瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

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揺れる蓮の葉と彰義隊・YouTube動画作りで感じたこと

2020年10月22日 | 普通の日記
日本に関心を持つ外国人向けにYouTube動画を作り始めて感じたことを書く。昨日は、Ueno park・上野公園をアップした。少し前にアップしたのは、Kiyosumi Garden・清澄庭園である。もちろん、動画で解説する必要があるので、それぞれについてその歴史を含めた関連情報を調べる。そうすると、自分が今まで知らなかったことがいかに多いかを思い知る。

清澄庭園にしても、江戸時代の紀伊国屋門左衛門、明治の岩崎弥太郎などの関係人物、そして関東大震災で多くの命を救ったことなど、ずしりと重い歴史を背景にもっている。松尾芭蕉が隣接する深川の草庵に住み、そこから「奥の細道」の旅に出たことも忘れてはならない。つまり、ひとつの庭園の動画を作ることは、日本の歴史に深くかかわっていくことを意味するのだ。私は、そのことに大きな喜びを感じる。

上野公園にしても、そこは江戸時代、徳川家の菩提寺である寛永寺の広大な境内の一部であったこと。そして彰義隊がこの上野の山、つまり寛永寺の境内に立てこもって最後の抵抗を試みたこと、その結果、寛永寺内の多くの建物が焼失したことなど、深い感慨を感じつつ動画を作った。西郷隆盛の像は管理が行き届いているが、近くの彰義隊の墓は雑草も目立った。不忍の池の無数の蓮の葉が風に揺れる短い映像を挟んだが、上野の戦争で亡くなった人々への思いと重なりあった。

たとえ見る人は多くなくとも、これからも東京の日本庭園、公園そして寺社などの動画を作り続けるだろう。その解説で短く歴史や由来を語るごとに、私は日本の歴史、過去の日本の人々が生きた伝統に深くかかわっていとになるだろう。それは、多かれ少なかれ日本人の精神性に深くかかわっていくことを意味するのだ。

『臨死体験研究読本』の改訂版の出版も、日本文化と悟りという私の最近のテーマも、そしてYouTubeの動画作りも、私の中ではすべて一つの流れに合流していくような気がしている。

★最近、筆者がアップロードしたYouTube動画

→ Kiyosumi Garden・清澄庭園

→ Ueno park・上野公園

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アクセス数が伸びない動画

2020年10月22日 | 普通の日記
上野公園を外国人向けに紹介するYouTubeビデオを作った。かなり時間をかけて作ったが前回の清澄庭園の動画に比べてアクセス数が伸びない。日本庭園の美しさにかなわないのだろうか。ちょっとがっかりだ。しかし、これにめげず、東京の大公園と日本庭園を紹介する動画は作り続けていくつもりだ。

YouTube動画 → Ueno park・上野公園
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母性社会日本の意味(2)

2020年10月18日 | 普通の日記
いま、「日本文化の母性原理とその意味」という論文を書いており、ほぼ完成した。ある紀要に発表する予定だが、ここではその結論部分だけ、二回に分けて掲載しようと思う。今回は、その後半である。

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西洋近代における自然科学の急速な発展は、「近代的自我」の目覚めと無縁ではない。自我を自然対象と切り離し、客観的な観察対象とする姿勢は、観察の意志を持った自律的な主体の成立と分かちがたく結びついている。そして観察者の状況に左右されない「普遍性」をもった科学的な知は、その応用である科学技術と相俟って、全世界を席巻する強大な力となり、その結果、非西欧世界の大部分が植民地化されていったのである。

西洋のような父性原理の一神教を中心とした文化は、母性原理の多神教文化に比して排除性が強い。対立する極のどちらかを中心として堅い統合を目指し、他の極に属するものを排除しようとする。排除の上に成り立つ統合は、平板で脆いものになりやすい。キリスト教を中心にしたヨーロッパ文化の危機の根源はここにあるかも知れない。そして父性原理を背景とする西欧の「近代的自我」も同様の危機をはらんでいると言えよう。それは、ひたすら科学の進歩や経済の発展を目指して突き進む男性像が中心的なイメージとなっている。そのような自我のイメージと相容れない要素が、抑圧され排除される傾向が強いのだ。具体的には、女性的なもの、異質な文化、無意識、そして病や死だ。

これに対し日本人の精神性の根底には母性的なものが横たわり、物事を区分したり一つの極を中心して堅く統合しようとする傾向は弱い。むしろ両極端をも包み込んでいくような融合性、曖昧性を特性とする。父性原理の伝統に根差した近代西欧は、自我を対象から切り離し、客観的に分析する方法を徹底的に洗練させていった。それに対し母性原理の伝統に育まれた日本文化は、融合性や曖昧性、自然との一体性や、仏教で説かれるような宇宙との融合というあり方を洗練させたのである。

このような日本文化や日本人のこころの在り方は、その独特の美学とも結びついている。それが「曖昧の美学」だ。「曖昧」は成熟した母性的な感性であり、母性原理と結びついている。単純に物事の善悪、可否の決着をつけない。一神教的な父性原理は、善悪をはっきりと区別するが、母性原理はすべてを曖昧なまま受け入れる。能にせよ、水墨画にせよ、日本の伝統は、曖昧の美を芸術の域に高めることに成功した。それは映画やアニメにも引き継がれ、一神教的な文化とは違う美意識や世界観を世界に発信している。また日本が、かつては中国文明、さらには欧米の文明をほとんど抵抗なく吸収できたものこの融合性によるのかもしれない。

重要なことは、「日本的自我」の在り方を「近代的自我」と比較し、劣ったものとして批判することではない。むしろ、日本人の自我の在り方の特性を歪めずに、優劣の判断から自由に、事実として正確に把握することである。我々は、すでに西欧で生まれてた科学技術や社会制度を大幅に受け入れ、これからも受け入れ発展させ続けるだろう。それは父性原理も基づく制度を受け入れ、それを枠組みとする社会に生きているということなのだが、自分たちの特性を充分に理解しないまま受け入れたため、あちこちで混乱を生じているのも事実だ。その混乱を少なくするためにも、自らの在り方への十全な自覚がますます大切になる。その自覚によってこそ混乱への正しい対処法が生まれてくるのだ。

また、現代の国際関係は、父性原理の力学で動いているもの厳然たる事実だろう。そこに自らの母性原理を充分に自覚しないまま関わることで無用な混乱や不利益が生じている場合がある。国際関係で不利益を被らないためにも、彼我の違いを明確に認識しておくことが必要だ。先進7ヶ国首脳会議(G7)において、非キリスト教圏からの参加、つまり母性原理の国からの参加は日本だけである。その意味を自覚して行動すべきだろう。さらに言えば、自らの母性原理の在り方を充分に自覚し、それをこれからの世界にどう生かせるか、その積極的な意味を認識することが、今後の日本にとってきわめて重要な課題なのではなかろうか。

★最近、筆者がアップロードしたYouTube動画もご覧ください。

→ Kiyosumi Garden・清澄庭園

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《関連図書》
日本人にとって聖なるものとは何か - 神と自然の古代学 (中公新書)
ユニークな日本人 (講談社現代新書 560)
日本の曖昧力 (PHP新書)
日本人の人生観 (講談社学術文庫 278)
古代日本列島の謎 (講談社+α文庫)
縄文の思考 (ちくま新書)
人類は「宗教」に勝てるか―一神教文明の終焉 (NHKブックス)
山の霊力 (講談社選書メチエ)
日本人はなぜ日本を愛せないのか (新潮選書)
森林の思考・砂漠の思考 (NHKブックス 312)
母性社会日本の病理 (講談社+α文庫)
日本人とユダヤ人 (角川文庫ソフィア)
アーロン収容所 (中公文庫)
肉食の思想―ヨーロッパ精神の再発見 (中公文庫)
日本人の価値観―「生命本位」の再発見
ふしぎなキリスト教 (講談社現代新書)

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母性社会日本の意味(1)

2020年10月17日 | 普通の日記
いま、「日本文化の母性原理とその意味」という論文を書いており、ほぼ完成した。ある紀要に発表する予定だが、ここではその結論部分だけ、二回に分けて掲載しようと思う。

