俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

増税の前に

2012-10-30 13:11:06 | Weblog
 増税する前にやるべきことは沢山ある。まず第一に脱税に対する取締りの強化だ。国に収めるべき金を誤魔化すのだからこれは重大な犯罪だ。マスコミも国民も脱税には甘過ぎる。脱税が発覚すればもっと騒ぐべきだ。少なくとも生活保護の不正受給や不倫や飲酒運転や窃盗などよりも悪いことだと私は思う。なぜマスコミはこんな重大な犯罪を殆んど報じないのだろうか。追徴課税を今の10倍ぐらいにしても良かろう。脱税が発覚したら破産・倒産するぐらいに厳しくすれば脱税は激減するだろう。賞味期限の偽装よりも遥かに悪いことだと思うのだが、マスコミが殆んど報じないのは全く不可解だ。
 もう1つはグレービジネスの摘発、つまり警察が目溢しをしているパチンコとソープランドへの介入だ。この2者が非合法であることは明らかなのに警察との癒着があって堂々と営業されている。因みに韓国では2007年にパチンコは違法事業として禁止されたが、このことは日本では殆んど報じられなかった。
 パチンコは脱税率でも毎年トップクラスだし、ソープランドは課税方法が無茶苦茶だ。入浴料だけが企業収入でサービス料は個人収入とされているが、違法行為を正直に申告して納税するソープ嬢などいるのだろうか。
 10月29日に売春防止法違反の疑いで経営者が逮捕されたソープランドのここ3年間の売上高は何と101億円だったそうだ。こんな巨大なグレービジネスが温存されている。グレービジネスに対する目溢しを続けるのなら目一杯課税することを条件とすべきだろう。
 この2つを実施すれば年間数兆円の増収になるだろう。善良な市民から不当に搾取する前に、違法あるいは実質的に違法な事業者に対する懲罰と然るべき課税を行うべきだ。

杞憂

2012-10-30 12:46:29 | Weblog
 絶対安全な食物など存在しない。水は10ℓ、砂糖は1㎏、塩は100gが致死量だと言われている。健康に良いとされている食品でも、いや効果が顕著な食品ほど、過剰摂取は危険だ。薬は元々人体に異常反応を起こす毒物だ。だから一部の人に副作用が現れるのは当然のことだ。日本脳炎のワクチンで重い副作用があったとしても薬に欠陥があったとは言えない。
 新幹線であろうとも首都直下型の大地震が起これば脱線転覆するし、飛行機はごく少ない確率で、バイクならかなり高い確率で、重大な事故が起こる。
 100ミリシーベルト以下の放射線が安全か危険かは専門家の間でも意見が分かれるし、真昼の繁華街では通り魔に襲われるかも知れない。
 このように危険はいつでも・どこにでも在る。ゼロリスクを望むなら飲食も動くことも・留まることもできない。
 中国の古典「列子」が出典の「杞憂」という言葉がしばしば使われるが原典に当る人は少ないようで必ずしも正確な引用ではない。杞の国の人は天や星が落ちて来ることだけではなく地震が起きることを恐れて食物は喉を通らず夜も眠れなかった、という話だ。地震に怯えることを「杞憂に過ぎない」と笑える日本人がいるだろうか。
 危険は無数に存在する。従ってノーリスクを求めることは無意味だ。食品の持つ毒性から免れようとすれば栄養失調という遥かに確実なリスクに晒されることになる。メリットとデメリットを秤に掛けねばならない。ある食品を食べることのメリットとデメリット、運動によるメリットと怪我というデメリット、ワクチンによる予防効果と副作用というデメリット、これらを比較して選択をせねばならない。ノーリスクはあり得ない。

