俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

11月

2014-10-31 10:24:45 | Weblog
 11月は記念日が多い。しかしそれは大半が「いい○○の日」という語呂合わせだ。多分「いい夫婦の日(11.22)」が最初だとは思うが捻りが少なくて面白味に欠ける。ざっと列挙すれば「いいお産(11.03)」「いい刃(11.8)」「いい空気(11.9)」「いいトイレ(11.10)」「いい皮膚(11.12)」「いい色(11.16)」「いい兄さん(11.23)」「いい文(11.23)」「いい服(11.29)」など沢山ある。中でも11月10日の「いいトイレの日」は駄目だ。11月10日なら「いい陶器」でも「いいドール」でも、あるいは「いいジュース」や「いい絨毯」でも構わない。トイレの日なら10月10日だろう。トイレでもトイレットでも10月10日がぴったりだ。11月10日にしたのは「10.10」であれば「東陶」と読めるからだろう。それなら東陶が勝手に10月10日を「東陶の日」として「東陶トイレ」を訴求しても構わないだろう。今のところ10月10日は「totoの日」にもなっているが「TOTOの日」と重なっても構うまい。
 11月11日は奇数・ゾロ目の日であり、この日以外は総て節句なのだから(1月1日、3月3日、5月5日、7月7日、9月9日)何らかの記念日にしなければ勿体ない。1111を並んだ棒に見立てたものとして「ポッキー&プリッツの日」「立ち呑みの日」「煙突の日」「箸の日」「麺の日」などがあり十一十一から「電池の日」や「鮭の日」とも定められている。錦織圭選手に因んで「テニスの日」にしても良かろう。あるいは11と11ということから「サッカーの日」にも定められている。しかし今のところ「これは!」というものが無いだけに知恵を絞ればメジャーな記念日にもできるだろう。バレンタインデーやホワイトデーは市場作りに繋がったし、ほんの10年前であれば誰も知らなかったハロウィーンがすっかり「コスプレの日」として定着したのだから、五節句から漏れた11月11日は覚え易い上に字面も良いだけに狙い目だろう。
 9月9日の常陽の復活は難しかろう。日本人は4と9を嫌うから余り良い日とは感じられない。

育児(2)

2014-10-31 09:47:39 | Weblog
 昔と比べて家事は随分楽になった。炊事・洗濯・掃除は家電などによって極端に省力化された。外食と中食が発達したお蔭で男の一人暮らしでも食事に困らない。洗濯で人力が必要なのは干して畳むことぐらいだ。掃除に至ってはロボットまで登場した。このように家事が楽になったから主婦業も楽になったと思われ勝ちだがそれは大切な要素を見落としている。機械化できない育児は昔よりも却って大変になっているからだ。だからこそ女性の6割が第一子出産を機に退職している。これは決してマタハラだけが原因ではなく本人の意向でもあるだろう。
 昔なら駄々をこねる子供に対して親が「お巡りさんを呼ぶよ」と脅したものだが、今では泣き止まない子供がいれば近隣住民が通報して親が児童虐待で処罰されかねない。子供のために有害と思える情報も親が遮断できずパソコンやスマホからフリーパスの状態だ。こんな状況で親は責任を果たせるものだろうか。知育・体育・徳育・食育のどれも困難になっているが、特に徳育は不可能に近い。宗教を持たない現代の日本には道徳の規範が無い。せいぜい「優しく親切」とか「誰からも好かれる」とかいったことしか指導できない。こんな八方美人が理想になり得るのだろうか。大人になってから角が取れるのなら良いことだが、こんな個性の乏しい老成した「良い子」は多分、成熟できまい。
 こんな状況で最も大切なことは親が模範を示すことだ。カルガモの親子に見られるように鳥類のヒナは生まれて初めて見た大きな動くものに従う。これを「刷り込み」と言うが、人類にも似た性質が備わっているようで子は親の模倣をしたがるものだ。女児のママゴトがその典型例だが、親が良い模範にならなければ子は悪い物真似をする。3世代が同居していれば父母が祖父母を大切にすることを見せることもできようが、核家族化すればそれは困難だ。
 他の家事とは違って育児は機械化できないしマニュアル化も不可能であり臨機応変に対応することが必要だ。仕事と育児の両立など無理だ。外で働くことばかりを推奨する現在の風潮は育児放棄の奨励と思えてならない。育児こそ人が全身全霊を注ぎ込むに値する最もクリエイティブな仕事だろう。息子を育てることに全力を注ぐ父親を描いた少年漫画は飛雄馬を育てた星一徹(「巨人の星」)など意外に多い。