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戦後における日本人論、日本文化論は、R.ベネディクトの『菊と刀』で、日本の文化を「恥の文化」とし、西欧の「罪の文化と比較したのに始まると言ってよよいが、それは同時に二類型による比較文化論の代表例でもあった。この本は今日まで読みつがれ、またこの本に影響を受けたり、それを批判的に乗り越えようとするなどして、その後様々な日本人論が生まれた。母性原理の日本を論じる本稿とこの本の主題は、直接関係しないのでその内容にまでは立ち入らない。しかし、ベネディクトが、日本を「恥の文化」と捉え、西欧の「罪の文化」は内面的な行動規範を重んじるのに対し、恥の文化は外面的な行動規範を重んじるとしたとき、そこに価値判断が忍び込んでいたのは確かなようだ。恥という外面的な行動規範より、罪という内面的な行動規範のほうが優れているという密かな価値判断が見え隠れするのである。さらに言えば、「罪の文化」には、内面的で自律的な行動規範を重視する「近代的自我」に対応し、「恥の文化」は、外面的で他律的な行動規範に影響される「非近代的自我」が対応する。そしてベネディクト以来の、欧米人による多くの日本人論がまた、このような欧米的な価値観を基準にした分析だったのも確かである。

欧米の研究者だけではなく日本人の研究者が日本の社会や文化、そして日本人のこころの在り方を論じるときにも、西欧的な価値基準を絶対視し、それによって日本の在り方を論評するという姿勢から自由になっていない場合がいまだに多い。特に「近代的自我」は、近代民主社会の基盤としてほとんど絶対視される傾向があった。近代的自我を唯一の正しい在り方として捉えるかぎり、日本人の自我の在り方が批判的にしか見れないのは当然であろう。そこから「日本人には自我がない」とか、自己主張が弱く集団に埋没するだとかいう批判が生まれる。

しかし、日本人の自我が西欧人の自我に対して発達が遅れた劣ったものする見方は危険である。すでに見たように日本人は、外(他人)に対して自分を社会的に位置付ける場合、資格よりも場を優先する。資格によるヨコのつながりよりも、会社や大学などの枠(場)の中でのつながり(タテの序列的な構成になっている)の方がはるかに重要な意味をもっている。日本人のアイデンティティは、その個人が所属する「場」によって支えられる傾向がある。そして日本人の自我は、つねに「場」に開かれており、「場」との相互関係のなかで変化する。自他の区別は弱く、自我は曖昧な全体的関連のなかにあり、また自らの無意識との切り離しも強くない。そしてこの事実は、すでに確認してきたように、日本が縄文時代に深い根をもつ母性原理の強い社会を歴史的に形成してたことと深く関係し、この母性原理の社会こそが、日本人の自我形成の基盤となっている。

一方、西洋で生まれた「近代的自我」は、父性原理の一神教、とくにキリスト教の伝統を背景にして生まれたと言えよう。「包含」よりも「切断」を特徴とし、物事を明確に区分する父性原理の思考法は、個の独立という考え方と結びつきやすい。しかし、もちろん最初から個人主義や近代的自我が確立されていたのではなく、キリスト教の伝統が根強かった中世には、個人の意思や欲望が尊重されていたわけではない。父性原理の宗教の基盤の上に、絶対的な神との長い関係と戦いの中で、徐々に人間の自由意志や主体性を確立するに至った。父性原理的な宗教の伝統の中にあり、それに支えられていたからこそ、「個人」の重要性を認識するようになったのだろう。

ここで、本稿の冒頭近くで触れたことをもう一度確認したい。「母性原理」と「父性原理」にしても、あるいは「母性宗教」と「父性宗教」にしても、それは価値的な優劣を意味するものではない。現実の宗教そして文化は、両要素がさまざまに交じり合い融合しており、ともに重要な働きをなしている。どちらが強く働いているかの違いがあるだけである。だとすれば、父性原理をその背後にもつ「近代的自我」を基準として、母性原理に根差す「日本的自我」を一方的に批判するのは、あまり生産的とは言えないでろう。

★最近、筆者がアップロードしたYouTube動画もご覧ください。

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日本文化と精神世界

2020年10月11日 | 普通の日記
最近、日本文化の特徴を以下の9項目から総合的に把握する視点で、この項目に即して論文を書いている。(1)を昨年発表し、今は(3)にかんするものをまとめている。この9項目の中で注目してほしいのは(9)だ。日本文化の精神性について論じるものだ。このブログのテーマにに深く関係する。私の中のふたつの関心、つまり精神世界と日本文化がここで重なる。この9項目の全部を論文にまとめるのは少し先の話になると思うが、日本文化の精神性についても少しづつまとめていきたい。ほかの項目については、他のブログで論じていたのだが、(9)の内容はこのブログのテーマに重なるので、おりおりここでも触れていこうと思う。

(1)日本文化は一貫して、宗教などのイデオロギーによる社会と文化の一元的な支配がほとんどなく、また文化を統合する絶対的な理念への執着がうすかった。 その相対主義的な性格は、以下の項目と密接に関連して形成された。

(2)漁撈・狩猟・採集を基本とした縄文文化の記憶が,現代に至るまで消滅せず日本人の心や文化の基層として生き続けている。

(3)ユーラシア大陸の父性的な性格の強い文化に対し,縄文時代から現代にいたるまで一貫して母性原理に根ざした社会と文化を存続させてきた。

(4)ユーラシア大陸の穀物・牧畜文化にたいして、日本は穀物・魚貝型とも言うべき文化を形成し、それが大陸とは違う生命観を生み出した。

(5)大陸から海で適度に隔てられた日本は、異民族により侵略,征服されたなどの体験をほとんどもたず、そのため縄文・弥生時代以来,一貫した言語や文化の継続があった。

(6)大陸から適度な距離で隔てられた島国であり、外国に侵略された経験のない日本は,大陸の進んだ文明の負の面に直面せず、その良い面をひたすら尊崇し、吸収・消化することで,独自の文明を発達させることができた。

(7)海に囲まれ,また森林の多い豊かな自然の恩恵を受けながら、一方で,地震・津波・台風などの自然災害は何度も繰り返され、それが日本人独特の自然観・人間観を作った。

(8)西欧の近代文明を大幅に受け入れて、非西欧社会で例外的に早く近代国家として発展しながら、西欧文明の根底にあるキリスト教は,ほとんど流入しなかった。

(9)「武道」、「剣道」、「柔道」、「書道」、「茶道」、「華道」や「芸道」、さらには「商人道」、「野球道」などという言い方を含め、武術や芸事、そして人間のあらゆる営みが人間の在り方を高める修行の過程として意識され、それが日本文化のひとつの大きな特徴をなしてきた。

9番目の内容については、「道」の文化という日本文化の大切な遺産を、ほとんど忘れかけているのかもしれない。言葉としては残っていても、その内実を現代人はほとんど受けついていないのではないか。その負の面をも含め、もう一度私たちはこの大切な伝統を思い起こし、その良い面を積極的に現代日本に生かしていくことが、今後の日本の社会にとってきわめて重要なことだと思う。

私のYouTube チャンネル「Spiritual Japan」の最新の動画はこちら 

最新の動画 → Kiyosumi Garden・清澄庭園

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『臨死体験研究読本』の改訂版が出る予定。

2020年10月03日 | 普通の日記
2か月ほどまえに、京都で個人で出版社を経営するという若い人から連絡があり、私が18年前に書いた『臨死体験研究読本』を読んで感銘を受けたので、「ぜひ、うちの出版社から改訂版を出さないか」という誘いを受けた。その後、Facebookのビデオチャットで話たり、東京に出てきたおりに日暮里でお会いするなどし、改訂版を出す方向で話を進めている。

私自身は、あの本を出版して以来、臨死体験の研究を継続しているわけではなく、大幅な改訂は難しいと話したが、私の負担にならない程度で、できる限りでよいということなのでお引き受けした次第である。

それでほとんど10数年ぶりに自分の本を読みなおしてみると、第三者のようにかなり客観的に読めるのだが、自分ながら結構面白く読んだ。改訂版の出版への意欲も高まった。最近の臨死体験関係の本も読み始めた。何よりも、高年齢になってもう一度、臨死体験から大切なことを学べるチャンスをいただいたことを感謝している。精神世界全体への関心も復活しているので、このブログの更新も再び回数が増えるかもしれない。

臨死体験の本を書いたあとは、日本文化論に関心が傾いていたが、最近は日本文化と悟りというテーマにも関心が強くなり、精神世界への関心と融合しつつある。

ただ、この数年は、日本文化についての英語による世界への発信に私の関心が向いており、もっぱらそちらにエネルギーを注いていた。活動場所は、ツイッターが中心であった。

→ Tokyonobo 

ここでいろいろ交流できたことは、日本文化論をまとめるにあたっても、何かしら役に立つのではないかと思っている。

さらに最近は、英語によるYoutubeでの発信も始めた。初心者で不慣れだから動画作りに時間がかかり、まだチャンネル登録者もほとんどいない状態だが、徐々に工夫して発信力をたかめていくつもりだ。

今日は、久しぶりに東京、江東区にある清澄庭園という日本庭園を約6分の動画にしてYoutubeにアップした。今後、日本の庭園や寺社を英語で解説した動画をいくつかアップしていく予定だ。英語での発信がどれだけ通用するか、チャレンジし続けたいと思う。
→ Kiyosumi Garden・清澄庭園

Youtube チャンネルはこちら → Spiritual Japan

このチャンネルを覗いていていただくとわかるように、臨死体験についての動画も二つアップしている。実は、最近自分の臨死体験の本を読みなおして、これは英語で世界に紹介する価値があると思いなおし、少しづつ訳しながら世界に発信していこうと決意したのだ。まだ最初の1ページ分くらいしか、アップロードしていないが、気長にやっていこうと思う。
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臨死体験の本の内容をYouTubeで発信?

