瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

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私は私のエゴを嫌っている

2013年06月29日 | 瞑想日記
遠い親戚筋にあたるAさんとは、関心分野がおなじこともあって、ある歴史研究会に誘い、その会ではよくあっている。しかし、最近、お互いの政治的立場や歴史のとらえ方の食い違いからよく議論をするようになった。私は、彼の歴史解釈のここが違うと事実を示して説明するのだが、彼もまたかれなりの根拠から私の意見を受け入れようとはしない。

最近私は、彼との意見の違いが非常に気になり、瞑想中にもその件をめぐって考えてしまうことが多い。今日、以下のようにツイートしたのは、彼を巡ってのことである。

「もしAさんを嫌ったり、その言動が気に障ったりしているなら、それは確実に私の中のAさんと戦っているのだ。頭でそう分かっていてもやはり現実のAさんのことが気にくわない。でも瞑想中にやっと分かった。私は私の中のAさんと戦っている。つまり私が、私自身の自我を許容せず、それと戦っていると。」

これに「難しい文章だけど何か納得する」とコメントをつけてくれた方いたので、それに次のように返信した。

「コメント感謝。好きな言葉『自分を愛せる程度にしか人を愛することもできない』。自分を受容できる程度にしか人を受容することもできないのだと思います。自分を嫌っている部分があるとそれを人に投影してその人を嫌う。昔イイカッコしいだった私はカッコつける人がまじ嫌いでした。」

私が、Aさんとの議論にこだわってしまうのは、あくまでも私自身の問題であることは、頭ではよくわかっていた。それが私自身の自我、我執をAさんに投影し、その投影された自分自身の我執を嫌っているのだということも何となくは分かっていた。しかし頭でわかっているだけではどうにもならないのが、難しいところだ。

しかし今日、瞑想中、雑念がまたまたそのことにおよび、それを巡ってサティをしているうちに、これが私自身のエゴの問題なのだということが、これまでの頭の部分での理解より、かなり得心の行く感じで分かった。

私がAさんを巡って、気に障ったり反発したり、何とか納得させようと考えたり、いろいろと考えてしまうのは、すべて私のエゴがそうさせているのだし、自分で自分のエゴと戦っているのだ。それがよくわかった。私は、私自身のエゴを心の奥深いところで許していないのだ。そういう我執に囚われた自分をどこかで嫌っているのだ。それをAさんに投影してAさんのことが気に障るのである。私は、私のエゴを嫌っているのである。それが今までに比べ深い部分で見えてしまった。

今日は、瞑想の前半、いつもに比べ雑念が多かったが、その分、充実した心随観が出来たと思う。
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さ迷う心に気づくようになる

2013年06月25日 | 瞑想日記
週に4日は、朝40分から1時間ほど瞑想をしている。昨日は45分ほど。これまでずっと続いていた比較的クリアなサティ(気づき)があまり保てなかった。今日は1時間ほど。雑念は比較的多かったけど、後半によくなった。

次のようなツィートをした。

「心は常にころころとあちこちに転がるから心という?心は四方八方に飛び、これを思っていたと思えば次の瞬間はあれを考えていて、自分でもフォローできない程だ。だからこそ瞑想中は基点となる一点を設け、心がどこかへ飛んだと気づいたらそこに帰るようにすると、自分の心の動きがクリアに見えてくる。」

確かに私たちは、一瞬前に考えたことも覚えてい程、様々な思いが湧いては消え、湧いては消えを繰り返している。だから腹の動きなら動きを基点にして、心がそこから飛んで行ったらそれに気づいて(サティして)また基点に戻るという作業が、シンプルだが大切な意味をもつ。

心をある程度は基点に据えられるようになると、たとえ心がどこかへさ迷っても、そのままあちこちさ迷い続けることがなくなる。こころが今何を考えたがすぐに分るようになる。そして基点に戻る。それを繰り返していると、「つねにさ迷い脳内に波紋を増幅し続ける」という心の性癖が、だんだんとコントロールできるようになる。少しさ迷ってもすぐに気づき、戻る。そうなると波紋が少なくなり脳内が澄んでいく。それがはっきりと分るようになる。その喜び。心が澄んでいくその感じが分かるようになると、瞑想は大きな喜びとなっていくだろう。

さ迷う心に気づいたら腹への集中に戻りまた戻るということを繰り返していると、さ迷う心が作る波紋が少なくなり、脳内が澄んでいくのが分かる。そうするとさらに脳が澄んだ状態になることを願い、ますます瞑想を続けることになるだろう。
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グリーンヒル瞑想研究所

2013年06月24日 | 瞑想日記
6月10日付の「瞑想の不思議」にリンクして紹介した瞑想合宿のレポートは、グリーンヒル瞑想研究所の合宿に参加したときのものだ。瞑想の指導者は地橋秀雄先生である。この方のツイッターを去年の12月分から、先程じっくり読ませていただいた。以下がそのツイッターのサイトである。

グリーンヒル瞑想研究所

読みながら、瞑想を行っているときのようなシーンとした脳の静まりに包まれていた。最近、瞑想を復活し、かつての瞑想合宿での体験を思い出すことも多い。地橋先生の言葉からくる様々なものを受け取るのも久しぶりだが、読むほどに瞑想への思いがよみがえる。7月か8月の東京瞑想会に参加し、先生ともお会いしたいという気持ちになっている。

何回かの瞑想合宿は、みな八王子の研究所で行われた。ツイッターを読んで知ったのだが、研究所は八王子から下館に移ることになるそうだ。グリーンヒル最後の合宿が6月18日で終了したとのこと。読んでいて胸にこみ上げるものがあった。あの緑多い研究所の部屋のひとつひとつが懐かしい。

