◆『存在することのシンプルな感覚』より
ケン・ウィルバーの『存在することのシンプルな感覚』(松永太郎訳、春秋社、2005年)を読みはじめた。これまで出版されたウィルバーの膨大な著作の中から選びぬかれたアンソロジーである。そのなからとくに印象に残った言葉を選びながら、感じたことをつけ加えていきたい。
広大な気づきの意識。それは対象をもたず、主体として「見る」ことはできるが、対象として「見られる」ことはない。すべてに気づき、すべてを目撃している。
「あなたは、まさにこの目撃者ではないだろうか。純粋な『見者』ではないだろうか。純粋な意識、純粋な『スピリット』であり、起こっていることすべてに、一瞬一瞬まったく公平に、無私に気が付いているのではないだろうか。あなたの意識は広大であり、大きく開かれている。『空』であり、透明である。そして起こっていることすべてに気が付いているのだ。」9
純粋な見者、思考によって限定されない「見るもの」。
思考によって織り成され、かつ思考の基盤になっている自我。その思考、その自我からの脱同一化。一瞬一瞬の脱同一化。それがサティなのだ。無限後退、無限の脱同一化。
そんなことを一日意識しながら、気づけば思考にサティした。
ケン・ウィルバーの『存在することのシンプルな感覚』(松永太郎訳、春秋社、2005年)を読みはじめた。これまで出版されたウィルバーの膨大な著作の中から選びぬかれたアンソロジーである。そのなからとくに印象に残った言葉を選びながら、感じたことをつけ加えていきたい。
広大な気づきの意識。それは対象をもたず、主体として「見る」ことはできるが、対象として「見られる」ことはない。すべてに気づき、すべてを目撃している。
「あなたは、まさにこの目撃者ではないだろうか。純粋な『見者』ではないだろうか。純粋な意識、純粋な『スピリット』であり、起こっていることすべてに、一瞬一瞬まったく公平に、無私に気が付いているのではないだろうか。あなたの意識は広大であり、大きく開かれている。『空』であり、透明である。そして起こっていることすべてに気が付いているのだ。」9
純粋な見者、思考によって限定されない「見るもの」。
思考によって織り成され、かつ思考の基盤になっている自我。その思考、その自我からの脱同一化。一瞬一瞬の脱同一化。それがサティなのだ。無限後退、無限の脱同一化。
そんなことを一日意識しながら、気づけば思考にサティした。