2020年04月16日 | 普通の日記
葛飾区立石の桜通り


しばらくこのブログも更新していなかったが、このフォットチャンネルという機能ができているのを知って、これを利用しながら再開してみるのもいいなと思った。最近は、海外向けにツイッターやフェイスブックで発信するのが中心になっている。またここ数週間はユーチューブにもチャレンジしている。そんな活動を紹介しながら自分の心境を語ってみるのもいいなと思ったのである。

ツイッターも海外向けだし、ユーチューブも外国の人々を対象に考えている。とすると英語が問題になるのだが、ここ数回、実験的にユーチューブで発信してみて、英語での発信に少し自信を得た。これで今後、ユーチューブ発信にかなり本格的に打ち込めると思った。何を発信するのかというと、一つは、かつて出版した「臨死体験研究読本」の内容を要約したものを何十回かのシリーズで発信するというものである。実は、すでに一つ、それ関連の動画を投稿し、地味だが着実に見る人が増えているのである。かなり共感したというコメントも2・3もらったので、きっと耳を傾けてくれる人はいると自信をもったのである。英語発信である程度、視聴者を得たら、日本語で発信するのも面白いかなと考えている。

ところで、上の立石の桜は、ユーチューブの動画としても投稿している。以下の動画である。
   ⇒ Cherry Blossoms in my Neighborhood(わが町周辺の桜並木)
ただしこれは英語でのナレーションはなく、動画のみである。

英語のナレーションがあるのは、たとえばこれ。Why do Japanese love cherry blossoms?

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ゴーピ・クリシュナの覚醒・至高体験

2019年09月26日 | 覚醒・至高体験をめぐって
 旧サイト『臨死体験・気功・瞑想』が閲覧終了になったのに応じ、その内容を新サイト『霊性への旅』へと移行させるいる。「覚醒・至高体験事例集」の事例をひとつひとつ新しいサイトにアップしていくが、その都度、ここにその一部を紹介していきたい。今回はゴーピ・クリシュナの覚醒体験である。

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 ごく一部の研究家やヨーガ行者のあいだでしか知られていなかったクンダリニーの教説が、世に広く知られるようになったのは、ヨーガ行者ゴーピ・クリシュナの『クンダリニー 』という著作が1967年に英語で出版されて以来である。この著作でゴーピ・クリシュナは、自分自身のクンダリニーが覚醒していく過程をつぶさに、かつ具体的に語り、その身体的・精神的な変容の有り様を克明に記録した。

 この著作は、東洋の行法に関心をもつヨーロッパやアメリカの若者たちに広く読まれ、クンダリニーの覚醒をめざしてヨーガ行法を行うものが続出したという。

 彼は、もちろん気功家ではないが、気功家を含む広い意味での行者の一人として、彼の体験をここに収録したい。

 ゴーピ・クリシュナは、1903年にインド・カシミールに生まれた。父が世捨て人同然の修行者となってヒマラヤに入ってから、母の期待と愛情を一身に受けて大学に進学。しかし読書に夢中になりすぎて、専門課程への進級試験に落第してしまう。その挫折を契機にして熱心なヨーガの行者となり、昼はカシミール州政府の中級官吏として黙々と堅実な生活を続けながら、毎朝早く休むことなく瞑想の行を続けるのである。
それから17年目、34歳の時、突如として予期せぬクンダリニーの上昇を体験する。 それは最初、筆舌につくし難い至上の幸福感をともなったが、しかし直後に死と隣り合わせの危険と辛苦に満ちた体験に変わる。クンダリニーがシュスムナ管以外のナディ(管)、特に脊髄の右側にあるピンガラから誤って上がると、心身にきわめて重大な混乱がおこり、制御できない体内熱のために時には死を招くことさえあるという。彼は、その最悪の場合を体験しのだ。「体内の器官や筋肉が花火で焼き切られるような、無数の灼熱の針が身体中を走りまわっているような」苦痛が数週間も続いた。精神錯乱の一歩手前までいったとき、ふと正気にもどった彼は最後の賭けをする。もしクンダリニーがシュスムナ管の右側のピンガラを上ったのであれば、その左側の気道イダを開くことでピンガラの焦熱を中和できるのではないか。彼は、最後の気力をふりしぼって一心にイダの気道が開くように念じる。すると、それを待っていたかのように奇跡が起こったのである。

 「パチンと気道に音がしたかと思うと、銀色の流れが白蛇の這うがごとく脊髄をジグザグ状に動いて昇り、最後に生命エネルギーの光り輝く滝となって脳髄に降りそそいだのである。それまで3時間あまりも私を苦しめていた火焔にかわり、至福の白光 で私の頭はみたされた。少し前まで私の神経組織をはせめぐっていた火の流れが、このように突然変わったことに驚き怪しみながらも、私は苦痛がやんだことに深い喜びを感じていた。」
 
 こうして危機を脱したのちも、クンダリニーの光は、彼の中で不断に発光し続けた。それはもはや、焼きつくすような熱気ではなく、すべてをいやす快い温かさをともなっていた。その光によって彼の脳や神経組織は再調整され、意識は、確実に覚醒に向かって拡大していった。彼は、自らの意識の変化をつぎのように語る。
 
 「私は、子供の時から慣れ親しんできた自我に統御された一つの意識単位から一挙に拡大し、光り輝く意識の輪となり、最大限のところまでずんずん大きくなっていった。『私という感じ』は以前と変わらないものの、それはもはや一つの小さく固まった存在ではなくなった。私は四方八方の広大な次元に通達する光り輝く意識の球体の中に包みこまれていた。
 適切な比喩もないが、しいていえば、小さな明かりから出発した私の意識はしだいに大きな光の海に成長し、気がついてみると、自分のまわりを近くからあるいは遠くからとりまく歓喜を放射する大きな意識の中にひたされていた。」

 それは、「認識主体がより広大な視野を獲得」し、「以前より大きくなった表層意識に世界が映しだされる」ような体験だった。その後、瞑想中の喜悦のなかで自己の限界を超えたエネルギーの噴出を許してしまい、再び灼熱のクンダリニーに苦しめられるようなこともあったが、そうした経験を経て彼の意識の座が限りなく広がっていくのも事実だった。彼はつぎのようにもいう。

 「肉体と環境に束縛されていたはずの自分の存在が、名状しがたい形で、とてつもなく大きな人格として拡大し、自分のまわりにある宇宙が不思議にも内在する感じがして、意識そのものといえる大きな宇宙と自分が、自分の内部ですぐさま直接に接触できるのであった。」
 
 こうしてゴーピ・クリシュナの意識の場は拡大するが、同時に彼は、「自分の内と外に知覚するものがゆっくりと輝きをまし始めていたこと」に気がつくのである。たとえば彼は、その知覚の変化をつぎのように語る。  
 
「眼前にある景色は私がよく見慣れていたものであったし、またある意味で、その出来事以前から私がなじんでいたものであった。しかし、私が現に見ていたものは、私を驚きのあまり棒立ちにささるほど異常なものであたった。この世のものとも思われない、何かおとぎの国のような風景が私の前にあった。  
 古めかしい風雨にさらされた建物の正面には別にこれという飾りもなく、その上に青空が拡がっていた。さんさんとした陽の光の中で、建物も空も美しい、しかも荘厳味あふれた銀色の光沢に輝いていて、それがまた、筆舌につくしがたい驚くほど微妙な陰影効果をかもしだしていた。驚き怪しみながら別の方向に目を転ずると、そこでもまたあらゆるものが美しい銀色に輝いていた。あきらかに私のクンダリニー開発は新段階に到達していたのである。私がどちらを向いても何を見ても知覚したあの銀色の光沢は、物体から発していたのではなく、あきらかに自分自身の内部にある光が投射されたものにほかならなかった。」

