瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

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合宿のつもりで

2006年12月31日 | 瞑想日記
大晦日だからこの一年を振り返るというわけではないが、この半年ほどの間で特記すべきは、「思考する自我」の実態がある程度見えてきたということだ。心の中でつぶやき即座に忘れていく日常の無数の想念・思考。それが延々と続くことで「自我」が織り上げられ、保持されていく。そういう自我と思考の姿が見えてきた。

別の観点から言うと、思考に埋没している状態と、自分の思考を相対化して見ている状態の違いが分かるようになってきた。「思考する自我」を対象化し、相対化して見ている意識。

今日あらためて確認したことは、何はともあれ思考したらそれに気づき、今の知覚に戻る、この単純なことをひたすら続けていくことの大切さ。想念に埋没しないこと。そのためにいちばん適しているのは、やはり今ここで知覚し、感じたことにそのつどラベリングしていくことだ。今日は、大掃除で動きまわっていたが、前半のサティは順調。夕方以降は、まったくダメ。

夏の10日間瞑想合宿でご一緒した二人の法友が、この暮れから正月にかけての合宿に参加している。先日コメントをいただいたcocoaさんも参加している。ひたすら瞑想に明け暮れるあの10日間の感触が懐かしい。私も合宿に参加しているつもりで、日々のサティを続けていきたい。
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白鶴への憧れ

2006年12月29日 | 瞑想日記
最近いちばん感じるのは、日常の中での想念・思考がもはや「手におえない」ものではないということだ。半ば無自覚な想念の連鎖に埋没して、どうしようもないということはない。気づきが頻繁に入るので、想念の森から顔一つ抜け出て見ている感じが多くなったのだ。これは、私の中でかなり大きな変化だと感じる。

人間関係の中でもその変化を感じる。とくに子供たちの関係だ。自分の想念や感情の流れを少し距離をおいて余裕をもって見ることができるので、それが対人関係での余裕になって現れるのだろう。

今日は、掃除をしたり洗濯物を干したり、買い物をしたり、障子貼りをしたりの一日だった。洗濯物を干したり、歩いたりは、そのために必要な思考がほとんどないのでサティが入りやすい。障子貼りは、紙の張り具合を見ながら糊付けの順序を考えたりするので、雑念と区別がしにくくサティが難しかった。

去年の12月14日に白鶴の夢を見た。これは私にとってかなり大きな意味をもった夢だった。最近、その夢を書いた日記を読み直した。白鶴のイメージを思い出す度に私のなかに「憧れ」が甦る。

白鶴は修行者の象徴だが、それは日常の行為をエゴの動機付けを超え、結果への囚われを超えてひたすらに行う者を意味した。それは、日常の利害を超えた修行であると同時に、それ自体が覚者の行為であった。私の中に、すべてを投げ打って白鶴のように生きたいという「憧れ」がある。

想念の森から少し首を突き出せるようになって、想念・思考に埋没しないあり方が、白鶴のあり方と重なってきた。
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思考する自分を見ている

2006年12月27日 | 瞑想日記
足が痛いので瞑想は、やはり正座で尻に座布を敷いている。少し深まった感じがすると、「お、このまま行けばサマーディか」などと期待する。そんなとき、「思考」「狙い」などとラベリングする。

「狙い」というラベリングの中に何となく、狙う自分を批判するような気持ちを感じ、「批判」とラベリングする。だが振り返ると、このラベリングはあまり的確ではなかった。「批判的な気持ち」の方がよかったかも知れない。

30分、40分もすると、そろそろ足が痛くなってきて、「止めようか」などという思考がでる。その気持ちにサティをする。一方で、もう少し続けたい気持ちもある。その気持ちにもサティする。今、心に起った気持ちにサティする。そして腹の動きに戻る。そうやってさらに10分くらいサティが続く。

このようにして、常に今ここで心に起っている現象にサティしていく。心が知覚する、腹の動き、音、皮膚感覚、足の痛み、思考、感情‥‥常に今、今と後退していく。

日常生活の中ではもちろん思考が多くなるが、気づけば「思考」とサティする。それが頻繁になればなるほど、思考に埋没していない、思考する自分を見ている意識が強くなっていく。

昨日、「自信」と書いた。しかし「このまま行けばどうにかなりそう」という自信=判断も、結局は、エゴが自らを主人公にして描く、かってな「物語」の一つである。だから「自信」を感じたら、これも「物語」とサティする。