科学による予報

2012-10-28 15:49:59 | Weblog
 2009年9月のイタリア中部地震を予報できなかったとしてイタリアの地震学者7人に実刑判決が下された。もしこの判決が正当なら、東日本大震災の可能性を0%と予測していた地震調査委員会のメンバーには終身刑が相応しかろうが、これは無茶な判決だ。多分天気予報と混同しているのだろう、
 天気予報と地震予知は質的に全く異なる。天気予報が可能なのは既に起こっていることの推移の予報に過ぎないからだ。「どう変化するか」を予報しているだけだ。一方地震予知はまだ起こっていないことに対する予知であり科学が及び得ない領域だ。
 例えばスポーツ選手が疲労困憊していればドクターストップをかけることならできるが、より深刻なアキレス腱断裂が起こるかどうかは医師にも本人にもわからない。
 あるいは慢性疾患に罹っている人に健康指導をすることはできても、ある健康な人がいつ風邪をひくかなど誰にも分からない。
 科学に可能なのは既に事実になっていることの推移の予想であり、まだ起こっていないことがいつ起こるかなど分からない。科学は、事態が発生してからそれがどう推移するかを過去の事例に基いて予想するだけだ。
 それはともあれ、できもしない地震予知の専門チームとして報酬を得て、当然のことながら地震の予知ができなかった地震調査委員会の責任は何らかの形で問われるべきだろう。できないことを「できる」と言って報酬を得ることは詐欺にも等しいことだ。

母性本能

2012-10-28 15:15:26 | Weblog
 哺乳類の雌には母性本能が備わっている。母性本能を欠いた変種は子孫を残せずに滅ぶから、雌にとっての母性本能は種族維持のために必要不可欠な先天的性質だ。雌であることと母性本能の存在は密接な関係ではなく必然的な連結とさえ言えよう。
 人類も哺乳類だ。従って女性には母性本能が植え込まれている。母性本能は子供という他者の存在を前提とするので、女性には先天的に社会性が備わっているということになる。
 雄にとって父性は必須ではない。従って人類の雄は父性も社会性も乏しく個別性だけが突出した状態で生まれる。社会生活を営む人類にとって個別性は厄介者だ。もし個別性を持った蟻や蜂が現れれば即刻仲間によって淘汰されてしまうように、人類の雄は徹底的に匡正される。雄は先天性を否定されて社会に有益な動物へと作り変えられる。
 男女の違いはここから生まれる。先天的に個別性と社会性を併せ持つ女性は「あるがまま」に育てられる。従って本能と社会生活に矛盾は無い。自然体で生きることができる。
 男性の場合はあるがままではなく「社会にとって都合の良い性質」に作り変えられる。そのため男性は女性と比べて不安定な人格とならざるを得ない。女性は天性が健やかに育てられるので個別性と社会性のバランスが良い。だから女性の我儘は、たとえそれが男性以上に顕著であろうとも社会に受け入れられる。
 男性の個別性は極度に歪められている。歪められた個別性は反社会的な形で現れることが多い。男性は歪められた個別性を見殺しにするのではなく、自力で健全なものへと育成しなければ狂った動物のままで一生を終えることになってしまう。

大小

2012-10-26 10:08:42 | Weblog
 大地震はマスコミでは「オオ地震」と読むことになっている。大和言葉は「オオ」と読み漢語や外来語は「ダイ」と読むのがルールのようだ。そのため大震災は「ダイ震災」であって「オオ震災」ではない。
 しかし大噴火はどうだろうか。噴火は古来の言葉だから「オオ噴火」でも良さそうだが「ダイ噴火」と読む。大洪水も「ダイ洪水」と読む。
 「大」の読み方についてこんな小噺がある。
 特急の車内で弁当を食べていた男性がワゴンでの車内販売の女性に声を掛けた。
「ねぇちゃん、ビールをおくれ。」
「はい、ダイ瓶でしょうか、ショウ瓶でしょうか。」
「そんなもの要らない。」
 男性はなぜ断ったのだろうか。「オオ瓶・コ瓶」と言うべきだったからだ。「ダイ瓶・ショウ瓶」ではトイレを連想してしまう。多分、更に悪いことには多少訛りがあって「ビ」が「ベ」に近い発音だったのだろう。食事中に「大便・小便」と言われては気分を害しても無理は無い。
 しかし理屈から言えば「ダイ瓶・ショウ瓶」が正しい。瓶は本来外来語だ。それを「オオ瓶・コ瓶」と読むほうが文法的には誤りだろう。