他責

2014-10-30 10:38:49 | Weblog
 自責と他責という概念はQC(クオリティ・コントロール)活動のために欠かせない。問題があればその原因を自責と他責に分類する。この手法が有効なのは先に自責を追及する点だ。職場がうまく機能しない原因をまず自分達が関与する部分で検証する。自分達でできることを改善するだけでかなりの成果が得られる。そしてそれでも改善できないことについて他部門に協力を求める。人は自分を改めることなら可能だが他者に改めさせることは難しい。他者が改めるのはその人が誤りに気付いて自らの意思で改めるからであって、改めることを強制することは困難だ。
 最悪は他責ばかりを追及することだ。業績が悪いメーカーで、商品開発部門と製造部門と営業部門、更に管理部門まで含めてお互いに責任を擦り付け合っていても問題は解決されない。まずできることから始めねばならない。
 現在の日本はかなり他責追及の傾向が強まっている。つまり自分を責めずに他人ばかりを責める。喧嘩になるのは両者が相手を責めるからだ。お互いが相手の悪さを非難し合っても解決には繋がらない。考えればすぐに分かることだが、相手から非難されるのは自分に非があるからだ。双方が自分の非を認め合わなければ解決は不可能だ。
 「妖怪ウォッチ」というゲームが流行っているそうだ。このゲームでは、成績が悪いのも人に嫌われるのも妖怪のせいであり、妖怪と仲良くなれば問題は解消されるそうだ。こんな本来、自責であるべきことまで妖怪のせいにするところに他責の蔓延を感じる。
 漫画の世界もそうだ。昔のスポ根(スポーツ根性)漫画のような努力を重ねて成功するという話は殆んど見掛けない。突然超能力を授かったり、眠っていた能力が覚醒したりする設定が大半だ。自分が頑張って達成するのではなく棚ボタで超人になることを夢見るのは他責型願望だろう。
 モンスターペアレントやモンスターペイシャントなどの「モンスター」も他責偏重に基づく。彼らは自分達の悪さを全く考慮せずに一方的に権利を主張する。
 他責型鬱病という病名を初めて聞いた時には驚いた。鬱病の原因は自分を責め過ぎるからだというそれまでの常識に背くからだ。私は抑鬱状態とは心的エネルギーの低下だと思っているが、そんな状態の人までが他人を責めるということに現代の他責偏重の病的状況が現れているように思える。
 何もかも自分の責任と考える必要は無いが、他人を責める前に自分に非が無いかを省みるべきだろう。他人の徳を高めることは殆んど不可能であり、まず自分の徳を高めようとすべきだろう。「何はともあれ私達の畑を耕さねばなりません」(ヴォルテールの小説「カンディード」の結び)

