瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

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役に囚われない

2006年02月28日 | 瞑想日記
◆思考に同一化しない
故障した自転車をあえて修理せず、最近はずっと駅から職場まで歩いている。その間はもちろんずっとサティを心がけている。その日によって違うが、思考に巻き込まれたままということは少ない。思考に気づいては戻り、また戻り‥‥。

26日に抜書きした「‥‥こうして公平に、すべての思考、幻想、観念、イメージをじっと見つめていると、あなたは次第にそうした思考やらイメージやらの無意識的な影響から解放されていく」という言葉が印象に残っている。思考に巻き込まれ、思考と一体となっているときは、そのとりことなり、支配され、影響されている。しかし、思考に気づけば、それに同一化した状態から少しでも解放される。それが続いていけば解放の度合いは大きくなるだろう。

解放の度合いは小さいだろうが、たとえわずかでも解き放たれるのを感じる。

◆役に囚われない
「自己」に同一化したまま人生の場面、場面を生きていくだけではない、もう一つの視点。「自己」へのとりこになったまま人生という舞台を生き続けているだけではない、もう一つの視点。限りある「人生舞台」を、自分が演じる「自己」という役柄に埋没しきらず、上の方からじっと見るめる。そうした視点を持ちうることは救いだ。

時間的に初めと終わりのある人生舞台で、一定の役を選び、演じることの無根拠性。所詮それは、幕が下がれば終わる虚構に過ぎない。幕が下がればいやおうもなく役は終わる。だからそれに囚われない。

◆『統合心理学への道』
ケン・ウィルバーの『統合心理学への道』の読書ノートをブログ『精神世界の本を読む』のほうで始めている。これは『存在することのシンプルな感覚』へのコメントよりも長くなりそう。
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夢、茶目っ気と小心

2006年02月27日 | 夢日記
今月の11日か12日に見て、ずっと気になっていた夢がある。

私は、4人ほどのメンバーとともに、ある心理療法家に研修を受けていた。その日、4人のうち一人の男性が来なかった。「彼は来ないけど、何もせずに待っていないで研修を始めましょう」と私が提案した。私が、彼の役になって心理療法のロールプレーイングをしてもよいと申し出た。私がクライエント役で彼を演じ、他の誰かが療法家役をやって、体験的な学習をするわけだ。

私は、彼になりきって彼の悩みを語った。かなりうまく出来たと思った。指導者である心理療法家は、それを見て「なるほど彼の悩みはよく出ていたが、実際の彼はもっと明るさと茶目っ気があるよ」と言った。私は、なるほどそうかも知れないと思った。

そこで目覚めたのだが、目覚めたとき、私がその役をやった彼が、現実には非常に小心な男であることを思い出した。

この夢が面白いのは、夢には実際には出てこない男の役を私が夢の中で演じている、ということである。私が演じた彼は、私のシャドウ(影)であろう。私の中の抑圧された一面である。私は、夢の中でその男を演じようとして演じきっていなかったのだ。つまり、私は、私の中の明るくて茶目っ気のある部分と、小心な部分とを演じていなかたったのである。この二面を自覚的に生きよというのが夢のメッセージであろう。

あの夢以来、私は自分の中の茶目っ気の部分を半ば意識的に出そうとしているし、実際に出ているようだ。また自分の中の小心なところを素直に認めていこうと思った。
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二度と来ない

2006年02月26日 | 普通の日記
◆大食いの週末
昨日も、今日も一日断食はしなかった。やる気はあったのだが、昨日は、父の昼食のスパゲティをゆでている間に自分も食べたくなって挫折。今日は、子どものことで心労があって「ストレス食い」というところ。むしろ大食いの一日だった。今日は瞑想もしなかった。来週は心して臨もう。

◆「日本の気功家たち」のアクセス数急増
23日(木)に「アンビリーバボー」で気功の特集を行ったためであろう、「日本の気功家たち」のアクセス数が23日に3100、24日に2100、25日に1000、今日は800と急増した。最近、「日本の気功家たち」はほとんど更新をしていなかったが、これを機会に少し更新していきたい。

◆二度と来ない
夕方こたつで休みながら妻と子どものことなど話していた。そこへ外出していた娘が帰ってきた。二言三言話した。娘は自分の部屋へ上がって行き、妻も夕飯の支度のためこたつを離れた。私はなおもこたつに休みながら、今日の日、この瞬間のことを思った。

