瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

広告

※このエリアは、60日間投稿が無い場合に表示されます。記事を投稿すると、表示されなくなります。

臨死体験の本の内容をYouTubeで発信?

2020年04月16日 | 普通の日記
葛飾区立石の桜通り


しばらくこのブログも更新していなかったが、このフォットチャンネルという機能ができているのを知って、これを利用しながら再開してみるのもいいなと思った。最近は、海外向けにツイッターやフェイスブックで発信するのが中心になっている。またここ数週間はユーチューブにもチャレンジしている。そんな活動を紹介しながら自分の心境を語ってみるのもいいなと思ったのである。

ツイッターも海外向けだし、ユーチューブも外国の人々を対象に考えている。とすると英語が問題になるのだが、ここ数回、実験的にユーチューブで発信してみて、英語での発信に少し自信を得た。これで今後、ユーチューブ発信にかなり本格的に打ち込めると思った。何を発信するのかというと、一つは、かつて出版した「臨死体験研究読本」の内容を要約したものを何十回かのシリーズで発信するというものである。実は、すでに一つ、それ関連の動画を投稿し、地味だが着実に見る人が増えているのである。かなり共感したというコメントも2・3もらったので、きっと耳を傾けてくれる人はいると自信をもったのである。英語発信である程度、視聴者を得たら、日本語で発信するのも面白いかなと考えている。

ところで、上の立石の桜は、ユーチューブの動画としても投稿している。以下の動画である。
   ⇒ Cherry Blossoms in my Neighborhood(わが町周辺の桜並木)
ただしこれは英語でのナレーションはなく、動画のみである。

英語のナレーションがあるのは、たとえばこれ。Why do Japanese love cherry blossoms?

コメント

ゴーピ・クリシュナの覚醒・至高体験

2019年09月26日 | 覚醒・至高体験をめぐって
 旧サイト『臨死体験・気功・瞑想』が閲覧終了になったのに応じ、その内容を新サイト『霊性への旅』へと移行させるいる。「覚醒・至高体験事例集」の事例をひとつひとつ新しいサイトにアップしていくが、その都度、ここにその一部を紹介していきたい。今回はゴーピ・クリシュナの覚醒体験である。

===========================

 ごく一部の研究家やヨーガ行者のあいだでしか知られていなかったクンダリニーの教説が、世に広く知られるようになったのは、ヨーガ行者ゴーピ・クリシュナの『クンダリニー 』という著作が1967年に英語で出版されて以来である。この著作でゴーピ・クリシュナは、自分自身のクンダリニーが覚醒していく過程をつぶさに、かつ具体的に語り、その身体的・精神的な変容の有り様を克明に記録した。

 この著作は、東洋の行法に関心をもつヨーロッパやアメリカの若者たちに広く読まれ、クンダリニーの覚醒をめざしてヨーガ行法を行うものが続出したという。

 彼は、もちろん気功家ではないが、気功家を含む広い意味での行者の一人として、彼の体験をここに収録したい。

 ゴーピ・クリシュナは、1903年にインド・カシミールに生まれた。父が世捨て人同然の修行者となってヒマラヤに入ってから、母の期待と愛情を一身に受けて大学に進学。しかし読書に夢中になりすぎて、専門課程への進級試験に落第してしまう。その挫折を契機にして熱心なヨーガの行者となり、昼はカシミール州政府の中級官吏として黙々と堅実な生活を続けながら、毎朝早く休むことなく瞑想の行を続けるのである。
それから17年目、34歳の時、突如として予期せぬクンダリニーの上昇を体験する。 それは最初、筆舌につくし難い至上の幸福感をともなったが、しかし直後に死と隣り合わせの危険と辛苦に満ちた体験に変わる。クンダリニーがシュスムナ管以外のナディ(管)、特に脊髄の右側にあるピンガラから誤って上がると、心身にきわめて重大な混乱がおこり、制御できない体内熱のために時には死を招くことさえあるという。彼は、その最悪の場合を体験しのだ。「体内の器官や筋肉が花火で焼き切られるような、無数の灼熱の針が身体中を走りまわっているような」苦痛が数週間も続いた。精神錯乱の一歩手前までいったとき、ふと正気にもどった彼は最後の賭けをする。もしクンダリニーがシュスムナ管の右側のピンガラを上ったのであれば、その左側の気道イダを開くことでピンガラの焦熱を中和できるのではないか。彼は、最後の気力をふりしぼって一心にイダの気道が開くように念じる。すると、それを待っていたかのように奇跡が起こったのである。

 「パチンと気道に音がしたかと思うと、銀色の流れが白蛇の這うがごとく脊髄をジグザグ状に動いて昇り、最後に生命エネルギーの光り輝く滝となって脳髄に降りそそいだのである。それまで3時間あまりも私を苦しめていた火焔にかわり、至福の白光 で私の頭はみたされた。少し前まで私の神経組織をはせめぐっていた火の流れが、このように突然変わったことに驚き怪しみながらも、私は苦痛がやんだことに深い喜びを感じていた。」
 
 こうして危機を脱したのちも、クンダリニーの光は、彼の中で不断に発光し続けた。それはもはや、焼きつくすような熱気ではなく、すべてをいやす快い温かさをともなっていた。その光によって彼の脳や神経組織は再調整され、意識は、確実に覚醒に向かって拡大していった。彼は、自らの意識の変化をつぎのように語る。
 
 「私は、子供の時から慣れ親しんできた自我に統御された一つの意識単位から一挙に拡大し、光り輝く意識の輪となり、最大限のところまでずんずん大きくなっていった。『私という感じ』は以前と変わらないものの、それはもはや一つの小さく固まった存在ではなくなった。私は四方八方の広大な次元に通達する光り輝く意識の球体の中に包みこまれていた。
 適切な比喩もないが、しいていえば、小さな明かりから出発した私の意識はしだいに大きな光の海に成長し、気がついてみると、自分のまわりを近くからあるいは遠くからとりまく歓喜を放射する大きな意識の中にひたされていた。」

 それは、「認識主体がより広大な視野を獲得」し、「以前より大きくなった表層意識に世界が映しだされる」ような体験だった。その後、瞑想中の喜悦のなかで自己の限界を超えたエネルギーの噴出を許してしまい、再び灼熱のクンダリニーに苦しめられるようなこともあったが、そうした経験を経て彼の意識の座が限りなく広がっていくのも事実だった。彼はつぎのようにもいう。

 「肉体と環境に束縛されていたはずの自分の存在が、名状しがたい形で、とてつもなく大きな人格として拡大し、自分のまわりにある宇宙が不思議にも内在する感じがして、意識そのものといえる大きな宇宙と自分が、自分の内部ですぐさま直接に接触できるのであった。」
 
