瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

成長という生涯の課題

2012年09月30日 | 瞑想日記
2カ月に一回ぐらいの割合で集まっているささやかな研究会がある。その研究会で次回は「自分の人生で頑張ったこと、時」というテーマで各自かんたんにまとめたものを持ち寄って話そうということになった。私も頑張ったことはいろいろあるが、とくにこれを書きたいというものがなかった。少し視点はずれるが、「これまでの人生で一貫して求めてきたこと」ということでなら書いてみたいと思った。以下は、そのまとめである。

ある時に集中的に「頑張った」というわけではないが、私が生涯の課題としてきたことがある。それを一言でいうなら「心の成長」、「魂の目覚め」ということになるだろう。振返ると確かにそれをずっと追い求めていた。満足な成果を得られたとはとても思えない。ほんのわずかしか成長していない思う。むしろ残されたこれからの時間でどれだけ飛躍できるかという期待の方が大きい。

精神的な「成長」といっても、この言葉から何を思い浮かべるかは人それぞれだろう。私自身は、かなりはっきりした意味で理解している。一言でいえば、自己と他者とをどれだけ受容できるようになったかだ。通常私たちは、自分をあまり受容できていないのだが、それに気づいていない。いわゆる無意識の世界とは、自分で受容できずに意識から排除してしまった自分だともいえる。自分の嫌な部分、見たくない部分をどれだけ受容できるかに、精神の成長がかかっている。可能な限り自己が受容され尽くされたとき、それが「魂の目覚め」のときだともいえる。

他者受容は、自己受容と表裏一体だ。自分を受容できていないと、それだけ他者を受容することもできない。一般的にいって人は、自分と同じような嫌な部分を持っている人を激しく嫌う。自分に隠しておきたい嫌な部分を他人の中に見てしまうから、自己嫌悪を相手に投影してしまうのだ。私は若いころ「カッコつけるやつ」が大嫌いだった。それだけ自分がイイカッコシーで、無意識にそういう自分を嫌っていたからだ。今は、カッコつける人を見ても微笑ましいくらいなのは、そうした自分については少なくとも受容できたからだろう。人は、自分を受容できる程度にしか他者を受容することもできない。受容とは自分のあるがままを愛することだともいえる。だから人は、自分を愛する程度にしか他者を愛することもできない。成長とは、自分の一切をどれだけ受け入れ、愛しうるかにかかっている。