クールジャパン★Cool Japan

今、日本のポップカルチャーが世界でどのように受け入られ影響を広げているのか。WEB等で探ってその最新情報を紹介。

ツイッターで世界の人々と交流し実感したこと

2015年09月02日 | クールジャパンを考える
しばらくこのブログの更新を怠っていた。徐々に復活したいと思う。最近、英語でのツイッターの活動はかなりしていた。私の関心のひとつは、日本の文化が世界で注目されているが、その実態はどうかということだ。それを知るためにも、日本に関心をもつ世界中の人とツイッターで交流することは、ひとつの有効な手段だと思われる。

実際にツイートし、徐々に反応が増えるにしたがい、日本に関心を持ち、日本を愛する人々の熱い思いをかなり実感することができた。もちろんツイッターの限界もある。客観的なデータが得られるわけではない。あくまでもインターネット上での交流だから、実際の交流とはやはり質的に違うだろう。それでも、いながらにして毎日のように世界中の人々の声を聞けるメリットは大きい。今後、もっとフォロアーを増やしていけば、日本を愛する人々の興味深いエピソードを紹介できたり、しっかししたアンケート調査なども実施できるかもしれない。

今、1000人少しのフォロアーがいるが、ほとんどが日本に関心の深そうな人々を私がフォローし、フォローし返してもらった人々である。だから、日本にひときわ関心の深い人々が私のツイートを見ているということになる。それにしても、日本人にとってはとるにたらないようなツイートが意外なほどに関心をもたれるのを実感し、それでますます英語でのツイートに力をいれるようになった。いくつか例を示そう。







こんな感じである。こうした写真を日本語でツイートしても誰もリツイートもお気に入り登録もしないだろう。日本のちょっとしたことにも強い関心を示してもらえることに、うれしさを感じつつも驚く。また、カタカナで自分の名前やハンドルネームを表記し、日本人と交流したがっている人々も多い。日本語の学習者のなかにとくにそういう人々が多い。日本語の学習者に、なぜ日本語を習い始めたのかと聞くと、数人が日本語の響きが好きだと答えていたのも印象的だった。

これは、いつもこのブログで書いている日本文化のユニークさを「日本文化のユニークさ8項目」の中の4番目を短くしたものだが、こうしたことにも関心をもつ人々がいることが分かる。今後もこのブログの内容に関連したこともツイートしていきたい。


今回はこれぐらいにしておくが、またツイート上の交流で何か興味深い話があったら紹介するつもりである。

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侵略に晒された韓国と侵略を免れた日本

2015年06月17日 | 侵略を免れた日本
本ブログでは、日本文化のユニークさを「日本文化のユニークさ8項目」の視点から論じている。その4番目は次のようなものであった。

(4)大陸から海で適度に隔てられた日本は、異民族により侵略、征服されたなどの体験をもたず、そのため縄文・弥生時代以来、一貫した言語や文化の継続があった。

これまで、こうした日本文化の特性を、他のどこかの国と比較して論じるということはほとんどなかった。今回は、日本と文化的な関係の深い韓国と中国をとりあげ、上の視点から比較して論じてみよう。まずは韓国である。

◆『侮日論 「韓国人」はなぜ日本を憎むのか (文春新書)

著者は、済州島出身で今は日本に帰化している呉善花氏である。彼女の本はこれまでにも何冊か取りあげてきた。たとえば『日本の曖昧力』などである。日本での深い異文化体験を根底に、洞察力に満ちた日本文化論を展開している。『侮日論』は、タイトルからいわゆる「嫌韓本か」と思われるかも知れないが、そう一括りにされる個々の本は、読んで見れば真摯な態度で韓国の歴史や文化を論じているものが多い。この本も、韓国の歴史や社会を見る目は深く、また誠実で、考察は鋭い。

著者によれば、韓国人は好んで「手は内側に曲がる」という。手は内側の何かをつかみ取るようにしか曲がらない。内側とはつまり、家族、親族、血縁である。家族や親族を守るのは当然だが、韓国人の場合は、何が何でも家族、親族、血縁を最優先するのが人間だという強い思いがあるらしい。それが民族規模になれば、「民族は一家族だ」という身内意識に強く支配されるという。それは強い情緒的な反応であり、反日教育が徹底されれば、強い反日情緒が生まれるわけだ。

韓国は、強固な血縁集団を単位に社会を形づくり、それを基盤とした伝統的価値観がしっかりと根付いた。それは「身内正義の価値観」だ。「身内=自分の属する血縁一族とその血統」が絶対正義であり、その繁栄を犯す者は絶対悪だという家族主義的な価値観だといえよう。

彼らは、民族を一家族と見なし反日を軸にしてまとまる面がある一方、内部では自分の一族の党派的な主張が唯一の正義になる。それゆえ、党派を超越して国家のために連帯するという発想がなく、その歴史は一族間のすさまじい闘争に終始したという。国家への忠誠よりも血縁集団への忠誠が優先されるのだ。一族の利益のためには社会全体の利益を損なうことさえ辞さない極度に排他的な傾向をもっている。大統領とその一族さえその傾向を免れなかった。

韓国人が、家族、親族、血縁を最優先するのは、「信じられるのは家族だけ」という意識が強いからでもある。そうした意識の背景には、外国から繰り返し侵略された歴史があるともいえよう。異民族間の抗争・殺戮が繰り返され、社会不安が大きければ大きいほど、血縁しか頼るものがないという意識が強くなる。もともと「中華文明圏」では、宗族(そうぞく:男子単系の血族)が半ば独立した有機体のように散らばり、社会はその寄せ集めによって成り立ってといってもよい。宗族は、倫理的には儒教の影響を受けた家を中心とした家族観の上に成り立ち、強力な血縁主義でもある。血縁だけしか信じられるものはないという社会のあり方は、異民族との抗争の歴史と裏腹なのだともいえよう。

一方、日本のように、異民族との闘争のない平和で安定した社会は、長期的な人間関係が生活の基盤となる。相互信頼に基づく長期的な人間関係の場を大切に育てることが可能だったし、それを育て守ることが日本人のもっとも基本的な価値感となった。その背後には人間は信頼できるものという性善説が横たわっている。さらに大陸から海によって適度な距離で隔てられていたため、儒教文化の影響をもろに受けることもなかた。宗族社会と違い日本はイエ社会であり、男系の血族だけでは完結しない。それは、婿養子のあり方を見ればわかるだろう。その分、社会がフレキシブルになっているのだ。

韓国では李氏朝鮮も、外国からの侵略という危機に際し、強固な国家支配体制を強固な家族主義の道徳規範で支えることを説く儒教、とくに朱子学を採用して乗り切ろうとした。崩れかけていた「血縁村落」を再び強化することで、さらに国家的な団結力も強化しようとした。韓国では、国にとっての敵に対しては、「一つの家族」という意識が前面に出る。とくに近年では対日本でそうした傾向が異常に強い。しかし、国内では我が家族や一族以外は容易に信じてはならないという、二面的な傾向をもつようだ。

また韓国独特の「恨(はん)」の感情もまた、異民族による支配の歴史を反映している。日本では怨恨というときの怨も恨も似たような感情だが、韓国人の「恨」は独特な意味をもっているという。それは、「我が民族は他民族の支配を受けながら、艱難辛苦の歴史を歩んできたが、それにめげることなく力を尽くして未来を切り開いてきた」という歴史性に根ざす「誇り」を伴う感情のようだ。個人のレベルでは、自分の悲運な境遇に対して恨をもつのだが、それを持つからこそ、それをバネに未来に向けて生きることができる、という前向きな姿勢につながるのが恨だという。まるで凝固したかのような恨をどこまでも持ち続ける、それが未来への希望になるというのだ。韓国人にとっては、生きていることそもののが恨なのである。

こうして見ると、韓国の社会や文化が異民族による侵略に常に悩まされるなかで形成され、そうした歴史に深く影響されていることがわかる。朝鮮半島と日本列島は距離的には近く、その文化も影響し合った面があるが、一方でその地政学的な条件に根本的な違いがあり、それがお互いの社会文化の形成に決定的な違いを生み出していることも明らかなのだ。

《関連記事》
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日本文化のユニークさ07:ユニークな日本人(1)
日本文化のユニークさ08:ユニークな日本人(2)
日本文化のユニークさ09:日本の復元力
日本文化のユニークさ11:平和で安定した社会の結果
日本文化のユニークさ37:通して見る
日本文化のユニークさ38:通して見る(後半)
その他の「日本文化のユニークさ」記事一覧

《関連図書》
☆『ユニークな日本人 (講談社現代新書 560)
☆『日本の「復元力」―歴史を学ぶことは未来をつくること』)
☆『日本の曖昧力 (PHP新書)
☆『日本人はなぜ震災にへこたれないのか (PHP新書)
☆『世界に誇れる日本人 (PHP文庫)
☆『日本とは何か (講談社文庫)

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アマテラス:『神話と日本人の心』を巡って(3)

2015年06月07日 | 現代に生きる縄文
◆『神話と日本人の心

第四章「三貴子の誕生」(続き)

《アマテラスとアテーナー》
ギリシアの神々のなかで、日の女神アマテラスにもっとも類似するのはアテーナーではないか。アテーナーも父から生まれている。

ゼウスの正妻はへーラーとされるが、それ以前に女神メーティスがいた。聡明な女神だったが、大地と大空がゼウスに忠告した。二人の間に生まれる子は、もし男子なら父親を凌ぎ、神々と人間たちの君になるだろう、もしゼウスが永遠に統治権を握りたいなら、適当な処置が必要だ、と。ゼウスはその意見にしたがい、メーティスが懐妊したとき、彼女を自分の腹の中に呑み込んだ。その胎児がゼウスの頭の中で成長し、やがてゼウスは大変な頭痛を覚えたので、斧で頭を打ち割らせた。するとアテーナーが武装して雄たけびをあげて飛び出してきた。彼女は軍事にも携わったが、機織りにも長けていた。(アマテラスの機織との共通性)

