俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

高等遊民

2012-01-31 15:17:19 | Weblog
 夏目漱石は多くの新語を作ったがその1つとして「高等遊民」という言葉がある。これは充分な教養と能力を持ちながら敢えて何ら社会に対して働き掛けず悠々自適の生活を送る人だ。私は子供の頃からこれに憧れていた。教養人の理想の生き方だと思っていた。
 退職して、私も晴れて高等遊民に仲間入りできたのだが、ずっと高等遊民を貫いている友人のことが気掛かりだ。彼は大学を卒業後、一時期はフリーターをしていたが、遺産を相続してからは働かずに、毎日、図書館とテレビに時間を費やしている。新聞・雑誌情報が豊富なので書籍情報に偏り勝ちな私とは相互補完関係にあり、長期に亘って実りあるコミュニケーション活動を続けていた。ところが最近になって急激に反論を許さないようになり始めた。反論を非難や否定と同一視するようになってしまった。喧嘩をしてもつまらないので聞き役に徹しているが、かつてのような自由な議論を楽しめなくなって寂しい。
 なぜ最も自由な立場の筈の高等遊民が偏狭になるのだろうか。自分の世界に籠るからだろう。高等遊民はニートと似たところがある。ネット中毒のニートと同じような精神構造にもなりかねない。私としては彼を反面教師にして身を正したい。謙虚さを失えば高等遊民ではなく偏屈な頑固爺になってしまう恐れがある。

予想と予言

2012-01-31 15:01:52 | Weblog
 私自身は競馬をやらないが、競馬場には予想屋がいるそうだ。レースの予想をしてその情報を売るというビジネスだ。直近のレースを当てた予想屋の所には多くの人が集まって予想紙を買うそうだ。
 予想屋同士は事前調整をしているそうだ。仮に10人の予想屋がいて同じ予想をすれば全員が外しかねない。予め調整をして10種類の予想にしておけば誰かの予想が当たる可能性はかなり高くなる。たまたま当たった予想屋だけが大声を出して、外れた予想屋は黙っていれば、人の注意は当たった予想屋の方へ向かう。こうやって誰かが当たるということを繰り返して商売を成立させる。
 予言も同じようなものだ。○月△日に地震が起こるとバラバラな予言をすれば誰かが当たる。外れた人は知らぬ振りをして、当たった人だけが得意気に自らの予言について解説する。こんな馬鹿げた予言を信じてはならない。
 一時ブームになったノストラダムスの大予言はもっと巧妙だ。曖昧な表現だから様々な解釈が可能になっている。1999年に空から恐怖の大魔王は降臨しなかったが、予言が2001年か2011年だったら9.11の同時多発テロや3.12の原発事故と解釈できる。
 50年後の予想など気楽なものだ。未来の恐怖を煽って好き勝手なことを言う。外れても責任が問われることは無い。こんな事情で似非科学が横行する。

珍名(2)

2012-01-31 14:44:41 | Weblog
 なぜ珍名が増えているのだろうか。薔薇などと名付けられた子供は気の毒だ。試験の度に名前を書くだけで数秒掛かってしまう。
 珍名を付ける親の多くはクリエイティブでないのに自己顕示欲が強い人だろう。普段、創造的なことは何もできないので名付けで憂さ晴らしをしているのだろう。名前は親が勝手に決めることができる。彼らは「俺だけが創れる独創的な名前だ」と自己満足しているのだろう。まるで造物主気どりだ。
 才能の無い人ほど個性を主張したがるものだ。凡庸な人は小さな違いを針小棒大に主張して凡庸でないと懸命にアピールする。才能に恵まれた人は差異を強調するよりも普遍性を重視する。
 彼らの多くが阿呆であることは漢字を知らないことからも分かる。海月と書いてウヅキとかカヅキとか読ませようとする。私はクラゲと読む。海星と書いてカイセイと読ませるが私はヒトデと読む。心太と書いてシンタと読ませるが私はトコロテンと読む。もしこれらの漢字を知っていたら決してこんな変な名前は付けなかっただろう。
 極め付けは椿子だ。ツバコと読むのかハルコと読ませるのか知らないが私は迷わずにチンコと読む。彼女の両親は「椿説弓張月」という小説を知らないのだろう。可哀想に彼女の渾名は「チンコ」で決まりだ。
 珍名は児童虐待の一種だろう。子供を親の所有物だと思っているからこんな自分勝手な名前を付けて子供を苦しめる。揚蝶(アゲハ)のようなホステス紛いの名前を付けられた子供の老後は惨めだ。

