瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

どうすれば核心にいたるか

2006年01月04日 | 瞑想日記
親としての悲しみ、苦しみがある。それに、先日引用したクリシュナムルティの言葉をどう当てはめるのか。

『クリシュナムルティの神秘体験』より(再録)
「‥‥だが悲しみをたやすく欺くことはできない。それを終息させるためには、あなたはまさにその核心にまで入っていかねばならない。あなた自身のきわめて奥底まで、一ヶ所も残ることなく掘りつくさなければならない。‥‥‥」338

もちろん、悲しみ、苦しみから楽になりたいという思いがあるが、それが人生を見る私の眼を深めるという思いもある。問題は、どうやってその「核心」「奥底」まで掘りつくすことができるかだ。一瞬のうちにそれができれば苦労はない。一瞬のうちにそうできないからこそ、「どうすれば‥‥」とまさぐるのだ。努力をするのだ。

一瞬一瞬の自分の思考や感情に気づくこと。しつこく湧き上がってくる思いや感情には、心随観をすること。これが、まさにヴィパッサナー瞑想なのである。

親としての執着

2006年01月04日 | 瞑想日記
◆親としての執着
2006年01月04日のこの一瞬をとらえる、ヴィパッサナー瞑想の世界

・所有しているもの、執着しているものが我が身をがんじがらめに拘束している消息。
 その束縛から解き放たれていく感動…。

とあった。思えば、「自分の子供」に対する意識の中にも「自分の」という執着がしのび込んでいるようだ。そういう我執からの思いがなくなったらどうなるのか。我が子だから特別にかわいいという思いすら超えられて、他人の子供と同じ慈悲の心を注げるのだろうか。我が子ゆえの親の苦しみはなくなるのだろうか。

先日、子供と対した。親としての思いを語るなかに、親としての執着はなかったか。もちろんあるにはあるが、子供の人間としての成長に願う気持ちの中に、自分のコンプレックスを子供に投影したり、期待をかけるような執着はないと自覚した。

子供は、これからの自分の人生を「苦」とは微塵も自覚していないだろう。親としての私は、子供の生きていく姿のなかに人生の「苦」が見えてしまい、心が痛む。「親」としての囚われから出来るかぎり自由になって、静かに人間としての成長を祈りたい。

◆思考に気づく 
瞑想は、全体として腹の膨らみ、縮みに以前よりは容易にサティが続くようになっている。思考にはよく気づきが入り、すぐに腹の動きに戻る。瞑想のあと、そのまま意識的にラベリングを続けながら行動するようにしている。せいぜい5分か、10分だが。

しかし、掃除をしたり洗濯物を干したりしているとき、思考が始まるとそれにすぐ気づいて、動作へのラベリングに移行するようにしている。まずはラベリングというより、思考に気づくことを第一にしている。

◆食べすぎ
元旦と二日は食べすぎ。三日は本当は一日断食にしようと思ったが、夕食一食を食べる。今日も夕食一食とする。実際は軽い間食をしているので、一食半くらいか。これでやっと体が正常に戻った感じた。今週末には2週間ぶりの一日断食をしたい。