瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

優しき人々、空腹と夢

2013年08月27日 | 断食・少食
◆9月から職場に復帰する。入院中にお見舞いに来てくれた校長はじめ、お世話になった方々への挨拶のため、今日学校に行ってきた。通勤そのものは、もうまったく問題ないと感じた。数日前までは少し動きすぎるとかなり疲れたが、昨日あたりからあまり疲れなくなった。今日は、退院後初めて1万歩以上歩いたが、疲れはない。この調子なら本格的に仕事がはじまってもさほど疲れないだろう。

入院中、看護師や理学療法士や作業療法士、ケアワーカーなど病院のスタッフの人たちの誠意と優しさのこもった対応に接したことが大きな喜びだったことは何度も書いた。私にとってうれしい再発見がもう一つある。最初の入院先を退院することになった頃、私の回復ぶりが驚くほど順調なのを知ったある看護師が、喜びを満面に表しながら私のベッドのところまで来て、色々私に聞いたり、自分の手を握らせて私の手の機能の回復ぶりを確認したりした。本当に私の回復を心から喜んでくれているのが分かってうれしかった。今日職場を訪れたときも、私が倒れたと知ったとき、「心臓がつぶれるほどに心配した」と言ってくれる人がいた。身内でもないのに、人の病気にこれほど心を痛めたり、回復を自分のことのように喜んでくれる優しき人たちが、この世には多く存在するのだ。こんなことも病気になってみないとはっきりとは気づけないことだ。人から受け取るこんな優しさによって私の心も豊かになり、生きていることのありがたさを感じ、自分もいただいた優しさを周囲の人々に返していきたいと思った。

◆前回の「ゆるゆる一日半断食」の二日目の方向をしていなかった。一日目の起床時が65.4キロ。二日目が63.8キロ。断食一日目に、大量の便が出たこともあってか、一日で1.6キロの減量だ。復食すれば64キロ台には戻るだろうが、6月30日に脳梗塞で倒れる前は71.5キロ。7キロ以上痩せたことになる。今後の持続こそ大切だが。

昨日は週1のペースなら「ゆるゆる断食」実施日だったが行わなかった。しかし体重はそれほど増えてはいない。今日、起床時の体重は64.2キロだった。食事もそれほど多くなく、運動量も多いからむしろ徐々に減る傾向にある。明日また「ゆるゆる一日半断食」を実行しようかなと考えている。

これまで二回の「ゆるゆる一日半断食」の夜、いずれもちょっと示唆的な夢を見ている。一つ目は、実在の友人が出てくる夢だが、私が彼に無茶で失礼なことを行ったのに彼がそれを怒らず、優しく受け入れるという夢。その優しさが人間関係を平穏に保ちたいという気弱さから来るのではなく、彼の心の大きさ、本物の受容力から来るのを夢の中で実感した。それが印象的であった。二つ目の夢は、船の縁にへばりついて生き延びようとする多くの生きものたちを船長が切り捨てようとするのを、私が船長を説得することで、彼らの命を守るというような感じの夢だった。こうして書いてみるといずれも「優しさ」に関係することが分かった。

「ゆるゆる断食」だから、いずれも深い夢ではないが、「空腹」状態が無意識を刺激するのは確かかも知れぬ。完全な断食をやってみたくなった。

◆昨日はスポーツジムに行った。平均すると週に3回ぐらい行っている。しかし相変わらずスポーツジムは好きになれない。ただ、ジムに歩いて通ったり、ジムの階段を昇り降りしたり、ロッカーで着替えたり、プールを利用したり、シャワーを利用したりという一連の流れも含めてすべてがリハビリになっていると思うので、半年以上は続けるつもりだ。

今日は、職場を訪れたあと、買物をして帰宅。夕方、久しぶりに土手を歩いた。それで合計1万歩を超えたのだが、今日は歩くだけでなく途中ですこしだけジョギングをしてみた。退院直後に試みに走ろうとしたときは、ガクンガクンという感じで我ながらかなり不自然な感じで、走るのはまだ無理だなと思った。ところが今日は走ってみたら、不自然さがかなり消えていた。軽いジョギングなら20分や30分はできそうな感じがした。少しずつ走る距離も増やしていこうと思う。

