瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

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日常的な思考と無意識をめぐる対話の開始

2012年11月27日 | 思考と瞑想の心理学
友人4人とともに『忘れえぬ体験-原体験を教育に生かす』というブログをやっている。その中の一人の友人が、無意識と人間の主体性や自由とのかかわりについて対話をしたいとのことだったので、彼の問題提起を受けて対話を始めた。私は、これまでこのブログのカテゴリー「思考と瞑想の心理学」に何回か書いたことをベースにして対話を始め、その後は対話の展開の中で刺激を受けながら、自分のテーマも深めていければと思っている。「忘れえぬ体験」のブログで対話が進むごとに、こちらでも報告していきたい。

最近、ゆる体操、気功は少しさぼり気味、歩行時のサティはある程度継続している。ランニングも週に2回ほど行っている。ゆる体操、気功、瞑想を意識的に増やしていきたい。

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江戸川べりの歩行瞑想

2012年11月21日 | 瞑想日記
仕事の関係で、吉川、三郷あたりの江戸川べりの土手を1時間半ほど歩いた。その間はもちろんサティ(知覚したものすべてに気づきを入れる修行)を行った。風は少しあったが、午後の日差しが温かく、気持ちよく歩けた。筑波山がくっきり見えるほど視界もよい日で、土手とその周辺の草木が目に心地よかった。

「妄想には妄想の働きがある。妄想は妄想でしっかり仕事をしてくれるので、サティによってしっかり妄想を気付いておくことが大切だ。」

これは最初の瞑想合宿(2001年・ヴィパッサナー瞑想合宿レポート Ⅰでの地橋先生の言葉だ。ここ数日、このブログで引用した文章も、結局これと同じことを、別の言葉で表現している。要するに、私にとってはこの言葉が気になるということ。この言葉に反して、妄想・雑念と戦ってしまうということだろう。

「私たちはシンプルな指導を受ると、呼吸と共にあるときは成功でそうでないときは失敗なのだと、すぐに成功や失敗のドラマを作りあげてしまいます。実際には、呼吸と共にあること、心がさ迷い出してしまうこと、さ迷ったことを知ること、穏やかに戻ってくること、そのすべてのプロセスが瞑想なのです。戻ってくるときに、自分を責めたり、裁いたり、失敗したという感じを抱かずに戻ってくることがとても大切です。五分間座っていて、千回戻ってこなければならないのならば、ただそうしなさい。それを自分で大問題にしない限り、問題はないのです。」(『呼吸による癒し―実践ヴィパッサナー瞑想』)

「あなたの感情をあるがままに置いておくことができたなら、その時こそ、感じが変わる のです。変えようとすると、変わらないのです。」(『やさしいフォーカシング―自分でできるこころの処方』)

最近、ある友人と交わしたやりとりが非常に気になっている。「そんなことも分からないのか、分からせてやるぞ」といった類の感情とともに何度もそのことを考えている自分を発見する。江戸川べりを歩いている時も、何度かあの時の会話をめぐって考えている自分を発見した。

しかし今日は、思考に走っても、それをあわてて打ち消すというより、ゆったりとそういう自分を見ながら、ゆっくりと知覚へのサティに立ち返ることができていた。思考する自分を見ているもう一人の自分がいた。思考に埋没してしまう自分を優しく見ている誰かがいた。

大切なのは、思考や感情に巻き込まれても、それを否定しつつ打ち消すのではなく、ただ優しく気づいていればよいということ。時間はかかるかもしれないが、それによって変化が生じる。
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さ迷い、そして戻る

2012年11月20日 | 瞑想日記
帰宅時、職場から駅まで40分弱歩いている。その間、意識が移りゆく対象に言葉てラべリングすることで気づきを継続するというサティの行を行う。うまく続くときもあればそうでないときもある。

