俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

不安・安心・安全

2016-07-31 10:07:59 | Weblog
 「不安」は主観的な感情だ。科学的データをどれだけ積み上げても不安は解消されない。データよりも酒でも飲んだほうが解消のために役立つ。
 安心や幸福や満足も主観的な感情だ。これらを客観的なものと誤解している限り問題は解決されない。これらは科学的に処理できず数値化するためには詭弁を弄することが必要になる。
 「安全」は「安心」とは違って客観的なデータとして処理できる。耐震強度であれ合成保存料の安全基準であれ科学的に証明できる。証明された科学的データに対して安心できないのはそれが主観的な感情だからだ。
 安心のために必要なのは「慣れ」だろう。明らかに危険であっても慣れることによって安心できる。リオデジャネイロのスラム街は安全な地域ではないが、大半の住民は安心して住んでいる。地方在住者にとって新宿歌舞伎町は安心な街ではないが在京の遊び人にとっては安心できる楽しい街だろう。
 「幸福」もまた主観的な感情だ。幾ら物質的に恵まれても幸福になれるとは限らない。詭弁術師は精神面での充実を説くだろうが、精神的というよりも心理的な要因を満たすほうが確実に幸福になれる。
 抗鬱剤として広く使われているSSRIは「ハッピードラッグ」とも呼ばれている。不幸に苦しんでいる人でもこの薬を飲むだけでハッピーな気分に浸れる。たとえブラック企業で毎日16時間扱き使われて心身共に疲弊していてもこの薬を飲むだけでハッピーになり勤労意欲が湧くと言う。正常な人を狂わせることによって幸福感が与えられる。
 ランナーズハイと呼ばれる現象がある。短距離走や長距離走の選手はゴール直前に「至福」を感じるらしい。登山家の征服感も似た感覚だろう。彼らはこの感覚を求めるから多大な苦痛にも耐えられる。
 「満足」もまた主観的な感情だ。不満を解決しても満足感は得られない。それは「当たり前」の状態でしか無い。満足感を齎すのは「驚き」だ。期待とのギャップがあって初めて満足感が生まれる。驚きという主観的な感情が伴わなければ満足感は生まれない。
 これらの主観的感情を目標にすることはできない。客観性を持たない安心・幸福・満足などを満たすためには個別対応が必要であり、仮に個別対応が完璧であっても不安や不満は解消されない。
 主観的な「安心」に対して客観的な「安全」があるように、主観的な「幸福」に対応する客観的な概念が必要だ。客観的な幸福があり得ないのだから幸福の本質は謎のまま放置される。

群居

2016-07-30 09:54:51 | Weblog
 ニーチェからの強い影響もあり私は人類の群居本能をネガティブに捕らえている。人間は群れると愚かになる。子供ばかりではなく大人もまた群れると群の外と敵対したがる。小さな群の秩序が最優先され勝ちだ。
 群の空気によって同化された人は群の外と対立する。民族主義にせよ原理主義宗教にせよ彼らは「我々」と異なる価値観を持つ者を異常者と見なす。異常者を倒すために群の絆は一層強固になる。
 群居の発端は母子による授乳だ。「鳩ミルク」のような例外はあるものの、哺乳類独特の仕組みによって母子間で築かれた絆が拡張されて血縁者集団が形作られる。この延長だからこそ近い者への愛つまり隣人愛が育まれる。
 哺乳類である限り授乳・受乳という関係が失われることは無い。この本能を失った変異体は必ず淘汰されるからだ。進化の過程において本能は「学習」に置き換わり易いが、授乳・受乳という関係は生存のために必須だから簡単に失われることは無い。
 最も本能が破壊された動物である人類においても食べることと母子の関係は生存と直結しているだけに本能が維持される。しかし妙なところに本能が残っていると全体のバランスが崩れる。本能と非本能が対立するからこそ集団の理念と個人の理念が対立する。集団生活に対する過大な評価の根源になっているのは群居本能だ。本能が理性に敵対する。
 人は利他性を好む。極めて自然と思える利己主義に逆らう利他主義は「神的」あるいは「超越的」とまで誤解され勝ちだが実は本能的なものだ。人類には群居本能が根付いている。
 強固な淘汰の仕組みに逆らって群居本能を弱体化させた人がいる。これは性別進化の賜物だろう。母子関係であれば100%淘汰される筈の変異が父子関係においては必ずしも淘汰因とはならない。授乳を嫌う変異遺伝子xが現れた場合、その遺伝子を持つメスの子供は餓死する。しかしオスが遺伝子xを持っていてもその伴侶のメスが正常であればその子は淘汰されない。だから遺伝子xはオスを通じて温存され得る。
 遺伝子xを持つオスは群居本能から解放され得る。だから彼らは群居倫理に縛られず群居倫理を利用しようとする。彼らが利他主義を讃えるのはそのことによって彼らが利益を得るからに過ぎない。こんな事情があるから倫理・道徳を説く人は大半が二枚舌の悪党だ。
 実は、私自身は群居本能に縛られた人間だ。だからサディズムもいじめも楽しめず、群居本能を否定する行動もできない。論理においては群居倫理を否定しながらも生活においては居心地の良い群居にどっぷりと浸っている情けない群居動物だ。群居本能に縛られた者が群居倫理を否定して、群居本能を失った者が群居倫理を肯定するとは全く奇妙な構図ではあるが、「利他性」という不合理な本能が人類に備わっているからこそこんな矛盾に陥るのだろう。