ビール税

2014-10-30 09:53:10 | Weblog
 ビール・発泡酒・第3のビールの税率が見直されるそうだ。マスコミは今のところビール類だけの税率改定であるように報じているようだが、これは意図的なのか無知に基づくのかは知らないが誤報だ。チューハイ類も必ず見直される。勿論、増税されるということだ。
 第3のビールはビールの一種と思われ勝ちだが種税法上では「リキュール類」に属する。だからアルコール度数9度以下のチューハイと同じ税率が適用される。350mlの第3のビールの税額がチューハイと同じ28円であるのは偶然ではなく必然だ。第3のビールの税率を上げるためには混成酒類に含まれる「リキュール」の税率を上げねばならない。第3のビールとはリキュール類の内、ビール風味の飲料を指す。つまりこの両者は同じカテゴリーに含まれるのだから常に同じ税率になる。
 私は酒税見直しの本丸はチューハイの税率を上げることではないかと疑っている。しかしいきなりチューハイの増税を言い出せば国民の反発を食らう。だから増減税を同時に行うということにしてビール類の見直しに見せ掛ける。厚かましくも、本物を優遇して食文化を高めるといった論法まで使う。ビールは下げて第3のビールは上げるというタテマエだから、痛み分けであるかのように国民は誤解する。ところがビール類では痛み分けであっても、チューハイは一方的に値上げされる。国民の目をビール類に向けさせて、ドサクサに紛れて増税する。
 これは勝手な憶測ではない。そうしなければ酒税法上、整合しないからだ。発泡酒は麦芽比率25%未満のビール系飲料だが、第3のビールは元々、味が似ているだけのリキュール類に過ぎないからだ。エンドウ豆などを原料とするビール以外の飲料だ。サッポロビールの「極ZERO」が第3のビールから発泡酒に変更されたのはビールに近い製法だったからであり、全然違う製法の第3のビールは、その他の雑酒である混成酒類(リキュール)にしか分類できない。
 もしチューハイの税率が据え置かれたら新たにビール風味のチューハイが作られるだけだ。これでは低税率の第4のビールが生まれるだけだ。そんなことを財務省は許さない。従って第3のビールが増税される時にはチューハイも水割りもハイボールも増税される。
 低価格品の愛好者は低所得者が多い。逆進性があると言われる消費増税よりも遥かに露骨な弱者いじめだ。しばらくは猫を被っていた自民党だが、そろそろ強者を助け弱者を挫くという本性を剥き出しにし始めたようだ。

分からない

2014-10-28 10:34:36 | Weblog
 分からないことについて勝手な推測をする人が少なくない。誰にも分からないことであればどんなデタラメであろうとも否定されない。芸能人のスキャンダルなどどうにでもデッチ上げられる。
 朝日新聞は「吉田調書」と「吉田証言」を悪用して嘘をついた。「吉田調書」の全文が公開されることによって、朝日新聞が摘み食いによって吉田所長の証言を歪めていたことが明らかになった。従軍慰安婦の強制連行については詭弁に詭弁を重ねることによって恥の上塗りをしていた。検証するならこれまでの詭弁についても検証して貰いたいと思う。これほど詭弁を並べた企業は世界史上でも稀だ。立派な反面教師だ。
 韓国には1145年に成文化された「三国史記」以前の歴史書は残っていない。廃棄された。だからこそ好きなように古代史を捏造できる。韓国の歴史ドラマはフィクションの域を超えたファンタジーの世界だ。
 児童絡みの事件では警察発表が慎重になり、断片的にしか事実が公表されない。するとゴシップ記者のような新聞記者が憶測に基づいて物語をデッチ上げる。新聞記者だった友人に聞いた話だが、自殺した女子高校生について各紙は受験勉強が原因と報じた。当時は受験競争が社会問題化していたからだ。実際に取材をしていた彼は同級生によるいじめが原因だと思ったそうだ。いじめのほうがニュースバリューが高い今であれば「いじめ自殺」として報じられていただろう。
 地震の予知は当たったことが無い。あの東日本大震災については発生確率0%と予報していたし、9月の御嶽山の噴火も警告することさえできなかった。これだけ外れ続けているのに予知できるかのように言い続けているのは焼け太りを狙っているのかこれまでの嘘と整合させるためだろう。朝日新聞と同じ泥沼に嵌っているようだ。
 天気予報には同情する。これほど常に批判に晒される予報は無かろう。実際には予報が非常に難しい日もありそんな日は「♪雨か天気か下駄に聞け♪」(クレージーキャッツ「学生節」より)と言いたくなるだろう。難しい日の予報が外れるのはやむを得ないと私は考えるが、素人は容赦しない。
 推理小説は断片的な情報に基づいて隠された真相に辿り着く高度な知的ゲームだ。事実と憶測を峻別できない人には謎は解けない。先入観を排除して確かな事実だけを積み上げて真相を解明するプロセスは科学や哲学と似ている。
 情報が足りなければ予測できないのは当たり前であり、情報が充分でも分からないことは分かり得ない。分からないことについては正直に分からないと言える勇気が必要であり、分からないことを分かっているかのように言うのは朝日新聞と地震学者とゴシップ週刊誌だ。たとえ専門家でも分かり得ないことはある。その時は正直に「分からない」と言うべきだ。分からないことをしたり顔で分かった振りをする人は恥知らずだ。ソクラテスの「無知の知」のパロディのような言い方だが、分からないということを分かる必要がある。