「ゆるゆる一日半断食」

2013年08月19日 | 断食・少食
◆「ゆるゆる一日半断食」

先週の12日月曜から13日火曜にかけて「ゆるゆる一日半断食」を行った。少量の食べ物はとるので断食でもなんでもないが、水分は充分にとり、果物や野菜、ヨーグルトなどはごく軽く食べる。しかし、丸一日と次の日の昼間では最低限の飲食で行くので自分なりにそう名付けた。例えば12日は、合わせて130kcalくらいの摂取量だった。ちなみに12日、起床時の体重は66.0キロで13日の起床時は65.0キロだった。

これを週に一回くらいのペースでやっていこうとと思っている。前回からちょうと1週間たった今日から明日にかけても実行のつもり。ここに逐次報告していきたい。

◆8:40

今朝、起床時の体重は65.4キロ。朝はキウイを一つと思っていたが、スイカを切ったのが残っていたので一切れ。小さなスイカなので一切れも小さいが、キウイより少しカロリーは多いか。腹は一杯の感じだ。そうそう、スイカを食べる前に大量の便通。その後に体重をはかったら64.8キロだった。

◆14:00

11:00より2時間ほどスポーツジムで汗を流す。帰宅して体重を量るとすでに64.2キロだった。昼は、ひじきと切干大根の煮物を小皿に盛ったものと、枝豆20粒ほど。それとトマトジュースを一杯、36kcal。合わせて100kcalぐらいか。これらを飲食した後も体重は変わらなかった。

実を言うとスポーツジムはあまり好きではない。いかにもアメリカ的な発想の施設という感がする。ウォーキングマシンでわざわざ走らなくとも、近くの荒川の土手をランニングすればよい。筋トレも腕立てや自分でやる腹筋トレーニングで充分。機械を使って走ったり鍛えたりは、工場で肉体労働するのと似ている。金を払って無駄に肉体労働しているイメージ。

ではなぜ行くのか。ひとつはリハビリ病院でウォーキングマシンやレッグプレスでリハビリしていた延長で、麻痺した筋肉を鍛える必要があったからだ。確かにウォーキングマシンの方が、速さや角度を調整しながら歩く機能を回復していくことが出来る。まだジョギングはできないがそのうち安全にジョギングの練習もできるだろうと期待している。プールでの水中歩行もいいリハビリになっている。左手足の力が8割がたしか回復していないので、泳ぐことは全くできないが。

◆19:00

小カップに入ったフルーツヨーグルト(70g、48kcal)とキウイを一つ(40kcalぐらい)を食べる。ポカリスエット500ml、125kcalの半分弱くらい飲んでいるので、60kcal。

ということで今日一日、会わせて300kcalくらいの摂取量となる。摂取カロリーとしてはかなり少ないが、朝昼夕と何かしら腹に入れているので、空腹感もほとんどなく、以前もっと厳密な一日半断食をやっていた頃よりかなり楽である。こんな感じの「ゆるゆる一日半断食」を行うのもかなり意味があるだろう。

紀野一義氏の本に再び触れて

2013年08月17日 | 読書日誌
8月11日付のブログ「根源的ないのち」で、昔読んだ紀野一義の本を紹介した。その記事にコメントをくださった方がいて、紀野一義の『生きるのが下手な人たちへ』を手に入れ、読み始めてくださったとのことだった。こんなブログでも、読んで下さる方がいるのはありがたいことだ。それがきっかけとなって、私のサイト『臨死体験・気功・瞑想』の『覚醒・至高体験事例集』に、紀野一義氏の体験や氏の本から収録した体験を掲載していたのを思い出した。

実はこのサイトや姉妹サイトの『日本の気功家たち』の更新ができない状態になっている。Dream Weaberというソフトでこれらのサイトを作成したのだが、以前のパソコンにインストールしていたそのソフトが古いバージョンでそれが見つからない。新しいパソコンには購入した最新のバージョンをインストールしようと思いながらまだやっていない。古いバージョンのパスワード等も紛失し、再び更新できる状態になるかも不明だ。近々何とかいたいとは思っているのだが。

