俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

模倣

2011-01-28 16:17:42 | Weblog
 真似をすることは恥ずかしいことではない。学習は真似をすることから始まる。
 日本の稽古事には「守破離」という言葉がある。まずは真似て、次に改善して、最後に独自の境地を拓くという意味だ。
 守ができなければ話にならない。まずは師匠や先人から学ぶ必要がある。しかし守だけでは劣化する。周囲の人が上達すれば相対的に劣ったものになるし、どれほど素晴らしい先達がいてもその模倣に留まっていれば発展はあり得ない。それはコピーをコピーし続けていればどんどん判読不可能な文字になるようなものだ。
 守から破・離に到らなければ進歩はあり得ない。
 松下電器産業(現パナソニック)はかつては「マネシタ電器」と揶揄されていた。他社が開発した商品を特許を侵害しない範囲で真似していたからだ。パナソニックの原点は模倣にあるということは事実だろう。しかしそこに留まらず新技術を開発したからこそ現在も存続している。もし模倣に留まっていたらとっくの昔に倒産していたことだろう。
 日本が誇る自動車・家電・時計なども最初は模倣だった。当初は「小さく作る」こと以外は大した取り柄は無く、今では信じられないような話だがメイド・イン・ジャパンは「安かろう悪かろう」の代名詞だった。模倣・改善・改革という進歩の歩みは不思議なほどに「守破離」と符合する。またニーチェが精神の三態の変化として挙げた、駱駝の精神から獅子の精神を経て小児の精神に到るという指摘とも一致する。守破離の原則はビジネスにも学問にも通じる。

割り算

2011-01-28 16:00:18 | Weblog
 ある本に気温上昇率について書かれていた。著者は1936年から2007年までの1月と8月の平均気温の変化のデータを元に「気温上昇の寄与率は、夏よりも冬のほうがずっと高い」と説明していた。東京を例にすれば1月は2.62で8月は0.83とのことだ。
 この理屈はさっぱり分からない。いきなり「上昇率」の数字が出てその元になった数値は伏せられている。「℃/50年」と書かれているから多分2007年と1936年の平均気温の差を1950年の気温で割った数値だろう。
 仮に1950年の1月の平均気温を5℃、8月を30℃としよう。すると1936年から2007年までの気温の上昇は1月が0.13℃、8月が0.25℃ということになる。8月の0.25℃は明らかに1月の0.13℃より大きいのになぜ「夏より冬のほうがずっと高い」という結論になるのだろうか。
 これは割り算のトリックだ。分母が小さいほうが変化は大きいように見える。例えば1,000人が1,100人に増えれば10%増だが5人が6人に増えれば20%増になる。
 そもそも気温のような序数に割り算はそぐわない。気温上昇率なんて摂氏ではなく華氏や絶対温度を使えば全然違った値になる。割り算は基数に対して使うべきものであり序数には使えないということは小学校の算数レベルの常識だ。
 例えば100位から80位に上がることと5位から4位に上がることは同じ20%上昇と言えるだろうか。あるいは1位から3位に下がることを200%下降と表現することに意味があるだろうか。

弱者救済

2011-01-28 15:39:34 | Weblog
 現代社会においては弱者の切捨ては許されない。障害者や高齢者などに対しては何らかの救済策が必要だ。
 生活保護は究極の救済策だ。従って対象とされるのは最弱者だけであるべきだ。中弱者が強者などと共に最弱者を支える側に回らなければ福祉制度は破綻する。中弱者は最弱者と同等の権利を求めるべきではない。
 一昨年の生活保護費は初めて3兆円を越えた。前年よりも約1割増えたそうだ。昨年10月の時点での受給者は141万世帯で、そのうち病気や障害も無く働ける世代が23万世帯と16%を占めているとのことだ。
 共産主義社会でさえ「働かざる者、食うべからず」が原則だ。これでは福祉社会ではなくタダ乗り社会だ。「働きたくても働けない人」は救済されねばならない。しかし「働きたくないから働かない人」まで救済する必要は全く無い。
 働かない人は当然のことながら年金保険などを納めていない。働かないまま老後を迎えれば晴れて「働けない人」になってセーフティネットによって保護される。こんな社会の寄生虫を増殖させてはならない。
 働かない人に与えられるべきなのは金銭ではなく仕事だろう。つまりたとえ強制労働所に収容してでも無理やり働かせて年金保険などを天引きすることが必要だ。金銭による支援の対象者はあくまで最弱者だけでありそれ以外に対しては労働とそれに相当する賃金が支給されるべきだ。働かない人に対する金銭の支給は甘やかしにしかならない。
 若年の受給者の中には非合法活動者や暴力団員などが少なくないらしい。恐喝や窃盗などによる収入を自己申告することは絶対にあり得ないことだから表向きの収入はゼロとなり受給資格を充たすことになる。税金の無駄遣いである過度の福祉はダニまでも培養する。