日本ハム

2012-01-27 15:23:31 | Weblog
 ダルヴィッシュ有投手のレンジャーズへの移籍があったので連日、日本ハムの球団名がニュースで報じられた。入札金の5,170万ドルと宣伝効果で球団および親会社は大儲けできただろう。
 古い話だが、日本ハムが球団を持つことが決まった時にチーム名を公募した。私はウィンナーズ(勝利者)が良いと思った。結果としてはウィンナーズは2位か3位で、ファイターズが1位となりチーム名に選ばれた。今でもウィンナーズのほうが良いと私は思っている。この日本人とアメリカ人にしか通じない駄洒落は捨て難い。
 winnerは英語だ。ウィナーと発音するほうが正しいがウィンナーでも通じる。
 ウィンナソーセージに当たる英語はviennnaだ。ヴィエナと読む。ドイツ語およびオーストリア語ではwienerと書きやはりヴィエナと読む。ところがどういう訳か米国語ではwienerと書いてウィーナーと読む。オーストリア語のスペルのままで英語読みをする。この米国語が日本語のウィンナーになったのだろう。米国語ではウィナーとウィーナーは似ているが違う単語だが日本語ではどちらも同じウィンナーだ。日本ハムwinnersは強そうで旨そうな球団名だと思う。
 ところで田舎町を旅行した人が喫茶店でウィンナコーヒーというメニューを見て注文したところ、ウィンナソーセージ付きのコーヒーを出されて仰天したそうだ。多分その地域独特のサービスメニューなのだろう。

見掛け

2012-01-27 15:09:08 | Weblog
 「人は見掛けによらぬもの」とは言うが見掛けの重要性は大きい。第一印象は見た目であり、会話が始まる前に相手の姿を見てしまうから第二印象・第三印象は第一印象に引きずられてしまう。一旦作られた第一印象を覆すことは難しい。
 男性のほうが異性の外見を重視するが、これはそれなりに正当性がある。男女の知力の特性は実は質的にかなり異なる。男性の知力は比較し易い。男性の知力は社会的に「役に立つ」ということを基準にして測定できる分かり易い能力だ。身長の高低と同じように客観的な評価が可能だ。一方、女性の知力は「女の勘」に代表されるように主観的かつ個人的であり優劣の比較が難しい。優劣が分からなければ評価基準にはなり得ない。女性の知力の優劣は男性には理解し難い。
 女性の知力は分かりにくい。それは勇気と同じようなものでいざと言う時にしか本領を発揮しないものなのかも知れない。そんな滅多に現れない能力を評価することは不可能に近い。
 中身が分からなくても外見なら分かる。知力が分からないからこそ女性の容姿ばかりを男性は重視する。洞察力は誰にでも備わっているとは限らないが、視力なら誰でも持っているからだ。知力が分からないので視力に頼るということだ。

人のため

2012-01-27 14:54:47 | Weblog
 こんな小咄がある。2人の男が酒を売っていたが客は誰も来ない。寒いし退屈なので、一方が相手に100円払って酒を一杯飲んだ。すると相手の男も受け取った100円を支払って一杯飲んだ。こうして2人で100円の授受を繰り返したところ、酒樽は空になり100円だけが残った。
 閉鎖した社会の中での金銭の授受は何の付加価値も生まない。外へ向かって働き掛けなければ自己蕩尽するだけだ。
 一郎が和子のために生き、和子が一郎のために生きるというケースはお互いがお互いのために生きているが、閉鎖した社会内での頼り合いであり何ら生産性を持たない。仮に他人のために生きることが尊いとしてもこれは意味があることだろうか。初めの小咄と同じようなもので閉鎖した社会での虚しい行為でしかないように思える。
 0・ヘンリーの「賢者の贈り物」では夫婦がお互いのことを思って自分の大切なものを売って、結果的には無駄になるプレゼントを贈り合う。相手のために良かれという思いが空回りをする。「人のため」や自己犠牲が奨励されているがお互いの傷を舐め合うような生き方は虚しい。それよりももっと「自分のために」生きることを考えたほうが良かろう。皆が社会のために生きるなら社会は何のためにあるのだろうか。社会の存在意義こそ問われねばならない。
 

2012-01-24 15:09:44 | Weblog
 東北地方の太平洋岸は放射能で汚染され続けている。福島第一原発から直接放出される汚染水だけではなく、周囲の汚染された土地からも雨水や陸風によって放射性物質が運ばれ続けている。
 太平洋へと流れ込んだ汚染水はどう動くだろうか。北半球ではコリオリの力によって渦は右回りする。右回りする渦が左側の土地によって堰き止められると下に向かう。つまり東北地方の汚染水は親潮にも乗ってどんどん南下するということだ。福島から茨城・千葉へと汚染域は拡大するということになる。
 地上の汚染は風に乗って北西へと広がった。そのために福島第一原発からの同心円上ではなく北西側にホットスポットが現れた。SPEEDIなどの情報公開が遅れたために、汚染された砕石がマンションなどの建築資材として使われたが、海の汚染についても情報公開が必要だ。
 政府の対応はいつも後手に回っている。被害が発生してから初めて騒ぐ。稲わらの汚染でも砕石でも事故になってから「業者に責任は無い。東電の責任だ。」と繰り返すが、情報を公開しない政府の責任だろう。一部の週刊誌のように危機を煽るべきではないが、適切な危険情報は必要だ。海の汚染については被害が拡大するまでに情報公開をすべきだ。
 追伸:渦は左回りの間違いでした。お詫びして訂正します。恥曝しですが間違った文章はそのまま残します。

