瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

生きている不思議、死んでゆく不思議

2007年10月29日 | 瞑想日記
最近、YOUTUBEで様々な歌手の音楽を聴く。とくに中島みゆきを聴くことが多いのだが、今日は木村弓の歌に触れたい。宮崎駿の『千と千尋の神隠し』のテーマ曲『いつも何度でも』を歌っている。この曲を作曲し、歌っているのが、木村弓であることをYOUTUBEで知った。Youmi Kimura - Always With Me - Spirited Away 木村弓 いつも何度でも

曲も美しいが、詩も印象的だ。とてもスピリチュアルな詩だ。作詞は、覚和歌子。宮崎駿は、この曲を聞きながら、そしてこの曲からインスピレーションを受けながら『千と千尋‥‥』を完成させたという。

この歌の一節に

「生きている不思議、死んでゆく不思議、花も風も街もみんな同じ」

というのがある。私はとくにここが心に響く。限りあるいのちとしてこの世に投げ出されている不思議。そして死んでゆく不思議。

「生きている不思議、死んでゆく不思議」を超えた、はかりしれない世界を知った人々は、これまでも多くいたし、現代にもいるだろう。そして私は、「生きている不思議、死んでゆく不思議」の中で、自分にとらわれながら、右往左往して生きている。

最近また、家族のことで胸が痛むことが多い。しかしそれは、私にとっては「呼びかけ」であり、「促し」なのであろう。胸が痛むほどに、大切なことは「捨てる」ことなのだ、という思いが強くなる。一切のとらわれを捨ててしまうならば、そこに開かれる広い地平がある。それほどにかんたんなことなのだ。しかし、それほどにかんたんなことが実は難しい。私は、一切を捨てることができるだろうか。今、それが問われている。

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★現在、ブログなどで 「はだしのゲン」を世界へ!! という取組みを行っています。アニメ『はだしのゲン』を世界中の人に少しでも多く見てもらい、原爆の実態を知ってもらおうという運動です。IMDbという映画情報サイトでアニメ 『はだしのゲン』 に投票していただき、このアニメの存在を世界に知ってもらうことを呼びかけています。

皆様による、数分でできる投票が、あと350集まれば、このアニメが、アニメランキングのトップ10内に躍り出て、世界にその存在を知られる可能性が見えてきます。

ぜひ投票をお願いします。またブログ「はだしのゲン」を世界へ を紹介していただいたり、呼びかけ文 をブログやメールに貼り付けていただけると、なお目標が実現しやすくなります。詳しくは、呼びかけ文 や、 「はだしのゲン」への投票を!! をご覧ください。

新たな思い

2007年10月21日 | 瞑想日記
自我、つまり思考する「私」が瞑想しようと意志するのだから、そこには否応もなく「私」のエゴが隠れている。「成長しよう、進歩したい」という意志は、煎じ詰めればエゴの意志だ。もちろん、「私」を超えた何かの力に促されている面もあるだろう。しかし、それを意識がとらえて瞑想を意志するとき、そこにすでにエゴが入り込む。

どのみち「私」が意志するのだから、エゴからの解放をめざす道もエゴから出発せざるを得ない。そうしなければ始まらないのだ。だからこそ私は、あえて瞑想を選び続けるだろう。

ただ、サマタ瞑想は、集中の極みで主観と客観が融合するサマーディを目指し、それのみをゴールとする。しかし集中は、エゴやエゴの抑圧をそのままにしたままでも可能である。だから集中が解かれればまたもとのエゴ状態に帰ってしまう。

ヴィパッサナー瞑想は、集中とともに観察を重要なファクターとする。特定対象に集中するだけでなく、心の内外に生起する一切の現象を、公平に、無差別に、あるがままに気づくことを重視する。もちろん、瞑想しようとする動機に隠されたエゴも観察され、あるがままに気づかれていく。

ヴィパッサナー瞑想は、集中によってエゴを抑圧してしまうのではなく、たえずそれに気づいていくことが方法の根幹に組み込まれた瞑想法である。『ブッダの瞑想法』に刺激され、あらためてヴィパッサナー瞑想を、本気でやっていきたいと思う。

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停滞する日も

2007年10月20日 | 瞑想日記
瞑想日記を書くとき、どうしても進歩したと感じたり、気づきがあったりしたことのみ、要するにによかったことのみ書きがちになる。そこに、よく見せたいというエゴが働いているという面もあるが、停滞している状態を書いてもあまり意味がない、感じているという面もある。非公開の日記ならそのようなことは意識しないだろう。

自分としては、どんな状態の日でも何かしら書いたほうが、自分自身への確認になったり、明日への意欲につながったりする。読んだ本の刺激になった言葉を記すことも意欲につながる。