「同じ瞬間は二度とこない」という表現は月並みだ。しかし、やがて私も妻も充分に老いるであろう。どちらかが寝たきりになっているかも知れない。どちらかが欠けるかも知れない。そのような激しい変化のなかで、今このような仕方で私がいて、妻がいて、子どもたちがいる瞬間は二度とこないと思った。

そして今、このような形でこの瞬間があるということの絶対的な不思議。「この瞬間のかけがえのなさ」、これも月並みな表現だが、このような仕方で今があるとうことの無根拠さが、今の不思議につながり、かけがえのなさにつながっていた。
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瞑想の段階

2006年02月26日 | 読書日誌
◆『存在することのシンプルな感覚』より

「瞑想の修行を始めて最初に気が付くのは、自分の心が、ということは自分の人生というものが、ほとんど無意識的なおしゃべりで占められているということである。‥‥いずれにしろ、瞑想の初期においては、瞑想の経験はまるで映画のようである。あなたはすわって、いろいろな幻想や概念的な思考やらが、眼の前を、意識の前を通り過ぎていくのを見ている。しかしすべてのポイントは、これらに気が付いている、ということである。

‥‥こうして公平に、すべての思考、幻想、観念、イメージをじっと見つめていると、あなたは次第にそうした思考やらイメージやらの無意識的な影響から解放されていく。あなたはそれを見ている。‥‥あなたは、そうした思考やら観念やらイメージに頼っている分離した自己感覚から、解放されていく。言い換えれば、あなたはエゴから自由になっていく。これがスピリチュアルな次元の初めの段階であり、そこでは慣習となっているエゴは「死」に、高次の意識が「復活」(再生)する。」240(「瞑想の段階」より)

ウィルバーの魅力は、一方でこうした「瞑想の段階」が語られ、同時に「スピリット」は獲得されるものではない、と語ることだ。私は、両方とも納得できる。ここには確かに瞑想による魂の成長が語られている。しかし一方で「スピリット」は瞑想やそれに伴う成長の結果ではない。時間的な経過のなかで獲得されるものではない。

さらにもうひとつの問題意識が私にはある。いろいろな幻想や概念的な思考やらが意識の前を通り過ぎていくのを見て、気が付いていること。公平に、すべての思考、幻想、観念、イメージをじっと見つめていること。これは、まさにヴィパッサナー瞑想と同じである。

ところで、ヴィパッサナー瞑想やその背景となるテーラヴァーダ仏教では、基本的には魂の時間的な流れのなかでの段階的な浄化、成長が語られるように思われる。それは、輪廻という悠久の時間の回転の中で遂げられていくものである。

これに対しウィルバーは、大乗的な背景のもとに、「孤立した心と身体を超え、より大きなアイデンティティ、例えば自然や宇宙と一体となる」面を強調する。しかもその「宇宙意識」は、修行によって時間の経過の中で「獲得」されるものではない。

この違いを違いとしてもっと明確にしていくのが、私にとっては切実な問題である。
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エゴの死としての瞑想

2006年02月21日 | 読書日誌
◆『存在することのシンプルな感覚』より

「どんな形であれ、瞑想とはエゴを超えること、あるいはエゴに死ぬことの道である。この意味で、瞑想とは死の模倣、すなわちエゴの死の模倣なのである。どのような方法であれ、一定の瞑想システムに熟練すると、やがて身体と心を完全に「目撃」しつくして、実際にそれらの上に出る、あるいは超越することが可能になる。こうしてエゴは死んでしまい微細(サトル)な魂、あるいは「スピリット」が目覚める。禅では、これを「大死」と呼んでいる。これはやさしい経験、主体と客体の二元論のおだやかな超越である場合もあるが、また――実際にある種の死を伴うために――恐ろしい経験の場合もある。しかし劇的であれ、かすかなものであれ、速い場合であれ、ゆっくりした場合であれ、分離した自己が死に、あるいは溶解し、普遍的な「スピリット」のなかに高次の、あるいはそもそもの「自己」を見出すということに、かわりはない。」219(「死と再生と瞑想」より)

この文章は、短いがエゴの死と「スピリット」の目覚めを端的に語っており、心を打つ。言い尽くされている観がある。そうだ、瞑想とはエゴに死ぬことなのだ。

エゴ、それは思考によって織り成された実体なき構成物。それを後生大事に持ち続けるのではなく、手放すこと。心身を完全に「目撃」し尽くしてその上に出ることで、エゴの死がもたらされるというのも、端的にことの本質を表現している。
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