瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

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覚醒・至高体験の事例集にガンガジを入れる

2010年08月31日 | サイト更新管理
◆また久々になってしまったが、「覚醒・至高体験事例集」に追加をした。昨日レビューを書いたガンガジの『ポケットの中のダイヤモンド―あなたはすべてをもっている』の冒頭に出てくる、彼女の覚醒についてである。

普通の人々の場合-1:ガンガジとして入れた。

彼女は、家庭生活は充分に幸せであったが、それでも深いところで精神的に満たされないもの、「宇宙の存在そのものへの絶望」があったという。様々な修行やワークショップを試みてきたが、心の深いところにある渇望は満たされなかったようだ。そんな彼女がついに、決心して本当の師を求め、パパジと出あう。その出会いがどんな風に覚醒につながったのか、そのいきさつを語っている。

ガンガジにあらためて触れ、つくづく思う。何かを求めて修行すると、そこに求めて何かをなし、成果を得ようとするエゴがますます強くなる。そのエゴを静かにゆったりと、そのまま気づいて、許し、受けとめることの大切さを。

◆いつかも書いたが、事例集にアップしたい人物・体験はいくつかある。まのところ予定しているのは、プンジャジの『覚醒の炎―プンジャジの教え』の中の、プンジャジ自身の覚醒体験や、弟子の女性の体験。インドの経済学者ラビ・バトラの覚醒体験、『中論と他力信仰』の中で稲津紀三師氏が語る他力の信仰を通しての覚醒体験など。さらにケン・ウィルバーの『グレース&グリット―愛と魂の軌跡』のトレアの場合もいずれアップしたいと思う。今度は、あまり間隔をあけず、アップしたい。
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感情の重なりの底

2010年08月30日 | 瞑想日記
◆最近、掲示板:臨死体験・気功・瞑想で何人かの人が投稿をして下さり、動きが活発になっている。私自身、それらを読んだり、書き込みをしたりしながら、深いところでかなり影響を受けている。

◆数年前、このブログでガンガジの『ポケットの中のダイヤモンド―あなたはすべてをもっている』から、その言葉を書き出し、それについて感じたことを書いていた。かなり長くやっていた。ところが、この本についてはなぜかまともなレビューを書いていなかった。それで『精神世界と心理学・読書の旅』の方にレビューをまとめた。

そのとき、かつてブログに抜き出した彼女の言葉を一度、二度と読み返し、あらためて影響を受けた。もういちど本全体を読み返したいと思った。できれば何度も読み返したいと思った。さっそく元の英文の本も注文した。

今回読み返した彼女の言葉の中から一つだけ再録する。本のタイトルの意味にもつながる言葉だ。

「もしもあなたにこうした感情の重なりを最後まで徹底的に経験する意思があれば、あなたは最終的には底なしの深淵に見えるところに辿り着きます。この深淵は、無、空虚、無名と理性が認識するものです。これは非常に重要な瞬間です。なぜなら、完全に何ものでもなく、誰でもないことを進んで受け入れるということは、自由になることを積極的に受け入れるということだからです。何層にも重なった様々な感情はすべて、無の経験、すなわちあなたが自分だと思っているものの死に対する防衛手段です。いったんその防衛手段が崩れ、扉が開いてしまうと、恐れていた無と完全に向き合うことができます。この対峙こそ真実の自己探求によってもたらせれる啓示であり、それによってあなたの心の真ん中にずっと隠されていた真実という秘密の宝石が露にされます。見つかったダイヤモンド、それはあなたです。」

これは、最近の私にとってとくに意味深い。このブログ(7月10日「さざなみのような心の反応」とその前後)にも書いたが、このころ瞑想や日常のサティで、思考に伴う感情や、その思考の性格などにサティを向ける心随観を中心にするようになり、瞑想が深まった時期があった。この日のブログに、「思考やそれに伴う感情の動きに心随観していると、自我の一瞬一瞬の働きにとても敏感になっていく。と同時に、全体としての自我のとらわれの傾向にも気づきが深まっていく」と書いている。心随観を徹底することは「感情の重なり」を奥へ奥へと分け入っていくことであった。

現在は、瞑想やサティをさぼりぎみなのだが、このガンガジの言葉が、あの7月ごろの体験が重なり、強く印象に残った。サティを、そして心随観をもっと徹底させようと思った。
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覚醒・至高体験をめぐって26:《目次》で振り返る