 こうしてゴーピ・クリシュナの意識の場は拡大するが、同時に彼は、「自分の内と外に知覚するものがゆっくりと輝きをまし始めていたこと」に気がつくのである。たとえば彼は、その知覚の変化をつぎのように語る。  
 
「眼前にある景色は私がよく見慣れていたものであったし、またある意味で、その出来事以前から私がなじんでいたものであった。しかし、私が現に見ていたものは、私を驚きのあまり棒立ちにささるほど異常なものであたった。この世のものとも思われない、何かおとぎの国のような風景が私の前にあった。  
 古めかしい風雨にさらされた建物の正面には別にこれという飾りもなく、その上に青空が拡がっていた。さんさんとした陽の光の中で、建物も空も美しい、しかも荘厳味あふれた銀色の光沢に輝いていて、それがまた、筆舌につくしがたい驚くほど微妙な陰影効果をかもしだしていた。驚き怪しみながら別の方向に目を転ずると、そこでもまたあらゆるものが美しい銀色に輝いていた。あきらかに私のクンダリニー開発は新段階に到達していたのである。私がどちらを向いても何を見ても知覚したあの銀色の光沢は、物体から発していたのではなく、あきらかに自分自身の内部にある光が投射されたものにほかならなかった。」

 こうした意識と知覚の変化ののち、46歳になった彼に突如として詩人としの才能があらわれた。素晴らしい詩句が、インスピレーションのようにひらめくようになり、その詩集の発行などによって彼の名は全インドに知られていった。
コメント

気功家・北沢 勇人氏の覚醒・至高体験

2019年09月15日 | 覚醒・至高体験をめぐって
 2002年3月上旬に検索エンジンで天啓気療院のサイトを見つけ、姉妹サイト『日本の気功家たち』のためのアンケートの回答をお願いしたところ、さっそく詳細に記入された回答をいただいた。その内容は『日本の気功家たち』のアンケート・天啓気療院の項に掲載したが、残念ながら今はもうこのサイトは存在しない。
 ところでその回答の中には、天啓気療院・北沢 勇知氏のチャクラの覚醒、クンダリニーの上昇についての非常に具体的な記述が見られ、しかもそれは至高体験というべきものにつがなっていた。
 さっそく北沢氏に連絡をとり、その部分をこちらのサイトの事例集に掲載させてほしいとお願いしたところ、ご快諾くださった。
 なお、ここに掲載するのは、アンケートの回答に一部、天啓気療院のサイトに載せられた体験談を追加して編集したものである。以下のサイトでは、それぞれのチャクラごとの覚醒の具体的な記述が見られる。

◆発端
 私がなぜ、能力を発揮できる様になったかと申しますと、一級建築士や一級建築施工管理技師などの国家資格を取り建築工事や建築の設計や管理などの仕事をして いたのです。しかし、仕事の状態が思わしくなく悩んでいたのです。そこで約21年前から少しでも会社の経営状態を改善させようと、身体の力が抜け、そして、リラックス状態になったときに出る脳波、アルファー波を、いつ何時でも、出したいときに出せるように、呼吸法や瞑想などを実行し、能力開発をしようと続けていたのです。訓練と修行を続けた結果、平成五年春頃に不思議な体験が始まったことにあります。
 私の体の中からも外からも、不思議な音や声が聞こえ、更に、色々な光や映像が観るようになった。その 後、身体は勿論、精神までも癒せる素晴らしい能力《ハンドパワー治療》が発揮できる。チャクラが覚醒 しクンダリニーが上昇しているので、気功などにて用いるエネルギーとは比較にならない素晴らしいエネルギーで、自我[心や感情、意識や思い]などを変化させ、病気を改善し心も落ち着かせることができるようになった。

◆食事が取れなくなる。瞑想や呼吸法を禁止されて 
  平成9年5月初め頃に、約一週間にわたり、食事がまともに取れなくなり、風邪をひいたような倦怠感と言うか、疲労感をおぼえ、さらに、顔がはれあがり、頭が重く、毎晩のように、例のごとく、身体からは意識が外れ、まばゆいばかりの光や、観たことのない色々な建築物や山、川、過去、宇宙や自分自身などが光り輝いているのを観たり、金の粉が降ってきたりするのを観たり、あいも変わらず、身体がこのままでは壊れてしまうのではと思うほど激しく動いたり、喉の奥よりの変な声もますます激しく出てきていたのです。これは本当に、誰に話をしても「お前の頭はおかしくなった」としか言われないようなことが続いたのです。
 そこで、東京三鷹市の井の頭にある、瞑想や呼吸法を指導している方を尋ね、指導をお願いしたところ、瞑想や呼吸法を指導している方から、貴方の現在のエネルギー状態は、貴方の肉体が絶えることのできる限界を超えているので、如何なる修行も控えること。特に、呼吸法や瞑想などは絶対に控えるほうが懸命であると指導されていたのです。  

◆クンダリニーの上昇やチャクラの覚醒をしてみたくて
  以前より、呼吸法や瞑想などは、絶対に控えることと指導されていたのですが、しかし、平成9年9月初め頃に、神棚の前に座り、三十分ぐらい呼吸法と瞑想をした結果、何時間もしないうちに、身体全体が苦しくなり一週間ぐらい、ほとんど食事も取れず、目を閉じれば恐ろしいほど強い光、山、河、建築物、過去、海の中など光と共に観え、さらに、身体からは意識が外れ、遠くは地球のかなたというか、宇宙の果てまで観る始末で、夜になっても全く眠る事ができず、本当にこのまま、おかしくなるのではないかと大変不安でした。
  そして、苦しい状態が、最高潮に達したときの最後の頃になると、目の中全体が真っ赤になり、瞼が膨れて完全に塞がり、身体全体がむくみ、食事は勿論取れず、身体全体が、ますますつらくなり、ほとんど動くこともままならず、さらに、悪い事には頭全体、特に額の辺りが非常に痛くなり、額が割れるのではと思っていました。その夜、身体全体が焼ける様に熱くなり、大量の汗をかき苦しんでいたのです。そこで再度、瞑想を指導している方に相談したところ、『貴方はなぜ、指導した通りにしなかったのだ、エネルギーは目には見えないが、とても強力で恐ろしく、そして厳しいもので、誤まった修行方法をとると、死ぬ事だってある』と、きびしくしかられた事が思い出されます。  
 また同じ頃、身体から幽体離脱なのか良く解りませんが、意識が抜け出て、見たこともない山の中や、光り輝く海の中や光り輝く建築物等を自分自身が飛びながら観ているように感じたり、本当に強力な光を観たり感じたり、自分の身体の中で、電気でも生産されて流れているようにビリビリとしびれたり、常識では到底理解できないことが数限りなく頻繁に起こりました。その色々な体験があるたびに、何度も書きますが本当にこれからどうなるかと不安でたまらなかったことが思い出されます。   