それはそれとして、紀野一義氏の体験を掲載したページは以下である。冒頭の部分だけ、ここにも載せておく。

「わたしは、広島に育ち、旧制の広島高校を出て東大の印度哲学科に学び、二年生のとき学徒動員で召集されて戦場に赴いた。終戦と同時に中国軍の捕虜になり、翌年の春ようやく帰国した。父母姉妹はすでに原爆で死に、故里の町はあとかたもなくなっていることは未だなにも知らず、ちょうど三月一日、新円切替の日に大竹港に上陸したのである。‥‥」

続きは、以下を見てほしい。

  ◇紀野一義氏

紀野一義氏のいくつかの本から収録したのは、以下の体験である。

  ◇高史明氏

  ◇北原敏直少年

氏の本は多く読んでいたので、それだけ事例集に載せたくなる体験例にぶつかることも多かったのである。ところで、氏の本を整理するに当たりノートを作っていると書いたが、その作業の中で拾った言葉を一つだけ紹介しておきたい。

「心の種々相」

この世に生きていると、いろんなことがある。
不思議としかいいようのないことが起こる。
人間が一人で生きているのじゃないこと、
何か大きなものにうながされ、生かされていること、
そういうことに気づかされる。
気づかない者も大勢いるが、
気づかされた者も、また大勢いる。
その大きなものを「こころ」という。
人間の小さな「心」ではない。
永遠の生命そのものとしての「こころ」、
その「こころ」に生かされていることに、
凡夫ながら、気づかなくはならない。

鈍い私も、二度の脳梗塞でようやくその大きな「こころ」に気づかされたようである。「ようである」という曖昧な言い方をするのは、油断しているとその「根源的ないのち」に背く生活を始めかねないからである。いや、まだその「こころ」に沿う生き方を徹底しているとはとても言えない。だからこそ、その「こころ」に背かないように「いつまた3度目があるかわからい」というリスクを与えられたのである。食生活の話だけではない。けちな損得勘定に囚われていると、3度目を誘発するストレスに晒されることになる。残り何年か分からないが「頂いたいのち」なのだから、一切の損得勘定から解放されてせいせいと生きれば、ストレスからも解放されるだろう。

「頂いたいのち」は「返すべきいのち」

2013年08月16日 | 瞑想日記
退院して10日目になる。自宅を基盤にした生活の中でも日毎に体の機能が改善していくのが実感できる。たとえば、駅の階段の上り下りがかなりスムーズになってきた。家の床は裸足で歩くが、靴で固定されない分、外を歩くより不自然な感じが強かった。その違和感もだいぶ薄れてきた。

一日8000歩以上歩くのを目標としている。今日は夕食までにその目標を達成していなかった。腹が落ち着いてから近所の道や公園を歩いた。歩きも自然な感じに近くなっているのを実感した。元々歩くことが好きだった。自然な感じで歩くこと、歩けることの喜びを一歩一歩かみしめた。

散歩から帰って体重を計ったら65kgちょうどだった。起床時と同じだ。ということは、この時点ですでに今日のエネルギー摂取量を消化したことになる。明日の朝は65kgを割り込むだろう。

しかし、うれしいことだけではない。一度目の脳梗塞のときは、数か月後には後遺症が全くと言っていいほど残らなかったので、この病気をあまり深刻に捉えていなかった。再発の危険が高い病気だとは聞いていたが、予防や食生活の改善などについてあまり調べもしなかった。しかし二度目の今度はそんなわけにも行かない。今回はインターネットなどでいろいろ調べている。

今まで知らなかったのだが、不整脈と脳梗塞が関係あるらしい。不整脈とは、さまざまな要因から洞結節で発生する電気信号やそれを心臓全体に伝える経路に異常が生じて、心臓が規則正しく拍動できなくなった状態のことだという。なかでも「心房細動」は、心房がけいれんするようにとても早く小刻みに震えて、規則正しい心房の収縮ができなくなった不整脈だ。心房細動そのものは、ただちに命を脅かすものではないが、心房内に血のかたまり(血栓)ができて脳梗塞の原因となったり、心臓の機能が低下して心不全を起こすことがあるという。