組織の力

2016-07-29 09:44:58 | Weblog
 個人は情けないほど無力だ。個人にできることは余りにも少ない。労働者は組織の一員となることによって個人の能力以上の仕事を遂行する。毎年、組織に2000万円の利益をもたらしている労働者が1000万円の賃金しか貰っていなくてもそれは搾取ではない。組織がバックボーンになっているから大きな仕事ができる訳であり一人でできることなど限られている。大きな組織には資金も人材も人脈も情報も備わっているからその力に頼っているだけだ。己の能力を過信して独立した人は大抵失敗する。運良く成功した人にだけ脚光が当てられるが失敗した人のほうが圧倒的に多い。
 個人の能力の差は余り大きくない。それに比べれば収入の差は大きい。しかしこれは差別ではない。微妙な差が大きな格差に繋がり得る。100mを10秒で走ればヒーローになれるが12秒で走っても誰も注目しない。たった2秒の違いが市場では雲泥の差になり得る。
 格差は運によっても大きく左右される。創業期のソフトバンクやユニクロに入社した人はそれなりに苦労しただろうが今ではいい思いをしているだろうし、絶頂期にダイエーやシャープに入社した人は辛酸を嘗めさせられている。個人の力ではどうしようもない。
 人は組織を背景にして権力を握る。「寄らば大樹の蔭」となるのは当然のことだ。公務員が人気の職業であるのはその仕事が魅力的だからではなく、潰れる可能性が低い大樹だからだ。しかしこんな大樹の蔭に入った人は堕落する。働かない人に囲まれていれば勤労意欲は減退する。共産主義の理想とは逆に、労働者は楽を好むものであり、甘やかされた子供と同様に、良過ぎる労働条件も人を駄目にする。
 医師や弁護士などは自力に頼っているようだがそうではない。彼らは国家権力によって特権が認められているに過ぎないから、資格が剥奪されれば忽ち路頭に迷うことになる。
 群居動物である人間は良き羊であることによって成功する。一匹狼は排除される。成功するために最も必要な能力はコミュニケーション力だろう。
 群居動物は適切な役割を分担することによって潜在能力まで発揮できるが、個性を磨くことは十中八九失敗する。個性が有益であり得るのはあくまでそれが組織内で役立つ範囲に限られ、個性を伸ばして変人扱いされるよりは話の分かる人であるべきだ。組織内での役割を早く把握して役割に徹するべきだろう。間違った役割を選べば失敗することになる。