しかし、一方で「自信」は、思考する自分に埋没せず「自」覚を保つづづける意識への「信」かも知れない。
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物語から自由になる

2006年12月26日 | 読書日誌
ガンガジ著『ポケットの中のダイヤモンド』(徳間書店)を読んだことは、私に何らかの自信を与えたようだ。

一つはサティの意味を改めて確認できたことだ。強い目的志向によってサティを始めたにしても、サティそのものが、そうした意識のあり方さえも自覚化させていく力を持っている。常に今ここで起っている心の現象に気づいていくのがサティだからだ。

このようにサティを捉え返したことが、瞑想中のサティ、生活の中のサティにも影響を与えている。以前は気づかなかった、あるいは半分気づいていても無視していた今の心のあり方に敏感になっている。「無限後退」の態度がより徹底したとでも言おうか。

自信を得たもう一つの理由は、まだうまく言語化できない。この本を読んで全体から感じとったものだ。引用し、コメントするという形式で何日かかけてそれを言語化していくことになるだろう。

「意識の中で生まれるどんな感情も、意識によって完全に対峙することができます。物語や分析に身を隠す必要はありません。ただじっとして湧きあがる感情のすべてを完全に経験するという意思があなたにあれば、あなたはそうした感情は存在しないことがわかるはずです。感情とはただ思考によってのみつなぎ合わされています。その思考が意識的でも無意識でもです。」

恐れ、怒り、悲しみ、絶望に対して「あなたが本気で『いらっしゃい』と言い、そしてあなたの心が本当に開かれていたならば、感情は湧き上がることはできません。なぜならその瞬間、あなたはそれについて何の物語も語ってはいないからです。‥‥恐れ、怒り、悲しみ、絶望は、物語とつながっていなければ存在できないのです!」p182

ここで言う物語とは、自分の人生の様々な出来事や自分の人生そのものに与える様々な解釈とでも理解しておけばよい。私たちは、思考によって様々な物語を作りながら人生を生きている。物語には、自己満足、夢、いいわけ、自己防衛など、様々な働きがある。いずれも事実を直視するのを避け、自分にとって都合よく解釈するための手段だろう。

思考し、物語を織り成すことで、私たちは同時に恐れ、怒り、悲しみ、絶望を作り出している。思考や物語なしに、ありのままの感情に対峙する。これがまさにサティなのだ。ただじっとして湧き上がってくる感情に完全に対峙する(サティする)なら、感情は存在しないことに気づくという。
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サティは誤魔化せない

2006年12月24日 | 瞑想日記
「自我」の目的志向や求道心から瞑想を始めたとしても、ヴィパッサナー瞑想のサティが徹底されるならは、結局、求め、渇愛する「自我」そのものへの気づき至る。サティとは元来そのようなものである。

昨日も触れたが、例えばサマーディ(三昧、禅定)を得たいという強烈な渇愛で瞑想を始めたとする。これは私の経験であるが、そんな時は、逆に猛烈な想念・妄想に苦しめられるのだ。

なぜだろうか。それは、ヴィパッサナー瞑想が元来、気づき(サティ)の瞑想だからである。ヴィパッサナーとは、心の内面も含めてあらゆる現象をありのままに観るという意味なのである。

瞑想には、止(サマタ瞑想)と観(ヴィパッサナー瞑想)があり、心をひとつのものに集中させ統一させ、サマーディを完成させようとするのがサマタ瞑想だ。たとえば呼吸や数を数えることや曼陀羅に集中したり、念仏に集中したりするのはサマタ瞑想だ。

これに対してヴィパッサナー瞑想は、今現在の自分の知覚や心に気づくというサティの訓練が中心になる。

気づきの瞑想なのに、自分の強烈な執着(「サマーディを得たい」)をしっかりと自覚し、相対化していなければ、 自分のいちばん中心的な動機に気づきが入っていないということになる。これではヴィパッサナー瞑想がうまくいくはずはない。根本のところでサティを誤魔化し、裏切っているのだ。

しかし、サティを続けていく限り、自分がどっぷりと浸かっていた動機をも相対化していかざるを得ない。それがサティだからである。

「自我」の狙いや目的志向は、結局は、今はない対象を求め、執着する。サティの動機がそのような執着だったとしても、サティは、そのような囚われも含め、今ここに起っている一切の現象に気づいていく方法である。
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