これを読んで思い当たることがあった。今回、脳梗塞になる2~3週間前から、心臓のあたりにこれまで感じたことのない違和感を感じていた。痛みはなかった。かかりつけの医者に行って心電図をとってもらったら、若干の不整脈があるが治療するほどのものではないとのことだった。「これを飲んでもよい」くらいの感じでワソラン錠という心臓の働きを助ける薬をもらったが、その後、それほど違和感を感じなくなったのであまり飲まなかった。

私の不整脈が心房細動だったのか、それが今回の脳梗塞の原因だったのかどうかも分からない。現在は、不整脈らしき違和感は心臓にあまり感じなくなっている。しかし、心房細動は、60歳以上の年齢層では2~4%に認められ、加齢と共に加速度的にその頻度が増加するという。私の体が、いつ三度目の脳梗塞を患ってもおかしくない、様々な要因(高血圧、糖尿の傾向、不整脈など)を抱え込んでいることだけは分かった。

そういう条件の中で、自分が今後どんな生き方をしていくべきかを問わなけれなならない。やはり、これからは「頂いたいのち」をどう生きていくかという、発想の根本転換を求められているのだ。「頂いたいのち」は、「返すべきいのち」でもある。返すとき、頂いたいのちがどれだけ清められているかが問われているのだ。

根源的ないのち

2013年08月11日 | 読書日誌
本の整理をしている。かつて読んでもう読まないだろう本だが、捨てるに忍びずとっておくと家の中が本だらけになってしまう。それでやりはじめたのが、読んだ時にマークした大切なところだけ切り取ってノートに張り付けて残りは捨てるという方法である。これが意外と時間がかかり、遅々として進まない。しかし、この整理方法自体が、かつて影響を受けた本をもう一度ざっと振り返るいい機会になっている。

押入れの段ボール箱を開けたら、紀野一義の本が十数冊出てきた。昔、およそ30年ほど前にかなり読んだ。この人の主催する「真如会」という小さな会に入会して、間近にお話を聴いたりした。岩波文庫の『般若心経・金剛般若経』の共訳者でもあるから、仏教の好きな人なら名前を知っているかもしれない。彼の本でベストセラーになったのは『生きるのが下手な人たちへ (PHP文庫)』だ。平易で心に染み入るような美しい文章で大乗仏教を語る人で、この人の本が出版されるたびに買い求めて読んでいた。

彼の本の『新法華経入門―いのち充たすことば』を整理していたら、「仏心」、「根源的ないのち」、「永遠なるものの力」等々、なつかしい言葉に再会した。これがミンデルの言葉と重なった。

ミンデルは、かかわりをもつ人間の中に、あるいは人間同士の関係のなかに、さまざまな現実そのものの中に、それらに即して、全体性を回復するうねりのような力を見ている。押さえつけていたもの、無視したり抑圧していたりしたものを明るみに出し、それらが充分に働くようにすれば、それが展開することで全体的な調和が生み出される。「大きい力」を心身や社会という現実そのものに内在する運動と見ている。この「大きい力」こそ、「根源的ないのち」、「永遠なるものの力」なのだ。

私の二度の脳梗塞も、この大いなる力からの働きかけだったとしか思えない。かつて八王子のヴィパッサナー瞑想合宿で地橋先生のダンマトークの後、地橋先生から放射されるとしか思えない慈悲の波動の如きものに包まれた。その波動を地橋先生は、地橋先生を通して「仏法僧」から来ると言っておられた。これらの経験から私は、「根源的ないのち」の存在、そこからの働きかけが存在することをますます確信するようになった。

アーノルド・ミンデルの次の言葉。

「自分ひとりだけのプロセスなどはない。
私たちはみんな一緒に、ものすごく大き なひとつの場の中に生きていて、
その一部分を受け取っているだけなのだ。
だから、 私たちが感じるすべての感覚に感謝し、できるかぎり、
そのすべての感覚を活かさな ければならない。
こうなると、すべてのものが私であると同時に、
これが私だというものは何もない、といえる。」(『うしろ向きに馬に乗る―「プロセスワーク」の理論と実践』春秋社)

自分と、自分の周囲で起っているすべての出来事とは、ひとつの大きな場の中につながって、それらの出来事の一切が開花しようとするプロセスなのだ。それが「大いなる力」だ。開花するかどうかは、私たちがそれらをどう気づき、感謝し、活かすかにかかわっているのだろう。

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