俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

タイブレーク

2014-08-31 13:33:04 | Weblog
 全国軟式野球大会の準決勝戦が、足掛け4日間、延長50回でようやく決着した。岐阜県の中京高校が広島県の崇徳高校を3対0で破った。
 これを歴史的名勝負と讃えるべきではない。すき家のワンオペのような拷問・虐待であり、悲劇を通り越した惨劇だ。見るに耐えない人権蹂躙だ。多分、両チームのエースは肩や肘を傷めただろう。エースの立場としては「もう投げられない」とは言えない。それは「チームが負けても構わない」という意味を持つからだ。だから彼らは自らの将来を犠牲にして全力を尽くす。彼らは馬車馬のようなものだ、現在しか見ない。現在しか見えないから将来を犠牲にして死力を尽くす。こんな無謀を、将来の見える大人が規制せねばならない。
 こんな野蛮なことを避けるためにも、タイブレーク制を導入すべきだ。タイブレーク制度の始まりはテニスらしいが、延々と続きそうな試合を早く終わらせる仕組みだ。野球のタイブレークは延長戦の特定の回から、無死1・2塁などの状況に設定する。こうすることによってお互いに得点し易くなる。投手に過度な負担をさせないし試合日程も順調に消化できる。野球のタイブレーク制はオリンピックやWBCなどで既に採用されており、ファンにとって馴染みの無い制度ではない。
 これまで多くの好投手が甲子園で肩や肘を壊した。投手の責任は重大なので、かつては痛み止めを注射してでも登板してそれが美談とされたものだ。
 今年の夏の大会では私の地元の三重高校が準優勝をした。三重高校は昭和44年の春の選抜大会では上西博昭投手を擁して優勝した。しかしその上西投手は打者に転向してその後プロゴルファーに転じた。多分、肩か肘を傷めたのだろう。
 まだ体の出来上がっていない高校生に無理を強いるべきではない。彼らは純真だから幾らでも無理を重ねてしまう。彼らに無理をさせないためにも制度を改めるべきだ。くじ引きでは余りにも可哀想だ。全力を尽くしたという充実感が味わえるタイブレーク制の早期の導入を期待したい。将来のある高校生に終わりの見えないデスマッチなどさせるべきではない。

ヒーロー

2014-08-30 10:04:32 | Weblog
 ウルトラマンがなぜ無条件にヒーローであり得るのか?それは市民を襲う怪獣を倒すからだ。ヒーローになるためには極悪の強敵がいなければならない。日本が怪獣や宇宙人に襲われなければウルトラマンの出番は無い。ヒーローという立場のためには悪役が欠かせない。
 中国共産党がヒーローであるためには悪人を退治しなければならない。長い間、その悪役は大日本帝国軍だった。日帝は残虐・卑劣極まりなく、それを破った共産党はヒーローだという物語にするために、日帝を悪く・強い敵として描き続けて来た。
 しかし時代を経ればこの論法は通用しなくなる。毛沢東であれば抗日戦の英雄だったが、現在の共産党幹部は抗日戦に参加さえしていない。現在の幹部はヒーローたり得ない。そのせいかどうかは分からないが、かつてのテレビドラマとは違って、最近のドラマの日本兵は弱く、カンフーの達人に蹴飛ばされれば木端微塵に砕け散るそうだ。だから新しい悪役が必要になった。選ばれたのが汚職政治家だろう。汚職政治家であれば人民の敵と言える。こうしてスケープゴートに選ばれたのが薄熙来氏であり周永康氏だろう。人民は喝采した。
 この作戦は一石二鳥だ。自らがヒーローになれるのと同時に政敵を粛清できるからだ。
 抗日戦勝利では最早ヒーローになれない。前の世代がちっぽけな島国に負けなかったという情けない話にしかならない。既にGDPで中国に追い越された日本ではヒーローの引き立て役として不充分だ。共産党独裁を正当化するためにはもっと巨大な敵、しかも人民を苦しめる巨大な悪でなければならない。
 ここで大きな矛盾にぶつかる。共産党独裁の中国において共産党以外に巨大な権力は無い。従って内部抗争にならざるを得ない。これは血で血を洗うような権力闘争になる。共産党独裁を正当化するための活動が熾烈な権力争奪戦になる。こうして中国共産党は内部抗争と恐怖政治によって自滅する(?)

