瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

思考と食い気へのサティ

2006年01月09日 | 断食・少食
日常生活の中で、湧き上がってきた思考にサティが入ることが多くなっている。すると自動的に思考から、今ここのセンセーションに注意が転換していく。

それともう一つ言えるのは、思考の内容に一歩踏み込んで心随観に移行することが多くなっている。と言っても日常生活の中でだから、それほど深める分けではない。思考の中の自我へのとらわれの要素に注目して、一言二言のラベリングする程度だが、これが意外に有効である。意識的にサティしようとしなければ、そこまで自己を客観視することはあまりないからだ。

たとえば二・三日前の誰かとの会話を反芻していることに気づく。「思考」なり「思い出」なりとラベリングをする。そして、その人の自分への評価を気にしていたことに気づいたたら「評価を気にしていた」程度にラベリングする。思考が湧きあがる度にこれができると、かなり「自我」の執着への気づきが深まるだろう。

さらに今日は断食明けだが、いつものように午前中は空腹感がまったくと言ってよいほどない。12時半頃、炊き立ての玄米をゴマとコンブの佃煮で食べる。少し多めに食べた。今回は、その後の反動的な食欲にほとんと屈しなかった。食べたい欲求が出たときにサティを一歩深めて入れているからである。

これまでならおざなりに「食べたい」ぐらいのラベリングをして、あとは食い気に負けていたが、今日は、さらにもう一歩突っ込んでラベリングした。「腹は満ち足りている」「口が恋しい」「味を楽しみたい」‥‥。これだけでかなり有効だ。踏みとどまることが出来る。なぜこんなかんたんなことが出来なかったのだろう。ここからさらに内面に踏み込んだサティが入ると、もっと強力だろう。

七覚支06(In This Very Lifeより)

2006年01月09日 | In This Very Lifeより
2)択法(ちゃくほう)覚支dhammavicaya-sambojjhanga
英語ではinvestigationとなっている。ただ瞑想におけるinvestigationは、思考によってなされるものではない。それは現象するものの特性についての直感的な洞察である。洞察は、一言でいえばダンマ(現象、こころ、もの)についての洞察なのだが、択法においてはさらに特別な意味があるという。個々の対象にユニークな状態や性質である。つまりヴィパッサナー瞑想の実践によって対象の共通の特性とともに個別的な特性も明らかになっていくのである。択法覚支によってダンマの真の性質が明らかになる。

◆暗闇を排除する
dhamma vicayaがあるところ、気づきの領野が照らし出される。それによって観察対象が照明されて、その真の性質が理解される。高度なレベルでは、周囲の闇が完全に排除され、心はニッバーナまでを貫く。

◆混乱をなくす
真っ暗な部屋を移動しようとすると、どこかにぶつかりはしないかとこころが混乱してしまう。同様にdhamma vicayaがないと、修行者の心は、湧出する疑いにカオスと混乱の状態となる。魂はあるのか、無常や苦の教えは真実なのか、実体としての自己は存在するのではないか、ニッバーナなどおとぎ話の類ではないか等々。

dhamma vicayaがあれば、すべては明るく照らされて、こころは存在するものを明確に見ることができる。心的、物質的現象の本性を理解する。もはや壁に突き当たることはない。

☆スマナサーラ長老の『ついに悟りを開く・七覚支瞑想法』での記述と比べて見よう。サティが充分に出来るようになると、いきなり「なるほど、こういうことなのか」と見えてくるものがある。たとえば聞こうとする意識、音、音に伴う感情、それらが分離してはっきりと認識できるようになる。それが択法の意味だ。

たとえば「痛み」と観察をして、頭で分析するのではなく、「気づき」だけをしていると、自動的に瞬間的に「分析的に」に純粋な痛みと心による付加との違いが見えてくるのだという。

いわゆる「行住坐臥」の四つをきちんとサティしていくと、やがて「身体という物質の働き」と「心という精神的な働き」の波は、しっかりと区別して認識できるようになる。心と身体の働きが別々にきれいに見えてくる。つまりナーマ・ルーパの区別である。

こうして比べて見ると、択法(ちゃくほう)覚支の意味がより明確になるだろう。