日本神話との違いは、ゼウスが自分の統治権を守ろうとしたのに対し、イザナキは、自分の統治権をあっさり娘に譲り、自分は身を隠してしまうことであり、この差は大きい。

アメリカのように極めて父権意識の強い国では、女性の地位は長く低く見られてきたが、それに対しウーマン・リブ運動が起こり、女性も男性と同等の能力をもつと主張した。その結果、多くの職業に女性も進出し、女性の社会進出は成功した。しかし、その成功の陰で自分たちの「女性性」が犠牲になり、傷ついていると感じる女性も多かった。成功の一方、女性に固有なアイデンティティ、女性的な価値が失われるのは、西洋では、女性の価値が男性との関係でのみ決定されることが多いからではないか。ユング派の女性分析家は、そんな自分を「父の娘」と呼ぶ。

アマテラスはアテーナーに似て「父の娘」だが、ギリシアではあくまでもゼウスが主神である。一方日本ではアマテラス自身が主神である。彼女は、母を知らないという意味で地母神ではない。イザナミは黄泉に行き、地下の神となり、アマテラスは天上の神となる。もしアマテラスがイザナミの娘であれば、見事な母権制の社会ということになるが、そう単純ではないところが日本神話の特徴である。(注)

(注)無意識は、意識化された自我の一面性をつねに補償する働きをもつ。そのような無意識の世界を自我に統合していくプロセスが、ユングのいう「個性化の過程」だ。ユングの患者たちは、キリスト教文化圏の人々だから、彼らの無意識から産出される内容は、正統キリスト教の知を補償するものであることが多かった。

父なる神を天に頂く彼らの意識を補償しようするのは、母なるものの働きである。ユングはそのような観点からヨーロッパの精神史を見直し、正統キリスト教の男性原理を補うものとして、ヨーロッパ精神の低層に、グノーシス主義から錬金術に至る女性原理の流れを見出していった。

西洋のような一神教を中心とした文化は、多神教文化に比して排除性が強い。対立する極のどちらかを中心として堅い統合を目指し、他の極に属するものを排除しようとする。排除の上に成り立つ統合は、平板で脆いものになりやすい。キリスト教を中心にしたヨーロッパ文化の危機の根源はここにあるかも知れない。

唯一の中心と敵対するものという構造は、ユダヤ教(旧約聖書)の神とサタンの関係が典型的だ。絶対的な善と悪との対立が鮮明に打ち出される。これに対して日本神話の場合はどうか。例えばアマテラスとスサノオの関係は、それほど明白でも単純でもない。スサノオが天上のアマテラスを訪ねたとき、彼が国を奪いにきたと誤解したのはアマテラスであり、どちらの心が清明であるかを見るための誓いではスサノオが勝つ。その乱暴によって天界を追われたスサノオは抹殺されるどころか文化英雄となって出雲で活躍する。二つの極は、どちらとも完全に善か悪かに規定されず、適当なゆり戻しによってバランスが回復される。

男性原理と女性原理の対立という点から見ると、日本神話は、どちらか一方が完全に優位を獲得し切ることはなく、一見優勢に見えても、かならず他方を潜在的に含んでおり、直後にカウンターバランスされる可能性を持つ。著者はここに日本神話の中空性を見る。何かの原理が中心を占めることはなく、それは中空のまわりを巡回しながら、対立するものとのバランスを保ち続ける。日本文化そのものが、つねに外来文化を取り入れ、時にそれを中心においたかのように思わせながら、やがてそれは日本化されて中心から離れる。消え去るのではなく、他とのバランスを保ちながら、中心の空性を浮かび上がらせる。(河合隼雄『中空構造日本の深層 (中公文庫)』)

非ヨーロッパ世界のなかで日本のみがいちはやく近代文明を取り入れて成功した。男性原理に根ざした近代文明は、その根底に先に見たような危機をはらんでいる。日本の文化は、近代文明のもつ男性原理や父性原理の弊害をあまり受けていないように見える。それは、日本が西洋文明を取り入れつつ母性的なものを保持したからだろう。しかし単純に女性原理や母性原理に立つのではなく、中空均衡型モデルとでもいうべきものによって、対立や矛盾をあえて排除せず、共存させる構造をもっていたからではないのか。

日本が、男性原理の上に成り立つ近代文明を取り入れ成功しながら、なおかつ男性原理の文明のもつ弊害を回避しうる可能性を隠すことが、今後ますます重要な意味をもつかも知れない。

(付録)シャーロット・ケイト・フォックスへのインタビュー
別所 日本の女性とアメリカの女性との違いは?

シャーロット 米国では「パワフル」「ストロング」「セクシー」、この三つが合わさって「彼女はビューティフル」になるんです。「キュート」って言われると、見下されているように感じます。だから私も当初、日本で「かわいい」と言われると戸惑いました。でも、「かわいい」には、英語の「キュート」にとどまらない、いろんな意味が含まれていることが分かってきました。

ここ日本で「美しくあること」って難しい。米国と全く違いますから。一方で、自分の内面に向き合い直すよい機会だとも思っています。自分の内面を再考察するといえば、言葉を発する前にまずきちんと考えてみることですね。米国では必要以上に感情が高まったり、あまりにも直接的なものの言い方になってしまったりするんです。感情の起伏が激しくなってしまうんです。特に人を愛することに関しては。
別所 日本女性の長所って見つけましたか?

シャーロット 日本女性のパワーの源を学んでいるところです(笑い)。米国の女性と違うんですよね。内に秘めたパワーというか。本当にとても強いパワー。まるで魔法のようです。私の友人は優しくて、嫌われずして得たいものを得るんです。不思議です。(毎日新聞-2015/03/26)

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三貴子の誕生:『神話と日本人の心』を巡って(2)

2015年06月02日 | 母性社会日本
《日本神話を読む》
現代人は「科学の知」に圧倒されて「神話の知」の獲得が難しい。現代人の生き方を支えてくれる神話はないのか。結局は各個人が自分の生活に関わりのある神話的な様相を見つけていくほかなく、解決は個人にまかされるのか。集団で神話を共有した時代は、神話による支えが集団として保証されたが、その代償として個人の自由が束縛された。今われわれは、各人にふさわしい「個人神話」を見出さねばならないのであろう。

生きることそのものが神話の探求であり、各人が自分にふさわしい個人神話を見出すことが生きることにつながると言うべきだろう。日本人としては、かつて人類がもった数々の神話、そしてとくに日本の神話を学ぶことは不可欠だろう。

日本の神話は、『古事記』(712)、『日本書紀』(720)によって現在に伝えられている。この時代に神話が記録されたのは、当時の日本が、外国との接触によって統一国家としての存在を示すとともに、その中心としての天皇家の存在を基礎づける必要に迫られていたからだ。

神話と日本人の心』の著者の河合隼雄は、日本神話を深層心理学の立場から研究する。つまり、人間にとって神話がいかに必要であり、それが人間の心に極めて深くかかわているか、という観点から、神話のなかに心の深層のあり方を探る。そこに日本人の心のあり方を探り、我々の生き方のヒントを得ようという立場だ。ユング派の分析家として日本人の心の深層にかかわる仕事を続けてきた経験から、日本神話の世界にひたりきることによって得たことを述べるというのである。このブログでは、この河合隼雄の著書を参考にしながら『古事記』を読んでいきたい。

前回、アマテラスの話から始まっているので、ここでは上の本の第四章から見ていくつもりである。

第四章「三貴子の誕生」

《父からの出産》
日本神話のなかで三貴子と呼ばれる、アマテラス、ツクヨミ、スサノヲは極めて重要なトライアッドである。その誕生について『古事記』に従って見よう。

イザナキは黄泉の国より逃げ帰り、きたない国に行ってきたので、みそぎをする。このとき、冥界の汚垢(けがれ)によっても神が生まれ、それを「直す」ための神も生まれる。これらの「神」はキリスト教のゴッドとは大いに異なる。これらひとつひとつにヌミノースな感情(超自然現象、聖なるもの、宗教上神聖なものに触れることで沸き起こる感情)が湧き、それを神と名付けたのだろう。

続いて、イザナキが左目を洗うとアマテラスが生まれ、右目を洗うとツクヨミが、鼻を洗うとスサノヲが生まれる。そしてアマテラスには「汝命は、高天の原を知らせ」、ツクヨミには「汝命は、「夜の食国を知らせ」、スサノヲには「汝命は、海原を知らせ」と命じた。
ここで最も貴いとされる三柱の神があえて父から生まれたと語るのはなぜか。

人間がすべて女性から生まれる、その神秘に感動した人々は、まず神として大母神(だいぼしん)を想定したと思われる。ヨーロッパでもキリスト教以前は地母神(ちぼしん)が中心であった。日本の縄文時代の土偶にも地母神は多い。これに対し、父性原理の優位を押し出すユダヤ・キリスト教は、アダムの骨からイヴがつくられる。

日本の神話ではこれに対して、大母神イザナミがつぎつぎと国土も含めて、ほとんどすべてを生み出す。圧倒的な母性優位である。ここで極端な母性の優位性を、父性の強調によってバランスさせる。こうした巧妙なバランスが日本神話の特徴である。

イザナキが三貴子を生んだことで父性の巻き返しがあったが、彼の後継者として高天の原を知らしたのはアマテラスであった。しかしこれで女性優位がすんなり確立するわけではない。

《目と日月》
アマテラスとツクヨミ、つまり日と月はそれぞれ父親の左目、右目から生まれている。日と月が神の目だという主題は世界の神話のなかにかなり広く見られる。しかし、右と太陽、左と月が結びつくのが一般的で、日本神話や中国の盤古の例のように左と太陽、右と月が結びつくのは珍しいようだ。人類は右利きが圧倒的に多いので、一般には右が左に対して優位と考えられる。

西洋の伝統的な象徴性の考え方では、右―太陽―光―男―意識というつながりに対して、

左―月―闇―女―無意識というつながりが対立していて、前者が優位性をもつようだ。

日本の神話では、左―太陽―女という結びつきが見られ、西洋の一般的な象徴パターンとは異なる。強調すべきは、太陽―女性の結びつきという日本の特異性である。(注)

(注)上田篤氏(『縄文人に学ぶ (新潮新書)』)は、縄文時代が長く続いた理由のひとつを妻問婚に見る。縄文時代の妻問婚が古墳時代へと引き継がれていったというのだ。

妻問婚は、男が女のもとに通うことで婚姻が成立するが、それは一過性のものである。夫婦としての男女の同棲を伴わず、男が通わなくなることも多い。父は、自分の子ども  が誰かに頓着しないが、女にとっては、父が誰であれ、産んだ子は等しく自分の子であり、平等に自分のもとで育てる。