ワクチン(3)

2014-08-30 09:31:26 | Weblog
 ワクチンは有効性と安全性だけではなく、社会にとっての有益性も考慮されねばならない。感染力が強く致死率が高い病気であればある程度強引に予防接種をすることも必要だろう。天然痘はそうしたからこそ撲滅された。
 ワクチンには個人的な側面と社会的な側面がある。個人の利害だけで評価されることが多いが、社会的な意義も考慮されねばならない。近年、麻疹の感染者が国内外で非難された。国内では妊婦に感染させて胎児に悪影響を与えたからであり、国外では殆んど撲滅していたアメリカで再流行させたからだ。このように感染力の強い疾病であれば社会的責任が生じる。被害者が加害者に転じて次々に被害者(=加害者)の連鎖を作る。
 感染力の弱い病気であれば社会的責任は余り生じない。だから自分の利害だけで判断しても構わないだろう。
 予防接種とはリスクの先取りだ。予防接種にはリスクが伴うが、これによって将来その病気に感染する可能性が減る。予防しないことはリスクの先送りだ。現時点でのリスクは生じないが将来におけるリスクは高くなる。
 癌やエボラ出血熱のような死亡率の高い病気に罹れば危険な薬でも容認される。しかし予防接種の副作用では、健康な人が健康を損なうのだから納得できない人が少なくない。
 予防接種がリスクの先取りであることを理解する必要がある。現在の副作用のリスクと将来の発病のリスクを秤に掛ければ、殆んどの場合、リスクを先取りしたほうが有利だ。論理的に考えれば予防接種は受けたほうが得だ。
 子宮頸癌のように感染力の弱い病気であれば、ワクチンの接種を勧める必要は無い。リスクを先取りする勇気のある人だけが接種して、リスクを先送りしたい人は接種を拒否しても構わない。この選択は自己責任であり、国が余計なお節介をするべきではない。逆恨みを招くだけだ。

木と森

2014-08-28 10:04:10 | Weblog
 「木を見て森を見ず」という諺があるが、あらゆる学問が専門化し過ぎたために齟齬が生じている。特に顕著なのは医療だ。各専門医の学会が勝手に基準値を決めるから日本人全員が何らかの病人にされてしまった。日本人間ドック学会がこの厳し過ぎる基準を批判したところ各専門医から袋叩きに会っているようだ。
 科学においてはこれまで以上に学際が重要になっている。生物学は化学と一体化した生化学でなければ前へ進めない。「シートンの動物記」や「ファーブルの昆虫記」とは全く別の世界だ。しかし余りにも高度になり過ぎたために分業が必要になった。STAP細胞が捏造問題を招いてしまった原因の1つは分業だろう。
 哲学も専門馬鹿が多い学問だ。哲学者は余りにも少なく、哲学学者ばかりが多い。カント哲学の研究に一生を捧げることを否定しようとは思わないが本来の「哲学すること」とは懸け離れている。むしろ梅原猛氏のように、哲学で磨いた知性を歴史の研究などに使うほうが哲学者らしいとさえ思える。
 高度化すれば専門化することはやむを得ない。アリストテレスのような博物学が現代では不可能なことなど分かり切っている。しかし全体を見る目が必要なことは確実だろう。体から切り離された手足が本来の手や足とは全く別であるように、部分の集合は全体にはならない。幾ら優秀な選手を集めても監督不在ではチームとしての機能を果たせない。全体を統括することが必要だ。
 高度な医療のために専門化が必要なことは確かだ。しかし専門性と広汎性が矛盾するとは思えない。広く浅い知識が思わぬところで役立つこともあるだろう。
 内科医が精神病患者を作り、精神科医が身体障害者を作るような現状はどう考えても異常だ。本来、人間の科学である医学において総合医療こそ重要だ。専門馬鹿によって「手術は成功したが患者は死亡した」と言われるような本末転倒の事態からは免れたいものだ。