危ない人

2016-07-28 09:55:15 | Weblog
 知的障害者大量殺害事件の植松容疑者が大島衆議院議長に宛てて提出した文書が公開された。これは危険思想ではなくただの駄文だ。論理が全く整合していない。肝腎の部分を繋いでいるのは「神のお告げ」と称する妄想でありこれこそ典型的な「意思疎通できない人」による無内容の文章だ。読むに値しない。彼こそが「生きるに値しない重複障害者」だろう。
 私は植松容疑者を精神障害者と考える。犠牲になった知的障害者よりも彼のような精神障害者のほうがずっと「意思疎通は困難」であり「生きるに値しない」のではないだろうか。知的障害者を有害物扱いする前に自らが精神障害者であることを知るべきだっただろう。
 マスコミは彼を精神障害者扱いしたがらない。それは彼を有罪にしたいという願望に基づいている。刑法39条は「心神喪失者の行為は、罰しない」と定めているから彼を精神障害者扱いすれば無罪を訴えることになってしまう。しかし過去の凶悪犯罪で、精神障害と疑われないような犯人などいただろうか。狂人であることを認めて刑法の問題点を問うべきだと思う。いつまでも誤魔化してはいられない。
 世の中にには誤ることを個性だと思っている人がいる。2+3=6と主張して悦に入っている人だ。こんな人が現れる度に事実は1つで誤りは無数だと誤解しかねなくなる。実際には無数の事実と無数の誤謬がある。たとえ山頂は1つであってもそこへと至る道は無数にある。幸福な家庭は相似ているが幸福な関係は様々であり得る。
 事実が1つではないからこそ危険思想があり得る。最も危険な思想は第二次世界大戦後の虚構を暴く思想だろう。戦前・戦中・戦後史は連合軍によって徹底的に歪められた。この嘘を守ることが戦後秩序でありその嘘を暴くことが現代社会ににおける最も危険な思想だ。
 ヒトラーの「わが闘争」はドイツでは今尚禁書扱いされている。これは決してさほど危険な書物ではない。単に偏狭な思想に基づいて書かれた本に過ぎない。同盟国である日本人に対する差別的な発言も多数あり、正直な話、なぜ連合軍がこの程度の文書の公表を恐れるのか理解し難い。
 戦前・戦中・戦後史は対ドイツ以上に対日本の嘘のほうが著しい。それは日本の勃興が白人至上主義に対する強烈なアンチテーゼであり、植民地支配を継続するために何としても歴史から抹消したかったからだろう。
 戦後アメリカによる史観の捏造を全面的に受け入れた進歩的文化人は白人至上主義も受け入れた。当時の彼らの主張を読むと余りにも偏見に満ちていることに呆れる。
 原理主義が危険であるのはそれなりに筋が通っているからだ。そこが植松容疑者の駄文とは異なる。イスラム原理主義にせよキリスト教原理主義にせよ、世俗主義よりずっと首尾一貫している。但し一貫しているから正しいという訳ではない。一貫しているからこそ一層酷く歪んでいる・

マスコミの責任

2016-07-27 09:41:02 | Weblog
 託児所や保育園が近い将来において過剰になることは分かり切っている。今後一層の少子化が進むからだ。それにも拘わらず政治家とマスコミはこれらの充実を主張する。都知事選の主要3候補も揃ってソフト・ハード両面での充実を公約に入れている。これは「保育園落ちた、日本死ね」のブログを政治家とマスコミが過剰に騒ぎ立てたことの弊害だろう。
 正当な批判が世論になるのは良いことだ。そのことによって社会が改善される。しかし不当な主張が世論に祭り上げられると、間違っていると分かっていても批判できなくなる。無理が通れば道理は引っ込む。これが空気による支配だ。
 一旦空気が醸成されてしまうとそれを批判できなくなる。これが戦前・戦後に共通する日本人の最大の欠点だ。戦前・戦中であれば「日本が負ける」という言葉がタブーだったし、戦後は「自由」と「民主主義」が最高善だ。批判は許されない。
 なぜ日本人は集団ヒステリーに陥るのか。元凶は批判精神も責任感も持ち合わせないマスコミだろう。戦前・戦中に戦争を煽ったように、煽り立てて託児所や保育園を作らせた挙句、作り過ぎたら非難する。関係者という意識は全く無い。責任など微塵も負おうとしない。
 この体質は今に始まったことではないしジャンルを問わず暴走する。かつて肺癌治療薬イレッサが発売される時「副作用の無い夢の新薬」と散々囃し立てた。ところが死亡例が続々報告されると、手の平を返して「危険な薬」として糾弾を始めた。当事者意識を全く欠いたマッチポンプだ。自ら煽っておきながらその責任を煽られた側に押し付けるのがマスコミの常套手段だ。
 言論の自由がしばしば問題にされるがマスコミ自ら「言論の責任」に触れることは無い。言論の責任=言論弾圧という構図に仕立て上げて免責ばかりを主張する。だから嘘を垂れ流し続けた朝日新聞の責任は問われない。
 憲法は思想や表現の自由を保護するが、言論の自由とは本来誰のための権利なのだろうか。これは国民の権利ではないだろうか。少なくとも特定の企業が嘘を報じて儲けることが公認されているとは思えない。不良品を購入させられた消費者が良品を要求するのは当然の権利だ。マスコミが守っているのは言論の自由ではなく言論の無責任だ。これは安倍内閣よりも酷い憲法歪曲ではないか? 