◆真剣に神様を信じる。そしてクンダリニーが上昇 
  身体全体が焼ける様に熱くなり、大量の汗をかき、そして苦しくなったのですが、そのとき、瞑想を指導している方から、もう取り返しのつかない状態になってしまったのだから、どうすることもできないので、エネルギーを下げるか、神様を真剣に信じて頼む以外はないと指導され、私は、神様の力により守られているので大丈夫と、自分に言え聞かせ、本当に強く信じていたのです。すると、今度は、最初、腹部の中心あたりの内部が熱くなり始め、その後、真っ赤な炎が観え、さらに、本当に大きく燃え盛ってきて、その場所の外部までも真っ赤な炎の海のようになって観え、そして、感じたのです。その後、体全体が青い光を放ちながら燃えたように観え、そして、感じたのです。そのときと、ほぼ同時に、その、真っ赤な炎が観えたあたりの下腹部から、体の中心を通った炎の柱というか、光の柱というかが、最初上方に向い伸びていったのです。
  私としては、この現象は、クンダリニーの上昇に間違いがないと確信したので、いっそのこと、下方にも伸びていってくれないかなと願っていると、今度は下の方向にも伸びていき、さらに、その柱が、こんな事があるはずがないというように非常に太くなり、何万キロメートルもあるかのように途方もなく上下に長く伸びていったのです。そのとき私の意識は、地球のはるか遠く、そして、地球よりはるかに大きく、数十倍もあるように感じ、また、宇宙の空間に横になり浮いていた状態に観え、また、感じたのです。
  クンダリニーの上昇が起こった直後、また、身体全体が青い炎を上げて燃えた様になり、更に、数分もすると、今度は、身体の周辺、特に頭の上面背部周辺が大変に気持ちが良い暖かさを感じ、良く観察すると、仏像、キリストなどの背後などに描がかれているような円形状のものが観え、しかも金色に光り輝き、その直後、頭の天辺部分には、イソギンチャクの頭部が開いた状態に似た形状に、突然大きな口が開き、その中から手筒花火に、火を付けたように、大変きれいな、色々の色の炎が噴き出した状態になり、観え、そして、感じたのです。そして、その炎のような部分が更に下腹部まで下っていき、身体の中心部が燃えたように感じ、そして、観えたのです。そのような出来事があった以後は、体もすこぶる快調になり、また、一段と病気や心の悩みを癒す能力が増してきたのです。    

◆神様にあった感覚になって?
  この体験は、詳しい方に尋ねたところ、無意識の世界と言うそうですが、頻繁に起こるようになりました。


続きは以下でご覧ください ⇒ 気功家・北沢 勇人氏の覚醒・至高体験
コメント

紀野一義氏の覚醒体験

2019年07月21日 | 覚醒・至高体験をめぐって
 旧サイト『臨死体験・気功・瞑想』が閲覧終了になったのに応じ、その内容を新サイト『霊性への旅』へと移行させるいる。「覚醒・至高体験事例集」の事例をひとつひとつ新しいサイトにアップしていくが、その都度、ここにその一部を紹介していきたい。今回は紀野一義氏の覚醒体験である。

===========================

 紀野一義氏を宗教家に入れてようかどうかわからない。在家で数々の一般向けの仏教書を著し、多くの人々の心をつかんで来た人である。私も、本が出るたびに買って夢中で読んで来たし、彼の主催する会に参加し、講演も何度も聴いた。最近ある方に紀野氏の本を紹介したのがきっかけで、ふと以下の文をこの事例集に入れようという気になった。
 私にとって、とてもなつかしく素晴らしい人の体験をここに入れられるのを、とてもうれしく思う。
 文章は、『禅―現代に生きるもの (NHKブックス 35) 』からの掲載である。
 
 わたしは、広島に育ち、旧制の広島高校を出て東大の印度哲学科に学び、二年生のとき学徒動員で召集されて戦場に赴いた。終戦と同時に中国軍の捕虜になり、翌年の春ようやく帰国した。父母姉妹はすでに原爆で死に、故里の町 はあとかたもなくなっていることは未だなにも知らず、ちょうど三月一日、新円切替の日に大竹港に上陸したのである。大竹から広島まで列車で運ばれ、夕方広島駅に降り立った。帰還軍人なのでもの凄い格好をして改札口に出て来たら、柱のかげから若い警官がじっとわたしを見ている。挙動不審と思ったのであろう、「あなた、どこへ行きますか」と訊ねる。「家のあとがどうなっているかたずねて行ってみたい」と答えると、「夜になると強盗が出るから、あなた、行くのよしなさい」という。
 
 わたしは別に盗られるものもなし、「別に恐くないから行きますよ」というと、この警官は人の頭の先から足の先までじろじろ見廻して、「そうですね、あなた、見たところ強盗みたいな風態(ふうてい)だから、まあ大丈夫でしょう」という。こうして、夕方おそくわたしの家のあとをやっと見つけたのであるが、あるのは瓦礫ばかり、雨に打たれて塔婆が一本斜めに立っているぱかりであった。悄然としてまた駅に戻って来ると、駅の柱のかげにさっきの警官が立ってじっとこちらを見守っている。わたしが無事に帰って来るかどうか見ていたのであろう。「どうでした」という。「どうもこうもない。なんにもありゃしません」と、つっけんどんに答えた。すると、「あなた、今晩どこへ泊りますか」という。「どこにも泊るあてはない」というと、「それじゃ、わたしについていらっしゃい」といって、わたしを交通公社の職員の寝泊りしている部屋に連れて行ってくれたのである。
 
 そこで一夜を明したのであるが、そこの若い二人の職員がご飯を炊いて食べさせてくれた。当時は、泊めてやった復員軍人がよく強盗に早変りした時代である。それを二人の青年は泊めてくれた上にご飯まで炊いて食べさせてくれた。その親切がひどくこたえた。見ず知らずの若い二人の青年の無償の親切、これが今日までずっとわたしの心を支配している。大勢の他人がわたしを支えてくれるのだとう感じが、そのときから今日まで変わりなく続いているのである。
 