環境

2014-08-28 09:34:18 | Weblog
 温暖化の恐怖を煽る記事の中で最も酷いと思うのは農業問題だ。温暖化によって日本の農業が大きなダメージを受けるというデマには怒りさえ感じる。
 植物学の常識から考えて、温暖化もCO2の増加も農業にとってプラスに働く。温暖化に対応するための米の品種改良の話には絶句する。元々、温暖な地域の作物だった稲を寒冷地でも育てられるようにこれまで散々品種改良をして来たのであり、暖かくなって困ることなど何も無かろう。それどころか最大の農地面積を持つ北海道の全域が米作好適地になったら米の生産が増え過ぎて値崩れが起こることを本気で心配すべきだろう。
 暖かくなって困るリンゴやブドウについても産地を北海道に移せば済むことだ。リンゴやブドウなどが作れなくなった土地ではミカンなどを作れば良い訳であり、農家は決して困らない。怖いのはむしろ寒冷化だ。水が凍るほどの寒冷地になれば農業は困難になる。
 環境の変化は常にメリットもデメリットも伴うものだ。デメリットにばかり注目してまるで災害であるかのように騒ぎ立てる偏狭さには呆れざるを得ない。彼らにとっては変化とは総て悪なのだろう。
 温暖化以上に恐ろしいのは大気汚染だろう。日本もかつて四日市の公害で人命を危険に晒した。特急電車で通過する時、四日市に近付くと匂いで分かるほどの汚染だった。排気ガス公害も酷く、高速道路沿いの住民による公害訴訟があちこちで起こされた。その後、原告勝訴の判決や技術の進展によってこれらは克服された。
 しかし中国の場合、住民運動は期待できない。権力者の意向が人命よりも重い独裁国だからだ。訴訟にも期待できない。司法が共産党の御用機関になっているからだ。中国には自浄力が無い。死者が相次いで住民暴動が相次ぐようになって初めて見直されるのではないだろうか。しかしその頃までには日本人も少なからず被害を蒙っているだろう。空は繋がっているのだから他所ごとでは済まされない。これは中国の国内問題ではなく国際問題だ。風土病ではなく感染症だ。

義足

2014-08-26 11:08:23 | Weblog
 殺人事件の被告になってしまったが、義足でありながら健常者と対等に競ったパイオニアとしてオスカー・ピストリウス選手の快挙は否定されない。しかし今後、義足のアスリートの扱いはどうあるべきだろうか。
 問題になりそうなのは走り幅跳びのマークス・レーム選手だ。何と8.24mをこの7月に記録した。ご存知とは思うがアスリート用の義足は弾力性に富んでおり、日本の佐藤真海選手も含めてどの選手も健常なほうの足ではなくバネのように撓る義足で踏み切っている。これはアンフェアではないだろうか。
 もっと困るのは義足のスイマーだ。膝から下を失った障害者が健常者よりも有利になり得る。流石にヒレや水掻きを付けた義足は認められないだろうが、40㎝や50㎝の大足にしてイルカの尾ビレのようにしなやかに上下動させれば健常者よりも早く泳げるだろう。
 あるいは指を失った人が鋼鉄の義指を付けてボクシングに参加すれば文字通り「鉄の拳」になってしまって著しく有利になるだろう。
 障害者に同情的な人が怒るかも知れないが、そんな問題を回避するために、オリンピックとパラリンピックは別の大会であり続けるべきだ。2020年の東京オリンピックまでには義足などの技術は更に進歩してサイボーグとさえ言えそうな選手も現れるだろう。そんな選手が現れてから議論すれば、一般論ではなく個人に対する賛否になってしまう。今の内に、体の一部を機械化した選手を、ドーピングと同様に排除しておくべきだろう。
 サイボーグが憧れだった時代があった。しかし今では人体改造は忌まわしいものと受け止められている。
 第三セクターが持て囃された時代もあった。公と民の双方の良さが発揮されると思われたからだ。今では三セク方式はほぼ否定されている。公の無責任さと民の利益優先の弊害が目立つようになったからだ。
 人と機械の関係も、サイボーグ化ではなく、筋力強化スーツのような形で自由に着脱できる方向へと進んでいる。これは化粧と整形手術の違いのようなものだろう。美容整形とはサイボーグ手術の一種だろう。