 こうした意識と知覚の変化ののち、46歳になった彼に突如として詩人としの才能があらわれた。素晴らしい詩句が、インスピレーションのようにひらめくようになり、その詩集の発行などによって彼の名は全インドに知られていった。
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気功家・北沢 勇人氏の覚醒・至高体験

2019年09月15日 | 覚醒・至高体験をめぐって
 2002年3月上旬に検索エンジンで天啓気療院のサイトを見つけ、姉妹サイト『日本の気功家たち』のためのアンケートの回答をお願いしたところ、さっそく詳細に記入された回答をいただいた。その内容は『日本の気功家たち』のアンケート・天啓気療院の項に掲載したが、残念ながら今はもうこのサイトは存在しない。
 ところでその回答の中には、天啓気療院・北沢 勇知氏のチャクラの覚醒、クンダリニーの上昇についての非常に具体的な記述が見られ、しかもそれは至高体験というべきものにつがなっていた。
 さっそく北沢氏に連絡をとり、その部分をこちらのサイトの事例集に掲載させてほしいとお願いしたところ、ご快諾くださった。
 なお、ここに掲載するのは、アンケートの回答に一部、天啓気療院のサイトに載せられた体験談を追加して編集したものである。以下のサイトでは、それぞれのチャクラごとの覚醒の具体的な記述が見られる。

◆発端
 私がなぜ、能力を発揮できる様になったかと申しますと、一級建築士や一級建築施工管理技師などの国家資格を取り建築工事や建築の設計や管理などの仕事をして いたのです。しかし、仕事の状態が思わしくなく悩んでいたのです。そこで約21年前から少しでも会社の経営状態を改善させようと、身体の力が抜け、そして、リラックス状態になったときに出る脳波、アルファー波を、いつ何時でも、出したいときに出せるように、呼吸法や瞑想などを実行し、能力開発をしようと続けていたのです。訓練と修行を続けた結果、平成五年春頃に不思議な体験が始まったことにあります。
 私の体の中からも外からも、不思議な音や声が聞こえ、更に、色々な光や映像が観るようになった。その 後、身体は勿論、精神までも癒せる素晴らしい能力《ハンドパワー治療》が発揮できる。チャクラが覚醒 しクンダリニーが上昇しているので、気功などにて用いるエネルギーとは比較にならない素晴らしいエネルギーで、自我[心や感情、意識や思い]などを変化させ、病気を改善し心も落ち着かせることができるようになった。

◆食事が取れなくなる。瞑想や呼吸法を禁止されて 
  平成9年5月初め頃に、約一週間にわたり、食事がまともに取れなくなり、風邪をひいたような倦怠感と言うか、疲労感をおぼえ、さらに、顔がはれあがり、頭が重く、毎晩のように、例のごとく、身体からは意識が外れ、まばゆいばかりの光や、観たことのない色々な建築物や山、川、過去、宇宙や自分自身などが光り輝いているのを観たり、金の粉が降ってきたりするのを観たり、あいも変わらず、身体がこのままでは壊れてしまうのではと思うほど激しく動いたり、喉の奥よりの変な声もますます激しく出てきていたのです。これは本当に、誰に話をしても「お前の頭はおかしくなった」としか言われないようなことが続いたのです。
 そこで、東京三鷹市の井の頭にある、瞑想や呼吸法を指導している方を尋ね、指導をお願いしたところ、瞑想や呼吸法を指導している方から、貴方の現在のエネルギー状態は、貴方の肉体が絶えることのできる限界を超えているので、如何なる修行も控えること。特に、呼吸法や瞑想などは絶対に控えるほうが懸命であると指導されていたのです。  

◆クンダリニーの上昇やチャクラの覚醒をしてみたくて
  以前より、呼吸法や瞑想などは、絶対に控えることと指導されていたのですが、しかし、平成9年9月初め頃に、神棚の前に座り、三十分ぐらい呼吸法と瞑想をした結果、何時間もしないうちに、身体全体が苦しくなり一週間ぐらい、ほとんど食事も取れず、目を閉じれば恐ろしいほど強い光、山、河、建築物、過去、海の中など光と共に観え、さらに、身体からは意識が外れ、遠くは地球のかなたというか、宇宙の果てまで観る始末で、夜になっても全く眠る事ができず、本当にこのまま、おかしくなるのではないかと大変不安でした。
  そして、苦しい状態が、最高潮に達したときの最後の頃になると、目の中全体が真っ赤になり、瞼が膨れて完全に塞がり、身体全体がむくみ、食事は勿論取れず、身体全体が、ますますつらくなり、ほとんど動くこともままならず、さらに、悪い事には頭全体、特に額の辺りが非常に痛くなり、額が割れるのではと思っていました。その夜、身体全体が焼ける様に熱くなり、大量の汗をかき苦しんでいたのです。そこで再度、瞑想を指導している方に相談したところ、『貴方はなぜ、指導した通りにしなかったのだ、エネルギーは目には見えないが、とても強力で恐ろしく、そして厳しいもので、誤まった修行方法をとると、死ぬ事だってある』と、きびしくしかられた事が思い出されます。  
 また同じ頃、身体から幽体離脱なのか良く解りませんが、意識が抜け出て、見たこともない山の中や、光り輝く海の中や光り輝く建築物等を自分自身が飛びながら観ているように感じたり、本当に強力な光を観たり感じたり、自分の身体の中で、電気でも生産されて流れているようにビリビリとしびれたり、常識では到底理解できないことが数限りなく頻繁に起こりました。その色々な体験があるたびに、何度も書きますが本当にこれからどうなるかと不安でたまらなかったことが思い出されます。   

◆真剣に神様を信じる。そしてクンダリニーが上昇 
  身体全体が焼ける様に熱くなり、大量の汗をかき、そして苦しくなったのですが、そのとき、瞑想を指導している方から、もう取り返しのつかない状態になってしまったのだから、どうすることもできないので、エネルギーを下げるか、神様を真剣に信じて頼む以外はないと指導され、私は、神様の力により守られているので大丈夫と、自分に言え聞かせ、本当に強く信じていたのです。すると、今度は、最初、腹部の中心あたりの内部が熱くなり始め、その後、真っ赤な炎が観え、さらに、本当に大きく燃え盛ってきて、その場所の外部までも真っ赤な炎の海のようになって観え、そして、感じたのです。その後、体全体が青い光を放ちながら燃えたように観え、そして、感じたのです。そのときと、ほぼ同時に、その、真っ赤な炎が観えたあたりの下腹部から、体の中心を通った炎の柱というか、光の柱というかが、最初上方に向い伸びていったのです。
  私としては、この現象は、クンダリニーの上昇に間違いがないと確信したので、いっそのこと、下方にも伸びていってくれないかなと願っていると、今度は下の方向にも伸びていき、さらに、その柱が、こんな事があるはずがないというように非常に太くなり、何万キロメートルもあるかのように途方もなく上下に長く伸びていったのです。そのとき私の意識は、地球のはるか遠く、そして、地球よりはるかに大きく、数十倍もあるように感じ、また、宇宙の空間に横になり浮いていた状態に観え、また、感じたのです。
  クンダリニーの上昇が起こった直後、また、身体全体が青い炎を上げて燃えた様になり、更に、数分もすると、今度は、身体の周辺、特に頭の上面背部周辺が大変に気持ちが良い暖かさを感じ、良く観察すると、仏像、キリストなどの背後などに描がかれているような円形状のものが観え、しかも金色に光り輝き、その直後、頭の天辺部分には、イソギンチャクの頭部が開いた状態に似た形状に、突然大きな口が開き、その中から手筒花火に、火を付けたように、大変きれいな、色々の色の炎が噴き出した状態になり、観え、そして、感じたのです。そして、その炎のような部分が更に下腹部まで下っていき、身体の中心部が燃えたように感じ、そして、観えたのです。そのような出来事があった以後は、体もすこぶる快調になり、また、一段と病気や心の悩みを癒す能力が増してきたのです。    

◆神様にあった感覚になって?
  この体験は、詳しい方に尋ねたところ、無意識の世界と言うそうですが、頻繁に起こるようになりました。


続きは以下でご覧ください ⇒ 気功家・北沢 勇人氏の覚醒・至高体験
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紀野一義氏の覚醒体験

2019年07月21日 | 覚醒・至高体験をめぐって
 旧サイト『臨死体験・気功・瞑想』が閲覧終了になったのに応じ、その内容を新サイト『霊性への旅』へと移行させるいる。「覚醒・至高体験事例集」の事例をひとつひとつ新しいサイトにアップしていくが、その都度、ここにその一部を紹介していきたい。今回は紀野一義氏の覚醒体験である。