この二日書かなかったが、生活のサティが続かなくなっている。調子のよいときとそうでないときの波は当然あるのだが、調子の悪いときは、どうしても書く気がうすれる。

調子が悪い時、よい刺激のひとつになるのは、自分が大いに影響を受けた本を読みなおすことだろう。何を読むかによって受ける影響も微妙にちがう。何も読みたいと思うかとも絡んで、その後の自分のありかたに変化をあたえていく。

今は、地橋先生の『ブッダの瞑想法』を読み返している。第三章「サマーディの光と影」でサマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想を比較しているところを読み、あらためてヴィパッサナー瞑想の総合性を強く感じた。自分自身、充分に分かっているつもりではあるが、読んで確認することで、あらためて刺激になることも多い。この点については、次回に書きたい。

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姓名を覚える

2007年10月17日 | 瞑想日記
今年は、ひとつ目標にしていることがある。自分の学年の生徒300余名の姓名を全部覚えるということだ。今、試験中だが、試験監督で行ったクラスでは、その時間、必死に顔を見ながら姓名を覚え、また漢字で(もちろんそらで)書けるようにしている。1時間の間にはいちおう苗字も名前も全員覚える。何人かはすぐに忘れるが。

今日もそれをやっていたのだが、顔を見ながら姓名を何度も繰り返している間、思考が浮かぶと自ずとサティが入っているときがあった。注意がちょっと思考にそれた時の気づきが、容易だった。目標をもって前向きにやっているので集中もしやすく、思考へのサティも入りやすい。何よりも楽しい。

しかし同じことは他の作業にも言えるはずだ。事務的な仕事の時は、仕事に必要な思考と雑念とが区別しにくく、サティがしにくいと感じていたが、それはかってな思い込みだったのかもしれない。たとえば今、こうして文章を書いているときでも、自覚さえあれば、一瞬一瞬の思考や行動にサティが入るのではないか。少なくとも、脇道にそれた思考にはサティを入れることできるのではないか。

と、ここでキーボードを打つ指が止まって、次に何を書くか考えていたが、思考は今日の出来事へと飛んだ。今は少し気づきが遅かったが、そんな時、即座にサティを入れることは充分可能だろう。

そうあろうという意識と自覚があれば、日常のなかで思考に無意識的に埋没していく時間は、激減していくだろう。

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瞑想者が死んだとき

2007年10月16日 | 瞑想日記
夜中の3時半ごろトイレにたった。トイレの中で気づいたことがあった。瞑想をしていく上で、私の大きなテーマのひとつは、自我が瞑想をすることで何かになろうし、変化し成長しようとすることの矛盾ということだった。自我から解き放たれるための瞑想を、自我の狙いとして行うことの矛盾。もちろんこの問題にずっと関心はあった。しかし、トイレの中で、なぜか、これが瞑想する上での私の最大の関心事であり続けていたことに気づいて、「ああ、やはりそうだったのか」という得心があった。

今、ラリー・ローゼンバーグの『実践ヴィパッサナー瞑想・呼吸による癒し』を再読している。最初に読んだのは、2001年の4月だ。この年の夏にグリーンヒル瞑想研究所の10日間合宿に参加して、本格的にヴィパッサナー瞑想を始めた。それ以来、この本からは意識的に遠ざかっていた。自分で読むことを制御していた。今読みなおして、自分がこの本のどこに引かれるのか、そのひとつの理由が確認できた。たとえば次のような文章。

「強いて解脱(開放)を起こすことはできません。それは『我』にとらわれた行為であり、自意識過剰な修行者です。本当の瞑想は瞑想者が死んだときに始まります。どこかに行こうとしているとき、ブッダになろうとしているとき、涅槃を得ようとしているとき、瞑想者はまだ生きています。最初はそれが自然ではあります。もちろんあなたは目的を達したいのであり、そうでなければそもそも修行など始めたりはしません。しかし時を経るうちにおのずから、そのような目標も概念にすぎないのであり、かえってそれが苦しみの元となることを理解するようになります。修行が進むにつれて、観察以外には何もないといった、対象への明け渡しが生じてきます。」(P99)

ここでも瞑想者がブッダになろうとするとき、その背後にある「我」の矛盾が指摘されている。最近、瞑想を「エゴとセットになった『進歩』の観念に支えられてやっているように思います」とコメントを下さった方がいた。「進歩という強迫観念」。『呼吸による癒し』は、この問題に何度も触れている。私自身、深いところでずっとこの問題を強い関心事としてきた。だからこそ、『呼吸による癒し』に強く惹かれたのだ。トイレのなかでそのことに気づいた。そして、ヴィパッサナー瞑想を始めて7年目の今、この問題がますます大きな意味をもつようになったことを感じている。

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