冷たい料理

2014-08-26 10:33:19 | Weblog
 中国人は、料理は熱くなければならない、と信じている。高級な懐石料理店に案内すれば怒り、それよりはラーメン屋を喜ぶ。これは単に食習慣の違いではなく、その背景には衛生上の事情がある。島国の日本とは違って、大陸の中国には四方から様々な病原体が集まる。殆んどの病原体が熱に弱いから加熱して殺菌する。殺菌した直後に食べるのが最も安全であり、せっかく加熱しても冷めてしまえば病原体が再繁殖してしまう。だから料理は熱くなければならない。「冷やし中華」は本質的にあり得ない。
 四方を海に囲まれた日本は大陸の病原体から隔離されていた。だから加熱しなくても安全だった。冷蔵庫が無い時代に大陸で生魚を食べたらかなり高い確率で食中毒を起こしていただろう。
 日本人は冷たい料理の危険性に最も鈍感な民族だろう。魚だけではなく牛や馬まで生で食べようとするから事故が起こる。
 手作りおにぎりが危ない、などと言えば顰蹙を買いそうだが、科学的に考えれば事実だろう。このことは市販のおにぎりと比べれば明らかだ。市販のおにぎりの工場は充分に衛生管理されている。一方、家庭の台所は雑菌だらけだ。そんな不潔な環境で素手で朝に握ったおにぎりを昼に食べれば食中毒の可能性はかなり高くなる。手作り派の人は食品添加物を悪く言うが、手作りおにぎりこそ添加物が必要な食品だ。昨今のように塩分控え目であればより一層その必要性が増す。

夏の梅雨

2014-08-24 10:08:32 | Weblog
 当たり前の話だが夏に梅雨がある訳ではない。日本の季節は四季ではなく五季だ。春夏秋冬プラス梅雨だ。ところが今年は梅雨明け後も梅雨時のような気圧配置が続いている。つまり南の太平洋の暖気と北の大陸(オホーツク海)の寒気が、日本列島の上空で拮抗し続けている。例年であれば太平洋高気圧の勢力が強まって日本列島がすっぽりと覆われて夏になるのだが、今年はいつまで経っても拮抗したままだ。
 こんなことは1993年以来のことだ。この年はいつ梅雨が明けたのか分からず、夏らしい夏を迎えないまま秋になってしまった。夏大好きの私としては最も嫌な年だった。冷夏と日照時間の不足のせいで米が戦後最大の不作になり米泥棒まで出没した年だ。
 今年の8月の日照時間は平年の半分以下らしい。降水量はたっぷりあるが、こんな気候は農業のためには良くない。今のところキューリやナスビなどに影響が出ているらしいが、このままだと少なからぬダメージになるだろう。
 最近の天気予報が当たらないのは予報官のレベルが下がったからではなく特殊な気圧配置のせいだ。普段であれば天候は西から東へと動く。西にあった高気圧や低気圧が東へと動くのだから予報し易い。ところが今のように南北の大気のバランスで天候が決まる時には予想が困難だ。前線が南へ動くか北へ動くかは南北の大気の力次第だ。まるで大相撲で両力士ががっぷり四つになっているようなものであり、どちらへ動くかは予想し難い。私は毎日何度も天気図を見て考えているので、予報し易い日としにくい日があることを知っている。天気図を全く見ない人が気象庁任せにして外れたら文句を言うのはフェアではない。天候が読める日もあれば読めない日もあるものだ。気象予報士は無責任な地震学者などとは違って「予知できる」などと大言壮語を吐かない。可能な範囲で知恵を絞って予報の精度を上げようとしている。
 8月が終わった時点でマスコミは異常気象だと騒ぎ立てるだろう。確かに特殊な気象ではあるが所詮20年に1度のレベルだ。20年に1度と言えば珍しいように思えるが、20回に1度の外れクジのようなものだ。月単位で把握すれば2年に1度程度(12か月÷20年)だから誤差の範囲内だろう。