海水(2)

2011-01-25 16:12:55 | Weblog
 海水の塩分濃度はもっと低かったのではないだろうか。
 陸生動物は海から陸に上がったのだから体液は海水に近い筈だ。それにも関わらず生理食塩水の濃度からも分かるとおり随分懸け離れている。
 鮭や鰻のような例外はあるが海水と淡水を自由に行き来できる魚は少ない。スズキがブラックバスになったように淡水魚が総て海水魚から進化したことを考えればこれは奇妙なことだ。長江(揚子江)の川イルカやメコン川の川エイは海に戻れない体質になってしまっている。勿論殆んどの淡水魚は海水では生きられない。
 海水魚が淡水魚に進化するためには淡水への遡上が容易でなければならない。遡上が困難なら淡水に適応できる魚が出現する可能性は殆んど無くなってしまう。
 河口近くには多くの海水魚が集まる。その理由は陸の栄養分が流れ込むからだと思っていたが、汽水域のほうが塩分濃度が低いので居心地が良いからなのではないだろうか。
 温泉の水でトラフグを養殖している施設がある。海水よりも塩分が少ないそうだがかえって成長が早いとのことだ。少なくともトラフグにとっては塩分が海水よりも少ないほうが快適なのだろう。
 海水が濃くなったのは濃縮されたからだろう。地球はもっと暖かくて南極や北極の氷は今よりもずっと少なく水位はもっと高かったのだろう。生命を育んだ海は今よりも塩分濃度が低かっただろう。現在の海水は海中に住む生物にとって必ずしも快適な環境ではなく、汚染された大気のようなものなのかも知れない。

拾得物

2011-01-25 15:58:21 | Weblog
 韓国では拾得物を郵便ポストに入れる習慣があるそうだ。良い仕組みだと思う。勝手に真似をしようと思っている。
 持ち主が特定できる定期入れなどを拾った時の気持ちは正直な話「面倒な物を拾った」という思いだ。選択肢は2つ、警察に届けるか郵送するかだろう。他には「拾わない」とか「着服する」といった対応もあり得るがこれらは好ましくなかろう。
 暇潰しや散歩のために街を歩くことは少ない。殆んどが何らかの目的を持っている。時間を割いて警察へ届けるのは鬱陶しい。調書を取られることは精神的にも時間的にも苦痛だ。むしろ持ち帰って郵送するほうが郵送料の負担だけで済むので好ましい。わざと切手を貼らずに出して持ち主に負担して貰うという方法もあるだろうが、受取人の不快感を想像するとそれはできない。
 これらは拾得者の善意に頼っている。「善いことをした」と満足感を得る人もいるかも知れないが、私は関わりたくない。早く責任逃れをしたいと思う。私はかなり我儘で怠け者だ。
 それでもポストへ放り込むぐらいの負担なら構わない。ポストならすぐに見つけられるし大した回り道にもならない。あとは郵便事業会社がビジネスとして処理してくれれば良い。郵便事業は持ち主に届けて送料を徴収するのだから誰にも迷惑は掛からない。むしろ赤字の郵便事業としての新規収入源にも繋がり得るだろう。
 これで煩わしい思いをしなくても済むだろう。