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 紀野一義氏を宗教家に入れてようかどうかわからない。在家で数々の一般向けの仏教書を著し、多くの人々の心をつかんで来た人である。私も、本が出るたびに買って夢中で読んで来たし、彼の主催する会に参加し、講演も何度も聴いた。最近ある方に紀野氏の本を紹介したのがきっかけで、ふと以下の文をこの事例集に入れようという気になった。
 私にとって、とてもなつかしく素晴らしい人の体験をここに入れられるのを、とてもうれしく思う。
 文章は、『禅―現代に生きるもの (NHKブックス 35) 』からの掲載である。
 
 わたしは、広島に育ち、旧制の広島高校を出て東大の印度哲学科に学び、二年生のとき学徒動員で召集されて戦場に赴いた。終戦と同時に中国軍の捕虜になり、翌年の春ようやく帰国した。父母姉妹はすでに原爆で死に、故里の町 はあとかたもなくなっていることは未だなにも知らず、ちょうど三月一日、新円切替の日に大竹港に上陸したのである。大竹から広島まで列車で運ばれ、夕方広島駅に降り立った。帰還軍人なのでもの凄い格好をして改札口に出て来たら、柱のかげから若い警官がじっとわたしを見ている。挙動不審と思ったのであろう、「あなた、どこへ行きますか」と訊ねる。「家のあとがどうなっているかたずねて行ってみたい」と答えると、「夜になると強盗が出るから、あなた、行くのよしなさい」という。
 
 わたしは別に盗られるものもなし、「別に恐くないから行きますよ」というと、この警官は人の頭の先から足の先までじろじろ見廻して、「そうですね、あなた、見たところ強盗みたいな風態(ふうてい)だから、まあ大丈夫でしょう」という。こうして、夕方おそくわたしの家のあとをやっと見つけたのであるが、あるのは瓦礫ばかり、雨に打たれて塔婆が一本斜めに立っているぱかりであった。悄然としてまた駅に戻って来ると、駅の柱のかげにさっきの警官が立ってじっとこちらを見守っている。わたしが無事に帰って来るかどうか見ていたのであろう。「どうでした」という。「どうもこうもない。なんにもありゃしません」と、つっけんどんに答えた。すると、「あなた、今晩どこへ泊りますか」という。「どこにも泊るあてはない」というと、「それじゃ、わたしについていらっしゃい」といって、わたしを交通公社の職員の寝泊りしている部屋に連れて行ってくれたのである。
 
 そこで一夜を明したのであるが、そこの若い二人の職員がご飯を炊いて食べさせてくれた。当時は、泊めてやった復員軍人がよく強盗に早変りした時代である。それを二人の青年は泊めてくれた上にご飯まで炊いて食べさせてくれた。その親切がひどくこたえた。見ず知らずの若い二人の青年の無償の親切、これが今日までずっとわたしの心を支配している。大勢の他人がわたしを支えてくれるのだとう感じが、そのときから今日まで変わりなく続いているのである。
 
 それから岡山県の津山という山間の域下町に嫁いでいた姉を頼って行った。姉はわたしが沖縄の戦場で死んだと思っていたから、玄関に棒立ちになって、幽霊でも見るように上から下まで見上げ見下して、台所へ飛んで行って泣き出す。仕方がないのでわたしはひとり仏間へ入って過去帳を一枚ずつめくって六日のところを披(ひら)いた。その過去帳の一枚一枚の重さをわたしはまだ指の先に覚えている。眼をつぶって、思いきって六日のところを披いたら、見たこともない戒名が四つ、ずらっと並んでいた。しばらく身動きもできず、黙っていた。それからのろのろと立ち上り、持って来た甘いものなどを供えて法華経をよんだ。
 
 その晩は早く寝みなさいというので、少し離れた客殿というところに寝た。今でもよく覚えているが、時計が遠くでポーン、ポーンと二つ鳴ったとき眼を覚ましたのである。なにかに胸をぐっと押えつけられたような気がして、びっくりして布団を刎ね返して飛び起きたら、背中のあたりから全身の力が抜け落ちて腑抜けのようになって、恐ろしいほどさびしくなって、恥ずかしい話だが二時間ばかり獣のように泣いた。人間は一生の中一度は獣のように泣く時があるそうであるが、その時がそうだったのかも知れぬ。布団を引っ被って坤きながら泣いて、泣いて、泣き通した。
 
 それが、不思議なことに、四時になって時計がボーンボーンポーンポーンと四つ鳴ると同時に、それこそ憑き物ものが落ちるように、ストッと一時になにかが抜け落ちた。それを境にして、さびしくもかなしくもなくなったのである。父も母も姉も株も、死んだという感じがまるでしなくなったのである。体の中からなにかが脱け落ちた。死んだんじゃない、仏のいのちに帰ったのだという確信がぐんぐん胸の中にひろがって来た。そのとき思い出したのが、死んだ父親の教えてくれたことばである。子供のときから教えられたことばである。
「人間というものはな、死んだら仏のいのちに帰るんだ。死ぬんじゃない 。仏のいのちに帰るんだ」
 
 それまでどういうことなのかよく分らないでいたそのことばが、はじめて、ずしいんと体の底までこたえた。
 
 人間のいのちは死ねば仏のいのちに帰る。この考えはそのとき以来ずっと変っていない。いよいよ深くなるばかりである。知人朋友を亡くしてもこの思いに変りはない。もちろん、人間のことであるから、さびしさ、かなしさ、せつなさには堪えぬ。しかし、それだけではない別のもの、仏のいのちに帰したという安らかさがいつもわたしの感慨の底に横たわっているのである。
 
 わたしは、今でも自分のまわりに父母や姉妹が居るような感じを持っている。それは証明しろといわれても証明のしようがない。証明しようがないだけそれだけわたしにとってはどうすることもできない真実である。
 
 この二時間の慟哭の中で感じとったのは、なんともいえぬむなしさであった。死ぬべきはず の者が生きのび、生きであるはずの者たちが死ぬ。せっかく生きのびて故国に還って来たのに、愛する者たちはみな死んでいたというこのむなしさは忘れられぬ。同時に、このむなしさの向うからひらけて来たあの大らかな世界も忘れられぬ。わたしの心の中にはいつもこの二つのものがある。空しさの方は「虚空」、大らかさの方は「空」。わたしの心の奥には、虚空と空とが重なり合
っているようである。
 
 こういう意味の「空」ならば、わたしにはよく分る。いろんな人と話していると、眼の色や態度で大体どんなことを考えているか分る。わたしが今まで出会った人々の中で、なつかしいと思った方々はほとんど全部、この空しさを通り抜けて「空」に至った方ばかりである。円覚寺の朝比奈宗源老師しかり。南禅寺の柴山全慶老師しかり。藤沢市鵠沼に、ご退隠の中川日史貌下しかりである。
  
 現代に生きているわれわれは、空しいということをほんとうに体験し、それを突き抜けたところにほんとうの空がひらけて来るのだということをよく味ってみるべきである。
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鈴木一生氏の覚醒体験

2019年07月19日 | 覚醒・至高体験をめぐって
 旧サイト『臨死体験・気功・瞑想』が閲覧終了になったのに応じ、その内容を新サイト『霊性への旅』へと移行させるいる。「覚醒・至高体験事例集」の事例をひとつひとつ新しいサイトにアップしていくが、その都度、ここにその一部を紹介していきたい。今回は鈴木一生氏の覚醒体験である。

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以下に『さとりへの道―上座仏教の瞑想体験 』(春秋社)の中に記された、著者:鈴木一生氏の体験を取り上げる。
 鈴木氏は、天台宗で得度し僧籍をもつ人だが、上座仏教と出会い、激しい葛藤の中で、これまで学んだ大乗仏教、とくに法華経信仰を捨てて上座仏教に帰依していく。著書には、その過程、またヴィパッサナー瞑想で目覚めていく過程が、具体的にわかりやすく記述されていて、興味つきない。
  瞑想には、止(サマタ瞑想)と観(ヴィパッサナー瞑想)があり、心をひとつのものに集中させ統一させるのがサマタ瞑想だ。たとえば呼吸や数を数えることや曼陀羅に集中したり、念仏に集中したりするのはサマタ瞑想だ。
 これに体してヴィパッサナー瞑想は、今現在の自分の心に気づくというサティの訓練が中心になる。  この違いが、彼の修行体験を通して具体的に生き生きと語れており、すこぶる興味深い。ヴィパッサナー瞑想の段階的に非常に体系化された修行法がわかって面白い。その一段一段で、彼がどんな風に悩み、それを克服して行ったかが克明に記され、サマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想の違いが自ずと浮き上がる。
 ここでは、ミャンマーでの修行中に起こった「解脱」体験の部分と取り上げる。 