2012-01-24 14:54:04 | Weblog
 初場所で優勝した把瑠都関は初めてちゃんこ鍋を見た時に「なぜこんなに野菜ばかり食べるのか」と驚いたそうだ。
 多分、魚と鶏肉以外は野菜ばかりなのでダイエット食と思ったのだろう。体力を付けるためには肉を食べるべきだと考える西洋人にとってちゃんこ鍋はヴェジタリアンの食物と思えても不思議ではない。こんな低脂肪で淡白な食事ではなく蛋白質がたっぷり含まれた肉料理を食べるべきだと考えただろう。
 最近でこそちゃんこ鍋に牛も豚も使うが、正統派のちゃんこ鍋の動物性蛋白質は鶏と魚と貝だ。四つん這いの牛や豚は縁起が悪いというこじつけの説明もたまに耳にするがそんな理由ではない。日本人は明治維新まで獣肉食をしなかったからだ。
 少なからぬ人が栄養価とはカロリー量だと誤解している。農林水産省が発表した食糧自給率40%は正確にはカロリー自給率だ。低カロリーの野菜の自給率は80%を超える。エネルギーを蓄えれば元気になれると考える人は高カロリー食を好み、減量したい人はカロリー量を減らそうとする。しかしカロリーが総てではない。人間は様々な栄養素を摂取しなければ健康ではいられない。仮にカロリー量=エネルギー量であってもそれだけでは不充分だ。ビタミンなどの様々な栄養素を持つ野菜は低カロリーだが健康食だ。短期的なパワーアップではなく長期的な健康を考えるなら野菜を沢山食べたほうが良い。

2012-01-24 14:43:16 | Weblog
 生きるためには嘘(共同幻想)が必要だ。極論すれば生きるとは嘘を食べ続けることだ。しかしどうせ嘘を餌にするのなら有益な嘘を選びたいものだ。
 宗教は様々なタブーを設ける。ヒンズー教徒は牛を食べない。ムスリムは豚を食べない。キリスト教徒は鯨を食べることを許さない。仏教は肉食そのものを否定する。なぜこんなに好き勝手なことを主張するのだろうか。こんなにバラバラなのは、実は根拠の無い迷信に過ぎないからだ。だから牛や豚や鯨を食べても構わない。
 嘘は嘘を要請する。嘘を本当らしくするために嘘を重ねる。一旦嘘だと認めてリセットすべきだろう。
 人は何の意味も無く生まれる。人間よりも和牛や豚のほうが意味を持って生まれる。「食用」という意味があるからだ。しかし食用という意味を持つよりは無意味のほうが好ましかろう。元々意味の無い誕生に意味を持たせるために嘘が並べられる。嘘で固まった意味を求めるよりも無意味であるということをそのまま肯定するべきだ。

乾いた雑巾

2012-01-20 15:25:27 | Weblog
 乾いた雑巾を絞ろうとすることは愚策だ。濡れた雑巾は幾らでもあるからだ。私はサラリーマン時代に20ほどの部署に配属されたがどこでも経費削減に取り組んだ。どの部署にも無駄は幾らでもあった。
 私の削減策は独特のものだ。基本的には「減らす・やめる」という常套手段は使わない。仕事の仕組みそのものを変えるか誰もが当たり前と思っていることを見直すことが私のやり方だ。最も効果があったのは宣伝部時代の郵送方法の変更と印刷用紙の見直しだったが、一番私らしいのは企画部時代の洋式トイレの蓋の撤去だ。
 様式トイレの蓋を無くせば3つのメリットがあると私は主張した。①部品が減れば設置費も維持費も減る。②清掃時間が短縮できる。③蓋を開けずにすぐに使えるので利便性が増す。
 私は大真面目に主張したのだが、ジョークと誤解されて笑われた。なぜなら様式トイレに蓋をがあるのは当たり前で、当時蓋の無いトイレを誰も見たことが無かったからだ。
 その後、実際に蓋の無いトイレが現れるようになってからようやく理解されるようになり、蓋の無いトイレが設置されるようになった。このように人は現在ある物を正しい物と信じ込む悪い癖を持っている。疑わずにずっとやり続けていることこそ無駄の温床だ。慣習や信念にメスを入れれば幾らでも無駄を減らすことはできる。