子を持つ女たちは、食糧の採集に明け暮れた。いつくるか分からない男たちはあてにならない。そうした社会では母子間の絆は強くなる。そして氏族の先祖は、母から母へとさかのぼり、ついには「一人の仮想上の女性」に至りつくだろう。それが元母(がんぼ:グレートマザー)だ。縄文時代に作られた土偶は、何かしら呪術的な使われ方をしたのだろうが、それは元母の面影をもっている。縄文社会は母系社会だったと思われ、しかも豊かな自然を「母なる自然」として敬う宗教心は、元母への畏敬とも重なっていく。

縄文人の遺跡には、貝塚などの遺跡と並んで石群や木柱群がある。上田氏は、石群と木柱群が「先祖の祭祀」と「太陽の観測」という二つの機能をもつと考える。縄文人は、太陽と先祖の二つを拝んでいた。そして火は、太陽の子であった。ところで太陽と先祖とはどのように結びつくのか。縄文人は、氏族の先祖を遡ったおおもとに元母のイメージをもっていただろう。その元母と太陽の両方の性格をそなえていたのは、女性神アマテラスである。元母の根源にアマテラスを見ると、先祖信仰と太陽信仰は完全につながるというのである。つまり縄文人の宗教心は、母系社会の先祖信仰と「母なる自然」への信仰、その大元としての太陽信仰とが結びついていたのではないか。

父系社会では、力の強い男が多数の女を抱えてたくさんの子どもを産ませ、「血族王国」を作りたがる。その結果、権力をめぐって男同士の争いが始まる。ところが母系社会では、男に子どもがない。女の産む子どもの人数には限りがあり、しかも女は子供を分け隔てなく育てるから争いも起きにくい。母系社会では、母はすべての子とその子孫の安寧を平等に願う傾向があるから、血族集団は争いなく維持され、社会は安定した。ここに縄文時代が一定の文化とともにかくも長く続いた秘密のひとつがあるのではないか。

こうして縄文時代は女性中心の時代であり、その伝統は後の時代に引き継がれた。父系性の結婚制度に移行したあとも、家の中での女性の力が比較的強かったのは、その伝統を受け継いでいるからだろ。「刀自(とじ)」「女房」「奥」「家内」「お袋」「主婦」などの言葉は、多かれ少なかれ家を管理する意味合いを持つ。日本では今でも主婦が一家の家計を預かるケースが多いが、欧米ではそのようなことはないという。
日本列島に生きた人々は、農耕の段階に入っていくのが大陸よりも遅く、それだけ本格的な農耕をともなわない縄文文化を高度に発達させた。世界でもめずらしく高度な土器や竪穴住を伴う漁撈・狩猟・採集文化であった。それが可能だったのは、自然の恵みが豊かだったからだろう。母系社会であり、母なる自然を敬う縄文文化がその後の日本文化の基盤となったのである。しかもやがて大陸から流入した本格的な稲作は、牧畜を伴っていなかった。牧畜は、大地に働きかける農耕よりも、生きた動物を管理し食用にするという意味で、より自覚的な自然への働きかけとなる。つまりより男性原理が強い。そして牧畜は森林を破壊する。

日本では、1万数千年という長きに渡る縄文時代がその後の日本社会を形成する上で、無視できない強固な基盤となった。父性原理の大陸文明を受け入れるにしても、自分たちの体に染みついた縄文の記憶(母性原理に基づく宗教心や生き方)に合わない要素は、拒絶したり変形したりして受け入れていった。こうして中国文明から多くを学んだが、科挙や宦官や纏足は受け入れなかった。西欧文明は受け入れたが、キリスト教信者は今でも極端に少ない。私たちは、たとえ自覚はなくとも、縄文の記憶をいまだに忘れていないようだ。私たちの社会と文化の根底には母性原理が息づいているのである。現代日本の女性も、その遠い記憶に根ざしているから強いのかもしれない。

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日の女神の輝く国:『神話と日本人の心』を巡って(1)

2015年04月04日 | 母性社会日本
◆『神話と日本人の心』河合隼雄、岩波書店

ユング派の心理療法家として著名だった河合隼雄のこの本については母性原理と男性原理のバランス:神話と日本人の心(1)以下5回に渡るシリーズとしてすでに取り上げている。ここで再度取り上げたいと思ったのは、この本に学びながら、もう一度じっくりと『古事記』を読んでみたいと思ったからである。この本の内容を章を追って紹介しながら、著者や他の著者の関連する研究やテーマにも随時触れていくという形になるだろう。前回よりももっと長いシリーズで、しかも間隔をあけながら2年から3年かけて終わる長期戦になると思う。さっそく「序章:日の女神の輝く国」から始めたい。

《日の女神の誕生》
数多い日本の神々のなかでアマテラスは、際立った地位を占める。古代日本人が、天空に輝く日輪に女性をイメージしたのは、世界の神話のなかでもかなり特異だ。アメリカ先住民の神話を除いて、ほとんど太陽は男性神である。

イザナギは、死んだ妻を連れ戻そうと黄泉の国を訪れるが果たせず、この世に戻って身のけがれをおとそうとみそぎをし、その際にアマテラスが生まれる。彼女は父から生まれたので、母を知らない女性だ。

男女の区分と太陽と月という区分を考えるとき、男−太陽という結びつきが一般的で、女−太陽とする文化はより女性優位の文化と考えられる。しかし、そう考えるとしても、どうしてわざわざその女性が父から生まれたとするのか。女性が男の骨からつくられたとする旧約聖書と似て、男性優位を物語るともとれる。ちなみにギリシア神話のアテーナーもまた「父の娘」であった。

アマテラスは日本神話のなかで重要な位置を占めるが、その誕生においては「三はしらの貴き子」の一人として生まれ、唯一の貴い神ではない。では中心を占めるのはどの神か。この問題はのちに触れるが、ともあれ日本神話は、世界の神話のなかで特異なところと、他と大いにつながる特性とを備え、一筋縄ではいかない。この問題は、のちに詳しく検討されるだろう。

ここでさっそく、他の研究を参照しなければならないのは、太陽を女性神とするのが本当に日本とアメリカ先住民だけかという点だ。環境考古学者の安田喜憲によると、長江文明の人々は、何よりもまず太陽を崇拝した。そして重要なのは、その太陽が女神だったということだ。それは、日本のアマテラスが女神であることとどこかでつながるのかもしれないという。。漢民族の太陽神は炎帝という男神であったのだ。長江文明の、日本列島への影響について詳しくは、このブログの記事長江文明と日本を参照されたい。これは、日本文化のルーツのひとつとして無視すべきではないだろう。


《神話の意味》
続いて河合隼雄は、神話の意味について語る。ある部族が部族としてまとまりをもつためには、それに特有の物語を共有することが必要だ。その部族がどのように形成され、今後どこに向かっていくのかを物語る「神話」によって、部族の成員は自分たちのよって立つ基盤を得、ひとつの集団として存続していくことができる。「神話をなくした民族は命をなくす」と言われる所以だ。

中村雄二郎は、「科学の知」が対象を細分化し、対象への働きかけも部分的なものにするのに対し、「神話の知」の基礎にあるのは、「私たちをとりまく物事とそれから構成されている世界とを宇宙論的に濃密な意味をもったものとしてとらえたいという根源的な欲求」であるという。

「これは先祖様が300年前に植えた木だ」という「物語」は、その物語を共有する一族を「つなぎ」、その木に共通の意味や親しみを与える。木や土地の由来が共有されるとそれが「伝説」になるのだ。伝説が特定の事物や時を離れると「昔話」になる。

神話も人間にとっての物語であるが、ひとつの部族や国家との関連で、伝説や昔話より公的な意味合いをもつ。伝説や昔話が、より素朴な形で人間の深い心のはたらきを示している一方、神話は特定集団の意図が関連している。


《現代人と神話》
現代人は「神話の知」の獲得に大きな困難を感じており、それが現代人の心の問題に深く関係する。「科学の知」がつぎつぎと「神話の知」を破壊し、その喪失に伴う問題が多発するようになった。たとえば援助交際に走る思春期の少女たちの根本問題は「居場所」がないことだという。それは、現代人の「関係性の喪失の病」の一症状ともいえる。「居場所」がない少女たちが、援助交際をきっかけに街の仲間とつき合いを求めていくのだ。

「死」に関する神話も失われ、老いや死は苦痛以外なにものでもなくなる。その苦しみから逃れるには、ボケる以外にないのか。どのような民族もかつて死についての神話をもち、それによって生と死が「つながり」、生者と死者がつながっていた。

一方、自爆テロの犯人は自分の信じる神話によって救われるかも知れないが、犠牲者の苦痛は計り知れない。かつて日本でも、上から押し付けられた神話で多くの人が不幸に陥ったため、神話のもつ負の面を意識しすぎ、戦後は神話を強く否定した。が、それによって困難もかかえるようになった。

では、現代人の生き方を支えてくれる神話はないのか。キャンベルは「各個人が自分の生活に関わりのある神話的な様相を見つけていく必要があります」と述べ、解決は個人にまかされているという。集団で神話を共有した時代は、神話による支えが集団として保証されたが、その代償として個人の自由が束縛された。今われわれは、各人にふさわしい「個人神話」を見出さねばならないのである。

最後に宣伝めくが、私自身、生と死を巡って自分なりにその意味を探求し続けた。その成果としてまとめたのが『臨死体験研究読本―脳内幻覚説を徹底検証』である。多くの臨死体験者が、体験後、人生を劇的にプラスの方向に変えてしまうことに注目して、そこに「科学の知」では割り切れない臨死体験の深い意味を探ったのである。私自身にとっての「神話の知」の復活の試みともいえるだろう。


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日本人はなぜキリスト教を信じないのか

2015年03月11日 | キリスト教が広まらない日本
このブログでは「キリスト教が広まらない日本」というカテゴリーを設けている。なかでも キリスト教を拒否した理由:キリスト教が広まらない日本01   という記事はよく読まれているようだ。前回少し触れた、日本で曹洞禅の住職となったネルケ無方氏は、同じ本に「日本人はなぜキリスト教を信じないのか」という一章を設けて、この問題を語っている(『日本人に「宗教」は要らない (ベスト新書)』)。彼の考えを紹介しよう。その上で私の考え方を振り返ってみたい。ネルケ無方氏の挙げる理由は次の三つである。