誘虫灯

2014-10-28 09:43:45 | Weblog
 一般車と比べて社用車は行儀が良い。社名が大きく書かれているのでクレームを受け易いからだろう。しかし例外がある。これは私が住む伊勢だけの特殊事情かも知れないが福祉関係の車のマナーが際立って悪い。強引な右折・左折など事故を招きかねないマナー違反を頻繁に行う。
 社会福祉法人の事業もあくどい。非営利目的の民間団体なので非課税とされているが、大半が巨額の内部留保を貯め込んでいるそうだ。低所得と言われる介護職員の賃上げや福祉サービスの充実に回すべきだと思うのだが搾取体質を改めようとしない。理事などによる不正もしばしば報じられる。生活保護費受給者を食い物にする貧困ビジネスと大差は無い。
 緊急時には薬によって命を救われることがあるがそれは一時凌ぎに過ぎない。治療のためには対症療法ではなく原因療法でなければならない。殆んどの慢性疾患の薬は治療効果を持たずただ単に症状を抑えるだけだ。治療効果の無い薬は患者を食い物にする製薬会社のためのドル箱商品だ。
 健康食品は殆んどが詐欺に近い。薬効が無いと証明されたから薬として承認されなかった物を、健康のために有効と偽って売る。これまでに様々な健康食品が売り出され、どれも効果が無かいことがバレて次々に新しい商品を売り出している。
 無農薬野菜も殆んどが「無農薬」ではないのだから虚偽表示商品だ。また本当に人工農薬を使っていない場合、虫に攻撃された植物は自力で体内に自然農薬(防虫物質)を作る。そうしなければ食い荒らされるからだ。ところが表面に付着した農薬であれば洗って落とせるが体内の自然農薬は洗い流せない。こんな危険性を隠蔽して安全だと嘘をついて売る。人工農薬を使っていなくても天然農薬まみれであれば無農薬ではない。
 福祉、医療、健康食品、無農薬野菜といったポジティブなイメージがある事業には悪徳事業者が群がる。花に様々な虫が集まるようなものだ。たとえ好ましい花であろうとも群がる虫は全く別だ。毒虫もやって来る。花を愛でるつもりで害虫にたかられている愚かな人が少なくない。これらに限らず美名には注意が必要だ。誘虫灯のように良い虫も悪い虫も集めるからだ。

チキンレース

2014-10-26 11:12:22 | Weblog
 チキンレースという危険な競争がある。自動車やバイクで崖や壁に向かって突進したり、正面から相手に向かって突っ込むレースだ。先にブレーキを踏んだりハンドルを切ればチキン(臆病者)として軽蔑される。
 サラリーマンの出世競争もこれと似ている。他人以上に働くということを競う。車のレースと違うところは競争相手が見えないことだ。他のオフィスにいる見えない相手との競争だ。こんなレースでは過剰競争にならざるを得ない。こうして彼らは自らの意思で長時間労働を選ぶ。チキンレースを勝ち抜けた者が昇進する。「すき家」などでの過酷な労働はこんな心理に付け込んでいる。実に馬鹿げたことだとは思うが、日本では努力が評価される。成果は運に左右されるが努力であれば本人に帰属する。
 受験競争が激しかった時代には「四当五落」という言葉があった。これは睡眠時間が4時間であれば合格できるが5時間も眠れば不合格になるという意味だ。実際のところ睡眠不足で呆けた頭で勉強するよりも充分な睡眠を取ったほうが良い筈なのだが、多くの受験生が自らの意思で睡眠時間を削っていた。
 安倍首相は法人税率を下げると公言する。税率を下げないと企業が流出するとのことだが、こんな減税競争もチキンレースだろう。むしろ他国と協調して法人税を上げるために努力すべきではないだろうか。どこの国も歳入不足に悩んでいるのだから無理なことではあるまい。
 チキンレースに巻き込まれても得るものは何も無い。発想の転換が必要だろう。こんなパズルがある。
 レースの主催者が2人の馬主に言った。「勝ち馬の持ち主に賞金を与える。但しこれは遅い者勝ちとする。」レースは凄惨な根競べになった。どちらも1歩も進まないのだからいつまで経っても勝敗が決まらない。見かねた知恵者が解決策を提示した。どんな方法か?
 〔答〕相手の馬に乗る。相手の馬を先にゴールにさせれば自分の勝ちになる。
 