人為的な痛み

2016-07-26 09:46:19 | Weblog
 動物にとって痛みとは使用を抑制させるための警鐘だ。より厳密には、自然治癒力が働いて元通りに戻るまで保護せよという指示が痛みとして感じられる。それは数億年に亘る進化の中で培われた仕組みだ。余程のことが無ければ痛みに堪えて酷使すべきではない。痛みという警鐘に素直に従うことが動物としての正しい選択だ。
 自然治癒力による治癒は一貫している。痛みが行動を抑制しその間に自然治癒力が働いて患部が元に戻る。患部に痛みを感じること、患部を極力動かさないこと、自然治癒力が働くこと、この一連の働きはまるで自然治癒力が司令塔になっているかのように統制が取れている。痛みとは「動かすな」という指示だ。切り離された肉体は痛まない。切断箇所だけが痛む。これは切り離された部分が最早自然治癒力の対象外であることの証しでもあるだろう。
 しかし人為が介入するとこの数億年の鉄則が崩される。義足や人工関節を装着した時の痛みには耐えねばならない。自然治癒力が働かない状況において患部を動かさなければ悪化を招く。これは数億年の動物の進化とは異なったルールだ。
 リハビリが辛いのは、痛い箇所を敢えて動かすという、動物としての本能に背く行為を強いるからだ。これは肉体的に辛いだけではなく精神的にも辛く葛藤を招く。リハビリを貫徹するためには敢えて本能にさえ逆らうという強い意思が必要だ。
 痛みを感じると人は本能的・反射的・無意識に動作を止める。このことによって傷んだ箇所が保護される。これは動物として正しい反応ではあるがリハビリにおける痛みには耐えねばならない。どんな賢い獣も治療のための注射に怒るがこれと同様に耐えるべき痛みだ。
 私は今ステントの装着という不自然な状況にいる。食道に金属を装着して飲食物の通路を確保するという異常な状態だ。異常な状態だから痛みや不快を感じる。痛みを感じると私は患部に負担を掛けまいとする。つまり飲食の自粛だ。しかしこの痛みは自然治癒力に基づくものではないから治癒には役立たない。痛みを我慢して栄養摂取に励むことこそ必要だ。
 痛みに対する本能的な恐怖を克服せねばならない。本来の痛みは自然治癒力が働くための警鐘だが人為的な痛みは自然治癒力の管轄外だ。保護しても治癒されない。自然治癒力の管理下にある痛みと人為的な痛みを明確に区別して、人為的な痛みに対しては雄々しく立ち向かわなければ劣化を招く。