瞑想中の雑念に苦しんだり、内面での思わぬ展開や気づきに感動したり、信じられないようなゆっくりとした動作で食事しサティをする中でも様々な気づきがあったりと、私の人生の中でもとりわけずしりと充実した体験の記憶が、あのグリーンヒルの合宿所につまっている。

それらの体験が、これからの私の瞑想の原動力となっている。
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瞑想をめぐる不思議、再び

2013年06月17日 | 瞑想日記
前回、自分の瞑想合宿に参加したときのレポートを振返って、「集中的な瞑想の期間中に、自律的に展開して自分を導くような無意識の深い知恵を強く感じた。この体験は、自分自身の無意識的な心の働きへの信頼のようなものを植え付けた」と書いた。最近、その信頼がさらに深まる思いでいる。

私が瞑想を再開するきっかけを与えてくれたのはある友人であるが、このようなきっかけを与えてくれた流れ自体に大きな意味があると感じている。この3年ほど時間にかなり余裕ができたのに瞑想はしていなかった。今考えるとかなりもったいないことをしたと思うが、不思議なご縁と流れの中で、再び瞑想に取り組むようになった。それは私の中の大きな課題に再び取り組むようになったということも意味する。しかし、別の見方をすれば、この3年間は無駄だったのではなく、私の中で再び瞑想に取り組む期が熟したということなのだろう。私の中の私の意図を越えた何かが、そういう流れを作ったのかもしれない。

無意識といえば、先週の火曜日、印象的なことがあった。寝ている時に、ある友人と会いたいという思いが、夢のような感じで心を強く支配していた。その日は、たまたま寝坊して、職場の最寄の駅から乗るバスが2本ほど遅れた。そうしたら、そのバスに乗ろうとするその友人とたまたま会って、バスの中でゆっくり話すことができたのである。

以下は、最近の瞑想をしていて感じたこと。

瞑想をしていると様々な思い、雑念が生じる。ヴィパッサナー瞑想はそのつどそれらに気づき(サティ)を入れていく。様々な思いが生じては消える自分を、もう一つ別の意識が観察している。瞑想に熟練すればするほどその別の意識が確たる存在になっていくのだろう。その意識はいわゆる自我を越えている。

瞑想中に様々な思い、雑念が湧く。原始仏教を受継ぐヴィパッサナー瞑想はその一つ一つをおろそかにせず気づきを入れていく。気づきが確実に入るほどに雑念は少なくなる。それと同時に思い、思考への強固な自己同一化に次第にほころびが生じる。思考への同一化が自我を形づくるという構造が崩れていく
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瞑想の不思議

2013年06月10日 | 瞑想日記
最近、ある友人に瞑想を勧めたら、熱心に実践し、いろいろ質問を受けたりした。それが刺激となって自分でも瞑想を再開している。週に4日ほど、朝50分前後だ。少し集中力が増しているのを感じる。そのせいか、毎回とても楽しみになっている。瞑想をしていると「常に脳内独り言を続ける」という脳の宿命が透けて見えてくるようで面白い、それだけ脳の雑念を一歩退いて見れる度合が増しているということだろう。

去年は、久しぶりに再会した別の友人に気功のことをいろいろ聞かれ、また二人で実践したりしたのがきっかけで、私自身が気功を再開しようという気になった。気功はほとんど続かなかったが、瞑想の再開をきっかけに再スタートしたいと思う。ともあれご縁とは不思議なものだ。

ところで、瞑想を再開したことがきっかけとなって久しぶりに、かつて熱心に取り組んだ頃の「瞑想合宿レポート」を読み返した。あの頃の瞑想時の状況を再び味わうことができた。自分でも記憶が不正確になっているところもあったので、しっかり書きとめておいてよかったと思う。

はじまり(1)2001年★ヴィパッサナー瞑想合宿レポート1a

はじまり(2)2001年★ヴィパッサナー瞑想合宿レポート1b

メガネ(1)2003年★ヴィパッサナー瞑想合宿レポート2a

メガネ(2)2003年★ヴィパッサナー瞑想合宿レポート2b

劣等感(1)2004年★ヴィパッサナー瞑想合宿レポート3a

劣等感(2)2004年★ヴィパッサナー瞑想合宿レポート3b

天女(1)2005年冬★ヴィパッサナー瞑想合宿レポート4a

天女(2)2005年冬★ヴィパッサナー瞑想合宿レポート4b

修行と家族 2005年★ヴィパッサナー瞑想合宿レポート

この中で自分自身がいちばん印象深かったのは、やはり「天女」というタイトルで報告した2005年冬の合宿である。天女や女王を中心に展開した瞑想中のイメージが、自分の抑圧を解放する働きをなしていったのだが、このとき自律的に展開して自分を導くような無意識の深い知恵を強く感じた。この体験は、自分自身の無意識的な心の働きへの信頼のようなものを植え付けた。

もう一つ思ったのは、ほとんどの合宿で前半は妄想や睡魔に強烈に苦しめられていることである。しかし、通して読み返してみると、その苦しみやあがきが後半の展開につながっているらしいのだ。集中を妨害するような妄想や雑念が、実は重要な働きをしているということを改めて感じる。

さらに思ったのは、やはり食事のことである。合宿中は極端な小食にするのだが、これは瞑想を深めるためであると同時に、空腹そのものが何らかの形で無意識を刺激するような気がする。だからこそ1日半断食も復活したい。しかし以前はかんたんにできたのだが、最近はこれがなかなか大変だ。しかし何とかチャレンジしたい。
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