一部による不正

2012-10-26 09:41:17 | Weblog
 不正は常に一部の人によってなされているのではないだろうか。一昨日に書いた生活保護の不正受給にしても一部の人に過ぎない。犯罪も一部の人が繰り返して行っているから件数が多いだけであり犯罪者は一部の人だけだ。宗教も大半は真っ当なものでありマスコミを騒がせるオウムのようなカルト教団は例外だろう。マスコミも大抵は正しい報道をしており明らかに酷い報道は最近では読売新聞のiPS細胞の記事と週刊朝日の「ハシシタ 奴の本性」など数えるぐらいしか無い。一部の例外を針小棒大に騒ぐなという意見も一理ある。
 made in Japanは品質が優れているという定説があるがその中でも日本人は均質かつ高品質なので世界中の旅行関係者から絶賛されている。不良率の低さは中国人とは比較にならない。
 しかし全体が高品質であればあるほど少数の不良品が問題にされる。勤労者の7割が給与所得者で、3割を占める自衛業者の一部が脱税をしているだけなのだから脱税率は1割にも満たないだろう。しかし少数だからこそ問題なのだ。もし国民の9割が脱税しているなら悪いのは脱税者ではなく制度だろうが、国民の9割がきちんと納税しているからこそわずか1割にも満たない脱税者が問題にされなければならない。
 一部の道路では大半の車がスピード違反をしている。こんな違反なら問題にならない。悪いのは運転者ではなく規則のほうだろう。しかし通学路などの徐行すべき通路を猛スピードで走るごく一部の車は危険だ。こんな車は取り締まられなければならない。
 少数者を例外として目溢しするのではなく、少数に過ぎないからこそ問題にされるべきだろう。法律が規制しようとしているのはこんな少数者であって大多数を占める善良な人々ではない。

不正受給

2012-10-24 14:09:35 | Weblog
 私は和田秀樹氏の多くの著書を愛読している。特に「大人のための健康法」や「エビデンス主義」などには大いに啓発された。その和田氏が最新作の「テレビの金持ち目線」で生活保護バッシングを非難している。一部の不正受給者の存在を根拠にして、今でも不充分な制度である生活保護をこれ以上貧弱なものにすべきではない、というのが主旨だ。
 確かにマスコミの論調は偏っている。弱者切捨ての姿勢が大義名分を得て跳梁跋扈している。最低賃金と生活保護の逆転現象について2つの解決策があると思う。1つは今、散々主張されて実施されようとしている生活保護費の引き下げだ。もう1つはワーキングプアの人が生活保護を受け易くすることだ。収入が不充分な人は生活保護を受けることができるので本来なら逆転現象は起こらないのにこのことについては殆んど触れられてはいない。私は後者を推すが、福祉費を削減したい財務省の意向に沿った前者ばかりが報じられている。
 ワーキングプアは正業に就いていて貧しいのだから積極的に保護を受けるべきだ。保護を受けつつキャリアを磨いて低賃金生活から脱出することこそあるべき姿だ。その一方で非合法活動で稼いでいて表向きの収入がゼロの人に対しては、申請時や支給時に徹底的に調べて犯罪の摘発に役立てるべきだ。
 12日に神奈川県で生活保護を受けている外国人女性が売春の現行犯で逮捕された。彼女は6年前からの常習犯であり、今回逮捕されたのは路上で私服警察官を誘ったからだった。これは福祉事務所の怠慢だ。生活保護の支給に当っては、医薬品の横流しを含む非合法収入が無いかどうかを最優先で調べるべきだ。そうすれば暴力団員の不正受給の撲滅になるだけではなく犯罪の摘発にも繋がり一石二鳥となる。追銭を払うなら先ずその人が泥棒でないことを確認してからでなければならない。