 それから岡山県の津山という山間の域下町に嫁いでいた姉を頼って行った。姉はわたしが沖縄の戦場で死んだと思っていたから、玄関に棒立ちになって、幽霊でも見るように上から下まで見上げ見下して、台所へ飛んで行って泣き出す。仕方がないのでわたしはひとり仏間へ入って過去帳を一枚ずつめくって六日のところを披(ひら)いた。その過去帳の一枚一枚の重さをわたしはまだ指の先に覚えている。眼をつぶって、思いきって六日のところを披いたら、見たこともない戒名が四つ、ずらっと並んでいた。しばらく身動きもできず、黙っていた。それからのろのろと立ち上り、持って来た甘いものなどを供えて法華経をよんだ。
 
 その晩は早く寝みなさいというので、少し離れた客殿というところに寝た。今でもよく覚えているが、時計が遠くでポーン、ポーンと二つ鳴ったとき眼を覚ましたのである。なにかに胸をぐっと押えつけられたような気がして、びっくりして布団を刎ね返して飛び起きたら、背中のあたりから全身の力が抜け落ちて腑抜けのようになって、恐ろしいほどさびしくなって、恥ずかしい話だが二時間ばかり獣のように泣いた。人間は一生の中一度は獣のように泣く時があるそうであるが、その時がそうだったのかも知れぬ。布団を引っ被って坤きながら泣いて、泣いて、泣き通した。
 
 それが、不思議なことに、四時になって時計がボーンボーンポーンポーンと四つ鳴ると同時に、それこそ憑き物ものが落ちるように、ストッと一時になにかが抜け落ちた。それを境にして、さびしくもかなしくもなくなったのである。父も母も姉も株も、死んだという感じがまるでしなくなったのである。体の中からなにかが脱け落ちた。死んだんじゃない、仏のいのちに帰ったのだという確信がぐんぐん胸の中にひろがって来た。そのとき思い出したのが、死んだ父親の教えてくれたことばである。子供のときから教えられたことばである。
「人間というものはな、死んだら仏のいのちに帰るんだ。死ぬんじゃない 。仏のいのちに帰るんだ」
 
 それまでどういうことなのかよく分らないでいたそのことばが、はじめて、ずしいんと体の底までこたえた。
 
 人間のいのちは死ねば仏のいのちに帰る。この考えはそのとき以来ずっと変っていない。いよいよ深くなるばかりである。知人朋友を亡くしてもこの思いに変りはない。もちろん、人間のことであるから、さびしさ、かなしさ、せつなさには堪えぬ。しかし、それだけではない別のもの、仏のいのちに帰したという安らかさがいつもわたしの感慨の底に横たわっているのである。
 
 わたしは、今でも自分のまわりに父母や姉妹が居るような感じを持っている。それは証明しろといわれても証明のしようがない。証明しようがないだけそれだけわたしにとってはどうすることもできない真実である。
 
 この二時間の慟哭の中で感じとったのは、なんともいえぬむなしさであった。死ぬべきはず の者が生きのび、生きであるはずの者たちが死ぬ。せっかく生きのびて故国に還って来たのに、愛する者たちはみな死んでいたというこのむなしさは忘れられぬ。同時に、このむなしさの向うからひらけて来たあの大らかな世界も忘れられぬ。わたしの心の中にはいつもこの二つのものがある。空しさの方は「虚空」、大らかさの方は「空」。わたしの心の奥には、虚空と空とが重なり合
っているようである。
 
 こういう意味の「空」ならば、わたしにはよく分る。いろんな人と話していると、眼の色や態度で大体どんなことを考えているか分る。わたしが今まで出会った人々の中で、なつかしいと思った方々はほとんど全部、この空しさを通り抜けて「空」に至った方ばかりである。円覚寺の朝比奈宗源老師しかり。南禅寺の柴山全慶老師しかり。藤沢市鵠沼に、ご退隠の中川日史貌下しかりである。
  
 現代に生きているわれわれは、空しいということをほんとうに体験し、それを突き抜けたところにほんとうの空がひらけて来るのだということをよく味ってみるべきである。
コメント (2)

鈴木一生氏の覚醒体験

2019年07月19日 | 覚醒・至高体験をめぐって
 旧サイト『臨死体験・気功・瞑想』が閲覧終了になったのに応じ、その内容を新サイト『霊性への旅』へと移行させるいる。「覚醒・至高体験事例集」の事例をひとつひとつ新しいサイトにアップしていくが、その都度、ここにその一部を紹介していきたい。今回は鈴木一生氏の覚醒体験である。

===========================

以下に『さとりへの道―上座仏教の瞑想体験 』(春秋社)の中に記された、著者:鈴木一生氏の体験を取り上げる。
 鈴木氏は、天台宗で得度し僧籍をもつ人だが、上座仏教と出会い、激しい葛藤の中で、これまで学んだ大乗仏教、とくに法華経信仰を捨てて上座仏教に帰依していく。著書には、その過程、またヴィパッサナー瞑想で目覚めていく過程が、具体的にわかりやすく記述されていて、興味つきない。
  瞑想には、止(サマタ瞑想)と観(ヴィパッサナー瞑想)があり、心をひとつのものに集中させ統一させるのがサマタ瞑想だ。たとえば呼吸や数を数えることや曼陀羅に集中したり、念仏に集中したりするのはサマタ瞑想だ。
 これに体してヴィパッサナー瞑想は、今現在の自分の心に気づくというサティの訓練が中心になる。  この違いが、彼の修行体験を通して具体的に生き生きと語れており、すこぶる興味深い。ヴィパッサナー瞑想の段階的に非常に体系化された修行法がわかって面白い。その一段一段で、彼がどんな風に悩み、それを克服して行ったかが克明に記され、サマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想の違いが自ずと浮き上がる。
 ここでは、ミャンマーでの修行中に起こった「解脱」体験の部分と取り上げる。 

