日本文化論への関心とのつながりで、なぜ日本にはキリスト教がそれほど広まらなかったのかという問いが、かなり重要な意味を持つようになった。
日本文化の特徴として、異質な文化を自分の社会のなかにためらわず積極的に取り入れて自分のものとしていくという貪欲さがある。かつては中国から、明治以降は西欧から多くの文化を取り入れて来た。とくに明治以降の西欧からの取り入れは凄まじく、その貪欲さがあったからこそ、非西欧世界ではいち早く近代化に成功した。
しかし、あれほど西欧の文物を崇拝し、熱心に学び、急速に吸収していったにもかかわらず、日本でのキリスト教の普及率はきわめて低かったし、今も人口の0.8パーセントを占めるにすぎない。なぜなのだろうか。
私たちが自覚していると否とにかかわらず、日本の文化には日本の文化なりの成り立ちや仕組みがあって、それと根本的に相容れないものは、受け入れてことなかったのであろう。あるいは、受け入れてきたものは、これも無自覚のうちに、日本文化の仕組みに合うように変形して取り入れて来たのかもしれない。
では、キリスト教とは相容れない日本文化の仕組みや構造とは何なのか。これは日本文化を考察する上ではきわめて大切なポイントになるのではないかと思う。しかし、この問いを体系的に本格的に論じた研究は、これまでほとんどなかったのではないか。
私が読んだ中で何人かの人が、それぞれにこの問いに答えている。それらを紹介しながら、少し探求を続けてみたい。
日本文化の特徴として、異質な文化を自分の社会のなかにためらわず積極的に取り入れて自分のものとしていくという貪欲さがある。かつては中国から、明治以降は西欧から多くの文化を取り入れて来た。とくに明治以降の西欧からの取り入れは凄まじく、その貪欲さがあったからこそ、非西欧世界ではいち早く近代化に成功した。
しかし、あれほど西欧の文物を崇拝し、熱心に学び、急速に吸収していったにもかかわらず、日本でのキリスト教の普及率はきわめて低かったし、今も人口の0.8パーセントを占めるにすぎない。なぜなのだろうか。
私たちが自覚していると否とにかかわらず、日本の文化には日本の文化なりの成り立ちや仕組みがあって、それと根本的に相容れないものは、受け入れてことなかったのであろう。あるいは、受け入れてきたものは、これも無自覚のうちに、日本文化の仕組みに合うように変形して取り入れて来たのかもしれない。
では、キリスト教とは相容れない日本文化の仕組みや構造とは何なのか。これは日本文化を考察する上ではきわめて大切なポイントになるのではないかと思う。しかし、この問いを体系的に本格的に論じた研究は、これまでほとんどなかったのではないか。
私が読んだ中で何人かの人が、それぞれにこの問いに答えている。それらを紹介しながら、少し探求を続けてみたい。