俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

ニセ科学

2009-06-30 17:18:32 | Weblog
 哲学は決して訳の分からないことを主張するための学問ではない。逆に筋の通ったことを主張することがソクラテス以来の哲学の王道だ。
 なぜ筋の通ったこと(正しいこと)を主張することが訳の分からないことを主張することと誤解されるのだろうか。間違ったことが「常識」とされているからだ。間違った常識が先に存在するとその常識と違う意見は異端とされる。
 ガリレオ・ガリレイの「地球が回っている」などはその典型例だろう。地球が太陽の周りを回っているという考えは我々の実感と一致しないしキリスト教の教義にも反するから彼の学説は否定された。
 偏見的総合判断は主に次の3つから生じる。①宗教②権威③常識。
 宗教的偏見についてはこれまでに散々書いたのであえて付け加えない。それ以外で最も危険なのは権威に盲従することだ。DNA鑑定だと言われたらそこで思考停止状態に陥ったり、怪しげな学者が「地球温暖化が大災害を招く」と言ったら全く検証せずにまるで温暖化阻止が最高善であるかのように考えることはニセ科学に対する妄信でしかない。
 かつて紫外線やコゲに発がん性があると騒いだことがあった。ダイオキシン騒動にしてもそうだが、科学は人文系とは違って正誤の判定が容易だ。これらの問題ときっちり取り組まず曖昧なままにしておくとなんとなく常識になってしまう。マスコミが文科系出身者に支配されているせいとは言え困ったことだ。

知恵と知識(2)

2009-06-30 17:03:23 | Weblog
 ボクサーは普段、試合の体重より遥かに重い体重で生活して、試合前に急激に絞り込む。これは彼らの怠慢や不摂生を意味しているだろうか。
 私はこれを非常に合理的なやり方だと思っている。体重が増えれば贅肉だけではなく筋肉も増える。筋肉も贅肉も増やしてから絞り込めば確実に筋力強化に繋がる。
 そもそも人間の体は短期間で必要なものを身に着けられるような仕組みにはできていない。水や食事でさえ徐々に補給するしかない。一度に3日分の栄養を補給しようとしたら多分腹を壊すだろう。必要なものは徐々に溜め込むしかない。
 服や化粧なら簡単に取替えられるが生身の肉体を改善することは難しい。それが困難だから服や化粧のような虚飾の技術ばかり高まるのだろう。
 知識についても同じことが言える。無駄と思える知識も溜め込んで、そこから必要な知識を繋ぎ合わせなければ優れた知恵にはならない。
 一挙に知識を詰め込んでも消化不良を起こす。知識は毎日コンスタントに身につけて行ってこそ知恵のレベルにまで高まり得る有意義な知識になる。忘れることを恐れずに貪欲に補充することが必要だ。
 勿論、溜め込むだけではなく自らの力で考えなければ知識は知識のままで知恵のレベルまで高まることは無い。

正義

2009-06-30 16:50:06 | Weblog
 こんなジョークがある。中年女性が診察中にオナラをした。医師に指摘されると「なぜ分かったのですか。私のオナラは音も臭いも殆ど無い筈ですのに」と言った。医師は彼女の鼻を治療した。
 数日後、彼女がやってきて言った。「私のオナラが急に臭くなってしまいました。あなたは一体何をやったのですか!」医師は答えた。「あなたのオナラはもともと臭かったのです。鼻の治療をしたからあなた自身にも分かるようになっただけのことです。今日は耳の治療をしましょう。」
                     *             *
 自分で自分の間違いに気付くことは難しい。シーシェパードのメンバーは本気で自分達は正しいことをやっていると信じている。オウム真理教徒はハルマゲドンを信じていただろう。「煙草を追放しろ」と叫ぶ人は喫煙者の権利を剥奪することを正義と信じて疑わない。
 自分達が信じていることのほうがむしろおかしいのではないかと思える人ならこんな偏狭な考えを持たない。自分の価値体系だけが正義な訳ではなく他者の価値体系も正義と認められるなら相互理解も生まれ得る。
 この医師のように、偏狭な考えを是正できる人は一体どこにいることだろう。