◆「これは、もう、 言葉には表せない……」
  その日、私はさらにまた不思議な体験を味わいました。そのころ、私の瞑想修行は正午に道場で座りはじめると、そのあと六時間ほどはまったく動かずに座禅瞑想に入るのです。ほんと うは、これもヴィバッサナー瞑想法としてはあまり感心できる方法ではないのです。ところが、 その日は座禅瞑想に入って二時間ほど経ったあとこれまで一度も体験したことのないほどの強烈なサーマディの感覚を味わったのです。それは最初、からだじゅうの毛穴という毛穴が逆立 つと言ったような感覚からはじまりました。それとともにこれまでクリアに観察できていた自分の呼吸が、どういうわけかそのときに消えてしまったとでも言えばいいのか、呼吸が消える とはちょっと考えられない状態なのですが、しかしたしかに、私のからだは呼吸をすることを やめてしまっていたのです。それと同時に、生まれてこのかた一度も経験したことのない、安寧な心持ちとでも言うのか、まるで法悦境に混るが如くの世界に自分がいるような気持――。 この世のできごととはとても思えませんでした。もしこれが天界というところなら、もうこのまま死んでもかまわない――そこまで思わせるような喜悦の世界だったのです。ほんとうは、そこでサティをしなくてはいけないのですが、あまりの法悦にその世界が消えてしまうことを恐れて、私はじっとその世界に遊ぶ心を楽しんでいたのです。
 何ものにも代えがたい、強烈な喜悦の世界でした。心もからだも何も存在しない。一切の感覚がなくなって、これほどまでの喜びの世界があったのか、こんな境地にまで心は行くことができるのか。心とはなんとも不思議なものだ、と私は喜悦感にただ浸っていました。あのときの状態を、今もう一度ここで表現しようとしても、それは不可能だろうと思います。「心身脱落」と道元禅師は言われましたが、私の体験もまさにそれではないかと思ったものです。身体も心(呼吸)もまったく消滅してしまったあとの感覚と言っていい、まさに強烈なサーマディ の体験でした。
 桃源郷に遊ぶとでもいうのか、あえて言えば、私は経験がありませんから観念的にしかわか りませんが、麻薬を一気に吸引したようなものであったと一言えるかもしれません。脳内モルヒ ネが大量に放出されていたのかもしれません。巨万の富、たとえば一〇〇億円と引き換えよう と提案されても拒否し、手放せないようなとてつもない安楽感でした。このまま死ぬことになってもまったく悔いの残らない、いや事実私はこのまま死にたいとさえ思ったのです。自分の呼吸さえ消滅してしまうとは、いやはやこれだけはだれにも、どう説明しても信じてもらえな いような現象を体験していたのです。

◆これを 「解脱」というのか
  どのくらいの時が流れたのでしょうか。何分、否数十秒のことだったのかもしれません。時 の概念すら失念していましたからよくわかりませんが、呼吸が停止していたのですからたぶん数十秒だったのでしょう、私はふと、「いけない、サティしなければ」と気がつきました。今、自分はヴィバッサナー瞑想中だったのだと、それすらにも思いが行っていないことを知ったのです。
  「ノーイング、ノーイング」と私はサティをはじめました。「ノーイング=知っている」とサティしたのは、おなかにも呼吸にもどこにも意識がいっていないために、サティする対象がなかったからです。肉体のどこにも存在感を示す部分がない、つまり一切の感覚がないために、サティを切らさず、言葉によって意識を集中するための手段として「ノーイング」という言葉 があるのです。
 「ノーイング、ノーイング」とサティを再開するとたんに、この世のものとは思われないほど のあの喜悦感は嘘のように霧散し、すぐさまおなかの膨らみ・縮みの現象がくっきりと浮かんできました。えも言われぬ貴重な体験をした際であり、この機を逃してはならじとばかりに私はどこまで細かくサティができるものなのか目を凝らすような感じでおなかの動きに集中しました。おなかの膨らみが、それはまるで海の大きな波のうねりのような感覚を持って意識されます。"ずー、ずー、ずー”たゆとう海原を緩やかに押し寄せるがごとく膨らんでいき、最後はさざ波が細かく砕け散っていく様で頂点を迎えます。その刹那の鋼鉄のような鋭い膨らみのあとに、また波が海原に帰っていくように消えいるような、引いていくがごとくおなかの縮みが観察されるのです。その一瞬一瞬がまるでストップモーションの映画を見るようにひとコマひとコマずつ停止され、一刹那の動きも漏らすことなく心を凝らして観ていられるのです。


続きは次でご覧ください。⇒ 鈴木一生氏の覚醒体験
コメント

玉城康四郎氏の覚醒体験(3)

2019年07月18日 | 覚醒・至高体験をめぐって
 旧サイト『臨死体験・気功・瞑想』が閲覧終了になったのに応じ、その内容を新サイト『霊性への旅』へと移行させるいる。「覚醒・至高体験事例集」の事例をひとつひとつ新しいサイトにアップしていくが、その都度、ここにその一部を紹介していきたい。今回は玉城康四郎氏の覚醒体験(3)である。

===========================

 玉城康四郎氏については、すでにその若き日の至高体験をその(1)で、また、最晩年、「七十八歳の十二月の暮れ、求め心がぽとりと抜け落ちて以来、入定ごとに堰を切ったように、形なき「いのち」が全人格体に充濫し、大瀑流となって吹き抜けていく」という体験を、その(2)に紹介した。
 しかし、氏の「仏道を学ぶ」という求道記のなかには、78歳以前の晩年にも、以下のような記述がしきりに見られる。氏にとっては、それらはまだ徹底しない体験だったのだろうが、ここにその一部を収録して少しでも多くの方に読んでいただく価値は充分にあると思う。以下も『ダンマの顕現―仏道に学ぶ 』(大蔵出版)よりの収録である。

七十歳 ( 昭 和 六十一年 )
 何とも表現できぬバック・グラウンドの強烈な力、全人格体を背後から射抜き、全人格体、内部から震え出す。ビッグバン以来、今初めて、ダンマ、この人格体に開き初めぬ。

 意識の裏に体があり、体は宇宙に直結する。意識がだんだん問題でなくなり、確かなものが、宇宙から外へと伝わってくる。禅定の姿はいろいろ変わるが、変わらぬものは、ますます確かなものへ と方向づけられていく。
 入定……煩悩なく、悟りなく、解脱なく、生死なく、涅槃なし。然れども、在るなり、動くなり、 働くなり。
 入定……太陽、我を撲滅して、虚空果てなきが如し。我なく、全人格体なく、解脱なく、煩悩なく、 生死なく、涅槃なし。しかも、「在る」のでもなく、「動く」のでもなく、「働く」のでもなけれども、一切の想念を打ち亡ぼして、在らしむるなり、動かしむるなり、働かしむるなり。

  業熟体の根っこが開(あ)いてきた。ブラック・ボックスでなくなってきた。どこまでも開いていく、毘盧遮那仏が果てしなく根づいている。何と不思議な全人格体であろう、全人格体が不可思議を満喫している。

七十五歳(平成二年)
 入定……全人格体が、物理的仕組みまで、如来によって改造されつつあり、魂そのものが、無条件に如来に導かれていく。
 
入定……業熟体に穴あく。懸命に集中すればするほど、穴が確かなものになっていく。それこそ、 ダンマ・如来の噴き出る穴。  
  
 入定……阿弥陀如来、仏国土に誘い給う、薄明の清澄な宮殿に入りたるが如し、荘厳警えようもなし。
 
入定……如来、通徹し給う。ただひたすら如来を憶念す。憶念すればするほど、全人格体、法熟す。 二十五年前、禅宗の坐禅に訣別れて、ブッダの禅定を学び始めてより、今ようやく自己自身の根本問 題、融けつつあり。
 