2010年08月27日 | 覚醒・至高体験をめぐって
「醒・至高体験をめぐって」は、前回で第4章が終わったことになる。全体の構成を振り返るために、これまでの流れを「目次」としてまとめたものをここに掲載しておきたい。《》で示したのは、そこで取り上げた事例である。

はじめに
《エックハルト・トール》

1 覚醒・至高体験とは?
《玉城康四郎》

2 至高体験の特徴
《林武》《辻邦生》《タゴール》《N・K氏》

3 B認識
《八木誠一》《渡邊満喜子》

4 自己超越
《青木宏之》《自己超越を暗示するいくつかの事例》《浄土宗僧・原青民》

~~~~~~~~~(前回ここまでアップ、以下は、次回より)

5 B認識と自己超越
《クリシュナムルティ》

6 限界状況
《ヤスパース(限界状況の解説として)》《高史明》《柳澤桂子》
《心理学専攻の女性》《ラリー・ローゼンバーク》《ある青年医師》

7 死への直面
キュブラー・ロスの死の五段階説
《アーロン》《北原少年》《詩集》《福岡正信》《湖の伝説》


以下、続く
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覚醒・至高体験をめぐって25:  (4)自己超越⑤

2010年08月26日 | 覚醒・至高体験をめぐって
《浄土宗僧・原青民》

つぎに挙げるのは、原青民という浄土宗の僧侶の体験である。彼は、肺病にかかり、かかりつけの医者にあと五年しか生きられないといわれ、非常に悩んだという。そのうち、大正の法然上人と称された弁栄聖者(べんねいせいじゃ、1859~1920)に出会い、その感化で毎日のように念仏を唱えるようになった。 その時の体験である。

『ある晩、一心に念仏を申しながら自分と自分を取り巻いている万物との関係を考えていました。ところが念仏を唱えているうちに突然なにもなくなってしまいました。 自分のたたいている木魚の音も聞こえません。周囲の壁もなければ、天井も、畳もありません。

すきとおった明るみもありません。色も見えなければ、重くも、軽くもありません。自分のからだすらありません。まったく無一物になってしまって、ただあるのはハッキリ、ハッキリだけになりました。はっきりした意識だけがあった、意識内容はまったくなくなってしまったわけです。

しかししばらくして平常の自分にもどり、その晩はそれで寝てしまいました。ところが翌朝目がさめて、庭から外を見ていると、変で変でしかたがありません。きのうまではいっさいのものが自分の外に見えていたものが、けさは自分の中に見えています。それはつぎの日もかわりませんでした。』(佐藤幸治『禅のすすめ (講談社現代新書 27)』)

この体験によって彼は、「いっさいが自分の心であり、いっさいの活動が自分の心の働きであることがわかってきて」、この大宇宙そっくりが真実の自己であると自覚されたという。そして、もう本当の自分は死なないのだという実感に至り、深い安心を得ることができたという。

「外に見えていたものが、自分の中に見える」という不思議な経験は、他の体験者にも見られる。たとえば気功家・島田明徳氏は、立禅による気功の修練中に、自分の意識が飛躍的に拡大する体験をし、次のように語る。(なお、島田明徳氏の事例は、後に気功家やヨーガ行者の身体的な変化に伴う事例を考察するときに詳しく取り上げる予定である。)

『この時の私は、自分の周囲に意識が拡がって、周囲の山々がみんな自分になってしまいました。単なるイメージではなく、自我意識が残っている状態ですから、自分を意識できる状況下において、その自分が、山であり、川であり、空であるといった状態をはっきりと認識できるのです。』(島田明徳『「気」の意味―仙道が伝える体の宇宙』地湧社、1991年)

以上のいくつかの事例からも推察できるように至高体験の核になる部分には「自己超越」と名づけてよいような体験が含まれるようだ。確かに表現はさまざまである。一方では「私の『自己』が、それよりも無限に大きなものに溶け込んで行く」と表現され、他方では「外に見えていたものが、自分の中に見える」、「自分の周囲に意識が拡がって、周囲の山々がみんな自分になってしまう」と表現される。「自己」が無限の中へと溶け込んでいくのと、「自己」が拡大して森羅万象を包みこむのとは、一見して方向が逆でように見える。しかし、いずれの場合にも共通しているのは、日常的な「自己」という堅固な体制が何らかの仕方で超えられているということである。