かつて
『呼吸による癒し』珠玉の言葉

にラリー・ローゼンバークのこの本『呼吸による癒し―実践ヴィパッサナー瞑想』のなかの印象的な言葉を選んで、私の感想を入れながら掲載した。それを読み返すと、いまでも瞑想のヒントとなる。

◆「修行にとりつかれて、何かを獲得しようという考えが潜入してくる典型的な場面のひとつは、呼吸と共にとどまることを仕事にしてしまうときです。私たちはシンプルな指導を受ると、呼吸と共にあるときは成功でそうでないときは失敗なのだと、すぐに成功や失敗のドラマを作りあげてしまいます。実際には、呼吸と共にあること、心がさ迷い出してしまうこと、さ迷ったことを知ること、穏やかに戻ってくること、そのすべてのプロセスが瞑想なのです。戻ってくるときに、自分を責めたり、裁いたり、失敗したという感じを抱かずに戻ってくることがとても大切です。五分間座っていて、千回戻ってこなければならないのならば、ただそうしなさい。それを自分で大問題にしない限り、問題はないのです。」

上の文章では呼吸を中心対象として選んでいるが、歩く瞑想の時は、そのつど意識の中心になった対象に気づきを入れていく。それでも心がさ迷いだして、サティ(気づき)を忘れ、雑念に溺れることがある。それを失敗ととらえるの必要はない。さ迷いでたことも、さ迷い出たことに気づくことも、穏やかに戻ってくることも、いい悪いの問題ではなく、そのすべてが瞑想のプロセスなのだ。どれほど心がさ迷い出ても、それを大問題とせず、何度でも戻ってくる、それ自体が瞑想なのだ。

◆「究極的な目標――それは簡単にできることではなく時間もかかります――は何かというと、たとえば怒り、寂しさ、絶望といったあらゆる経験がそのエネルギー共に浮上してくるままにすることです。これらのものが沸き起こってくるのを受け入れ、意識の光のもとで変容させるのです。こうした意識状態には莫大なエネルギーが存在しており、私たちは多くの時間そのエネルギーを抑圧しています。そのため、そのエネルギーを失ってしまうばかりか、抑圧のためにまた大量のエネルギーを使っているのです。私たちが徐々に学んでいくのは、怒り、寂しさ、絶望といったものの出現を許し、それがおのずから変容し、そのエネルギーが開放されていくようにすることです。この修行においてあなたは問題を解くのではなく、問題を溶かしてしまうのです。」

歩く瞑想をしていると、悲しみの感情が何度ともなく沸き起こってくる。その出現をゆるし、それがおのずから変容するにまかせる。これもサティを行ずるときの、とても大切な心がまえだ。何度でも自分に確認しなければならない。 

前の記事で紹介した『やさしいフォーカシング―自分でできるこころの処方』で、自分のからだを観察して、何か感じをつかんだら、その感じをただそのままそこに置いておく、というのも、ほぼ同じことを言っている

「あなたの感情をあるがままに置いておくことができたなら、その時こそ、感じが変わるのです。変えようとすると、変わらないのです」、つまりおのずから変容するにまかせるということだ。
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やさしいフォーカシング

2012年11月20日 | 読書日誌
◆『やさしいフォーカシング―自分でできるこころの処方』(アン・ワイザー コーネル)

フォーカシングとは、「からだを使って、自分の気づきを促し、こころを癒していく」現 代心理療法のエッセンスを凝縮した方法だという。 ジェンドリンが、カウンセリングの成功例を研究しているときに、成功事例にはクライエントの側にある共通の特徴があることを発見した。それはクライエントが、面接のどこかで 「話し方がゆっくりになって、言葉の歯切れが悪くなり、その時に感じていることを言い表す言葉を探し始め」るということ。自分の内側の「心とも身体ともつかない曖昧な漠然とした感じ」を確かめるように話していたのである。 この「内面の曖昧な感じに触れる」という内的な体験のプロセスをジェンドリンは、フォーカシングと名づけた。