一大眼光、透徹。ブラフマン徹透。眼光ただ未来界を見透す。これまでの禅行者のなかに、なお大悟に固執している誤りのあることが分かる。
 
禅定のなかで、業熟体の底なき底から、未知の混沌が、生々と「いのち」となって噴出する、どこまで も、どこまでも。いったいどうなるのだろう、興趣まさに津々。
  大宇宙の、底知れぬ、ただひとつの穴より、噴きあがる「いのち」そのものよ、全人格体、五体投地せり。
 
宇宙の「いのちそ」のもののなかに入定しているうちに、すんなり、率直に、「われは宇宙の子なり」という思い、顕わになり、やがて「いのち」そのものが、深々と、循々と伝わり、ついに通徹しつづけていく。
 
入定するや、突如、宇宙そのものが顕わになり、一切が開放され、開放という思いも消え、動態そ のままという外はない。全境地が活動そのもので、あらゆる細胞が赫々と開け切っていく。どこに も暗がないばかりか、光のイメージも消える。Dynamic Development Itself.
 
大黙の、底よりいづる、金剛戒、わが格体を突きやぶりたり。
 この己を、ずーっと戻してみると、おのずからにして、おのずからなる「いのち」そのもの、果てしな き無量寿にいたる。 この世に存命中に、己とブラフマンを軸とする科学的宇宙の解明が目論まれていたが、今やその基本線が明らかになろうとしている。 己の欲する所に従って、ダンマ離れざるのみならず、欲する所を尽くせば、尽くすほど、ダンマ全徹し、体通す。大いなる冥定、杜絶なき動態。

コメント

玉城康四郎氏の覚醒体験(2)

2019年07月15日 | 覚醒・至高体験をめぐって
 旧サイト『臨死体験・気功・瞑想』が閲覧終了になったのに応じ、その内容を新サイト『霊性への旅』へと移行させるいる。「覚醒・至高体験事例集」の事例をひとつひとつ新しいサイトにアップしていくが、その都度、ここにその一部を紹介していきたい。今回は玉城康四郎氏の覚醒体験(2)である。

===========================

 玉城康四郎氏の若き日の至高体験については、すでに取り上げた。玉城氏は、若き日の苦悩のなかで一時的に大爆発を起こし、覚醒するものの、しばらくするとまたもとのもくあみに戻ってしまう、ということを何度か繰り返した。一時は、今生で仏道を成就し覚醒を得ることに絶望することもあったが、それでもひたすらに仏道を求め座禅を続けた。
 そして最晩年に、ついに下に見るような真の覚醒に至るのである。求道への、その真摯でかわることのない熱情は頭が下がる思いである。
 以下も『ダンマの顕現―仏道に学ぶ 』(大蔵出版)よりの収録である。

◆ダンマ顕わとなる
 禅宗の坐禅に替わって、ブッダの禅定を学び始めてからもう三十年になる。そのあいだにブッダに学んだ基本は、
「ダンマ・如来が、業熟体に顕わになり、滲透し、通徹しつづけて、息むことがない」
ということである。
 
 ダンマ・如来とは、形なき「いのち」そのものであり、言葉をこえた純粋生命である。業熟体とは、限りない以前から、生まれ替わり死に替わり、死に替わり生まれ替わり、輪廻転生しつつ、そのあいだに、生きとし生けるもの、ありとあらゆるものと交わりながら、いま、ここに実現している私自信の本質であり、同時に、宇宙共同体の結び目である。もっとも私的なるものであると同時に、もっとも公的なものである。それは私自身でありながら、その根底は、底知れぬ深淵であり、無明であり、無智であり、黒闇であり、あくた、もくたであり、黒々とつらなっていく盲目の生命体である。それは私自身であると同時に、宇宙共同体である。このような業熟体にこそ、ダンマ・如来、形なき「いのち」そのものが、顕わになり、通徹しつづける。それは、あらゆる形を超えながら、あらゆる形を包みこ む永遠の働きである。その働きの真っ只中で、その働きに全人格体を打ち任せながら禅定を行ずる。 ブッダは、そう教えてくれるのである。
 
 この禅定を連日習いつづけているうちに、きわめて徐々にではあるが、ダンマ・如来が、禅定のたびごとに私自身に顕わになり、そして、年を重ねれば重ねるほど、急速、かつ強烈に私の全人格体を通徹する。もとより、ダンマ・如来の人格体における熟し方において、ブッダと私とは天地の相違があるであろう。ブッダは、億劫の修行の後に地上に生まれ、かつ命懸けの苦行の末、入定して悟りを開いたのである。盤珪は、尻も破れ、血を吐き吐き、坐禅に打ち込んだ。私は、ただ安閑として、老師の指導を受け、ブッダの禅定を習っただけである。法熟において雲泥の差のあることはいうまでもない。しかしながら、ブッダに顕わになり、盤珪を貫き、そして私の心魂にひびきわたってくるいのちそのものにおいては、寸毫の違いもない。なぜなら、それは、言葉を超え、観念を超え、時空を通貫して、じかに私の全人格体に透徹してくるからである。しかもそれは、まったく我ならぬ、しかも徹底して我にまで成りおおせる、宇宙自体の、自然のなかの、もっとも自然なるいのちそのものだからである。(「盤珪と私」より)

◆「仏道に学ぶ」:78歳
 12月14日、ふと気がついたら、求め心が、ぽとりと抜け落ちていた。爾来、入定ごとにダンマ・如来、さまざまな形で、通徹し、充溢し、未来へと吹き抜け給う。ありがたきかな、最後の一息まで、如来の真実義に随順してゆく。わが物顔よ、物知り顔よ、自性よ、ただひたすら、頂戴してゆこう。


続きはこちらでご覧ください。⇒ 玉城康四郎氏の覚醒体験(2)
コメント

玉城康四郎氏の覚醒体験(1)

2019年07月14日 | 覚醒・至高体験をめぐって
 旧サイト『臨死体験・気功・瞑想』が閲覧終了になったのに応じ、その内容を新サイト『霊性への旅』へと移行させるいる。「覚醒・至高体験事例集」の事例をひとつひとつ新しいサイトにアップしていくが、その都度、ここにその一部を紹介していきたい。今回は玉城康四郎氏の覚醒体験(1)である。