強さと鈍さ

2012-10-24 13:43:46 | Weblog
 私は暑さにも寒さにも強いと自負していた。この2年間、夏はエアコンを使わなかったし、冬の暖房は炬燵だけだった。外出時の服装は真夏はシャツとポロシャツの2枚、真冬でもシャツ、セーター、ブルゾンの3枚だけで余り厚着をしなかった。このことを長年、適応力が高いと思っていたが最近不安になり始めた。老人は寒暖を感じる能力が衰えて、夏は熱中症に罹る人、冬は凍死する人が多いと知ったからだ。私は寒暖に強いと思っていたが実は鈍いだけなのかも知れない。
 うどんに七味を山盛りにして食べる人をテレビで見たことがある。この人は辛さに強いのではなく辛さに鈍いのだと思う。もしかしたら辛味を感じるに能力に重大な欠陥があるのかも知れない。
 打たれ強いと言われる政治家がいる。直近4代の首相(麻生、鳩山、菅、野田の各氏)は揃って打たれ強い。国民に愛想を尽かされて支持率が10%台まで落ちても粘りに粘って権力の座を明け渡そうとはしない。これは打たれ強いのではなく世間に対して鈍感なのかも知れない。彼らと比べたら「私は自分自身を客観的に見ることができるんです。あなたとは違うんです。」と言って突然辞任した4代前の福田首相のほうが余程まともな神経を持っていたようにも思える。
 しかし福田氏の辞任は余りにも唐突だった。支持率は20%ほどありまだ末期状態とは思えなかっただけに今でも米国陰謀説が取り沙汰されている。最後に余計な発言さえしなければ潔い辞め方だったと評価されていたかも知れない。

近いうち

2012-10-22 13:26:09 | Weblog
 芸能界であれビジネス界であれ業界用語は難解なものが多いが政界用語はもっと難しい。「慎重に検討します」は放置するという意味だし「最大限努力します」は結果責任は負わないという意味だ。中でも名言は「記憶にございません」だ。これの凄さは証拠が出ても嘘をついたことにならない点だ。やったかやらなかったかは実証できても記憶していたかどうかは絶対に検証できないからだ。
 最近の政界用語で最も議論されているのは「近いうちに国民の信を問う」だろう。「近いうち」は日常用語でも曖昧な言葉だけに、その解釈を巡り与野党間で紛糾が続いている。21日には前原国家戦略担当相が「年明けに解散したら『近いうち』とは言えない」と発言して民主党内で物議を醸している。政治家同士の駆け引きは彼らに任せておいて、国民(主権者)としてこの言葉の意味を考えたい。
 最も重要なのは任期満了日だ。平成25年8月29日が満了日だからどれだけ遅くともそれまでには信が問われる。
 戦後の23回の衆議院選挙で任期満了に伴う選挙は1回だけでそれ以外の22回は解散による選挙となっている。そのたった1回の前例によると昭和51年12月9日の満了日に対して12月5日に選挙を行っている。その前例に従うなら8月25日(日)に選挙を行うことがリミットとなる。「近いうち」発言が24年の8月8日だからその中間日は25年2月17日だ。たまたまこの日は日曜日なのでこの日までを「近いうち」、それ以降を「遠いうち」と定義しても良かろう。17日は中間日だから10日までという意見もあろうが1日ぐらいオマケしても良かろう。従って2月17日までに選挙をすれば野田首相は約束を守ったことになり、それ以降なら「嘘つき」と糾弾しても良かろう。2月17日までという縛りは充分に有効だろう。
 曖昧な言葉に対してその明確化を求めることは主権者としての国民の権利だろう。

自由競争

2012-10-22 11:17:46 | Weblog
 市場経済では競争原理が働く。複数の企業が自由競争をすることによって消費者は良い品を安く入手することができる。これは企業対企業の場合でも同じであり、複数の企業と交渉することによって最良の取引条件を引き出すことができる。だから独占は悪く自由競争が良いとされている。
 しかし自由競争は万能ではない。供給が需要を上回れば安値になるが、逆に需要が供給を上回れば高値安定となる。かつての石油ショック、あるいは近年の金や穀物や原油などの高騰は単に投機によるものではなく需要増も一因だ。
 これらを前提にした上で今後の日本の電力について考えてみたい。マスコミは自由競争になれば電気料金は下がると言うがかなり疑わしい。電力が不足しているからだ。総電力の3割を占めていた原子力が稼動困難な状況なので電力は不足する。需要が供給を上回れば値上がりするのが市場経済だ。ここ数年は電力不足が見込まれるだけに自由競争よりも統制価格のほうが望ましい。
 日本経済はデフレ状態が続いている。これは供給が需要を上回っているからに過ぎない。昨年の秋から今年の春にかけてレタスが異常に高騰したことを多くの人が覚えているだろう。たとえデフレ経済下でも不足した物は値上がりする。自由経済の下では生産量が減れば値上がりする。電力不足の状況での自由化は電気料金の高騰を招いて国民を不幸にする。