俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

邯鄲の夢

2016-07-17 10:42:09 | Weblog
 「邯鄲の夢」(あるいは「邯鄲の枕」)と呼ばれる物語がある。若者が仙人から枕を借りて長い長い夢を見た。夢の中で彼は波瀾万丈の人生の主人公であり栄華を極めて生涯を全うした。しかし目覚めてみれば眠っていたのはほんの短時間だった。
 実際に見る夢はこんなにリアルではない。夢想ならともかく夢は余り楽しくない。当たり前のことだが実感が乏しく快感も不充分だ。その癖、恐怖心だけは妙にリアルに実感させられる。
 夢がこんな性質であることを進化論的に解釈すれば、楽し過ぎる夢が有害だからだろう。もし眠る度に素晴らしい夢を見られるのであれば、困った時には眠れば良い。くだらない現実より素晴らしい夢が生甲斐になる。しかしこんな人であれば生存も繁殖も困難だ。だから素晴らしい夢を見るという性質を持つ人は淘汰される。現実が夢よりも重要なのは現実が優先権を持つからだ。夢の中で死んでも現実に戻るだけだが、現実で死ねば夢を見ることさえできなくなる。
 しかし個人の幸福感だけに注目すれば素晴らしい夢は捨て難い。たとえ奴隷の身分であっても毎晩、王侯貴族になった夢を見ていれば決して惨めではない。生存と繁殖には役立たない夢であっても主観的幸福のためには充分に役立つ。主観世界に生きる限りにおいては夢は現実と等価値たり得る。
 アニメおたくにとって現実の女性は興味の対象外だと言う。三次元の女性は欠点も併せ持つが二次元のヒロインは完全無欠だ。非現実のほうが現実より魅力的だから不幸な人は夢想に浸りたがる。不幸な老人は素晴らしかった過去の思い出に喜びを見出す。
 高校生なら現実的な未来よりもロマンチックな夢に憧れる。画家にとってはモデルよりも彼が描く美人画のほうが遥かに美しい。あらゆる芸術至上主義者にとって現実など芸術(夢想)のための素材に過ぎない。それは料理人にとって料理が主役であり素材など脇役に過ぎないのと同じことだろう。人工物こそ自然以上に素晴らしいものであり、善も美も現実の中から発掘するものではなく自らの理念の中で創造され得る。個人の幸福というレベルで捕えるなら醜い現実を直視する必要性など全く無い。
 私はテレビゲームには疎い。初期のインベーダーゲームで終わってしまいRPG(ロールプレイングゲーム)については殆んど無知だ。彼らがなぜあれほどゲームに夢中になるのか理解できない。
 実は彼らは文字通り「夢の中」にいるのだろう。邯鄲の夢にも匹敵する素晴らしい夢に浸っている。彼らが愛するのは夢の仮想現実化だ。
 最近ポケモンGoというゲームが大ヒットしているらしい。これの魅力は現実とゲームの融合だろう。現実の中にゲームのキャラクターが現れる。しかも現代版「邯鄲の夢」のプレイヤーは、ゲームが共有されることによって、「ゲームの達人」として現実界でもヒーローになれる。しかし現実を軽視してゲームを重視していれば、現実世界で劣化することはほぼ確実だろう。

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