原因療法

2014-10-26 10:37:43 | Weblog
 病気は体の異常なのだから何らかの原因がある筈だ。その原因を放置したままで不快感の解消だけを図る対症療法は治療ではない。これまで散々、風邪薬や下痢止めについて書いたが、今回は違った病気を例にする。
 蕁麻疹の患者に皮膚病の薬を処方するだけの医者は藪医者と考えて間違いなかろう。典型的過ぎる対症療法だ。蕁麻疹の原因は様々だが食物が原因であることが少なくない。最低限、原因物質を特定してそれを避けるように指導する必要がある。
 以前であれば医師の仕事はここまでだった。ところがこれでは困ったことが起こる。複数の食品に対してアレルギー反応を起こす人がいるからだ。もし卵・乳製品・小麦・魚・果実に悉くアレルギー反応を起こす患者であれば一体何を食べれば良いのだろうか。これでは栄養障害という問題が生じる。
 ここ数年のことだが新しいアレルギー治療法として「経口免疫寛容」という手法が使われているそうだ。つまりアレルゲンを少しずつ摂取することによってアレルギー反応を抑制するという手法だ。アレルギー反応が治まれば貴重な栄養源になる。
 危険な療法のようだが私には妙に納得できる。心理療法によく似た手法があるからだ。例えば電車事故によるPTSDで電車に乗れなくなった人がいるとする。行動療法での治療は、まず何度か駅まで行き、次はホームに立ち、電車の中を素通りする、というように徐々にハードルを高めることを通じて、電車に乗るという目標に到達する。薬で恐怖心を抑える精神療法と比べれば時間は掛かるが堅実な方法だろう。
 体も心も順応力を持っている。酒を受け付けなかった人が徐々に酒に馴染むということは珍しくない。三島由紀夫氏は元々は下戸だったが少しずつ飲酒量を増やして酒を楽しめる体質に改造したそうだ。
 経口免疫寛容は決して100%安全な手法ではない。体調が悪ければ前回は安全だった量でもアレルギー発作を起こすこともあり得る。医師の指導の元で慎重に行わねばならないが、これでアレルギー体質を克服できればQOL(クオリティ・オブ・ライフ)も高まる。これが原因療法だ。
 漫然と皮膚病の治療薬を投与していれば徐々に効かなくなるから更に強い危険な薬に変更せねばならない対症療法と、アレルギー体質の克服にまで取り組む原因療法との差は余りにも大きい。皮膚病に限らず治療とはかくあるべきだろう。

