瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

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現象世界からの撤退?

2007年04月30日 | 瞑想日記
今朝方、ヴィパッサナー瞑想の合宿に参加している夢をみた。10日間の沈黙行が始まる直前の打ち合わせの時間である。私はそれなりにはりきっていた。以前ほど何かを達成しようとする意識はなく、参加者に少しでもプラスになるように振る舞まおうと思っていた。そこへ先生が来て、座っている私の肩に両手を当て、「何とまあいろいろな荷物を抱え込んでしまって」というようなことを言った。自分では、今回は余計なお荷物は少ないなと思っていたのに逆のことを言われて、がっくりきた。そんな夢である。

私が気にしていることがあって、それが夢の中で「お荷物」「抱え込む」という言葉で出てきたのだろう。それが何であるかは何となく見当がつく。

最近、地橋先生の今日の一言の中に次のようなものがあった。
「何が起きようとも、所詮この世のことは一時的な状態に過ぎない。
 好いことも消えるが、悪いことも消えていくのだ…。
 幸福にも、不幸にも終りがある。
 徳を積んで天界に行こうが、煩悩をほしいままにして地獄や餓鬼の領域に堕ちようが、やがて輪廻する。
 そのような、無常に変滅する現象世界そのものから、永遠に撤退しようという発想……。」(2007年04月28日)

無常に変滅する現象世界での輪廻から永遠に撤退しようとする発想。私が原始仏教の考え方の中でいちばん違和感を感じるのは、これである。

これに対し私が引かれるのは、たとえば最近取り上げている『愛への帰還』で言えば、「愛以外はすべて幻想である」という見方である。逆に言えば、「愛だけが実在する」ということである。

何が違うのか。確かに決定的な違いがある。自我の幻想から解放される、したがって時間の幻想から解放されるとき、現象や時間を超えた実在が、つまり「永遠」が顕現する。それを「愛」といってもよい。それは、生命として生きていることから撤退することを条件としない。「自我の幻想」から解放されることこそが条件なのだ。そのとき、現象世界がそのまま「永遠」となる。

ところが原始仏教では、輪廻する生命の営みそのものから撤退しないかぎり、涅槃はあり得ない。もしかしたら表現の仕方の問題かもしれない。「自我からの解放」は、結果として現象世界からの解放につながっているのかもしれない。しかし、いずれにせよ原始仏教は、現象世界を否定的に見ることは確かだ。

「お荷物」はこの違いに関係する。
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高速回転で読む

2007年04月29日 | 読書日誌
相変わらず高速回転する仕方で本を読んでいる。この方法で本を読むことのメリットはかなり大きいとますます実感している。とくにかんたんに読めるハウツーものの場合は最適だ。

最近、目次も章立ての部分だけ目を通し、節の見出しは興味を引いたところだけマークする。そしてすぐに本文に入る。本文では、章や節の見出しはしっかり読む。そこでも興味を引かれた語句には必ずマークする。本文はざっと目でなでいくだけだが、気になった語句や文が飛び込んできたらマークをし、その前後を読むこともある。これで一通り最後まで終わるに(本の厚さなどにもよるが)まあ、10分前後だろう。

しかし、それでも時間をかけて最初の10頁を読むよりも、その本の全体的な印象ははるかによく分かる。「この本は面白そうだ本だ、多くを得ることができる本だ、もっと読みたい」、そんな印象が迫ってくる本と、まったく魅力を感じない本とがある。たった10分で、「こんな本だったのか」と分かるのが何よりもうれしい。積読よりもはるかにその本と「知り合い」になっている。人と10分間話せば、遠くから見ていたときよりはるかにその人の具体的な印象がつかめるのと同じだ。

こうして同じように高速回転法で2回目、3回目と読んでいく。そのつど興味を引かれるところも増え、マークする箇所も増えていく。その人、いやその本の「本」柄がますますよく分かるようになる。

かんたんなハウツーものや自分がよく知っている分野の場合は、そのページのいくつかの語句を見ただけで、これはすでに知っていることとか、読む必要はない、読む価値はない、などの判断がつくので、そういうページはどんどん飛ばす。だから本によっては40分で読み終える場合もある。何回か高速回転して、もう充分だと感じるときが来たら終える。
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自他の完璧さ