\菫朕鯒劼魎靄椶箸垢詁本社会では、「キリスト教徒になって自分が救われても、先祖が救われないのでは意味がない」と考えられた。

▲リスト教の「一神教」と日本人の宗教観がうまく折り合わなかった。他宗教を認めず排除するキリスト教は、日本人はシンクロできない。

キリスト教と国家権力とがうまく結びつかなかった。欧米では、ローマ法王が宗教界のトップで、各国の権力者は時に権力争いをしても、基本的に法王を否定しなかった。日本の場合は、キリスト教を導入すると、ローマ法王と天皇の関係に整合性がつかなくなる。

それぞれなるほどと思わせるものがあるが、しかし日本人がキリスト教を受け入れない根本的な理由に触れていないように思われてならない。たとえば,砲弔い討蓮現代日本では先祖崇拝が江戸時代以前よりは薄れていると思われるが、それに伴ってキリスト教徒が増加しているわけではない。相変わらず1%を切る低い水準である。これが説明できない。また日本より儒教的な先祖崇拝が強いと思われる韓国ではキリスト教徒ははるかに多い。

△砲弔い董キリスト教が他宗教を認めず排除する傾向は、日本以外のどの地域でも同じであったはずだ。なぜ日本だけが受け入れなかったのか。日本人の宗教観とうまく折り合わなかったのは事実だろうが、それはどのような宗教観であり、それがキリスト教を受容しない理由になるのは何故なのか。こうした根本的な問題については何も答えていない。

について。これは豊臣秀吉から徳川時代初期の歴史的な事情としては正しいであろう。しかしこれも、現代の日本で相変わらずキリスト教徒が少ないことの根本的な説明とはならない。

させ、上の主な理由の他に著者はこんなことも言っている。キリスト教には、父なる神と、その子・イエスと、精霊の三位一体説がある。イエスの母・マリアはカトリックでは大事にされるが、プロテスタントではマリア信仰は認めない。いずれにせよキリスト教の中心にあるのは、「厳しい父なるもの」であり、これに対し「優しいお母さん」が、日本人の精神世界の中心をなしている。だから子供が聖書を読んでも違和感を覚えるのではないか、と。

私にはこれが、日本人がキリスト教を受け入れない根本的な理由に関係しているのではないかと思われる。これまでこのブログで何度も指摘してきたような日本文化の「母性原理」が一神教的な「父性原理」と相容れないのだ。これは、価値観の相対手主義と絶対主義の違いともいえるだろう。すべてを受容する母性原理と、絶対的な原理に合わないものを排除する父性原理と。

以前このブログで書いた、日本にキリスト教が広まらなかった(現在も広まらない)要因を、「母性原理」という観点を加えながら再び紹介しよう。

(1)現代日本人の心には、縄文時代以来の自然崇拝的、多神教的な(全体として強力に母性原理的な)傾向が、無意識のうちにもかなり色濃く残っており、それがキリスト教など(父性原理の強い)一神教への、無自覚だが根本的な違和感をなしている。多神教的な相対主義を破壊するような一神教的な絶対主義が受け入れがたい。

(2)キリスト教は、遊牧民的・牧畜民的な文化背景を強くにじませ、それに関係するたとえが多用される。牧畜文化を知らない日本人にとって根本的に肌に合わない。絶対的な唯一神とその僕としての人間という(父子関係をモデルとする)発想、そして人間と動物とを厳しく区別する発想の宗教が、(母なる自然や大地を崇拝し、人間と他の生物の区別が曖昧な)縄文的・自然崇拝的心性には合わない。

(3)ユーラシア大陸の諸民族は、悲惨な虐殺を伴う対立・抗争を繰り返してきたが、それは宗教やイデオロギーの対立・抗争でもあった。その中で、強固な宗教による一元支配(父性原理・絶対主義)が統治や防衛上も必要になった。キリスト教、イスラム教、儒教などは多少ともそのような背景から生じ、社会がそのような宗教によって律せられることで「文明化」が進んだ。

しかし、日本はその地理的な条件から、異民族との激しい対立・抗争にも巻き込まれず、強固なイデオロギーによって社会を一元的に律する必要もなかった。したがって、日本文化には農耕・牧畜文明以以前の自然崇拝的な心性(母性原理・相対主義)が、圧殺されずに色濃く残る結果となった(神仏習合など)。

私たちが自覚していると否とにかかわらず、日本の文化には母性原理的・相対主義的な成り立ちや仕組みがあって、それと根本的に相容れないものは、受け入れてことなかった。キリスト教はそのようなものの一つであったのだろう。

《関連記事》
母性原理が優位な日本文化という見方の詳細は、以下の記事を参照されたい。
太古の母性原理を残す国:母性社会日本01
これまでこのブログで行った「なぜ日本にキリスト教が広まらないか」についての記事については、
★「キリスト教が広まらない日本」というカテゴリーを設けている。
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周囲とのシンクロが得意な日本人

2015年03月10日 | 相対主義の国・日本
前回とりあげたような「間人主義」的な日本人の行動の特徴は、具体的にはどんなところに見られるだろうか。日本人自身はあまり意識しなくとも外国人の目には際立って見える面がある。たとえば、ドイツ人でありながら日本で曹洞禅の修業をし、日本の禅寺の住職になったネルケ無方氏は、「日本人は人に合わせ、人とシンクロする性質がある」という(『日本人に「宗教」は要らない (ベスト新書)』)。欧米人は、そもそも他人とシンクロしようという意識がない。日本人のように人に合わせる、動作や気持ちにまで合わせるというのが苦手のようだ。

日本人が時間に厳格で正確なのも、日本人のシンクロしようとする性質によるのだろう。「空気を読む」というのも同じ性質によるもので、そもそもドイツ人には「空気を読む」とうような発想も概念もないという。日本人にとって空気を読めないということは、本人にとっても周囲の人にとっても苦痛であり、そこにいじめの一温床があるかもしれない。日本人のいじめは、「間人主義」の良さと裏腹の関係にあるのだろう。

日本人が移民の受け入れに後ろ向きなのも、以上のような日本人の特徴と関係があるようだ。日本人の社会は、他者とのシンクロを前提としている。シンクロするためのセンサーも敏感である。そこへ、そうしたセンサーやアンテナを備えていない人が大量に入り込んだらどうなるか。日本人の敏感なセンサーが、その危険さをキャッチしているからこそ、移民受け入れに消極的になっているというのだ。

浜口恵俊氏の『間人主義の社会日本』では、西欧的な「個人主義」を、ー己中心主義、⊆己依拠主義、B仗祐愀犬亮蠱併襦△砲茲辰篤団Г鼎院一方、日本人の「間人主義」を、「人と人との間に位置づけて初めて"自分"という存在を意識する」あり方として特徴づけた。それは、具体的には〜蠍澎預玄腟繊↓∩蠍濘頼主義、B仗祐愀犬遼楴岨襦△箸靴読修気譴襪箸いΑ

ところで少し前にこのブログで、金谷武洋氏の『日本語が世界を平和にするこれだけの理由』に触れ、「日本語は、共感の言葉、英語は自己主張と対立の言葉」であり、英語が「人間に注目する」のに対し、日本語は人間よりもその周りの舞台や背景、つまり「場所に注目」するという見方を紹介した(→世の中を平和にする日本語と縄文時代)。日本語の発想法の特徴が、日本人の「間人主義」とみごとに対応しているといえるだろう。このように、それぞれの分野で行われている議論がどのように関係するかを確認し、そこに通底する構造を明らかにし体系化する作業こそが今後、必要だと思う。

『間人主義の社会・日本』の著者・浜口氏は、この本の「はじめに」の中で、日本論を代表するものとしてべネディクトの『菊と刀』、中根千枝の『タテ社会の人間関係』、土居健郎の『「甘え」の構造 [増補普及版]』など、すぐれた理論がたくさんあるとしながらも、それらはいずれも、「日本人の社会的行為を規制している基底的な原理を不問にしたまま日本を論じている」と批判している。

ここでいう「基底的な原理」とは、人間が本来どのような社会文化的存在と見なされているかという「人間観」であり、その人間が織り成す間柄についての人々の考え方、すなわち「人間関係観」などのことである。それを著者がどのようにとらえていたかは、前回かんたんに紹介した。その研究は優れたものであり、私も興味深く読んだ。

一方で私自身の関心は、では著者の「間人主義」の人間観をもとにした理論と、「タテ社会の人間関係」や「甘えの構造」はどのように関係するかということである。その関係については、著者はもちろんほとんど何も触れていない。私の関心をもう少し一般化して述べよう。

これまでに日本人論、日本文化論といった類の本は、ほとんど無数といえるほどに生み出されている。本の題名に日本の二文字がなくとも、中身は日本人、日本文化とは何かを問うものも多い。もちろんそれらのすべてを読むのは不可能だが、おそらく何百冊とその関係の本を読んできた。それでいつも感じるのは、このテーマを巡る各分野からの数多くの優れた研究成果が、相互の関連が確認されながら蓄積されて、日本人の共有財産となっているという感じがしないのだ。

今、求められているのは、各分野からの日本論の多くの優れた成果をつきあわせて、相互にどのような関係や共通性や違いがあるのかを問い、それらを体系的に整理することではないか。私には、各分野からの研究の多くが、深いところで通底しているように見える。それらが、どのような類似性や共通性をもっているかを確認し、これまで先人が蓄積してきた日本人や日本文化についての議論を、いわば国民の共有財産とすることこそが求められている。私も、ささやかながらそんな作業の一助となれればと思う。

《関連記事》
日本文化のユニークさ43:タテ社会と甘え(1)
日本文化のユニークさ44:タテ社会と甘え(2)
日本文化のユニークさ41:甘えと母性社会(1)
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日本人は集団主義ではない?