◆「これは、もう、 言葉には表せない……」
  その日、私はさらにまた不思議な体験を味わいました。そのころ、私の瞑想修行は正午に道場で座りはじめると、そのあと六時間ほどはまったく動かずに座禅瞑想に入るのです。ほんと うは、これもヴィバッサナー瞑想法としてはあまり感心できる方法ではないのです。ところが、 その日は座禅瞑想に入って二時間ほど経ったあとこれまで一度も体験したことのないほどの強烈なサーマディの感覚を味わったのです。それは最初、からだじゅうの毛穴という毛穴が逆立 つと言ったような感覚からはじまりました。それとともにこれまでクリアに観察できていた自分の呼吸が、どういうわけかそのときに消えてしまったとでも言えばいいのか、呼吸が消える とはちょっと考えられない状態なのですが、しかしたしかに、私のからだは呼吸をすることを やめてしまっていたのです。それと同時に、生まれてこのかた一度も経験したことのない、安寧な心持ちとでも言うのか、まるで法悦境に混るが如くの世界に自分がいるような気持――。 この世のできごととはとても思えませんでした。もしこれが天界というところなら、もうこのまま死んでもかまわない――そこまで思わせるような喜悦の世界だったのです。ほんとうは、そこでサティをしなくてはいけないのですが、あまりの法悦にその世界が消えてしまうことを恐れて、私はじっとその世界に遊ぶ心を楽しんでいたのです。
 何ものにも代えがたい、強烈な喜悦の世界でした。心もからだも何も存在しない。一切の感覚がなくなって、これほどまでの喜びの世界があったのか、こんな境地にまで心は行くことができるのか。心とはなんとも不思議なものだ、と私は喜悦感にただ浸っていました。あのときの状態を、今もう一度ここで表現しようとしても、それは不可能だろうと思います。「心身脱落」と道元禅師は言われましたが、私の体験もまさにそれではないかと思ったものです。身体も心(呼吸)もまったく消滅してしまったあとの感覚と言っていい、まさに強烈なサーマディ の体験でした。
 桃源郷に遊ぶとでもいうのか、あえて言えば、私は経験がありませんから観念的にしかわか りませんが、麻薬を一気に吸引したようなものであったと一言えるかもしれません。脳内モルヒ ネが大量に放出されていたのかもしれません。巨万の富、たとえば一〇〇億円と引き換えよう と提案されても拒否し、手放せないようなとてつもない安楽感でした。このまま死ぬことになってもまったく悔いの残らない、いや事実私はこのまま死にたいとさえ思ったのです。自分の呼吸さえ消滅してしまうとは、いやはやこれだけはだれにも、どう説明しても信じてもらえな いような現象を体験していたのです。

◆これを 「解脱」というのか
  どのくらいの時が流れたのでしょうか。何分、否数十秒のことだったのかもしれません。時 の概念すら失念していましたからよくわかりませんが、呼吸が停止していたのですからたぶん数十秒だったのでしょう、私はふと、「いけない、サティしなければ」と気がつきました。今、自分はヴィバッサナー瞑想中だったのだと、それすらにも思いが行っていないことを知ったのです。
  「ノーイング、ノーイング」と私はサティをはじめました。「ノーイング=知っている」とサティしたのは、おなかにも呼吸にもどこにも意識がいっていないために、サティする対象がなかったからです。肉体のどこにも存在感を示す部分がない、つまり一切の感覚がないために、サティを切らさず、言葉によって意識を集中するための手段として「ノーイング」という言葉 があるのです。
 「ノーイング、ノーイング」とサティを再開するとたんに、この世のものとは思われないほど のあの喜悦感は嘘のように霧散し、すぐさまおなかの膨らみ・縮みの現象がくっきりと浮かんできました。えも言われぬ貴重な体験をした際であり、この機を逃してはならじとばかりに私はどこまで細かくサティができるものなのか目を凝らすような感じでおなかの動きに集中しました。おなかの膨らみが、それはまるで海の大きな波のうねりのような感覚を持って意識されます。"ずー、ずー、ずー”たゆとう海原を緩やかに押し寄せるがごとく膨らんでいき、最後はさざ波が細かく砕け散っていく様で頂点を迎えます。その刹那の鋼鉄のような鋭い膨らみのあとに、また波が海原に帰っていくように消えいるような、引いていくがごとくおなかの縮みが観察されるのです。その一瞬一瞬がまるでストップモーションの映画を見るようにひとコマひとコマずつ停止され、一刹那の動きも漏らすことなく心を凝らして観ていられるのです。


続きは次でご覧ください。⇒ 鈴木一生氏の覚醒体験
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玉城康四郎氏の覚醒体験(3)

2019年07月18日 | 覚醒・至高体験をめぐって
 旧サイト『臨死体験・気功・瞑想』が閲覧終了になったのに応じ、その内容を新サイト『霊性への旅』へと移行させるいる。「覚醒・至高体験事例集」の事例をひとつひとつ新しいサイトにアップしていくが、その都度、ここにその一部を紹介していきたい。今回は玉城康四郎氏の覚醒体験(3)である。

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 玉城康四郎氏については、すでにその若き日の至高体験をその(1)で、また、最晩年、「七十八歳の十二月の暮れ、求め心がぽとりと抜け落ちて以来、入定ごとに堰を切ったように、形なき「いのち」が全人格体に充濫し、大瀑流となって吹き抜けていく」という体験を、その(2)に紹介した。
 しかし、氏の「仏道を学ぶ」という求道記のなかには、78歳以前の晩年にも、以下のような記述がしきりに見られる。氏にとっては、それらはまだ徹底しない体験だったのだろうが、ここにその一部を収録して少しでも多くの方に読んでいただく価値は充分にあると思う。以下も『ダンマの顕現―仏道に学ぶ 』(大蔵出版)よりの収録である。

七十歳 ( 昭 和 六十一年 )
 何とも表現できぬバック・グラウンドの強烈な力、全人格体を背後から射抜き、全人格体、内部から震え出す。ビッグバン以来、今初めて、ダンマ、この人格体に開き初めぬ。

 意識の裏に体があり、体は宇宙に直結する。意識がだんだん問題でなくなり、確かなものが、宇宙から外へと伝わってくる。禅定の姿はいろいろ変わるが、変わらぬものは、ますます確かなものへ と方向づけられていく。
 入定……煩悩なく、悟りなく、解脱なく、生死なく、涅槃なし。然れども、在るなり、動くなり、 働くなり。
 入定……太陽、我を撲滅して、虚空果てなきが如し。我なく、全人格体なく、解脱なく、煩悩なく、 生死なく、涅槃なし。しかも、「在る」のでもなく、「動く」のでもなく、「働く」のでもなけれども、一切の想念を打ち亡ぼして、在らしむるなり、動かしむるなり、働かしむるなり。

  業熟体の根っこが開(あ)いてきた。ブラック・ボックスでなくなってきた。どこまでも開いていく、毘盧遮那仏が果てしなく根づいている。何と不思議な全人格体であろう、全人格体が不可思議を満喫している。

七十五歳(平成二年)
 入定……全人格体が、物理的仕組みまで、如来によって改造されつつあり、魂そのものが、無条件に如来に導かれていく。
 
入定……業熟体に穴あく。懸命に集中すればするほど、穴が確かなものになっていく。それこそ、 ダンマ・如来の噴き出る穴。  
  
 入定……阿弥陀如来、仏国土に誘い給う、薄明の清澄な宮殿に入りたるが如し、荘厳警えようもなし。
 
入定……如来、通徹し給う。ただひたすら如来を憶念す。憶念すればするほど、全人格体、法熟す。 二十五年前、禅宗の坐禅に訣別れて、ブッダの禅定を学び始めてより、今ようやく自己自身の根本問 題、融けつつあり。
 
一大眼光、透徹。ブラフマン徹透。眼光ただ未来界を見透す。これまでの禅行者のなかに、なお大悟に固執している誤りのあることが分かる。
 
禅定のなかで、業熟体の底なき底から、未知の混沌が、生々と「いのち」となって噴出する、どこまで も、どこまでも。いったいどうなるのだろう、興趣まさに津々。
  大宇宙の、底知れぬ、ただひとつの穴より、噴きあがる「いのち」そのものよ、全人格体、五体投地せり。
 
宇宙の「いのちそ」のもののなかに入定しているうちに、すんなり、率直に、「われは宇宙の子なり」という思い、顕わになり、やがて「いのち」そのものが、深々と、循々と伝わり、ついに通徹しつづけていく。
 
入定するや、突如、宇宙そのものが顕わになり、一切が開放され、開放という思いも消え、動態そ のままという外はない。全境地が活動そのもので、あらゆる細胞が赫々と開け切っていく。どこに も暗がないばかりか、光のイメージも消える。Dynamic Development Itself.
 