精神病薬

2014-08-24 09:32:04 | Weblog
 精神病薬は、猛毒である抗癌剤以上に危険な薬だろう。薬は人体に異常反応を起こさせる劇物だが、精神病薬は脳に異常反応を起こさせることを目的とする。脳が異常な状態になれば体が正常かどうかを判断する主体が無くなってしまう。そうすると薬によって全身が蝕まれてもそのまま服薬を続けて廃人になってしまう。脳は文字通り中枢であるだけに脳の異常は精神の異常に留まらない。歩けないどころではなく全く動けないという症状まであり得る。
 現代の医療は、患者の不快な症状を緩和する対症療法に過ぎない。原因を問わず、症状が緩和すれば薬効があったと見なされる。下痢止め、解熱剤、頭痛薬などのお馴染みの薬はどれも100%対症療法薬であって治療薬ではない。これらで症状を誤魔化している間に自然治癒力が働くので効いたように錯覚するだけだ。対症療法は治療ではない。
 こんな低レベルな医学が脳の病気にどう対処するのか。昂奮を鎮めたり、抑鬱感を軽減したり、妄想を治めたりすることを医師は治療だと思っている。しかしこれらは麻薬や危険ドラッグで快楽に溺れることと何ら変わらない。治療効果は全く無い。
 精神病薬が効くのは全くの偶然だ。精神が「フ」の字型に歪んでいる時に薬によって異常反応を起こさせれば運良く「-」の字型に戻るかも知れない。しかし殆んどの場合「コ」の字型や「カ」の字型や「ウ」の字型に歪んでしまって却って重篤化する。素人が自動車を改造するようなものであり大半は悪化する。
 薬とは人体を異常にするものだ。異常な状態を更に異常にして正常に戻るのは稀な僥倖に過ぎない。殆んどの場合、更に異常になる。
 精神病薬が対症療法に過ぎないということを再認識する必要がある。暴れる患者を鎮静化させることぐらいならできるだろうが、それはロボトミー手術のようなものであって治療ではない。麻薬や酒による一時凌ぎのようなものだ。薬で治療できると考えるのは医師の思い上がりだ。

5連敗

2014-08-23 10:14:09 | Weblog
 昨年8月以来、特別警報が3度出されたがどれも大した被害は無かった。私自身この8月に特別警報が出された三重県の伊勢市の住民だが、普通の雨に過ぎなかった。雨戸さえ碌に閉めなかった。県単位での予報や警告は無意味だ。「三重県では多い所では200㎜以上の雨」と予報されてもその大半は尾鷲市での雨量であり他の地域は全然違う。この特別警報での警戒地域は北部だったが、県民の多くは南部の予報と誤解しただろう。
 その一方で、大きな災害は2度起こっている。昨年10月の伊豆大島と今週の広島市だ。これらには特別警報は出されなかった。特別警報を出して空騒ぎに終わったのが3度、特別警報を出さずに大きな災害になったのが2度だから、気象庁はこれで5連敗だ。
 災害が発生してから初めて避難勧告をしたと広島市が非難されているが気の毒だ。市には気象レーダーなど無いのだから前日の夜に出された大雨警報以上の情報は無い。もし特別警報が出されていたら即刻避難勧告をしていただろう。
 誤った予報は「狼少年」のようなものだ。私は天気予報も警報もアテにしない。人為的なものだからだ。その一方で天気図や雨雲レーダーなどの情報なら100%信じる。これらは事実だからだ。私は空模様やデータに基づいて自分で勝手に判断する。そのほうがよく当たるからだ。広域に対する特別警報などやめて特定の地域に対する危険情報に切り替えるべきではないだろうか。気象衛星や雨雲レーダーのような昔はなかった文明の利器があるのだから技術的には可能な筈だ。丼勘定のような県単位の情報は必然的に外れるのだからピンポイントでの情報を目指すべきだろう。