2015年02月23日 | 相対主義の国・日本
日本人がどれほど集団主義的かを見るため、「同調行動」の度合いを調べた心理学の実験があるという。10名弱のグループの各人に二枚のカードを配る。Aのカードにはある長さの一本の線が描かれ、Bのカードには三本の違った長さの線が描かれている。BからAと同じ長さの線を当ててもらうのだが、一人以外はサクラで嘘の答えをいう。その場合、本物の被験者が周囲のサクラに合わせて、間違って答えてしまう割合を調べるのだ。サクラに同調して間違えてしまう人が多ければ集団主義的(同調的)だし、そうでなければ個人主義的というわけだ。

結果はどうだったか。日本と米国の「集団主義の強さ」を比較した研究19件のうち、13件の結果は、日本人もアメリカ人も「同程度に集団主義的」で、さらに5件は「アメリカ人の方が集団主義的」という結果で、「日本人の方が集団主義的」と判断できたのはわずか1件だったという。(『日本人はなぜ存在するか』)

この実験だけでどちらの国民がより集団主義的かと安易に結論することはもちろんできない。少なくとも「日本人は集団主義的だ」という思い込みや「常識」は、考えなおす必要がありそうだ。たとえ集団主義的だとしても、何がどのように集団主義的なのか検討する必要はあるだろう。

◆『間人主義の社会日本 (東経選書)

浜口恵俊氏は『間人主義の社会 日本』の中で、日本人を「集団主義」と特色づけるにしても、それは必ずしも「個人主義」の対立項としてのそれではないという。そこには組織への全面的没入や隷属とは言い切れない側面がある。各人が互いに仕事上の職分をこえて協力しあい、それを通じて組織目標の達成をはかり、同時に自分の欲求も充たして、集団としての充実をめざすのが「日本的集団主義」だ。127「日本的集団主義」では、個人が「全体」に全面的に隷属し主体性を失うわけではないとすれば、上に紹介した実験の結果もうなずけるだろう。

日本は従来、西洋型の近代文明を吸収することに必死なあまり、「近代的個人主義」という価値観もあまりに自明なものとして受け入れてきた。その価値観の中心は、自己依拠を貫くことだという。すべてを自己自身の力と責任によってはかろうとする姿勢である。自己を律する強い自我が、社会の近代化を担ってきた。だから日本人もそういう近代的自我を確立しなければならないと考えられた。しかし近代的自我は、自己を信頼する一方で他者不信に陥りやすい。「近代的自我」や「西洋的個人主義」の価値観を無条件に受け入れるのではなく、私たち日本人が現実に生きている人間関係に即した人間観や価値観が打ち出されるべきだろう。浜口氏は、日本人のそうした基本的価値観を、西欧の「個人主義」と対比し、「間人主義」と呼ぶ。

「個人主義」は、ー己中心主義、⊆己依拠主義、B仗祐愀犬亮蠱併襦△砲茲辰篤団Г鼎韻┐蕕譴襪箸いΑ0貶、「個人」に対して「間人」は、人と人との間に位置づけて初めて"自分"という存在を意識する。「間人主義」の特徴は次のようなものである。

〜蠍澎預玄腟繊宗充匆饑験茲呂劼箸蠅任榔弔瓩覆ぐ幣紂∩蠍澆良渊が人間の本態だ、とする理念。
∩蠍濘頼主義――自分の行動に相手もきっとうまく応えてくれるはずだ、とする互いの信頼感。
B仗祐愀犬遼楴岨襦宗汁蠍濘頼の上に成り立つ関係は、それ自体が値打ちあるものと見なされ、「間柄」の持続が無条件で望まれる。

西洋的な「個人主義」では、人に頼る以前にあくまでも自己に依拠して社会を生き抜くことに価値を置く。頼みとできるのは自己以外にないことを前提にするから、他人との関係も結局は、自己にとって少しでも有用な手段であり、人間関係自体が無条件に尊ばれるのではない。それは、互いに独立した個人間での互酬的な契約関係なのである。そうした契約関係のもとでは、職務を越えてまで個人的な対人関係が拡散することはない。

一方、日本人は、自己は完全に他から独立した「個人」ではなく「間人」としてとらえている。自分を、人と人との「間柄」に位置づけられた相対的な存在と理解し、社会生活を自分一人の力で営むのは不可能だと感じている。自己依拠ではなく、相互依存こそ人間の本態だという前提なのだ。この相互に信頼し助け合う価値観が「間人主義」と呼ばれる。これは、これは、自己保持のために対人関係を手段視する「個人主義」とは、対照的な価値観だろう。

とするなら、個が全体に隷属するという意味合いを含む「集団主義」を単純に日本人の人間関係に当てはめるのは必ずしも適切でないだろう。個人が全体に隷属するというよりも、人間はお互いに依存しあって生きざるを得ないのだから、その関係を前提にして、自他を生かしていこうというのが、日本人の基本的価値観であり、人間観だ。日本人は、「個人主義」でもなく、「集団主義」でもなく、「間人主義」の価値観に基づいて社会や組織にかかわっているのだ。日本人の人間関係の根底に流れる、こうした価値観なり人間観なりを、「個人主義」に対するものとして明晰に概念化し、そういう価値観を日本人の共有財産として自覚化することが、今この上なく大切なことだと思う。浜口氏の『間人主義の社会 日本』は、今から30年以上前になされた、そういう優れた試みの一つだ。


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縄文語は抹殺されなかった

2015年02月19日 | 現代に生きる縄文
◆『縄文語の発見 新装版』(小泉保)

本ブログでは、「縄文文化の記憶が、現代日本人の心や文化の基層として生き続けている」ということを主張の根幹に据えている。である以上、当然、縄文時代から弥生時代へも文化の継承がなされたのであり、そこに大きな断絶はないという立場をとる。またそういう主張をしばしばしてきた。以下を参照していただきたい。

縄文と弥生の融合
日本文化のユニークさ27:なぜ縄文文化は消えなかった?
日本文化のユニークさ28:縄文人は稲作を選んだ


また、縄文語から弥生語への移り変わりも、断続ではなく連続性があったという見解に何度か触れたことがある(→★日本文化のユニークさ19:縄文語の心(続き))。言語学者である小泉氏による上の本は、そのような立場から縄文語を探求しようとする、私が知るかぎり唯一の研究書である。これまでの研究者は、縄文語と弥生語との間には断絶があったと決めてかかっていた。弥生語が縄文語を駆逐して、それに入れ替わったと主張できる証拠は何もないのに、研究者のほとんどはそういう億説に縛り付けられているという。

人類学や考古学の近年の研究成果には驚くべきものがあるが、日本語の起源を探る研究もそうした成果に裏付けられたものでなければならない。人類学や考古学が縄文時代と弥生時代は連続していると主張しているのに、言語学者が、両者が断絶していると何の根拠もなく決めてかかるのだとすれば、それは知的誠実さに欠ける。

人類学でほぼ定説になっているのは、日本列島には縄文時代の一万年にわたってアイヌ人を含む南方モンゴロイド系の縄文人が生活しており、紀元前二・三百年ごろ北方モンゴロイド系の渡来人が移入してきたことである。

しかし、大量の渡来人が一挙に押し寄せてきて、日本列島を席巻してしまったわけではなかった。縄文人が抹殺されたり、奴隷にされたりして、日本列島から縄文文化が消滅したわけでもなかった。大陸からある程度の集団的な渡来があったとしても、この時代の渡航技術からして先住民を一気に駆逐したり虐殺したりできるほどの大規模な移動はできなかった。

渡来人の移入以前、縄文人は、前期からすでに日本列島にはひろく住んでおり、土器の生産に従事し、相互に交流していた(ヒスイが糸魚川で産出し加工され、日本列島に広く流通していた例など)。縄文人はかなり均質化した文化をもっており、とすれば、地域差はあったにしろ、異言語の乱立するような状況は考えにくい。縄文前期からすでに縄文語という原日本語が形成され始めたのではないかと著者はいう。 

ある程度の年月をかけて小集団ごとに渡来した人々は、最初は多少の摩擦はあったとしても、やがて相互に影響しあい、やがては縄文人と溶け合っていくほかなかったはずだ。近年、そうした融合を裏付ける考古学上の研究成果が多くなっている。土器の形や文様も、縄文土器から弥生土器へと連続的に変化しているという研究が見られるようになった。縄文土器が徐々に変化して弥生土器が生まれた可能性が高いというのだ。

とすれば、言語もまた制圧と断絶という形で入れ替わったとは考えにくい。しかも日本語は、様々な学説はあるものの、現在までのところ琉球語以外にその同族関係が証明されていないという。「周辺言語との同型性を証明する比較方法の手がかりがつかめないとするならば、日本語は、日本列島が孤立して以来一万年の間に、この島国の中で形成されたと考えなければならない」と、著者は主張する。155 確かに、二千数百年前に渡来した弥生人が縄文語を消滅させてしまったなら、大陸のどこかに弥生語ときわめて親近性の高い言語が残っているはずなのに、それが見つからないのだ。日本語は、縄文文化とともに始まり、断続なく現代に連なる長い歴史ももっているというべきだろう。

それゆえ著者は、縄文語の有力な方言のひとつから弥生語が形成されたという仮説にたって、現代日本語の諸方言をもとに、比較言語学と地域言語学(著者の専門領域)という手法を使って縄文語を再現しようとする。それは、この本の中核をなす研究だが、きわめて専門的で精緻なものなのでここでの紹介は控える。ただ、現代日本語のルーツが縄文語にあるという主張は、学問的にも無視できないものであるのは事実だ。

最近「世の中を平和にする日本語と縄文時代」という記事で、日本語の話者は、自分を強く打ち出すよりも、周りと協調し、「全体の中に自分を合わせていくこと」を目指すことが多いことに触れた。それは日本語の構造によるところが大きいという。私は、そういう日本語が、縄文人の自然と一体となった生活のなかで形成されたのではないかと主張した。今回紹介した研究からも、言語を通じて縄文人の心が現代日本人に受け継がれていると確認できるのではないか。

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古代人と神々の交流

2015年02月17日 | 現代に生きる縄文
◆『日本人にとって聖なるものとは何か - 神と自然の古代学 (中公新書)

著者・上野誠氏は、日本人が日本的だと意識している思考法の源流は、『古事記』『日本書紀』『万葉集』『風土記』に表れているという。これらの文献から古代的な心のあり方、正確には7世紀と8世紀の社会を生きた人々が聖なるものをどのように認識していたのかを明らかにすることが、本書の目的だという。

この本が興味深いのは、上に挙げたような文献を丹念に読むことによって、古代人が自然や神をどのように認識していたかを見事に浮かび上がらせているからだ。そして私自身の関心から興味深いのは、ここで描かれるような古代人の思考法から、文献的には検証できない縄文人の思考法がどうであったかを、ある程度推測できそうだ思われる点だ。