以前に紹介した『さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる』の著者、トールは、 「自分 の感情を知るのが難しいなら、からだの内面にあるエネルギー場に、意識を集中させてみましょう。からだを内面から感じるのです。これで自分の感情を感じることができるはずです」 といっている。

トールも、からだの内への気づきを重視しているのだが、フォーカシングは、それを誰もがいつでもできる取り組みやすい技法(わざ)として方法を確立した。心理療法から生まれでたこうした細やかに洗練された方法を利用しない手はない。

「フォーカシングは、からだとの信頼関係を結んで、からだの気づきを通して、この自分 自身の豊かな部分が伝えてくれる智恵に耳を傾けられるようにしてくれます。フォーカシングは、からだが大声で叫び出す前に、ささやいているうちに、そのささやきを聴けるようにしてくれます。フォーカシングは、内なる正しさの感覚にかなうよう、人生を変えていきます。」  

その変化は、おだやかでゆっくりしたものであるようだ。  

ヴィパッサナー瞑想も一瞬一瞬の体内感覚への気づきを重視するが、あわせてフォーカシ ングを学ぶことは、体験を深めるのに役立つのではないかと思う。  

自分のからだを観察して、何か感じをつかんだら、その感じをただそのままそこに置いて おく。自分で判断を下したり、自分の感情を回避したり、なぜそう感じるのかを突きとめようとしても、結局同じところにとどまるか、もっと嫌な気分になるかだろう。  

「あなたの感情をあるがままに置いておくことができたなら、その時こそ、感じが変わる のです。変えようとすると、変わらないのです。」  

誰がやってもそれを感じ取り、意識の光にもたらす、つまりあるがままに置いておくことができるよう、ひとつひとつステップを踏んで進んでいけるよう、工夫されている。 私も、自分ひとりでいつでもどこでもできるフォーカシングの方法を学び、深めていきたい。文章はやさしく、説明はかゆいところに手が届くような細やかさだ。
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慈悲の波動

2012年11月18日 | 瞑想日記
最近、ずっと気になっていることがある。先日、私自身の瞑想合宿レポートを久しぶりに読み返したことはすでに触れた。その中でいちばん気になっているのは、最後のレポートの一節だ。

修行と家族:2005夏★ヴィパッサナー瞑想合宿レポート (5)

この時の合宿の9日目に、私が地橋先生から、あるいは地橋先生を通して地橋先生を超えたところから来る「慈悲の波動」を実感して嗚咽したことを書いている。この「慈悲」の波動がずっと気になっている。

もちろんその時の実感は今は感覚としては残っていない。しかし、このような波動が確かに存在し、それをはっきりと感じられることに驚きを覚えた。レポートを読み返してみて、改めてそこに大切な意味があることを感じている。

あの時私は、それが本当は何なのかが最初、分からなかった。だから、それを利用して瞑想の「成果」を出したいという欲をだした。そして何度か瞑想を試みたが、思ったような「成果」は得られなかった。それでやっとわかった。それは「成果」を求めるエゴの立場とは、まったく違うところから来る波動だということが。

慈悲はエゴを超えている。エゴが慈悲の波動を利用してエゴにとって満足できる「成果」を得ようとする試みほど、慈悲の波動にとって似つかわしくないものはない。それが分かった時、私は嗚咽したのだ。

その慈悲の波動が今、とても気になっている。気になっているから何をしようという発想があるわけではない。ただ、気になっている。

そして慈悲の波動のことと同時に、もう一つ思い出すことがある。これはもう恐らく十数年前に見た夢だ。一言でいうと白鶴が地上から飛び立つ夢なのだが、白鶴は私にとってあることを象徴していた。

自分に与えられた仕事を、損得の感情なく、つまりエゴの意識なく、ただひたすらに行うこと。白鶴を思い出すと、そういう行為の純粋さへの思いが同時に沸き起こった。今でも、その感覚は残っている。そして、その感覚は慈悲の波動から受け取った感覚と深くつながっているのだ。

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