2007年04月26日 | 読書日誌
『愛への帰還』は、日常の人間関係の中でどのようにあればよいのかについても、確かにそうだと感じる言葉に満ちている。例をあげる。

「私たちを怒らせるようなことを何もしたことがない人を許すのは簡単です。しかし、私たちを怒らせる人は最も大切な先生です。そういう人たちは、私たちの許しの能力の限界を示してくれます。恨みを抱くことは、神の救済の計画に対する攻撃である。他の人たちに対する恨みを手放すという決定は、自分自身の本当の姿をありのままに見るという決定です。なぜなら、他の人の完璧さに対して私たちを盲目にする闇は、私たち自身の完璧さに対しても私たちを盲目にするのですから。」p110

エゴは、サポートするに値するだけの魅力のある人を探すが、エゴから解放された人は、人々がもっとも魅力的になれるようにサポートする。「他人が可能性として持っている最善の自分になれるようにどうすればサポートできるかを学ぶ」ことで自分自身を磨いていくのである。人間関係でもっとも生産的なあり方は、相手との関係の中で、自分にできる最高のレベルで自分の役割を果たして、相手の中の最善のものを開花させることである。p141・142

「自我」を明け渡すということは、人間関係の中でどのようなあり方を意味するか。これが、その答えであろう。職場、家庭そのほか一切に人間関係において、どれだけ上のようなあり方ができるだろうか。一瞬一瞬チェックしていくことができるだろう。
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「自我」を明け渡したら

2007年04月24日 | 瞑想日記
ガンガジの『ポケットの中のダイヤモンド』の冒頭に、彼女がパパジと出会って覚醒に至るまでが語られている。最近、それを「覚醒・至高体験事例集」に加えようと準備している。

改めてその冒頭部分を読んで印象深いのは、彼女の人生が「一般的なものさしで測れば素晴らしいもの」だったということ。夫を愛し、経済力はほとんどの人のそれを上回わり、仕事を愛し、その価値を信じていた。にもかかわらず彼女は、それ以上のものを探し続け、自分が持っているものを失うのを恐れ、将来に希望を馳せたり、将来を恐れたり、を繰り返していたという。

今日の明け方目覚めたあと、半分夢の中でしきりに感じていたことがあった。おそらくガンガジの話がどこかで影響していたと思う。最近気がかりなことが浮かぶごとに、「不安」、「恐れ」などととサティしていた。それは、どんなに幸せであろうと、生きることの根底に横たわる恐れに関係していた。「自我」にしがみついている以上、逃れられない不安と恐れ。「自我」を持って生きる私たちすべてにとって、避けることのできない「悲惨」。なぜなら「自我」はどのような形にせよ、消滅せざるを得ないのだから。

しかし、かぎりあるいのちと「自我」の現実をごまかさず直視し、受け入れたなら? 自ら降伏し、「自我」を完璧に明け渡すことができたなら? 「自我」が明け渡されるなら、失うものは一切ない。不安も恐れもない。そして、逆にそこに溢れるのは、『奇跡の学習コース』が言うようにいのちあるものたちへの慈しみと共感なのだろう。
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愚かしいままに見る

2007年04月23日 | 瞑想日記
最近、自分の中で瞑想をすることの意味が少し変わってきたような気がする。もちろん瞑想しようとする心のなかに何かを目指したり、狙ったりする気持ちが全くないわけではない。しかし一方で、瞑想をすることでただ、自分の無明をじっと見つめることに静かな安らぎを感じているようなところがある。ただ見つめているだけでいい、という感じだ。

無明を見つめるとは、具体的には、自我に根ざして生じては消える雑念、思考を見つめることだ。思考を見つめることは、自分という愚かな無明を見つめることでもある。

愚かしい自分を、愚かしいままにただ見つめている。それだけでいい。愚かしさとは、高々残り数十年の時間を忘れ、自我の存在に限りあることを忘すれ、自我を守ろうとする思考のことである。

話は変わるが、『愛への帰還』が私に語りかけてくるものは大きい。日常の一瞬一瞬は、もちろんサティの現場として、そのまま修行の場である。同時に、一瞬一瞬、「自我」に根ざした選択をできる限り自覚的に避けるという意味でも修行の場でもある。「自我」をどれだけ明け渡すことができるかが一瞬一瞬、問われている。
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