瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

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恐怖と不安と課題から感じる

2007年06月20日 | 瞑想日記
いつかは消えゆく肉体をもって、この世に訳も分からず投げ出され、限りあるいのちをただ生きていく。この根底に横たわる不安と恐怖と悲しみ。それを日常的にどれだけ感じているかどうかは別として、悟りを開いていないすべての人が、その不安と恐怖と悲しみを心の底に持ちながら生きている。

日々出会うすべての人をそういう視点も含めて感じとる。道ですれ違った見知らぬ人も、廊下で軽く会釈してすれ違った同僚も、誰もが、この短いいのちを恐怖と不安をかかえながら、どのように生きるかという課題に立ち向かって生きている。

もちろんその課題に自覚的な場合も無自覚的な場合もある。しかし、すべての人が、この不可-思議な限りあるいのちをどう生きるかという課題を負わされているのは確かだ。根底に横たわる恐怖と不安と悲しみ、そして課題。そのような視点からすべての人を感じとる。
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恐怖と不安

2007年06月19日 | 瞑想日記
夜中に目覚めてトイレへ行く。少し恐い夢を見ていたようだ。かすかな恐怖や不安、悲しみの余韻を感じながら用を済ます。その不安や恐怖は、事故や病気でいつ傷つき、終わるかもしれない、限りある肉体(いのち)に根ざしているようだった。

日常生活の中でそういった恐怖や不安を忘れてしまうのは、もちろん抑圧するからだ。一方で、一切の抑圧から解放されているがゆえに、恐怖や不安や悲しみといった感情からも、ある意味で解放されてしまった人も存在するだろう。

幻想としての「自己」が、肉体を同一化して、それに執着していく限り、恐れや不安、悩み、苦しみが止むことはないのだろう。

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環境問題と原始仏教

2007年06月18日 | 読書日誌
ブログ・精神世界と心理学・読書の旅の方に、森岡正博著『生命観を問いなおす』(筑摩書房1994年)の書評を書いている。まだ途中であり続きを書く予定だが、こちらで一言触れておきたいことがある。

著者は、環境問題や生命倫理の問題を、単に機械論的自然観や資本の論理という外側の要因だけに帰すべきものではないと主張する。それらの問題の根源は、もっと深い「生命」そのものに隠された醜さにあると考える。その主張には、どこか原始仏教の見方に通じるものがある。著者は、哲学者・梅原猛の脳死問題を扱った論文を考察するときも、原始仏教的な無執着という観点を持ち出して批判する。

ディープエコロジーにしても、もっと大きくニューエイジにしても、どこか生命の醜悪な部分を見据える視点に弱く、生命を安易に肯定し過ぎる傾向がある。生命そのものの生きようとする欲望の中に、今日の環境破壊をもたらしたもっとも深い原因が横たわっているかもしれないというのだ。

著者の問題提起には、じっくりと考えて見るべき、大切な主張が含まれているような気がする。
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無明思考

2007年06月17日 | 瞑想日記
一日のうちに様々な思考を繰り返しながら、それらの思考の積み重なりによって自分の「いのち」の色合いや方向が選びとられ、ひとつの形をなしていく。思考が私を作っていく。愚かな自己中心的な思考は、その限りでの私を作る。思考は確実に、生きている間の私の「あり方」を決定していくが、生きることが終わればそれはら霧散する。

だからこそ、無明から湧きあがるような日常的な思考の一つひとつに、できる限り気づいていきたいと思う。一回気づくたびに、「いのち」が「無明思考」によって束縛されていくことから、一瞬でも自由になれる。それを無限に繰り返して行きたいと思う。現実には、あっという間に「無明思考」に絡めとられて行く。その度に気づきに舞い戻って行きたいと思う。
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修行しようとする自分へのサティ

2007年06月17日 | 瞑想日記
★以下の文は、一週間前に書き、さるさる日記にはアップしたものの、こちらにはアップせずじまいになっていたものです。

20日ほどのブランクがあった。WEB上で日記を書きはじめてから、これほど書かなかったことはほとんんどなかったと思う。最初は、他のことに忙しくて書けなかったのだが、そのうち「書かない自分」を自覚的に見るようになった。あえて書くほどの内容もなかった。「書こうとする自分」にもつねに自覚的に対し、サティを続けたい。今日は、書いて整理してみたいことがある。

朝の瞑想中に気づいたこと。まずは、個々の雑念や身体感覚へのサティをしていて、ついつい自覚化が妨げられるのは、瞑想やサティをしようとしている自分自身の精神状態である。その修行を行っている最中の、修行への姿勢や意欲や様々な精神状態へのサティは、盲点になりやすいから、つねに自覚的にそこにサティを入れたほうがよい。これは、これまでにも何度か触れたが、重要なので何度でも書き留めておきたい。

たとえば瞑想しようとする意欲の根元に、サマーディを一種の「手柄」として狙っている自我がいることの自覚化。あるいは、「ねばらなぬ」という義務意識で瞑想をしようとしている状態、半分いやいやながら仕方なく瞑想しようとしている状態などの自覚化。そのつど修行しようとする「自我」がどのような意図や感情や意欲や気分の状態にあるのか、かなり頻繁にサティしていくことが大切だと思う。少し雑念が多くなったなと思ったら、そのつどそこに帰るのがいい。一歩、いや二歩・三歩と退いた視点から自分を見るということ。

次に瞑想中に雑念が湧いて、そこから心随観をしようとするとき、心随観の対象となる自分の心には、三重・四重の層があることを自覚し、二つ目の層から三つ目の層、そして四つ目の層という風にサティを深めていくことが大切。

ある雑念は、どのような執着から出てくるのか、どのような欲求から出てくるのか。たとえば昨日のある場面を反芻しているのは、その時の「人の評価を気にしている」と気づく。さらに評価を気にする「自我」の防衛活動に気づく。そのような層の掘り下げを形だけでなく実感をともなって、そのつどじっくり行っていくことでサティが深まる。その結果、集中も増すような気がした。

一昨日より昨日の昼まで、久しぶりの一日半断食。今後また週一の一日半断食を続けていければよい。
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