大黙の、底よりいづる、金剛戒、わが格体を突きやぶりたり。
 この己を、ずーっと戻してみると、おのずからにして、おのずからなる「いのち」そのもの、果てしな き無量寿にいたる。 この世に存命中に、己とブラフマンを軸とする科学的宇宙の解明が目論まれていたが、今やその基本線が明らかになろうとしている。 己の欲する所に従って、ダンマ離れざるのみならず、欲する所を尽くせば、尽くすほど、ダンマ全徹し、体通す。大いなる冥定、杜絶なき動態。

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玉城康四郎氏の覚醒体験(2)

2019年07月15日 | 覚醒・至高体験をめぐって
 旧サイト『臨死体験・気功・瞑想』が閲覧終了になったのに応じ、その内容を新サイト『霊性への旅』へと移行させるいる。「覚醒・至高体験事例集」の事例をひとつひとつ新しいサイトにアップしていくが、その都度、ここにその一部を紹介していきたい。今回は玉城康四郎氏の覚醒体験(2)である。

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 玉城康四郎氏の若き日の至高体験については、すでに取り上げた。玉城氏は、若き日の苦悩のなかで一時的に大爆発を起こし、覚醒するものの、しばらくするとまたもとのもくあみに戻ってしまう、ということを何度か繰り返した。一時は、今生で仏道を成就し覚醒を得ることに絶望することもあったが、それでもひたすらに仏道を求め座禅を続けた。
 そして最晩年に、ついに下に見るような真の覚醒に至るのである。求道への、その真摯でかわることのない熱情は頭が下がる思いである。
 以下も『ダンマの顕現―仏道に学ぶ 』(大蔵出版)よりの収録である。

◆ダンマ顕わとなる
 禅宗の坐禅に替わって、ブッダの禅定を学び始めてからもう三十年になる。そのあいだにブッダに学んだ基本は、
「ダンマ・如来が、業熟体に顕わになり、滲透し、通徹しつづけて、息むことがない」
ということである。
 
 ダンマ・如来とは、形なき「いのち」そのものであり、言葉をこえた純粋生命である。業熟体とは、限りない以前から、生まれ替わり死に替わり、死に替わり生まれ替わり、輪廻転生しつつ、そのあいだに、生きとし生けるもの、ありとあらゆるものと交わりながら、いま、ここに実現している私自信の本質であり、同時に、宇宙共同体の結び目である。もっとも私的なるものであると同時に、もっとも公的なものである。それは私自身でありながら、その根底は、底知れぬ深淵であり、無明であり、無智であり、黒闇であり、あくた、もくたであり、黒々とつらなっていく盲目の生命体である。それは私自身であると同時に、宇宙共同体である。このような業熟体にこそ、ダンマ・如来、形なき「いのち」そのものが、顕わになり、通徹しつづける。それは、あらゆる形を超えながら、あらゆる形を包みこ む永遠の働きである。その働きの真っ只中で、その働きに全人格体を打ち任せながら禅定を行ずる。 ブッダは、そう教えてくれるのである。
 
 この禅定を連日習いつづけているうちに、きわめて徐々にではあるが、ダンマ・如来が、禅定のたびごとに私自身に顕わになり、そして、年を重ねれば重ねるほど、急速、かつ強烈に私の全人格体を通徹する。もとより、ダンマ・如来の人格体における熟し方において、ブッダと私とは天地の相違があるであろう。ブッダは、億劫の修行の後に地上に生まれ、かつ命懸けの苦行の末、入定して悟りを開いたのである。盤珪は、尻も破れ、血を吐き吐き、坐禅に打ち込んだ。私は、ただ安閑として、老師の指導を受け、ブッダの禅定を習っただけである。法熟において雲泥の差のあることはいうまでもない。しかしながら、ブッダに顕わになり、盤珪を貫き、そして私の心魂にひびきわたってくるいのちそのものにおいては、寸毫の違いもない。なぜなら、それは、言葉を超え、観念を超え、時空を通貫して、じかに私の全人格体に透徹してくるからである。しかもそれは、まったく我ならぬ、しかも徹底して我にまで成りおおせる、宇宙自体の、自然のなかの、もっとも自然なるいのちそのものだからである。(「盤珪と私」より)

◆「仏道に学ぶ」:78歳
 12月14日、ふと気がついたら、求め心が、ぽとりと抜け落ちていた。爾来、入定ごとにダンマ・如来、さまざまな形で、通徹し、充溢し、未来へと吹き抜け給う。ありがたきかな、最後の一息まで、如来の真実義に随順してゆく。わが物顔よ、物知り顔よ、自性よ、ただひたすら、頂戴してゆこう。


続きはこちらでご覧ください。⇒ 玉城康四郎氏の覚醒体験(2)
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玉城康四郎氏の覚醒体験(1)

2019年07月14日 | 覚醒・至高体験をめぐって
 旧サイト『臨死体験・気功・瞑想』が閲覧終了になったのに応じ、その内容を新サイト『霊性への旅』へと移行させるいる。「覚醒・至高体験事例集」の事例をひとつひとつ新しいサイトにアップしていくが、その都度、ここにその一部を紹介していきたい。今回は玉城康四郎氏の覚醒体験(1)である。

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 ここに仏教学者・玉城康四郎氏の若き日の至高体験を収録する。氏は学者であると同時に求道の人であり、深い宗教体験も持つ人であるが、その求道は苦難の連続であったようである。以下の至高体験は氏の『冥想と経験 』その他、いくつかの著書の中に記述が見られるが、ここでは『ダンマの顕現―仏道に学ぶ 』(大蔵出版、1995)から収録する。
 氏は、こうした苦難の連続のあと、晩年に覚醒を得るが、それは項を別けて収録する。
東大のインド哲学仏教学科に入学した玉城氏は、奥野源太郎氏に師事し座禅を続ける。文中先生とは奥野氏である。

私は、先生に就くだけではなく、専門の道場でも行じてみたいと思い、先生の許しを得て、円覚寺の接心にしばしば参じた。接心とは、一週間境内に宿泊してひたすら坐禅を行ずることである。われわれ在家も坊さんとともに坐り、坊さんとともに提唱(ていしょう:老師の講義)を聴く。その他、起居動作すべて同じ共同体である。午前二時に起床、午後十一時まで坐りとおす。その間に、提唱、食事、独参(ひとりひとり老師に参じて問答)、午後の小休止があるだけ。今にして思えば、専門道場の修行を垣間 見(かいまみ)ることができて、何よりの功徳であったが、当時は、坐れば坐るほど身も心もへとへとになり、悩 みは深くなるばかり、坐禅の外は何事も手に就かず、ただ悶々の日々を過ごすぼかりであった。。
  そうした或る目、忘れもしない、正確には昭和十六年二月七目の午後である。私は本郷座(本郷三丁目の映画館)に、フランス映画「ノートルダムのせむし」を見た。何とも奇妙な内容である。その印象が、 私の得体の知れぬ心態にぐさりと刺さり、どうにもならなくなって館を出て、東大図書館の特別閲覧室にかけこんだ。すでに夕暮れで、室の中にはわずかの学生がいるだけで静まっている。鞄(かばん)は手放していなかったとみえる。その中から『十地経(じゅうじきょう)』を取り出して、初めの歓喜地(かんぎじ)の所を見るともなしに見ていた時である。
何の前触れもなく突然、大爆発した。木っ端微塵(こっぱみじん)、雲散霧消してしまったのである。どれだけ時間が経ったか分からない、我に帰った途端、むくむくむくと腹の底から歓喜が涌きおこってきた。それが最初の意識であった。ながいあいだ悶えに悶え、求めに求めていた目覚めが初めて実現したのである。それは無条件であり、透明であり、何の曇りもなく、目覚めであることに毛ほどの疑念もない。 私は喜びの中に、ただ茫然とするばかりであった。どのようにして、本郷のキャンパスから巣鴨の寮 まで帰ってきたか、まったく覚えがない。
  いったいこの事実は、どういう意味を持つものなのか、その後ながい間の仏教の学習と禅定を重ねるうちに次第に明らかになってくるのであるが、その当座はただ歓喜の興奮に浸るのみであった。その状態は一週間ほど続いたであろうか、それからだんだん醒めてきて、十日も経つとまったく元の木阿弥(もとのもくあみ) になってしまった。以前となんら変わることはない、煩悩も我執もそのままである。そもそもあの体験は何であったのか。単なる幻覚が、いやいやけっしてそうではない。爆発の事実を否定するこ とはできない。しかしそのことをいかに詮索しても、現に煩悩、我執のままであることはどうしよう もない。
悩みは出発に戻って、さらに倍加し、ともかく坐禅を続け、手当たり次第に学んだ。それから一月ほど過ぎた頃であろうか、図書館の窓際の椅子にくつろいで、デカルトの『方法叙説』を読みつづけ、 コギト・エルゴ・スム(我思う故に我あり)に到ったとき、突然爆発した。同時に、古桶の底が抜け落 ちるように、身心のあくたもくたが脱落してしまった。なんだ、デカルトもそうだったのか、そうい う思いに満たされた。
  かれは二十三歳のとき見習士官で出征し、ダニーブ河畔で越年した。そのある夜、焚火(たきび)の燃えるのを見ていたとき、驚くべき学間の根底を発見したという。それから九年のあいだそのことを暖めて、ついに『方法叙説』の執筆となったのである。これは単なる思索の書ではなく、全力を傾けて書かれている。コギト・エルゴ・スムは、「我思う」そのことが同時に「我あり」ということである。意識 と存在とが合致している。そのことに思い至ったとき、私もまた、あくたもくたが脱落してしまった のである。
  このときは、その体験は明らかにデカルトとつながっている。しかし最初の大爆発は、『十地経』 の歓喜地に関わっていたかどうか、まったく分からない。無意識のうちに依りかかる所があったのかもしれない。また、この体験は、最初に比べると、ごく小さな爆発であるが、体験そのものは同質で ある。そしてこの時もまた、数日のうちに元の木阿弥に戻ってしまった。