人格

2009-06-23 16:53:56 | Weblog
 人格は独立したものではなく「関係」の中で捕らえられるべきものだ。
 善良な人との関係では善良な人格となる。利害一点張りの人との関係では利害重視の人格になる。
 親の前では「子」の人格になり、子の前では「親」の人格になる。これは日本人に限ったことではなく世界中で普遍的に見られることだ。西洋人の男がレディの前ではどれほど堂々とした態度を取ることだろうか。
 最近妙に人気のある太宰治は自分の愛想良さを偽善と位置づけて悩んだ。しかし相手の善良さに同調することは偽善ではない。相手の善良さと自分の善良さが同調して増幅されているだけのことだ。それは悪い友人とつき合って「朱に交われば赤くなる」ということと同じだ。
 偽善とは何らかの邪悪な意図を持った行為であり、特定の人の前で善意が強化されたペルソナが現れるのは不自然ではなく、むしろ両者が共に善意に満ちていることの証明とさえ言えるだろう。

大麻

2009-06-23 16:36:15 | Weblog
 昨年、慶應義塾大学や早稲田大学などの学生が相次いで「大麻取締法」の容疑で逮捕された。マスコミはこれを大学生のレベルの低下として扱ったがそんな問題だろうか。
 まず「大麻」という単語が悪い。麻薬の「麻」から連想して大麻とは麻薬よりも悪いものだと想像する人もいるようだが、大麻と麻薬は全く関係が無い。大麻は麻(リネン)の原料で、麻薬はケシの実から抽出した薬物だ。因みに「麻生」という姓は多分「大麻」とゆかりのある姓だろうが「麻薬」とは全く関係は無い。
 「大麻取締法」という法律も奇妙な法律だ。日本で大昔から栽培されている大麻には薬効成分(つまり「毒物性」)は殆ど無い。薬効性(毒物性)があるのはインド大麻など一部の大麻だけだ。こんな法律ではヒナゲシを栽培しただけで「ケシを栽培した」として逮捕されるようなものだ。
 大麻そのものもマスコミが騒ぐほど危険な薬物ではないようだ。アルコールや煙草やカフェインよりも依存性も禁断性少ない単なる嗜好品らしい。
 こんな変な法律で人の一生を台無しにして良いのだろうか。大麻を栽培したぐらいで社会的に葬られるのは、イスラム教の国で酒を飲んでムチ打ちの刑に処せられるのと同じくらい不合理な話だ。
 悪法であろうと法である限りそれが「犯罪者」を作ってしまう。こんな法律に基づいて逮捕するよりは歩道を暴走する自転車を取り締まったほうが何百倍も社会にとって有益だろう。

ターザン

2009-06-23 16:21:01 | Weblog
 ターザンという不気味な物語がある。今なら人種差別意識の塊の話として出版禁止や上映禁止となりそうな偏見に満ちた物語だ。
 こんなあらすじだった。
 白人の学者夫婦の遺児がアフリカの奥地で猿に育てられる。その子供は獣のパワーと「白人」の知恵を兼ね備えた超人に育ち「ジャングルの王者」となる。つまり圧倒的な能力差で「土人」や野獣を支配するという話だ。
 この話はデタラメだ。もし白人が猿に育てられれば「デキの悪い猿」になる。図体ばかりデカくて運動能力は猿以下、知力においても猿並みにしかなれない。アヒルに育てられた白鳥は所詮「醜いアヒルの子」になるようなものだ。
 今春ロシアで、親が子供を犬・猫と一緒に育てたという事件があった。保護のために駆けつけた人々が見たのは四つ足で吠える「人間」だった。
 人間は育てられて初めて人間になる。本能(先天的能力)において人間には必要最低限の能力しか与えられていない。育てられて初めて人間は人間になる。
 本能が壊れた動物である人間は育成されて初めて人間になる。本能があらゆる動物の中で最低レベルでしかない人間は人間社会の中で育てられない限り潜在的に持っている能力を発揮し得ない。

マナーによる秩序

2009-06-16 19:22:41 | Weblog
 「交通マナーを守ろう」というスローガンはおかしい。守るべきものはルールであって、マナーで秩序を守ることは困難だ。
 ルールとマナーとモラルはしばしば混同して使われる。例えば「政治家のモラルが低下した」と言うが、その時その政治家のやった行為は大抵、違法行為だ。モラルの低下ではなくルール破り(犯罪行為)だ。
 マナーやモラルは格率に過ぎず、社会的な強制力は無い。仮に背いても非難されることはあっても罰されることは無い。そんな曖昧な自主的な約束事だ。
 ルール違反は違う。これは罰される。それを決めたのはこれまでの政治家だ。
 飲酒運転は危険だから禁止されている。「飲酒運転をやめましょう」というモラルに訴えるキャンペーンが長年に亘って行われたが成功しなかった。ところが厳罰化されたらアッと言う間に激減した。
 いじめの問題もモラルの問題に摩り替えると「みんな仲良くしましょう」という抽象的な目標に終わる。むしろ暴力や恐喝という犯罪として捕らえたほうが良かろう。
 ルールはルールとして国民に守らせるのが「公」の役割だ。「公」の責任を放棄してあたかも「民」のマナーの低下が原因であるように責任転嫁するような理屈に乗せられるべきではない。