早期承認

2011-01-25 15:42:22 | Weblog
 新薬は基本的には早く承認されるべきだ。欧米よりも2年遅れると言われているドラッグラグを早急に解消すべきだろう。
 欧米人には安全でも日本人には危険な副作用を伴う恐れがある、と厚生労働省のお役人は言う。誰がこんな馬鹿な言い訳を真に受けるだろうか。欧米人の中には黄色人種もいる。勿論、帰化した元日本人もいる。「黄色人種には使わないでください」という注意書きの付いた薬など私は知らない。欧米で承認されて2・3ヶ月も経てば医療現場から充分な情報が得られる。それを更に国内でチマチマと実験する必要など全く無い。欧米での実用データだけで充分だ。
 イレッサ訴訟(1月14日付け「薬のリスク(3)参照)以降、厚生労働省は以前にも増して承認には慎重になっているだろうが、かつてもっと悲惨な大失敗を犯したことを忘れてはならない。
 薬害エイズ事件がそれだ。旧ミドリ十字や故・安部英氏らの刑事責任が騒がれたが、一番の原因は既に欧米では使われていた加熱血液製剤を旧厚生省が承認しなかったことだ。血友病患者は非加熱製剤が危険だと分かっていてもそれを使い続けるしか選択肢は無かったからだ。安全な加熱製剤が承認されていないのだから危険と分かっていても非加熱製剤を使わざるを得なかった。このことが被害を拡大した。非加熱製剤の承認を取り消さなかったことよりも、加熱製剤の承認が遅れたことの責任こそ問われるべきだろう。

予防

2011-01-21 15:51:33 | Weblog
 治療よりも予防のほうが望ましい。例えば切断した腕を縫合するよりも腕を切断するような事故が発生しないように備えるべきだろう。
 事故の予防なら合意できるが感染症の予防となると意見が分かれる。予防接種にはリスクが伴うからだ。予防接種とは加工した病原菌を化学物質と共に体内に入れることでありノーリスクということはあり得ない。副作用があるということを前提とすべきだろう。従ってメリットとデメリットを秤に掛けることが必要だ。
 予防接種のメリットはその感染症に罹りにくくなるということだ。一方デメリットは副作用や金銭的負担などであり、その負担をしても感染症から免れられるとは限らない。予防接収の功罪はかなり曖昧なものだ。
 医療とはそういうものだろう。薬であれ手術であれリスクを伴うにも関わらず治療できるとは限らない。それどころか薬や手術のせいで死ぬということさえあり得る。しかしリスクを伴うことを無条件に忌避することは「注射は痛いからいやだ」と言う子供と同等の幼稚な発想だ。秤に掛けねばならない。
 かつて天然痘やポリオ(小児マヒ)に対して予防接種は絶大な効果を発揮した。そのお陰でこの2つの病気はこの数十年日本では自然発生していない。そのイメージがあるので予防接種の大好きな人が多いが、インフルエンザの予防接種はどうだろうか。多分最も効かないローリスク・ローリターンの薬の1つだろう。
 普通のインフルエンザは安静にしていれば治る病気なのだから、余程強毒性のウィルスに変異しない限りは副作用の危険を冒して予防接種するには値しないように思える。 

草食動物

2011-01-21 15:35:58 | Weblog
 草食動物が戦うことは滅多に無い。戦うという戦略は合理的ではない。攻撃すれば自分も痛いし怪我をすることもある。相手に怪我をさせても自分には何のメリットも無い。
 最も賢明な戦略は戦いを避けることだ。孫子は「戦わずして勝つ」ということを最善策とした。そのために多くの草食動物では戦うという本能が退化しており、逃げるということで危機に対応する。草食動物の多くが早く走って逃げるということを進化の方向性として選んだ。
 肉食動物の場合は事情が異なる。相手を殺さなければ自分が飢え死にする。獲物を狩るという手法はハイリスク・ハイリターンの戦略だ。
 ごく稀に象とライオンが戦うことがある。両者の動機は全然違う。ライオンにとっては食料を得るための狩りだが、象にとっては戦う理由が殆ど無い。言わば火災や洪水などの天災のような災厄であり、一刻も早く逃れたいというのが本音だろう。そのために逃げる象をライオンが後ろから襲うというケースが多いようだ。
 人間も危機において2つの選択肢がある。感情としては怒りか恐怖であり、行動としては戦うか逃げるかだ。前者はハイリスク・ハイリターンであり後者はローリスク・ローリターンだ。概して男性は前者を好み、女性は後者を好む。男性のほうがつまらないことで死ぬ可能性が高いのはこの性質が原因だろう。
 私も戦いは避けたい。それでも後ろからライオンに襲われる象のような惨めな姿を曝したいとは思わない。弱い敵なら無視できるのだから、敵が強い時こそ断固たる覚悟で戦いたいものだ。