===========================

 ここに仏教学者・玉城康四郎氏の若き日の至高体験を収録する。氏は学者であると同時に求道の人であり、深い宗教体験も持つ人であるが、その求道は苦難の連続であったようである。以下の至高体験は氏の『冥想と経験 』その他、いくつかの著書の中に記述が見られるが、ここでは『ダンマの顕現―仏道に学ぶ 』(大蔵出版、1995)から収録する。
 氏は、こうした苦難の連続のあと、晩年に覚醒を得るが、それは項を別けて収録する。
東大のインド哲学仏教学科に入学した玉城氏は、奥野源太郎氏に師事し座禅を続ける。文中先生とは奥野氏である。

私は、先生に就くだけではなく、専門の道場でも行じてみたいと思い、先生の許しを得て、円覚寺の接心にしばしば参じた。接心とは、一週間境内に宿泊してひたすら坐禅を行ずることである。われわれ在家も坊さんとともに坐り、坊さんとともに提唱(ていしょう:老師の講義)を聴く。その他、起居動作すべて同じ共同体である。午前二時に起床、午後十一時まで坐りとおす。その間に、提唱、食事、独参(ひとりひとり老師に参じて問答)、午後の小休止があるだけ。今にして思えば、専門道場の修行を垣間 見(かいまみ)ることができて、何よりの功徳であったが、当時は、坐れば坐るほど身も心もへとへとになり、悩 みは深くなるばかり、坐禅の外は何事も手に就かず、ただ悶々の日々を過ごすぼかりであった。。
  そうした或る目、忘れもしない、正確には昭和十六年二月七目の午後である。私は本郷座(本郷三丁目の映画館)に、フランス映画「ノートルダムのせむし」を見た。何とも奇妙な内容である。その印象が、 私の得体の知れぬ心態にぐさりと刺さり、どうにもならなくなって館を出て、東大図書館の特別閲覧室にかけこんだ。すでに夕暮れで、室の中にはわずかの学生がいるだけで静まっている。鞄(かばん)は手放していなかったとみえる。その中から『十地経(じゅうじきょう)』を取り出して、初めの歓喜地(かんぎじ)の所を見るともなしに見ていた時である。
何の前触れもなく突然、大爆発した。木っ端微塵(こっぱみじん)、雲散霧消してしまったのである。どれだけ時間が経ったか分からない、我に帰った途端、むくむくむくと腹の底から歓喜が涌きおこってきた。それが最初の意識であった。ながいあいだ悶えに悶え、求めに求めていた目覚めが初めて実現したのである。それは無条件であり、透明であり、何の曇りもなく、目覚めであることに毛ほどの疑念もない。 私は喜びの中に、ただ茫然とするばかりであった。どのようにして、本郷のキャンパスから巣鴨の寮 まで帰ってきたか、まったく覚えがない。
  いったいこの事実は、どういう意味を持つものなのか、その後ながい間の仏教の学習と禅定を重ねるうちに次第に明らかになってくるのであるが、その当座はただ歓喜の興奮に浸るのみであった。その状態は一週間ほど続いたであろうか、それからだんだん醒めてきて、十日も経つとまったく元の木阿弥(もとのもくあみ) になってしまった。以前となんら変わることはない、煩悩も我執もそのままである。そもそもあの体験は何であったのか。単なる幻覚が、いやいやけっしてそうではない。爆発の事実を否定するこ とはできない。しかしそのことをいかに詮索しても、現に煩悩、我執のままであることはどうしよう もない。
悩みは出発に戻って、さらに倍加し、ともかく坐禅を続け、手当たり次第に学んだ。それから一月ほど過ぎた頃であろうか、図書館の窓際の椅子にくつろいで、デカルトの『方法叙説』を読みつづけ、 コギト・エルゴ・スム(我思う故に我あり)に到ったとき、突然爆発した。同時に、古桶の底が抜け落 ちるように、身心のあくたもくたが脱落してしまった。なんだ、デカルトもそうだったのか、そうい う思いに満たされた。
  かれは二十三歳のとき見習士官で出征し、ダニーブ河畔で越年した。そのある夜、焚火(たきび)の燃えるのを見ていたとき、驚くべき学間の根底を発見したという。それから九年のあいだそのことを暖めて、ついに『方法叙説』の執筆となったのである。これは単なる思索の書ではなく、全力を傾けて書かれている。コギト・エルゴ・スムは、「我思う」そのことが同時に「我あり」ということである。意識 と存在とが合致している。そのことに思い至ったとき、私もまた、あくたもくたが脱落してしまった のである。
  このときは、その体験は明らかにデカルトとつながっている。しかし最初の大爆発は、『十地経』 の歓喜地に関わっていたかどうか、まったく分からない。無意識のうちに依りかかる所があったのかもしれない。また、この体験は、最初に比べると、ごく小さな爆発であるが、体験そのものは同質で ある。そしてこの時もまた、数日のうちに元の木阿弥に戻ってしまった。



続きは以下でご覧ください。⇒ 玉城康四郎氏の覚醒体験(1)
コメント

禅僧・白隠の大悟まで

2019年07月08日 | 覚醒・至高体験をめぐって
 旧サイト『臨死体験・気功・瞑想』が閲覧終了になったのに応じ、その内容を新サイト『霊性への旅』へと移行させるいる。「覚醒・至高体験事例集」の事例をひとつひとつ新しいサイトにアップしていくが、その都度、ここにその一部を紹介していきたい。今回は禅僧・白隠の事例である。