群居動物の倫理

2016-07-25 09:51:20 | Weblog
 種の存続のために群居性が有利とは限らないが、哺乳類が群居化し易いことと人類が群居性を活かして繁栄したことは確実だ。
 哺乳類は母による授乳が不可欠だ。授乳をしない変異体が現れた場合、その変種は子孫を残せないから必ず淘汰される。従って授乳という本能は100%確実に継承される。最も冷血と思える肉食獣であっても哺乳類である限り子育てを怠ることは無い。哺乳類における母子の絆は絶対に失われずこれが基本になって様々な群居形態が生まれる。
 魚類や昆虫類においても群居は存在するがこれは哺乳類とは違って単に生存競争において有利なだけだから参加も離脱も各個体が任意に選択できる。彼らにとっての群居は必須の生存条件ではない。
 群居する哺乳類にとって群居環境は生存環境でもありそれが快適であることは種の利益と一致する。だからこそ他者との関係を良好にするために高い知能が必要になる。哺乳類が一般に他の動物よりも高い知能を持っているのは本来、他者との関係を良好にして快適な群居生活を送るためだったのではないだろうか。
 人類は群居の恩恵を最大限に受けている。非力で繁殖力も乏しく何の取り得も無い人類がここまで増殖できたのは集団がそれぞれの「文化」を築いたからだろう。それぞれのグループが独自の「文化」を築いて他のグループを支配し、そのことを通じて更に大きな群居集団が形成された。
 様々な環境に適応するために人類は自らの本能を破壊し続ける。固定した環境においてであれば本能に基づく行動が有利だ。それは数十世代を掛けて磨かれたものだからだ。ところが異変が多く複雑な環境においては臨機応変に対応できる「学習力」のほうが有利だ。人類は大半の本能を放棄することによって最大限の学習力を獲得した。これが「自由」と呼ばれている。
 その一方で群居動物である人類は集団としての快適性を求める。集団の秩序を破壊しようとする者は「悪」と呼ばれ徹底的に攻撃され、集団の利益に貢献する自己犠牲が奨励される。この本能が「正義」と呼ばれる。
 人類に確実に残っている本能は母子の絆だけだ。他は破壊されつつある。群居本能に背く「自由」が群居本能に基づく「正義」と対立するのは必然だろう。
 正義を重視する人の根底には群居生活を快適にせねばならないという信念があり、自由を重視する人にとっては群居状態からの離脱こそ重要だ。どちらを優先すべきかは判断できないだけにこの二者の対立は倫理の根本問題になる。人類の倫理を生物史から捕えるなら「正義」は群居の肯定から「自由」はその否定から生まれた理念だけに、理性以前のレベルでの対立ともなりかねない。
 「正義」だけではなく大半の倫理は快適な群居生活を営むためのものであり、群居を否定しかねない「自由」をどう位置付けるかは常に問題になる。「自由」は群居動物の倫理において継子(ままこ)であり続けるだろう。

エコカー

2016-07-24 16:32:44 | Weblog
 電気自動車をエコカーと言い触らすような嘘は止めてほしいと思う。電気自動車は有毒ガスも有害物も大量に排出する。それは動力源となる電力を作る時に多く発生する。
 電気ストーブを無公害暖房器具だと思う人はいない。それが電気エネルギーに依存していることを誰もが知っているからだ。電気エネルギーを作るためには火力や原子力などが使われている。仮に電気ストーブそのものが無公害であっても、電気エネルギーを作るために環境が悪化されている。だから電気ストーブは無公害たり得ないし、同様に電気自動車も環境に優しくない。
 エネルギー変換や移送のロス率は高い。発電所から家庭に届くまでに何割かが失われそれを自動車に移す時にもロスが発生する。
 比較的あるいは相対的という意味でなら電気自動車もハイブリッドカーも低公害車だ。それはガソリン車やディーゼル車が非常に有害な道具であり、それよりマシというだけのことだ。鼻クソより清潔だと目クソと耳クソが威張っているようで見苦しい。自動車はエンジンから有毒ガスと有害物を排出しタイヤは有害物をバラ撒いている。こんな有害な道具が許容されているのは物流のためにこれに代わる道具が無いからに過ぎない。物流におけるメリットが大きいからそのデメリットが大目に見られている。
 しかし人の輸送道具としては最低だ。人・距離当たりでの有害物排出量は航空機よりも多い。こんな有害物発生装置を使って「ドライブ」を楽しむ人など犯罪者にようなものだ。ゴミや汚物を撒き散らかす人と同等あるいはそれ以下だろう。電車やバスに切り替えるだけで有害性は数分の一あるいは数百分の一になるのにそのことが奨励されないのはマスコミの大スポンサー様である自動車業界の圧力があるからだろう。
 自動車が無駄の塊りであるのは1台ごとにエンジンと客室と駆動装置が備わっているからだ。エアコンや音響機器まで搭載している。個人にとって可能な最も無駄なエネルギー使用方法だろう。
 個人に可能な省エネ・環境保護は、自動車を使わないことが一番だ。このことだけで節電や節水などの総てを上回る効果が得られる。環境保護活動に取り組むなどやめて、その活動のために自動車を使うことを無くすほうがずっと良かろう。
 私はリバタリアンであり個人や企業の活動の自由を尊重する。しかし日本における二大スポンサー様である自動車業界と医薬品業界による言論統制には我慢ならない。彼らは事実を隠蔽して日本人の健康を蝕む。金儲けのために国民を毒塗れにする大悪党だ。

