俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

故障中

2008-06-28 17:50:37 | Weblog
 「故障中」という言葉に違和感を覚える。「故障中」という言葉から受けるイメージはアニメか喜劇のこんなシーンだ。ポンコツ車が窓・ドア・タイヤと次々に壊れて行き最後にペシャンコに潰れてしまう、これが「故障中」の意味ではないだろうか。
 コピー機に「故障中」と貼られているとその機械が刻一刻壊れ続けて行くことを想像してしまう。
 「故障中」ではなく「故障」が正しいのだろう。「工事中」や「清掃中」は現在工事や清掃が行われている。「故障中」は静止している。英語で「故障中」を表現すればbrokenで「修理中」ならmendingとでも表現するだろう。「中」はingを意味する筈だ。
 同様に「閉鎖中」も変だ。「ドアを閉鎖中の事故」なら分かるが閉鎖されたままの状態なら「閉鎖」ではないだろうか。
 「授業中」は正しいが「休講中」は変だ。

ゼロサム

2008-06-28 17:38:17 | Weblog
 後期高齢者医療制度に関して下らない議論が続いている。
 本来議論すべきことは75歳以上の高齢者を優遇すべきか否かだろう。本質的な問題を置き去りにして枝葉末節のことばかりが議論されている。
 先に結論を言えば私は高齢者の負担を軽減すべきだと考えている。勿論このことは現役世代の負担を増やすということだ。圧倒的多数の現役世代はこの政策に反対する。政治屋は多数者に阿るからこのあたりを曖昧にしようとして議論の不毛を生む。
 誰かを優遇しようとすれば誰かを冷遇せざるを得ない。このことは当然でありこのことを事実に基づいて議論しなければならない。政治屋はタテマエばかりを使う。政治の世界は最も事実(本音)から懸け離れている。困ったものだ。


真上の太陽

2008-06-28 17:29:19 | Weblog
 初めてグァムに行った時のことだ。
 泳いでいて太陽を見ようとした。前後左右を見たがなぜか太陽が見つからない。こんなに強烈な日差しがあるのになぜ?と思ってもう1度四方を見回してから突然気付いた。仰向けになって海に浮かぶと真上に太陽が見えた。
 それまで亜熱帯の沖縄までしか行ったことが無かった。温帯や亜熱帯では多分太陽が真上に位置することは無いだろう。普段見慣れた位置に太陽があると思い込んでしまうから真上はノーマークになっていた。
 真上の太陽に限らず、普段見慣れた位置に無いものは見えなくなってしまう。立法・行政・司法に正義が見つからなくても、正義は無くなった訳ではなく、どこかとんでもない場所で見つかるだろう。

真っ赤な太陽

2008-06-28 17:21:20 | Weblog
 美空ひばりさんを茶化すつもりは無いがなぜ太陽は「真っ赤に燃える」のだろうか。私は太陽をオレンジ色だと思っているが、赤く描かないと太陽に見えないようだ。特に日本人は日の丸の旗のせいか赤いと思い込んでいる人が多い。
 事実と違った常識がしばしば定着している。赤い太陽などはその典型でありこれが誤っていることは簡単に確認できる。昼間の太陽の光は強烈過ぎて色が分からないが少なくとも赤くない。夕陽や朝陽はオレンジ色だ。
 こんな簡単なことでさえ事実と常識が乖離していることを考えれば自分で正誤を確認できないマスコミ情報にどれだけ嘘が混じっているか懐疑的にならざるを得ない。こんな状況では事実に基づいて考えることは途方も無く困難なことだと考えざるを得ない。

ヤツアタリ

2008-06-16 11:37:39 | Weblog
 ヤツアタリは私にとっては不可解な行為だ。
 小学生の頃、ヤツアタリをして壁を殴ったことがある。自分の手が痛いだけだった。もし他人や動物に危害を与えていたら、自分の痛みだけではなく危害についての後悔が加わって一層不愉快になっていただろう。
 虫の居所が悪くて些細なことに怒ったこともある。しかしこれはヤツアタリではない。関係ない者を攻撃するのがヤツアタリだ。
 なぜヤツアタリで気が晴れるのだろうか。「自己対他者」という単純な世界観を持たなければそんな奇妙な感情は生まれ得ない。
 仮に自己が1つであろうと他者は1つではない。自分対外部という世界観は乳幼児の知的レベルでしかない。社会に対する復讐という言葉は幼児性を意味する。