仕事と育児

2014-10-24 10:24:40 | Weblog
 両親が働きに出てしまえば子供はどうされるだろうか。①祖父母に任せる②託児所に預ける③放置する④家政婦か乳母を雇う。
 3世代同居であれば①が可能だ。父方の祖父母であれば余りいい顔をしないが、マスオさんのような母方の祖父母との同居であればこれが最も望ましい。しかし核家族化が進む現在、母方の祖父母との同居世帯は一体何%を占めることだろうか。昔ならもう1つ選択肢があった。兄・姉による世話だ。兄弟が多ければ兄・姉をリーダーとしたコミュニティが可能だった。兄弟数が少ない現代では殆んど不可能だろう。
 現実的な対応として②が推奨されている。しかしこれが子供の知育・体育・徳育・食育のために良い選択とは到底考えられない。
 最悪の選択が③だ。ペットであればこれも許されるだろうが、乳幼児に対する仕打ちとしては不当だ。多くの事故や事件はこれが原因になっている。
 仕事と育児を両立させたと胸を張る人の殆んどが④だろう。しかしこれを両立と言えるのだろうか。こんなことが可能なのは高所得のエリート女性だけだ。つまり家政婦や乳母を雇う余裕のある人にしか選べない贅沢な選択肢だ。家政婦や乳母よりも遥かに賃金が多い人でなければわざわざ人を雇って家事・育児を任せることなどできない。そんな人が偉そうに「仕事と育児を両立せよ」と言っても納得できない。
 人は自分の経験に基づいて考える。一握りのエリートが自分を模範にさせようとする。もし大金持ちが「物価など多少上がっても構わない」と発言すれば顰蹙を買うだろうが、自称「仕事と育児を両立させた模範的な女性」はそれと同じようなことを恥ずかしげも無く自慢する。これは「パンが無ければお菓子を食べたら良い」と言ったマリー・アントワネットと同じレベルの無知だと思うのだが、なぜか女性は反発しない。もしかしたら女性は彼女らをあちら(男性)側の人と位置付けていてオピニオンリーダーとは認めていないのであって、無知な男性だけがそれに振り回されているのではないだろうか。あるいは男性側がそんな異端の女性を利用しているだけなのかも知れない。超エリートの女性をモデルにした「女性が活躍できる社会」など虚構に過ぎない。大多数の女性が賛同できる男女共存社会が求められるべきだろう。女性にとっての理想が三浦(山口)百恵さんやグレース・ケリー王妃であっても構わないと思う。

仕組み

2014-10-24 09:43:21 | Weblog
 新交通システム「ゆりかもめ」では、足を投げ出して座る人がいなくなったそうだ。どうやってマナーの改善が可能になったのか?それは人に訴えるのではなく座席の形状を変えたからだ。座席の膝側を9度上向けたので客は自然に膝を曲げて行儀良く座るようになったと言う。
 このように、仕組みを変えれば人の行動を変化させることができる。人の理性や感情に訴えるよりも効果的だ。
 医療の現場では酸素・二酸化炭素・麻酔薬の3種類のガスボンベが使われている。稀にだがこれらが取り違えられることがある。当然、重大な医療事故に繋がる。幾ら注意を促してもヒューマンエラーは根絶できない。こんな時、人に働き掛けるよりも道具を見直したほうが有効だ。「高圧ガス保安法」による制約があるが、気体別に色や形を変えたりノズルの形状を変えたりすれば簡単に改善できる。それぞれのボンベが一目で見分けられれば仮に間違えても必ず誰かが気付くし、ノズルの形状が違えば間違ったボンベを差し込めない。
 ディズニーランドには素晴らしい仕組みがある。どこの商業施設でも、従業員による客用施設の使用に頭を痛めている。特に客用通路の使用は絶対に無くならない。ディズニーランドではこんな問題は発生しない。それは最初に一番便利な位置に従業員用通路を作るからだ。これならわざわざ不便な客用通路を使用する従業員は現れない。しかも非常時に急患を搬送する時には、人目に付かず最短距離で運べるというメリットもある。
 人は安楽に流れ、自分の利益を求めるものだ。だからこそそれを防止するための仕組みが必要だ。朝日新聞が虚報を続けたのは、上司や先輩による言論統制を防止する仕組みを持たない人治企業だったからだ。上司や先輩に妨害されるから正しい記事を書けないという末期的状態に陥っていたからこそ32年間に亘って嘘をつき続けるという前代未聞の不祥事になってしまった。
 権力者に好き勝手なことをさせないためには法治国家であらねばならない。法、特に憲法が権力者を規制する。だから権力者による恣意的な解釈を許して死文化した現行憲法など要らない。たとえ今の条文の2倍の長さになっても構わないから、権力者を縛り彼らによる曲解を許さぬ厳格な新憲法を定めるべきだ。このことこそ真の「護憲」であり、従来の護憲を標榜していた勢力は、憲法の精神を蹂躙することに貢献した反民主主義者に過ぎない。