ステント

2016-07-23 16:50:26 | Weblog
 20日(水)にステントの装着を終えて昨日(22日)退院した。食道に金属製のパイプを付けることによって飲食物の通路を確保すると共に肺への流出を防ぐという一石二鳥の「工事」なのだから理に適っているが体にとっては不快だ。気のせいもあるだろうが一日中鈍痛を覚える。痛みは本能的に警告と判定されて行動を抑制するがこんな痛みには慣れなければならない。同程度の痛みが続けば体がそれに慣れるものだから、ある程度食べられるようになるために最も必要なことは時間と経験だろう。痛みに慣れてただの鈍痛と感じるようにしてしまえば恐怖心が消える。
 ステントの装着は外科医ではなく内科医の仕事だ。胃カメラの延長と位置付けられているのだろうが、メスを使わないとは言え、外科手術と比べて余りにも不潔な環境で行われることに少なからず驚いた。
 ステント装着は治療ではない。ただの延命策だ。治療不可能な患者に対する対症療法であり、事故を起こした原発に対する石棺のようなものだ。
 批判を受けて福島第一原発に関して「石棺」という言葉が削除されたが、チェルノブイリ原発の跡地は正に石棺によって覆われている。原発の残骸には手を付けられないから放置され周囲をコンクリートで固めることによって放射線が漏れることを少しでも減らそうとしている。棺の中の遺体には手を出さない。ステントも石棺のようなものであり、癌細胞の増殖を放置する。治療効果ゼロの延命策だ。
 ステントの耐久性について尋ねてみたところ何年持つか分からないとのことだ。それはステントより先に患者の寿命が尽きるからだ。1年程度と覚悟する必要があるようだ。
 人工物で機能を補完した私は広い意味ではサイボーグだろう。一時期、人間の高機能化を狙ってサイボーグの研究が進められたが今では内装よりも外装の研究が進められてている。漫画で言えばサイボーグ009よりもマジンガーZのほうが現実的だったということだろう。筋力強化スーツの実用化が進められる一方で人体改造は最小限に抑えられている。内部から改造するよりも外部から補強するほうが実用的・合理的・人道的だからだろう。漫画の「テラフォーマーズ」のような遺伝子組み換えによる改造人間はSFの世界に留まるようだ。
 その一方でパラリンピックとサイボーグの関係が難しくなりつつある。ヒレの付いた義足や義手の装着は水泳選手に認められないが、バネの付いた義足が現時点では求められている。短距離走のピストリウス選手や走り幅跳びのレーム選手の記録は健常者と同レベル以上だ。もしドクター中松が発明したピョンピョン靴の装着が認められたら跳躍関連競技はサイボーグの天下になる。これらはボクシングで義手が認められないのと同様、競技に使うべきではあるまい。パラリンピックは傷害を克服した人々のための場であり、ここでサイボーグ化などの最新技術を競うべきではなかろう。

入退院

2016-07-20 09:11:28 | Weblog
 今日(20日)の午後から4回目の入院をする。中止になった11日から9日遅れだ。癌に冒された私の体は不安定だ。特に嘔吐と発熱は突然起こり曖昧なままに治癒するからさっぱり予想できない。
 医師は食道近辺の菌を退治するために1週間程度入院して絶食することを勧めたが私は拒絶した。無菌室にでも入らない限り菌やウィルスを根絶できる筈が無い。そんな無駄な医療紛い行為のために残り少ない私の貴重な1週間を浪費したくない。「ステントの下に菌が入っても構わないから、放射線治療の効果で癌細胞が小さくなっている内に装着してほしい」と申し入れて説得してしまった。我ながら我儘な患者だと思う。
 早ければ22日(金)の退院の予定だが、私は断固22日の退院を強行しようと考えている。私が入院する病院は土・日が休診日なので、金曜日に退院できなければ月曜日まで待たされる。金曜日に「仮退院」をした上で月曜日には外来で診断を受けるなどの条件を提示してゴリ押ししようと考えている。最悪でも土曜日の午前中には退院したい。