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覚醒・至高体験をめぐって24:  (4)自己超越④

2010年08月24日 | 瞑想日記
《自己超越を暗示するいくつかの事例》

次に短い文章によるいくつかの体験事例をあげてみたい。一九六一年に創立されたオックスフォード大学の宗教経験研究所が行ったアンケート調査によれば、全米のあらゆる職業人のおよそ三分の一が、人生に少なくとも一度は宗教的、超越的経験と思えるものに遭遇しているという。研究所の創立者ハーディーによると、魂に刻み込まれたその瞬間が、人生に計り知れない意味を与える場合がほとんどである。そして、こうした経験をする人々は、しない人々よりもずっと心理学的に健全な状態にあり、全体としてバランスの取れた精神状態にあって、より幸せで、社会的責任感も人一倍あることが多いという。この研究所の報告の中からB認識と自己超越との関係を暗示する事例をいくつか取り上げる(ジョン・ヒック『魂の探求―霊性に導かれる生き方』徳間書店、2000年)。

『その現象は扉の外で変わらず起こる。"生かされている歓び"の気持ちがそれを先触れする。どれほどこの感覚が続くかは分からないが、しばらくして、感覚が目覚めるのを知る。何もかもが鮮烈になり、視覚と聴覚と嗅覚は、まったく別の意味をもってくる。すべてに善を感じるようになる。それから、明りが消されるようにすべてが静まり返り、自分が本当にその光景の一部であったかのような感覚をもつ』

『道を歩きながら、夕日を拝もうと西を振り返る。日没の瞬間、紅の空を背に、松の木立が黒いシルエッ トのように浮かび上がるのを見た。そのときに、あたかも"私"という名のスイッチが切られたかのような思いがした。私の意識は、以前は観察される対象だった"存在"を包むまでに広がった。"私"は日没 であり、"それ"を経験する"私"は存在しなかった。観察するものとされるものはそこにはない。同時 に、永遠が"生まれ"た。過去も、現在も、未来もなく、永遠の今だけがそこにあった。それから、いつも通りの意識に返り、野を歩いている自分に気づいた。だが、記憶は鮮やかだった』

『‥‥自然の中に入り、生い茂る草を感じる。澄み切った空を雲とともに流れ、大地の鼓動に耳を傾ける。 その色と臭いが強く迫ったときに、私は自分が別の存在であるという感覚を失った』( フォレスト・レイドの自叙伝より)

最後に別の資料から、もう一例あげたい。

『ある日の午後、私は窓の外の一本の古木の頂きに見入りながら、私の思考は強烈に、自分自身の人生についての瞑想から、螺旋状にダルマ(仏教語のダルマは、端的に実在を意味する)の本質の内部に入って行った。私は私の「自己」が、それよりも無限に大きなものに溶け込んで行くにつれ、そこにはただ、温かみのある愛と光の大きな波が一つあるのみとなった。遂に二つでなく、ただ大いなる一者のみとなった。ダルマ以外は何もなかった。何もなし。私は私自身である。これだけであった。(‥‥中略‥‥)
 そして、その後、外を歩いていた。万物が信じ難い実在の単純さに輝いており、私もまたその実在の不可欠の部分(an integral part)であった。それを何と言い表してよいか、まったくわからない。そこにはこれを経験したり考えたりするような私はもはやなかったからである。ただただ、まったく平安そのものであり、それ以外の何ものでもなかった。』(T・G・ハンド『水の味わい―東洋思想と神』春秋社、1993年より、L氏『私の悟りへの道』)

これらの事例は、それぞれ表現にはかなりの違いがある。また、たとえそれが一時的なものであるにせよ、「自己」という束縛からの解放といえるものを描いているようだ。すくなくとも「自己」と森羅万象との隔たりがなくなっている。マスローの表現でいえば、「認知が自己超越的、自己没却的で、観察者と観察されるものとが一体となり、無我の境地に立つ」という至高体験の特徴に合致するだろう。

こうしたいくつかの事例からも推察できるように、覚醒や至高体験の中核には何かしら日常的な「自己」を超える体験が横たわっているようである。
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