知れない。
 効かない薬に約1週間苦しめられたがこのお蔭で厚労省の新たな悪事に気付くことができた。正に怪我の功名だった。

体育と知育

2016-08-23 09:52:54 | Weblog
 体育と知育では教育方針が随分違うように思えるがこれはなぜなのだろうか。
 体育の仕組みとしてスイミングスクールがよくできていると思う。私自身はスイミングスクールに通ったことは無い。私が子供の頃、プールは殆んど無く屋内プールなど夢の施設だった。だからあくまで聞き齧った知識ではあるが、スイミングスクールでは修得レベル別でレッスンが行われるらしい。水に親しむこと、顔を水に浸けること、浮くこと、といった超初心者向けのレッスンから順にランクアップされる。ここでは年齢は無関係だ。たとえ大人であっても小学生と同様に1から学ばねばならない。低レベルを修得せずに高レベルに飛躍することは無い。
 体育では当たり前のこんなやり方がなぜ知育ではできないのだろうか。算数で落ちこぼれた生徒は悲惨だ。訳の分からない授業を延々と受けさせられる。足し算が分からなければ引き算など理解不能だ。掛け算ができないままでの割り算は無意味だ。こと算数に関しては落第や補修は必須だろう。なぜ基礎を習得させないままトコロテン式に進級させるのかさっぱり理解できない。劣等感を持たせないために無理やり進級させても基礎を習得しないままで応用をさせられることになるのだから何も身に付かない。これでは教師が厄介払いをしているとしか思えない。まるで泳げない子供を深いプールに放り込むような暴挙だろう。
 その一方で、最低レベルに合わせた護送船団方式は理解力の高い子供を勉強嫌いにさせる。学ぶことの最大の喜びは新しいことを知るということなのにその権利が奪われる。延々と復習を繰り返していれば授業は退屈で耐え難いものになる。
 要するに現在の知育は個人の資質の違いを無視して画一的な教育をするからほぼ半分の生徒にとっては堪え難いものになってしまっている。
 私は落第も飛び級もあって然るべきだと考える。少なくとも小学校の算数においては修得レベル別での授業が行われるべきだと考える。5年生で小学校6年分の算数を修得してしまった生徒に対しては、より高度な受験用の算数を学ぶか他の教科を学ぶ時間を増やすかを選択させるべきであって、子供の内からつまらない授業による時間潰しに慣れさせるべきではなかろう。
 学校が、塾や予備校とは違って知育だけではなく情操教育も担うべきであることは確かだ。同年代の子供との交流の場の提供は学校の重要な役割だ。しかしそれは、最低限の知識さえ身に付けずに卒業させても構わないという理屈を正当化しない。逆に折角慣れ親しんだ同級生に置き去りにされないためにも勉学に励むべきだとうい動機付けとして活かされても良かろう。過保護は結局本人のためにならない。

変異

2016-08-22 09:48:37 | Weblog
 生物は総て現在の環境に適応している。適応しているものだけが生き残り、適応できなかったものは総て自然淘汰されたからだ。従って殆んどの変異体は現在の生存環境においては不適応体となるから淘汰されてしまう。変異が少ない集団のほうが確実に無駄なく子孫を残すことができる。
 しかし環境が変わった場合、現在のままでは生存が難しくなる。適度に変異が発生する集団のほうが、どれかがその新しい環境に適応できるから生存の可能性が高まる。下手な鉄砲でさえ、いや下手な鉄砲だからこそ数を撃てばどれかがマグレ当りをする。
 環境が安定していれば変異が少ない集団のほうが有利であり、環境が不安定であれば適度に変異があるほうが好ましい。生物はその中間を選んでいるだろう。つまり曖昧な環境においては中途半端に変異するということだ。
 放射線を浴びれば変異が増える。これは放射線がDNAを傷付けるからとされている。あるいは一部の化学物質は奇形を誘発する。サリドマイドや抗癌剤などによって奇形が増えるがこれもまたDNAが傷付けられるからなのだろうか?それとも単に表現型レベルでの変異に過ぎず遺伝子レベルでは全く変異していないということなのだろうか?
 極限状態に陥った生物では変異が増えると言われている。水不足などによって半数以上が死滅した場合、変異体が多く生存するらしい。これは隠れ変異体が生き残って顕現するだけなのか、あるいは過酷な環境が遺伝子レベルでの変異を促すのかよく分からない。ラマルクの用不用説、つまり獲得形質の遺伝は否定されたが、種の危機において変異が増えるという現象は多数報告されている。これは現在の環境に過剰に適応した個体には変異する能力が不足しているから真っ先に絶滅して、その結果として変異の多い個体群が増えるということなのだろうか。
 今のところ人類は環境に適応しており、そればかりか室温などを制御することによって快適な環境まで勝手に作り出している。そんな状況においては人類が同質化する。つまり平均的な質へと収束しつつある。
 過度に現状に適応した生物は環境の変化に弱くなる。小さな変化によって大半が死滅する恐れがある。集団の中には幾らか不適応者がいたほうが良い。不適応者とはあくまで現在の環境に対する不適応者であり、環境が変われば彼らが適応者として母集団を継承する。適不適という評価はあくまで現在の環境に対する評価に過ぎず、環境が変わればこの評価が逆転し得る。「良いは悪い・悪いは良い」という逆転した世界も実現し得る。