差別社会ニッポン

2009-06-16 19:05:38 | Weblog
 アメリカでは人種や性や年齢による差別は禁止されている。唯一、能力による差別だけが許されているそうだ。このことが決してタテマエではないということはオバマ氏やヒラリー・クリントン氏やライス氏の活躍を見れば明らかだ。
 翻って日本ではどうだろうか。日本ではあらゆる差別が「悪」とされている。ところがこれが全くのタテマエでしかない。タテマエだから社会には差別が横行する。
 人種どころか民族や「」に対する差別がある。男女による差別もある。容姿による差別もあれば人柄による差別もある。
 但しビジネスに限れば、容姿による差別と人柄による差別はタテマエとは逆にある程度認められても良いと思う。
 容姿の良し悪しは決して軽んじられるべきことではない。「人は見かけが9割」という本がベストセラーになったように、見た目は大切だ。例えば悪党顔をしていればそれだけでまともなセールスマンとして成功する可能性は極めて乏しい。また人柄の良し悪しで差別すべきでないと考える日本人は実際にはごくごく少数だろう。
 タテマエに反し、無茶苦茶であるにも関わらず公認されているのが年齢による差別だ。なぜ60歳になったという理由だけで本人の資質に関わらずクビにされるのか理解できない。「定年」という概念が常識になっているから問題にされていないが、国際的な常識から見れば異常な制度だ。こんな制度が差別と感じないということに日本人の常識の異常さを感じる。
 差別には良い差別も悪い差別もある。良い差別を「区別」と言い換えるようなレトリックに頼るのではなく差別の必要性および不当性について改めて検証してみる必要がある。

割り箸

2009-06-16 18:51:05 | Weblog
 例によってヘソ曲がりなことを書くが、割り箸という食器は世界に誇るべき「優れ物」だと思っている。日本文化の一翼を担っているとまで言いたい。
 森林伐採だから地球温暖化の一因になるなどとどこの阿呆が言い出したのか知らないが、貴重な木材をたかが割り箸を作るために浪費する筈が無い。割り箸や爪楊枝が間伐材や木屑から作られていることは常識だ。言わばゴミの再利用だから極めてエコロジカルな商品だ。
 一方、洗浄して何度も使われる塗り箸はどうだろうか。塗る工程でどれだけ資源が使われるか、あるいは洗う工程でどれだけの洗剤や水やエネルギーが消費されていることだろうか。
 こういったことを全く考えずに「使い捨て=資源の浪費」という偏見に満ちた考えに基づいて「割り箸=資源の無駄遣い」という不思議な思考形態を日本人に定着させたのは誰の陰謀だろうか。
 塗り箸の欠点はそれだけではない。洗いが不十分な場合は不潔だ。ファーストフード店で食べカスの残った汚い塗り箸を何度か見た。そのうち塗り箸を経由した伝染病の感染も起こり得る。
 割り箸こそ環境に優しく清潔な食器であり、再利用再々利用される塗り箸は環境負荷が高く不潔な食器だ。

安物

2009-06-09 15:42:14 | Weblog
 「安物買いの銭失い」とか「安物は高物」とかいった諺がある。どちらも安い商品はその価格相応の価値しかなく、結局は損をする、という意味だ。しかし本当にそうだろうか。
 誰の創作か知らないが昔からこんな話がある。
 関東人は価格の高さを自慢し、関西人(特に大阪人)は安く買ったことを自慢するという。例えば関東人は「このバッグは20万円した」と自慢する。一方、関西人は「このバッグなんぼやと思う」と尋ねて答えを得てから「それなら10個買える」と言って自分の目利きを自慢する。
 私は関西人の感覚のほうが健全だと思う。商品の価値は使用者が決めるべきであり「安くて良い物」は幾らでもある。大阪の「食い倒れ」のコンセプトは「安くて旨い」だ。安くて良い物を見つけ出せる人こそ「違いの分かる人」だ。違いの分からない人に限って、自分で判断できないから価格やブランドに頼らざるを得ない。
 あるデパートには時々こんな客が来るそうだ。「一番高いスーツをくれ」と言って現金で買っていくそうだ。高いということは付加価値も高いに違いないと思っているのだろう。こんな違いの分からない人に買われていればそのブランドの価値も下がる。