本格的な水田稲作文化が開始したとされる弥生時代の始まりを紀元前五世紀頃とするなら、縄文時代が終わったのは『古事記』が成立した紀元712年よりも千年以上も前だ。しかし一万年以上続いた縄文人の思考法が、この時代に消滅していたとは考えにくい。むしろ縄文人の心のあり方が基盤となってこの時代の人々の思考法が成立していたと考えるのが自然だろう。

多くの宗教学者が「日本の宗教は、その根底にあるものはすべて同じで、万物生命教というべきものであり、山川草木、山河大地も神仏である」と言い切るというが、そうした古代人の心のあり方は突然に出現したのではなく、一万年の長きに渡り「母なる自然」に抱かれながら生きた縄文人の心のあり方を基盤としているというべきであろう。

7・8世紀ごろに生きた日本人にとって、人もモノもすべてが霊的な存在だった。カミもオニも花も鳥も、要するにすべてが霊的・人格的存在だったという。たとえば著者は、『万葉集』の、天智天皇が皇太子時代に作ったとみられる歌を紹介している。

香具山は 畝傍(うねび)ををしと 耳成(みみなし)と 相争ひき 神代より かくにあるらし 古(いにしえ)も 然(しか)にあれこそ うつせみも 妻を 争ふらしき

香具山、畝傍山、耳成山の大和三山は、神代から互いに妻を争った。古もそうだったのだから、今も人は妻を争うのだという内容だ。これは現代人がするような「擬人法」ではなく、古代人の自然な発想ととらえるべきだという。生命あるものとないものとの垣根がきわめて低いのである。

生命あるものとないものの垣根が低いだけではない。神もまた垣根で仕切られていない。『古事記』に登場する神々は、山であり、木であり、風である。神々は、恋もし、妬みもし、罪を犯す。糞や尿や吐瀉物からもカミは生まれる。存在しうるすべてが神となり得え、無限にカミが生まれ続ける。

『古事記』の国土形成神話では、男女二神の性交によって島々が生まれたという。そしてイザナミノミコトは、火の神を産んで死ぬ。女性器が焼きただれて病み、嘔吐し、大小便を排泄して死を迎えた。その吐瀉物や排泄物からも、次々に神は生まれた。その神々は豊かな食物を生みだす女神であった。

ところでイザナミノミコトが産み落とした島々にはそれぞれに神名が記されているという。島産みは、同時に神産みであるということだ。島と神が対応し、地名と神名が対応する。そして、それぞれの土地に、それぞれの神がいる。地名があるということは、そこに神がいるということであり、その土地土地の神は「くにつかみ(国つ神)」と呼ばれた。

『万葉集』に「楽浪(さざなみ)の 国つ御神(みかみ)の うらさびて 荒れたる都 見れば悲しも」という歌がある。「楽浪(大津の宮のあった一帯)の国つ神のお心が、荒(すさ)んでしまって、荒れてしまった都を見るのが悲しい」という意味だ。土地の神の心が荒れれば、その土地もまた荒れてしまうというのである。

このように「人格」や「神格」があるように、土地にも「地格」というべきもの認められていた。その土地の霊を祀ることが重んじられるのは当然であったろう。このような考え方は、日本の宗教の根底にあって、現代でも多くの神社が、それぞれの地域の人々によって支えられているのも、そのような考え方が多かれ少なかれ受け継がれているからだろう。

以上は、著者の考察の一端に触れたにすぎないが、当時の文献に沿って古代人の心のあり方をあぶり出すという方法は、説得力がある。そして私にとっては、万葉の時代ですらこうなのだから、本格的な稲作農耕に至らず、周囲の自然により依存していた縄文時代の人々は、山川草木とともにいます神々とさらに生き生きと交流をしていたのだろうと想像させてくれるものであった。

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宗教で争わない日本の良さ(3)

2015年02月16日 | 相対主義の国・日本
今回は、「なぜ日本では宗教間の対立が起こりにくいのか」という問題を、本ブログの柱である「日本文化のユニークさ8項目」に沿って考えてみたい。この8項目を(1)から順にではなく、逆に(全部ではないが)たどると分かりやすいかもしれない。

(8)西欧の近代文明を大幅に受け入れて、非西欧社会で例外的に早く近代国家として発展しながら、西欧文明の根底にあるキリスト教は、ほとんど流入しなかった。

あれほど西欧の文物を崇拝し、熱心に学び、急速に吸収していったにもかかわらず、日本でのキリスト教の普及率はきわめて低かったし、今も人口の0.8パーセントを占めるにすぎない。キリスト教だけでなく、イスラム教なども含めた一神教そのものが日本では普及しない。それはなぜなのか。縄文時代以来の日本人の文化的「体質」によるというのが私の考えだ。そしてその「体質」こそが、宗教間の抗争が生まれにくい背景ともなっている。では、それはどのようなもので、なぜ現代にまで引き継がれたのか。次は三つの項目に沿って考えよう。ここは少し順番を変える。

(4)大陸から海で適度に隔てられた日本は、異民族により侵略、征服されたなどの体験をもたず、そのため縄文・弥生時代以来、ほぼ一貫した言語や文化の継続があった。
(7)宗教などのイデオロギーによる社会と文化の一元的な支配がほとんどなく、また文化を統合する絶対的な理念への執着がうすかった。
(5)大陸から適度な距離で隔てられた島国であり、外国に侵略された経験のない日本は、大陸の進んだ文明の負の面に直面せず、その良い面だけをひたすら崇拝し、吸収・消化することで、独自の文明を発達させることができた。

まず島国日本は、大陸からの本格的な侵略、征服を経験しなかった。民族間の熾烈な抗争を経験することなく、大帝国の一部に組み込まれることもなかった。それは日本が大陸の「普遍宗教」による一元的な支配を受けなかったということをも意味する。「普遍宗教」とはキリスト教、イスラム教、仏教、儒教などだ。もちろん日本文化は、仏教、儒教の影響は大きく受けたが、支配をともなう外部権力による押し付けではなく、自分たちの文化的「体質」に合わせて改変しながら吸収することができた。だからこそ縄文時代以来の「体質」を失わずにすんだのだ。

「普遍宗教」は、それ以前の各地域の伝統的な多神教とは対立する。伝統社会の多神教は、日本では縄文時代の信仰や神道のようなもので、大規模農業が発展する以前の小規模な農業社会か狩猟採集社会の、自然との調和の中に生きる素朴な信仰である。大陸では、それらの多神教と抗争し、あるいはそれらを抹殺しながら「普遍宗教」が成立していった。

ユーラシア大陸のほとんどの文明では、異民族の侵入や民族間の戦争、帝国の成立といった大きな変化が起こり、自然と素朴に調和した社会はほとんど破壊されてしまう。その破壊の後に、キリスト教、イスラム教、仏教、儒教といった「普遍宗教」が生まれてくる。そういう「宗教」が生まれてくる条件が、日本にはなかった。それほどに幸運な地理的な環境に恵まれていたともいえる。仏教の流入時に神道との小さな抗争はあったが、やがて日本の文化的「体質」にあわせて神仏習合が行われる。

このように日本では「普遍宗教」と伝統宗教との深刻な対立・抗争がなかった。抗争がないし、「普遍宗教」の一元的支配もなかったから、社会を一律に統合する絶対的・宗教的な理念への関心も薄かった。理念や原理への関心や執着が薄ければ、それをめぐって争い合う気にもならないだろう。争うどころか融合してしまう。宗教をめぐる日本人のこうした「融合体験」や、絶対的な宗教理念への執着の薄さが、教義を振りかざした深刻な宗教的な対立ほとんど生じさせないのだ。

(1)漁撈・狩猟・採集を基本とした縄文文化の記憶が、現代に至るまで消滅せず日本人の心や文化の基層として生き続けている。
(2)ユーラシア大陸の父性的な性格の強い文化に対し、縄文時代から現代にいたるまで一貫して母性原理に根ざした社会と文化を存続させてきた。

狩猟・採集を基本とした縄文文化が、抹殺されずに日本人の心の基層として無自覚のうちにも生き続けている。その一つの理由は、縄文時代が1万年以上も続き、その心性が日本人の文化的「体質」の一部となったからだろう。もう一つの理由は、日本が大陸から適度に離れた位置にあるため異民族による侵略、強奪、虐殺やその宗教の押し付けによって、自分たちの文化が抹殺されなかったからである。だからこそ、「普遍宗教」以前の自然崇拝的な心性を、二千年以上の長きにわたって失わずに心のどこかに保ち続けることができたのである。

つまり現代日本人の心には、縄文時代以来の自然崇拝的、アニミズム的な傾向が、ほとんど無意識のうちにもかなり色濃く残っており、それがキリスト教・イスラム教など一神教への、無自覚だが根本的な違和感をなしている。縄文時代からの自然崇拝的・アニミズム的「体質」が、一神教に馴染まないのだ。

一神教は、砂漠的な風土の遊牧文化を背景として生まれ、異民族間の激しい抗争の中で培われた宗教だ。それは父なる神を中心に一元的な男性原理システムを構築した。一神教はまた、しばしば暴力的な攻撃性をともなって他宗教・他文化と対立・抗争を繰り返した歴史をもつ。

男性原理的な一神教に対して、それ以前の農耕社会は、一般に地母神信仰に見られるような母性原理的な傾向をもつ。母性原理は、対立・抗争ではなく、多元的なものを包含し、相互に融和する傾向をもつ。農耕以前の日本の縄文的な基層文化も、土偶の表現に象徴されるようにきわめて母性原理的な特質をもっている。

母性原理的な縄文文化とその後の稲作文化とを基盤にして長い歴史を過ごした日本人にとって、父なる神を仰ぐ一神教の異質さは際立っていた。だからこそ一神教は日本では広がり得なかった。絶対的な宗教理念への執着も薄かった。その結果、宗教相互の熾烈な争いに巻き込まれることもなかったのだ。一神教な男性原理や、他宗教とのあくなき抗争を受け入れがたいと感じる日本人の心性は、縄文時代以来の日本の地理的・歴史的な条件によるともいえるだろう。


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日本人の価値観―「生命本位」の再発見
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宗教で争わない日本の良さ(2)

2015年02月13日 | 相対主義の国・日本
近年、英仏独をはじめヨーロッパ諸国でイスラム教国からの移民が増大し、それが様々な対立、混乱を引き起こしている。移民たちは低賃金の肉体労働に従事することが多いが、それがヨーロッパ各国の底辺層の仕事を奪い、失業した人々は移民を敵視するようになる。移民排斥を主張する右派的な政党が出てくる背景だろう。