天災と人災

2008-06-16 11:28:55 | Weblog
 天災を日本人は必然として受け入れる。人智が及ばないことに対して不満を持つことは天に向かってツバを吐くようなものだと考え勝ちだ。
 しかし天災は本当に諦めるべきことだろうか。海のほとりに住んでいて津波に会うことや耐震性の乏しい家で震災に会うことは少なからず人災ではないだろうか。
 通り魔や鉄道事故は人災で、地震や台風は天災とされるが割り切り過ぎではないだろうか。天災とされることにも人為的要因は決して少なくない。天災による被害はもっと減らせる筈だ。天災として諦めるべきではない。

サングラス

2008-06-16 11:21:30 | Weblog
 今年からビーチやプールサイドでサングラスを使い始めた。
 これまではサングラスが必要なのは光に弱い西洋人か顔を隠したい芸能人か犯罪者だけだと勝手に決め付けていた。しかし夏ごとに視力が劣化するように感じ、決して過度の明順応によるものではなく紫外線による障害を疑うようになった。
 紫外線の悪影響に関してマスコミは皮膚ガンについてばかり騒ぐが目への影響についてもっと報じるべきだと思う。紫外線を皮膚で浴びることにはメリットもデメリットもあるが、目が受ける影響はデメリットしか無さそうだ。
 しかしサングラスを使い始めてから困った問題が生じた。私は泳ぐ時には必ずゴーグルを使う。これだけでも目の周りが焼け残っていたのだが、サングラスを使えば一層目の周りだけが白くなる。パンダのように目の周りが黒いのは可愛くても目の周りが白い「逆パンダ」は可愛くない。鏡で顔を見ると黒い覆面をしているように目の周りが白い。これでは忍者とか怪傑黒頭巾とかいったアダ名を頂戴してしまいそうだ。
 どうやったら「逆パンダ顔」から脱出できるかを大真面目に考える必要がありそうだ。とりあえず目を閉じる時には必ずサングラスを外すことにしている。

無駄な一生

2008-06-16 11:06:35 | Weblog
 もし私がオウム真理教の熱心な信者でその布教のために一生を費やし、死ぬ直前にそれが誤った宗教だと気付いたとしたら私の一生は無駄遣いされたことになる。
 これと似たことは沢山ある。誤った思想・信条のために一所懸命尽くしたとしたら、「無」あるいはマイナスのために生きたことになる。
 思想は自分で選択することができる。人はその思想に基づいて生きる。しかしその思想が根本的に誤っていれば一生が無駄になってしまう。
 教え込まれた誤った思想に基づいて一生を無駄遣いしてしまう恐れがあるのだから、自分の考えが本当に自分で考えて納得したものなのか、それとも誰かによって植え付けられた誤ったものなのか常に検証する必要がある。

嗜好

2008-06-10 16:55:32 | Weblog
 私は固い食べ物が好きだ。固い煎餅や野菜だけではなく噛み切れないほど固いアメリカンステーキや固い鯨肉も好きだ。
 ところがある日突然固い食べ物が嫌いになった。なぜか歯茎が腫れて固い物を噛むと痛くなったからだ。この痛みは数日後には治まった。痛みが軽くなったのか痛みに慣れただけなのかよく分からないが、痛みが気にならなくなると元どおり固い食べ物が好きになった。
 20歳頃まで私は甘党だった。好きな菓子は砂糖の塊のようなカリントウだった。今では甘い物が大嫌いだ。砂糖の匂いは吐き気を催させる。
 同じ個人でもこんなに嗜好が変わるのだから、神経系統が異なる他人が違った嗜好を持つのは当然だろう。

海洋危険動物

2008-06-10 16:47:24 | Weblog
 海で泳ぐ時、私は3つの動物を恐れている。鮫と海蛇とクラゲだ。
 鮫にはグァムの沖合いで出会った。小さな鮫だった。一瞬ちょっかいを出してみようかと思ったがすぐに考えを改めた。水中では鮫のほうが圧倒的に早い。攻撃されたら防ぐ手立ては全く無い。ましてお父さんが傍にいたらということを想像して一目散に逃げた。
 海蛇には沖縄で遭遇した。宮古島では何度も出会った。沖縄本島でも大勢が泳ぐビーチで見た。水遊びをする観光客の足元を海蛇が泳いでいた。ゴーグルを使う私だけがそのことに気付いて逃げた。
 クラゲには毎度悩まされている。刺されると蜂や蟻に刺されたような水膨れができる。クラゲは半透明で日差しが強ければなんとか見えるが曇ると全く見えなくなる。そのため昼間の晴れた時間しか海には入らない。しかも肩まで届くゴム手袋をして、前方に充分注意ができ障害物を取り除ける平泳ぎだけで泳ぐ。
 海には危険な動物が沢山いる。プールには危険な動物はいないが熱帯魚もいない。「無」よりは「楽」と「害」がある熱帯の海が好きだ。