続きは以下でご覧ください。⇒ 玉城康四郎氏の覚醒体験(1)
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禅僧・白隠の大悟まで

2019年07月08日 | 覚醒・至高体験をめぐって
 旧サイト『臨死体験・気功・瞑想』が閲覧終了になったのに応じ、その内容を新サイト『霊性への旅』へと移行させるいる。「覚醒・至高体験事例集」の事例をひとつひとつ新しいサイトにアップしていくが、その都度、ここにその一部を紹介していきたい。今回は禅僧・白隠の事例である。

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 以下にいくつかの資料を参考に、白隠の大悟に至るまでの経過を記す。
 二十四歳から二十五歳に至る一年間、白隠の禅境の一大変化が到来したという。
「二十四歳の春、越後の英巌寺におった。無学を提起して終夜眠らず、寝食ともに忘れていた。忽然として大疑 現前の状態になった。万里一条の層氷の裡に凍殺されるかの如く、胸の裡は分外にさっぱりしている。そして進 むこともできず、退くこともできず、ばかになってしまったようで、ただ無字があるだけである。講義の席に出 て師匠の評唱を聞いても、数十歩外に離れて、講堂の上の議論を聞くようである。あるいは空中を歩いているよ うでもあった。
 そのような状態が数日つづいたが、ある晩鐘の声を聞いて、がらがらとそれが崩れた。水盤の破砕、玉楼の推倒といったようなものだった。そこから忽然として蘇って来ると、自分が巌頭和尚そのものであっ た。三世を貫通して毛一本をも損せず、従来の疑惑も根底から氷のように消えてしまった。
 大声で叫んで言った。
 『不思議だ、不思議だ、不死の逃れ出るべきものなく、菩提のもとむべきものもない。法灯を伝えているといわ れる公案千七百則も、一向ものの役には立たぬ』と。
 そこですっかり得意になり、天狗になって、心ひそかに言 った。『二、三百年以来わしほど痛快にぶちぬいたものはないだろう』と。」
 大悟した白隠慧鶴は、その所見を 性徹和尚に提したが、一顧だにも与えられなかったという。しかし、白隠は、「三百年来、未だ予が如き痛快に了徹するものはあらず、四海を一掃して誰か我が機峰に当たらん」と自ら思ったという。若者の増上慢の言葉であろうが、それほどに見性が了々としていたのだろう。
 そのころ白隠慧鶴は信州から来たある禅者に会い、彼の師・正受老人が飯山の上倉村にみずから結んだ正受庵に住 していることを聞き、四月、その禅者の案内で正受庵をたずねた。たまたま正受老人 は柴を刈っていたが、案内した禅者がこの青年僧を翁に紹介すると、翁は「うん」と素気なくいっただけだった。
 その後、彼は許しを得て入室し、一篇の偈(げ)を呈すると、翁は「こんなもの は学んで得たもの、お前が実地に佛心を徹見したところはどうなんだ」と迫る。彼は「そんな ものがあれば、吐き出してしまいますよ」といって嘔吐の声をした。
 翁は彼をひっとらえて 「趨州の無学を何と見るか」とせめよった。慧鶴「趨州の無学とても手をつけるところなしですよ」と言葉を返したが、翁は彼の鼻頭を抑えて「なんとこんなに手がつけられるわ」といい放った。
 彼はこの時、全身汗流れ、高慢心をへし折られた。翁は高々と笑いながら「このあなぐら禅者め。これしきの境涯で満足しているか」といい、白隠は返す言葉もなかったという。
 その後、翁は彼を見るごとに「このあなぐら禅者め」と叱りつけ、入室の際、彼が門をまたぐ と見るや「なんと落ちこんでいるぞ。楼上から 井戸の底を見ているようだぞ」といわれ、わず かに口を開くと、一喝されて押し出される始末。
 彼は心中穏やかならず、これは翁がかつての自分の痛快なる悟りを知らないからの仕打ちに違いない。こんどこそは死を賭しても徹底的に間答しようものと決意して、ある日入室、所解を呈すると、翁は彼をひっとらえ、数十回鉄拳をくらわせ、押し倒し、彼が縁の下に落ち て茫然としているのを見ながら、からからと大笑いしていた。
 その後、彼は胸つまる苦悶の数日が続いたが、ある日托鉢に出て、とある家の前に立っていると「他の家へ行きなよ」という老婆の声がしたが、彼はうっとりと忘我して立ち続けた。老婆は怒り、大きな竹箒を振り動かして「この坊主、よそへ行けというのにまだここでぐずぐずし ているとは」といって、彼を打った。
 その瞬間に、彼は透脱して本心に開眼したという。歓喜 を内に包んで帰庵し、まだ門のしきみをまたがないのに、正受老人彼を見るや、喜んで「汝徹せり」と いわれた。
 その後、八か月余り、慧鶴(後の白隠禅師)は、翁の左右に侍して、日夜入室、そ の蘊奥きわめ、飯山を後にした。
《参考文献》
『日本の禅語録〈第19巻〉白隠 (1977年) 』 鎌田茂雄、講談社
『さとりの構造―東西の禅的人間像 (1980年) 』安藤正瑛、大蔵出版
『死と生の記録―真実の生き方を求めて (講談社現代新書 144) 』佐藤幸治、講談社

★白隠慧鶴 〈はくいんえかく〉 1685~1768 
禅宗の一派・臨済宗中興の祖、江戸時代中期の禅僧。諱(いみな)は慧鶴(えかく)、鵠林(こくりん)。駿河国、現在の静岡県沼津市原〈はら〉に生まれた(貞亨2年12月25日)。幼時に地獄の話に恐怖し、その恐怖からのがれようと天満天神に祈願するが、みたされず、15歳の時、原の松蔭単嶺〈たんれい〉和尚について出家する
その後、沼津の大聖寺の息道普益(そくどうふえき)、美濃の瑞雲寺の馬翁宗竹(ばおうそうちく)、伊予の正宗寺の逸禅宜俊(いつぜんぎしゅん)などの教えを受ける。1708年(宝永5)越後(新潟県)高田の英厳寺性徹〈しょうてつ〉和尚のもとに居る時、悟りに達したと自覚。(⇒上の資料)
同1708年、信州飯山の正受老人道鏡慧端(えたん)に、「死人のように動きのとれぬ禅坊主)」と批判され、慢心をすてて参禅し、大悟。亨保2年正月10日、先師単嶺和尚の年忌を機に松蔭寺に入り、1718年(享保3)京都の妙心寺の第一座となり、白隠と号す。以後各地に仏法を広めると共に、松蔭寺においても雲集する修行僧、居士等の教化に努めた。
42歳の秋、「法華経」を読誦(どくじゅ)中に、こおろぎのなく声をきいて生涯で最高の悟りをえたという。 以来、師家として活躍すると同時に、貧乏寺にすんで民衆のための説法や著作にはげむ。明和5年12月11日、84歳をもって示寂。
語録に「荊叢毒蘂(けいそうどくずい)」、仮名法語に「遠羅天釜(おらてがま)」「夜船閑話」、自伝「壁生草(いつまでぐさ)」など。

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