そうすると移民の側も、彼らの宗教を核に結束し、対抗せざるを得ない。むしろ母国にいたころより宗教的な結束を強めていく。他方、移民を受け入れた側でも、対抗意識が高まり、イスラム教を敵視するキリスト教保守派が台頭する。こうして両宗教の対立はますます強まって、深刻な事態に陥っていく。

◆『無宗教こそ日本人の宗教である (角川oneテーマ21)』島田裕巳(2009年)
一方日本では、移民との宗教をめぐる対立はあまり見られない。日本は移民受入れに積極的でなく、移民の絶対数が少ないこともあるが、それでも海外からの労働者は少なくない。日本で海外からの労働者との間に宗教的な対立がほとんどないことの背景のひとつに、日本人の「無宗教」があるのではないかとこの本の著者はいう。海外から入ってきた人々とって、そういう日本では自分たちの宗教的アイデンティティを強調して、それを核に結束し、対抗する必要がほとんど意味ないのだ。

日本は、自分たちの教義に固執する特定の「宗教」が一大勢力をなす社会ではないので、外国人の信仰に干渉したり、宗教を理由に差別したりすることが少ない。そのため異文化と交わる局面で宗教的な対立を生みにくいのは確かだろう。日本が、そうした社会でありえたのは、独特の地理的条件や歴史的背景があったからだとは思う。しかし、そういう日本のあり方を世界にアピールすることは、特定の神や教義にこだわって対立や抗争を繰り返す愚かさを知ってもらう有効な手段かもしれない。

では、どうして日本はそうした社会になり得たのか。上の本の著者は、その背景のひとつを神仏習合に見ているようだ。神道と仏教が融合していれば、どちらか一つを選んで信仰するのは、かなり無理なことだ。「神道と仏教のどちらかに絞れない結果、無宗教と宣言する人間が増えたのかもしれない」と著者はいう。確かにアンケートに「無宗教」と答える人も、神道か仏教かにこだわらない形で何らかの宗教心はもっていて、ただ特定の宗教や教団に属していないだけかもしれない。かく言う私もその一人だ。

日本に仏教が伝来したことから既に神仏集合の兆しはあった。しかし著者によれば、神道の信仰と仏教の信仰とが、氏神と祖霊が融合することで庶民の生活の中で溶け合ったのは、近世に入って稲作が広まった時期と重なるという。稲作を中心とする村落共同体は、水田の水の管理を含め、村の共同の管理にかかわって、村全体で取り組んだり、決定したりすることが多い。そうした村の結束や統合のシンボルとなるのが、村の神社だ。神社では稲の収穫を祈ったり感謝したりする祭礼が行われる。

一方で村には共同の墓地があり、村に出た死者の葬儀や供養を行うのが村の寺である。それぞれの家では、先祖を祀り、先祖供養を行うが、五十回忌を経た死者は浄化され、個性を失い、祖霊の仲間入りをすると考えられた。柳田國男の説によれば、祖霊と神社に祀られた氏神とは同一のものだという。これも神仏習合のひとつの形だろう。

しかし私には、日本が特定の教義に固執する宗教に支配されなくなった背景は、さらに深い層に横たわっているように思われる。次回以降、日本文化のユニークさ8項目のほとんどに沿って、そうなった文化的・歴史的背景を探っていくことになるだろう。それは、これまでこのブログで考えてきたことを、宗教で争わない日本という観点から振り返り、整理しなおすという作業でもある。(この連載のタイトルは、最初「無宗教こそ日本の力」だったが、「宗教で争わない日本の良さ」に変更したことをお断りする。)

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宗教で争わない日本の良さ(1)

2015年02月12日 | 相対主義の国・日本
◆『無宗教こそ日本人の宗教である (角川oneテーマ21)』島田裕巳(2009年)

2015年1月7日に起こったフランス・パリでのシャルリー・エブド襲撃テロ事件や、続いて起こったISIL(いわゆる「イスラム国」)による日本人人質拘束事件は、日本人の宗教意識に微妙な影響を与えているかもしれない。これら以外でも、西アジアやヨーロッパで宗教にからむ事件や争いは頻発しており、これらが全体として日本人の宗教観に影響を与えている可能性がある。

2001年の同時多発テロをはじめ、その後も頻発し続けるテロの多くは、何かしら宗教を背景にもっている。宗教こそが、世界に対立や混乱を生み、平和の妨げになっているように見える。特定の宗教を熱心に信じるより、日本人のように「無宗教」でいる方が、はるかに価値があるのではないか。日本人は無意識にせよ、そう感じ始めていると著者はいう。では日本人にとって「無宗教」とは何を意味し、それはどんな経緯で形成されてきたのか。それを明らかにするのがこの本のテーマである。

この本に、日本人の宗教意識に関するかつての調査が紹介されている。オウム真理教の事件が起こった1995年以前、「あなたは、何か宗教を信じていますか」という問いに対し、全体のおよそ三分の一は信じていると答え、信じていないと答える人はおよそ三分の二だった。ところがオウム真理教の事件以降は、信仰率は20%台に落ち込んだという。2008年の読売新聞の調査では、何らかの宗教を「信じている」が26・1%、「信じていない」が71・9%で、以前に比べ信仰率が次第に低下している傾向があるかもしれないという。

いずれにせよ世界の平均と比べ、日本人の信仰率の低さは際立っている。2004年のイギリスBBCの調査によると、調査された世界11カ国で全体の9割近くが神を信じているという。ナイジェリア、インドネシア、レバノン、インド、メキシコ、アメリカ合衆国では9割を超え、イスラエルが8割、ロシア、韓国が7割、イギリスも7割近くが神を信じているという結果だ。これらを見ると、日本人の信仰率の低さは世界的に見て、例外的な現象だといえるだろう。

一方で日本人は、初詣や墓参りなどいわゆる宗教的な習俗にはきわめて熱心である。そんな状況を踏まえながらも著者はいう、日本人が「無宗教」であることに対して日本人自身のとらえ方が変化しているのではないか、と。日本人は、宗教について無節操で、寺も神社も参拝し、葬式は仏教、結婚式は神道、近年はキリスト教徒でもないのに教会で結婚式を挙げたりする。かつて、そんな無節操な「無宗教」性を日本人自身が自嘲する傾向があった。今もあるかもしれない。しかし一方で、日本人は近年「無宗教であることに誇りを感じるようになったのでないか」というのが著者の主張だ。

著者がここでいう「無宗教」は、日本人に宗教心や宗教的心性がないということではない。初詣などの宗教的行為(習俗)には多くの人々が参加する。それでいながら特定の宗教に固執して争いあうことはきわめて少ない。私は、そのような「無宗教」性の価値を日本人自身がしっかりと自覚し、むしろ世界に積極的に発信することが、いま重要になっていると思う。そうした視点も踏まえてこの本を紹介していきたい。

もちろんこの本のテーマは、本ブログの関心とも密接にからんでいる。例によって日本文化のユニークさ8項目で言えば、

(7)宗教などのイデオロギーによる社会と文化の一元的な支配がほとんどなく、また文化を統合する絶対的な理念への執着がうすかった。
(8)西欧の近代文明を大幅に受け入れて、非西欧社会で例外的に早く近代国家として発展しながら、西欧文明の根底にあるキリスト教は、ほとんど流入しなかった。

に深く関係し、

(4)大陸から海で適度に隔てられた日本は、異民族により侵略、征服されたなどの体験をもたず、そのため縄文・弥生時代以来、一貫した言語や文化の継続があった。
(5)大陸から適度な距離で隔てられた島国であり、外国に侵略された経験のない日本は、大陸の進んだ文明の負の面に直面せず、その良い面だけをひたすら崇拝し、吸収・消化することで、独自の文明を発達させることができた。

にも何かしら関係しているであろう。いやむしろ、8項目のほとんどが多かれ少なかれ日本人の「無宗教」に関係しているかもしれない。

これらの項目と島田氏の本の内容を関係させて考えながら、なぜ日本人はいま、日本人の「無宗教」の意味を世界にアピールする必要があるのか、この問いに迫ってみたい。

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アニメのユニークさと日本の伝統(3)

2015年02月11日 | 世界に広がるマンガ・アニメ
◆『日本のアニメは何がすごいのか 世界が惹かれた理由(祥伝社新書)

この本では日本のアニメのユニークさを、.蹈椒奪函Ε▲縫瓠↓▲好欹アニメ、K睨‐女アニメ、ぅ筌鵐哀▲瀬襯噺けアニメという視点から捉えていた。私の関心は、これらが日本の伝統とどのように関わるかだった。今回は、そのとい砲弔い童ていこう。

K睨‐女アニメ‥‥母性社会日本

欧米では、「日本アニメでは女の子がヒーローとして活躍する作品が多いのか」と質問される場合が多いという。しかし逆に、欧米ではなぜそういう作品がほとんどないのだろうか。むしろ私たち自身がそう問うべきかもしれない。欧米の方にこそ、男性と女性の役割の違いに関して、文化的に根深い区別意識があるのではないか。それは、一神教という父性原理の宗教を文化的背景としてもっているということであり、それゆえ女が男のような「ヒーロー」として活躍するという発想が生まれにくいということだろう。

日本の文化的伝統は、そのほぼ対極にある母性原理を基盤とするものだった。このブログの柱である日本文化のユニークさ8項目でいえば、

(2)ユーラシア大陸の父性的な性格の強い文化に対し、縄文時代から現代にいたるまで一貫して母性原理に根ざした社会と文化を存続させてきた。

ということである。

父性原理と母性原理の比較についてはこれまで繰り返し語ってきた。ここではひとつだけ関連記事を紹介しておこう(→マンガ・アニメと中空構造の日本文化)。ここでも語ったように、西洋のような一神教を中心とした文化は、多神教文化に比べて排除性が強い。対立する極のどちらかを中心として堅い統合を目指し、他の極に属するものを排除したり、敵対者と見なす。これが一神教の父性原理だ。一神教は、神の栄光を際立たせるために、敵対する悪魔の存在を構造的に必要とする。唯一の中心と敵対するものという構造は、ユダヤ教(旧約聖書)の神とサタンの関係が典型的だ。絶対的な善と悪との対立が鮮明に打ち出されるのだ。また、父性的なものに対して母性的なものが抑圧され、その抑圧されたものが「魔女」のような形をとって噴出し、さらに「魔女狩り」のような集団殺戮を生む背景となっていった。