トイレの神様

2011-01-21 15:21:03 | Weblog
 嘘に頼らずに生きたい。
 天国も地獄も無いし最後の審判も閻魔大王も妄想だ。トイレには神様など住んでいない。
 嘘によって秩序が保たれるなのなら嘘も方便だという考え方がある。しかし私は嘘によって保たれるような秩序など欲しくない。事実に基づいたら相互殺戮や人肉食が横行する悲惨な世界になるのならそれも甘んじて受け入れよう。
 実際にはそんな殺伐とした世界など現れない。人類は最も優しい動物だからだ。
 「猿団子」という言葉がある。これは決して猿の挽肉で作った団子のことではない。寒くなると猿は集まってお互いの体温で温もり合おうとする。そんな猿の塊を猿団子と呼ぶ。
 人類も温もりを求めて抱き合う。群居動物である人類は一人で暮らすことはできない。抱き合わないまでも人の大勢集まる場所に引き寄せられる。それが都会だ。
 群居動物である人類は他人の感情を読むことが巧みだ。他人の喜びを自分の喜びと感じるような動物離れした高度なテクニックまで身につけている。
 蛇でさえ相手が痛がると知っているから咬む。蛇よりもずっと高度な知性を持つ人類は他人の喜びを感知する能力を持っている。従って嘘に基づく秩序などいらない。神という嘘を殆ど持っていない日本人が世界で最も優しい民族の1つであるということがそれの証拠と言えるのではないだろうか。

リストラ策

2011-01-18 15:51:29 | Weblog
 企業は業績が悪化すると不採算部門を縮小・廃止する。赤字部門が減れば収支は改善される筈だが、奇妙なことに更に悪化する。なぜか?営業所や工場を閉鎖しても人は残るからだ。赤字部門の閉鎖は余剰人員の増加を招く。全く単純な話だがこのことに気付いていない経営者が少なくないようだ。
 ある小売店チェーンが不採算店を閉めれば物件費は減る。しかし人件費は殆んどそのままで収入が減る。これで収支が改善する筈が無い。閉めっぱなしにするのではなく新しい店舗を出店するスクラップ・アンド・ビルドの戦略が必要だ。
 営業所の閉鎖は他の営業所に勤務する従業員に対する脅しとしては有効だ。「収支を改善しなければポストを失うぞ」と脅迫された従業員はサービス残業や休日出勤をしてでも人件費を削って収支改善を図る。このことによって一時的には収支が改善されるがこれは全く一時凌ぎでしかない。
 逆に成長中の企業はどんどん営業所や工場を増やす。拡大策が好循環を生む。
 かつて、そごうという百貨店が快進撃を続けた時期があった。水島社長の浮動担保理論に基づき店舗を担保にして新店舗を作るという自転車操業のようなやり方で業容を拡大した。業容を拡大し続けていれば内部問題は表面化しない。日本の高度経済成長期や国内問題を誤魔化すためにも経済成長を続けざるを得ない現代の中国のようなものだ。
 事業縮小はその逆だ。縮小すればするほど内部矛盾が露呈する。日産のゴーン社長以来、事業縮小が肯定されているが、これが何を招くかよく考える必要がある。事業拡大が雇用に繋がるのとは逆に、事業縮小は必然的にクビ切り策に繋がる。