瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

自我を相対化する視点

2008年08月20日 | 瞑想日記
瞑想も日常生活の中のサティも、波はあるにせよ、いちおうは持続している。

日常的な思考(心の中での無限の独り言)の不思議さ。それこそが「無明」の源であり、同時にその現われであるということへの感慨。そういう「無明」への気づきが瞑想とサティを続けさせるひとつの動機かも知れない。

気づき(サティ)が入らなければ、いつ果てるともなく無自覚に続いていく内的なおしゃべり。サティが入れば逆に、たとえわずかの間でも、「無明」に発する自我の戯言から「我に返る」。自我がどっぷりと自我に浸かっている状態から、自我を相対化する視点に返る。

そういう視点を予感するからこそ、瞑想とサティを毎日試みることができる。

◆話は違うが、「はだしのゲン」を世界へ!の投票数が1000に届くまであと122となった。詳しくは、下の説明を読んでご協力ください。

お願い~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

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皆様による、数分でできる投票が、あと122集まれば、このアニメが、アニメランキングのトップ10内に躍り出て、世界にその存在を知られるようになるのです。

ぜひ投票をお願いします。またブログ「はだしのゲン」を世界へ を紹介していただいたり、呼びかけ文 をブログやメールに貼り付けていただけると、なお目標が実現しやすくなります。詳しくは、呼びかけ文 や、 「はだしのゲン」への投票を!! をご覧ください。

なぜ瞑想するのか

2008年08月03日 | 瞑想日記
日常的な思考は、自分で統御することも予想することもできない。それは、意識の表層に絶えず浮き上がってきては去っていく。

もちろん「これから○○について考えよう」と意識して思考することは可能だし、実際にそうやって思考する時間もあるだろう。しかし自覚的にする思考も、予測できない無自覚的な想念の侵入によって絶えずかき乱されるだろう。

統御も予測もできない思考の流れを生み出す元は何なのだろうか。一言で言えば深層の自我とてもいうべきものだろうか。生まれて以来の全経験とそれにともなう様々な感情の沈殿、自分が産み落とされた文化の中で自覚的・無自覚的に習得してきた全知識、それらと複雑にからみあった欲望と恐れ、執着とコンプレックス。

いずれにせよ私たちは、自分で制御できない何ものかによって思考へと駆り立てられ、それによって自我を維持し、あるいはますます塗り固めていく。私たちを思考に駆り立てる、制御できないエネルギーが欲望と恐れによって彩られていることも確かだろう。

だからこそ、日常的な思考に少しでも自覚的であろうとすることが大切なのだ。制御も予測も出来ない思考の流れにすこしでも気づき続けること。サティし続けること。

日常生活の中では、それもなかなか難しいが、瞑想という形をとると、ふだん気づきにくい微細な思考やイメージ、かすかな感情の動きなどにも気づきやすくなる。それだけでも瞑想することの意味は大きい。


お願い~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

★現在、ブログなどで 「はだしのゲン」を世界へ!! という取組みを行っています。アニメ『はだしのゲン』を世界中の人に少しでも多く見てもらい、原爆の実態を知ってもらおうという運動です。IMDbという映画情報サイトでアニメ 『はだしのゲン』 に投票していただき、このアニメの存在を世界に知ってもらうことを呼びかけています。

皆様による、数分でできる投票が、あと135集まれば、このアニメが、アニメランキングのトップ10内に躍り出て、世界にその存在を知られるようになるのです。

ぜひ投票をお願いします。またブログ「はだしのゲン」を世界へ を紹介していただいたり、呼びかけ文 をブログやメールに貼り付けていただけると、なお目標が実現しやすくなります。詳しくは、呼びかけ文 や、 「はだしのゲン」への投票を!! をご覧ください。