ひるがえって日本の場合はどうか。縄文人の信仰や精神生活に深くかかわっていたはずの土偶の大半は女性であり、妊婦であることも多い。土偶の存在は、縄文文化が母性原理に根ざしていたことを示唆する。縄文土偶の女神には、渦が描かれていることが多いが、渦は古代において大いなる母の子宮の象徴で、生み出すことと飲み込むことという母性の二面性をも表す。こうした縄文の伝統は、神々の中心に位置する太陽神・アマテラスや、卑弥呼に象徴されるような巫女=シャーマンが君臨する時代にも受け継がれていった。そして、日本はそういう母性原理的な伝統が、男性原理の宗教によって駆逐されずに、現代まで何らかの形で受け継がれてきたのである。

現代日本のアニメ作品に多くの魔法少女が「ヒーロー」として描かれるのは、むしろ日本の伝統からしてごく自然なことなのである。しかし欧米のファンにとってはそれが新鮮だった。女の子が、男のヒーローのように、しかも魔法を使って大活躍する、それは父性原理の強い欧米では生まれにくい発想だった。神は「父なる神」、つまり男性であり、ヒーローもおのずと男性という発想になる。アメリカのセーラームーンのファンは、自分の国に溢れているありきたりの男性スーパーヒーローとのちがいに惹かれていった。普通の女の子がスーパーヒーローに変身する物語に魅了されたのだ。また、誰か一人を特別扱いしたり悪者にしたりする(善と悪の対立)のではなく、さまざまな要素を絡めて描く複雑なストーリーが絶賛されたのだ。 セーラームーンの魅力は、「戦闘とロマンス、友情と冒険、現代の日常と古代の魔法や精霊とが混在し、並列して描かれている点だ」という。物語と登場人物をさまざまな方向から肉づけすることで、ほかのスーパーヒーローものよりも、「リアル」で感情的にも満足できる、というのだ。

海外でのこうした反応からも、日本の魔法少女アニメがいかにユニークなものだったかがわかるだろう。

ぅ筌鵐哀▲瀬襯噺けアニメ‥‥子どもと大人の区別が曖昧な日本

欧米では子ども文化であるマンガ、アニメだが、日本では、はっきりとした区別はなく大人をも含んだ領域としても確立している。マンガ、アニメは、大人が子どもに与えるものではなく、大人をも巻き込んだ独立したカルチャーとしての魅力や深さをもっている。ではなぜ欧米では、マンガ・アニメが子どもに限定されるのか。ここにもキリスト教文化の影響があり、日本はその影響をあまり受けていないという文化的な背景の違いがあるようだ。

欧米では、子供は未完成な人間であって、教え導かなければいけない不完全な存在、洗礼を経て、教育で知性と理性を磨くことで、初めて一人前の「人間」に成るとという子ども観があるようだ。子どもは「人間になる途上の不完全な存在」で、大人とは明確に区別される。一方日本では、もともと子ども文化と大人文化に断絶がなかったからこそ、マンガ・アニメが大人の表現形式にもなり得たのだ。欧米のアニメーションの根底に依然として「アニメーションは子どもが観るもの」という常識があるのとは、まさに対照的だ。

欧米を中心とする世界の常識を唯一無視してきたのが、日本のアニメだった。日本のアニメは、「子どもが観るもの」という常識を無視して、製作者たちがそこで様々な映像表現の可能性をさぐる場となった。その複雑な世界観やストーリー展開の魅力は、アニメーションで育った世界の若者たちに、乾いた砂に水が浸み込むように自然に受け入れられていった。

「子どもが観るもの」には様々な制約がある。その制約がはじめからなければ、マンガ・アニメという表現の場は、逆に限りなく自由な発想と表現の場になる。実写映画は、登場する生身の人間のリアリティに引きずられて発想と表現に自ずと制限がかかる。マンガ・アニメはその制約がなく、想像の世界は無限だ。子どもと大人の領域が融合しているため、エロや暴力の表現が、子供の世界にまで入り込んでいる。これが、批判や拒否の理由とされることもあるが、国際競争力の強さになっている現実もある。

さて、本ブログでは、日本のマンガ・アニメの発信力の理由をこれまで以下の視点から考えてきた。

\弧燭般祇弧拭⊃祐屬搬召寮犬物を明確に区別しない文化、あの世や異界と自由に交流するアニミズム的、多神教的な文化が現代になお息づき、それが豊かな想像力を刺激し、作品に反映する。

⊂さくかわいいもの、子どもらしい純粋無垢さに高い価値を置く「かわいい」文化の独自性。

子ども文化と大人文化の明確な区別がなく、連続的ないし融合している。

そゞ気筌ぅ妊ロギーによる制約がない自由な発想・表現と相対主義的な価値観。

ッ療エリートにコントロールされない巨大な庶民階層の価値観が反映される。いかにもヒーローという主人公は少なく、ごく平凡な主人公が、悩んだりり努力したりしながら強く成長していくストーリが多い。

これらは、あくまでも暫定的なものであり、今回の考察を含めて、今後さらに項目や内容は変化していくと思う。いずれにせよ、世界の若者が日本ののポップカルチャー魅せらるのは、その「オリジナリティ」によるのだろう。そして「日本でしか生まれないものを次々に創り出していく」その独創性の背景には、日本独特の文化的背景がある。それをさらに明らかにしていくのが私の課題だ。

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アニメのユニークさと日本の伝統(2)

2015年02月10日 | 世界に広がるマンガ・アニメ
◆『日本のアニメは何がすごいのか 世界が惹かれた理由(祥伝社新書)

著者・津堅信之氏は、この本で日本のアニメのユニークさを、.蹈椒奪函Ε▲縫瓠↓▲好欹アニメ、K睨‐女アニメ、ぅ筌鵐哀▲瀬襯噺けアニメという視点から捉えていたことは、前回見た通りだ。今回は、そのそれぞれが日本の社会・文化的伝統とどのような関わりがあるかを見ていこう。

.蹈椒奪函Ε▲縫瓠邸邸屮謄ノ−アニミズム」

これは、このブログの中心テーマである日本文化のユニークさ8項目でいえば、

(1)「漁撈・狩猟・採集を基本とした縄文文化の記憶が、現代に至るまで消滅せず日本人の心や文化の基層として生き続けている」

に深く関係する。現代日本人の中に縄文的な心性が流れ込んでいるといっても、では、私たちの中の何が縄文的なのかいまひとつピンと来ない。しかし、私たち日本人の多くが、楽しんで読んだり見たりした作品の中にそれが表れているとすれば、これかと納得しやすいのではないか。

「テクノ−アニミズム」は、アン・アリスンが『菊とポケモン―グローバル化する日本の文化力』の中で使った言葉だ。この本で著者は、縄文時代とか縄文文化とかいう言葉はいっさい使っていない。しかし、鉄腕アトムなどを例にしながら、テクノ-アニミズムという言葉を使って現代日本のポップカルチャーのある一面を特徴づけている。アニミズムとはもちろん、巨石からアリに至るまであらゆるものに精霊が宿っていると感じる心のことだ。それがテクノロジーとどう関係するのか。

鉄腕アトムでは、たとえば警察車両が空飛ぶ犬の頭だったり、ロボットの形もイルカ、カニ、アリ、木まで何でもありだ。マンガ・アニメに代表される日本のファンタジー世界では、あらゆるものが境界を越えて入り混じっているが、その無制限な融合を可能にする鍵が、テクノロジーの力なのだ。メカと命あるものの結合によってテクノ-アニミズムが生まれる。

アトムそのものがテクノ-アニミズムのみごとな具体例だといってもよい。アトムはメカであると同時に、「心」をもった命とも感じられる。正義や理想のために喜んだり、悩んだり、悲しんだりするアトムの「心」に、私たちは感情移入してストーリーに胸を躍らせる。

手塚治虫によってアトムというロボットに「命」が吹き込まれた(アニメイトされた)が、アトム誕生の背後にある道は、かなたの縄文的アニミズムにまで続いている。アトムやドラえもん、初音ミクなどに見られるように、日本人はテクノロジーや機械と生命や人間との境界をあまり意識せず、アトムやドラエもんが人間的な感情を持つことに違和感を感じず、現実のアイドルのように初音ミクに熱狂する。

西欧に共通するキリスト教的な世界観では、人間が世界の中心であり、人間、生物、無生物は明確に区別されるが、日本人にはそういう意識があまりない。生命と無生命、人間と他の生き物を明確に区別しないアニミズム的文化が現代になお息づき、それが多かれ少なかれ作品に反映するから、アトムやドラエもんが生まれてくるのだろう。日本では、伝統的な精神性、霊性と、デジタル/バーチャル・メディアという現代が混合され、そこに新たな魅力が生み出されているのだ。

▲好欹アニメ‥‥「道」の重視

「長期間の放映を通じて、ひとりの主人公の成長を描く『大河ドラマ』的なドラマ構成」という日本アニメの特徴は、それだけ日本人が、野球やサッカーやバスケットボールやテニス、そして囲碁やクラッシク音楽やカルタなどの「修行」を通して人間が成長していく姿を見るのが好きだからだろう。(漫画やアニメが好きな人なら、上にあげたそれぞれのジャンルにどのような漫画・アニメが対応しているかすぐ思い浮かび、そこでどんな成長物語が展開したか懐かしく思い出すだろう。)

それらは、日本人にとってたんなるスポーツや娯楽ではない。野球であろうとサッカーであろうと囲碁であろうと、それぞれの道で厳しい修行を通して、達人の域に達する魂の修行の場だという捉え方をする。そういう文化的な伝統があるから、スポーツや囲碁やクラッシク音楽の「修行」を通して主人公が成長して行く過程を見るのが好きなのだ。そして「修行」を好む日本人の伝統は、禅の修行やその影響を受けた剣道や各種の芸道の修行という伝統につながっているだろう。さらには神道の伝統にまで連なっているかもしれない。

日本アニメと「道」との関係については、今回触れるのが初めてだが、追ってもっと詳しく考えてみたい。


K睨‐女アニメ‥‥母性社会日本
ぅ筌鵐哀▲瀬襯噺けアニメ‥‥子どもと大人の区別が曖昧な日本

については、次回に見ていくことにしたい。


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