=========================================================

 以下にいくつかの資料を参考に、白隠の大悟に至るまでの経過を記す。
 二十四歳から二十五歳に至る一年間、白隠の禅境の一大変化が到来したという。
「二十四歳の春、越後の英巌寺におった。無学を提起して終夜眠らず、寝食ともに忘れていた。忽然として大疑 現前の状態になった。万里一条の層氷の裡に凍殺されるかの如く、胸の裡は分外にさっぱりしている。そして進 むこともできず、退くこともできず、ばかになってしまったようで、ただ無字があるだけである。講義の席に出 て師匠の評唱を聞いても、数十歩外に離れて、講堂の上の議論を聞くようである。あるいは空中を歩いているよ うでもあった。
 そのような状態が数日つづいたが、ある晩鐘の声を聞いて、がらがらとそれが崩れた。水盤の破砕、玉楼の推倒といったようなものだった。そこから忽然として蘇って来ると、自分が巌頭和尚そのものであっ た。三世を貫通して毛一本をも損せず、従来の疑惑も根底から氷のように消えてしまった。
 大声で叫んで言った。
 『不思議だ、不思議だ、不死の逃れ出るべきものなく、菩提のもとむべきものもない。法灯を伝えているといわ れる公案千七百則も、一向ものの役には立たぬ』と。
 そこですっかり得意になり、天狗になって、心ひそかに言 った。『二、三百年以来わしほど痛快にぶちぬいたものはないだろう』と。」
 大悟した白隠慧鶴は、その所見を 性徹和尚に提したが、一顧だにも与えられなかったという。しかし、白隠は、「三百年来、未だ予が如き痛快に了徹するものはあらず、四海を一掃して誰か我が機峰に当たらん」と自ら思ったという。若者の増上慢の言葉であろうが、それほどに見性が了々としていたのだろう。
 そのころ白隠慧鶴は信州から来たある禅者に会い、彼の師・正受老人が飯山の上倉村にみずから結んだ正受庵に住 していることを聞き、四月、その禅者の案内で正受庵をたずねた。たまたま正受老人 は柴を刈っていたが、案内した禅者がこの青年僧を翁に紹介すると、翁は「うん」と素気なくいっただけだった。
 その後、彼は許しを得て入室し、一篇の偈(げ)を呈すると、翁は「こんなもの は学んで得たもの、お前が実地に佛心を徹見したところはどうなんだ」と迫る。彼は「そんな ものがあれば、吐き出してしまいますよ」といって嘔吐の声をした。
 翁は彼をひっとらえて 「趨州の無学を何と見るか」とせめよった。慧鶴「趨州の無学とても手をつけるところなしですよ」と言葉を返したが、翁は彼の鼻頭を抑えて「なんとこんなに手がつけられるわ」といい放った。
 彼はこの時、全身汗流れ、高慢心をへし折られた。翁は高々と笑いながら「このあなぐら禅者め。これしきの境涯で満足しているか」といい、白隠は返す言葉もなかったという。
 その後、翁は彼を見るごとに「このあなぐら禅者め」と叱りつけ、入室の際、彼が門をまたぐ と見るや「なんと落ちこんでいるぞ。楼上から 井戸の底を見ているようだぞ」といわれ、わず かに口を開くと、一喝されて押し出される始末。
 彼は心中穏やかならず、これは翁がかつての自分の痛快なる悟りを知らないからの仕打ちに違いない。こんどこそは死を賭しても徹底的に間答しようものと決意して、ある日入室、所解を呈すると、翁は彼をひっとらえ、数十回鉄拳をくらわせ、押し倒し、彼が縁の下に落ち て茫然としているのを見ながら、からからと大笑いしていた。
 その後、彼は胸つまる苦悶の数日が続いたが、ある日托鉢に出て、とある家の前に立っていると「他の家へ行きなよ」という老婆の声がしたが、彼はうっとりと忘我して立ち続けた。老婆は怒り、大きな竹箒を振り動かして「この坊主、よそへ行けというのにまだここでぐずぐずし ているとは」といって、彼を打った。
 その瞬間に、彼は透脱して本心に開眼したという。歓喜 を内に包んで帰庵し、まだ門のしきみをまたがないのに、正受老人彼を見るや、喜んで「汝徹せり」と いわれた。
 その後、八か月余り、慧鶴(後の白隠禅師)は、翁の左右に侍して、日夜入室、そ の蘊奥きわめ、飯山を後にした。
《参考文献》
『日本の禅語録〈第19巻〉白隠 (1977年) 』 鎌田茂雄、講談社
『さとりの構造―東西の禅的人間像 (1980年) 』安藤正瑛、大蔵出版
『死と生の記録―真実の生き方を求めて (講談社現代新書 144) 』佐藤幸治、講談社

★白隠慧鶴 〈はくいんえかく〉 1685~1768 
禅宗の一派・臨済宗中興の祖、江戸時代中期の禅僧。諱(いみな)は慧鶴(えかく)、鵠林(こくりん)。駿河国、現在の静岡県沼津市原〈はら〉に生まれた(貞亨2年12月25日)。幼時に地獄の話に恐怖し、その恐怖からのがれようと天満天神に祈願するが、みたされず、15歳の時、原の松蔭単嶺〈たんれい〉和尚について出家する
その後、沼津の大聖寺の息道普益(そくどうふえき)、美濃の瑞雲寺の馬翁宗竹(ばおうそうちく)、伊予の正宗寺の逸禅宜俊(いつぜんぎしゅん)などの教えを受ける。1708年(宝永5)越後(新潟県)高田の英厳寺性徹〈しょうてつ〉和尚のもとに居る時、悟りに達したと自覚。(⇒上の資料)
同1708年、信州飯山の正受老人道鏡慧端(えたん)に、「死人のように動きのとれぬ禅坊主)」と批判され、慢心をすてて参禅し、大悟。亨保2年正月10日、先師単嶺和尚の年忌を機に松蔭寺に入り、1718年(享保3)京都の妙心寺の第一座となり、白隠と号す。以後各地に仏法を広めると共に、松蔭寺においても雲集する修行僧、居士等の教化に努めた。
42歳の秋、「法華経」を読誦(どくじゅ)中に、こおろぎのなく声をきいて生涯で最高の悟りをえたという。 以来、師家として活躍すると同時に、貧乏寺にすんで民衆のための説法や著作にはげむ。明和5年12月11日、84歳をもって示寂。
語録に「荊叢毒蘂(けいそうどくずい)」、仮名法語に「遠羅天釜(おらてがま)」「夜船閑話」、自伝「壁生草(いつまでぐさ)」など。

コメント

禅僧・山田耕雲の至高体験

2019年07月06日 | 覚醒・至高体験をめぐって
 旧サイト『臨死体験・気功・瞑想』が閲覧終了になったのに応じ、その内容を新サイト『霊性への旅』へと移行させるいる。「覚醒・至高体験事例集」の事例をひとつひとつ新しいサイトにアップしていくが、その都度、ここにその一部を紹介していきたい。今回は禅僧・山田耕雲の事例である。

=========================================================

 かつて、ネット上で交流のある友人からメールをいただいた。山田耕雲老師の見性体験記が、なぜ本サイトの事例集に入ってないのかと疑問に思っているとのことであった。 現代の禅宗の老師の体験記としては、かなり貴重なもの、と評価しているとのことであったが、私自身は、山田耕雲老師のお名前を知っている程度で、体験の記された本は読んでいなかった。
友人がメールに添付してくれた、その体験記をここに掲載したいと思う。この体験記が記されているのは『新版 禅の正門(ショウモン) 』という本である。

山田耕雲老師 『再見性の大歓喜』(抄)

三島龍沢僧堂 中川宗淵老師宛の手紙
 拝啓 過日は御取込みのところへ大勢にて参上し、日和はよし、まことに楽しい一日を過ごさせて頂きました。安谷老師も大変およろこびにて、境致はよし、よい指導者を得て雲衲は仕合せだ、と述懐を洩らして居られました。
 
さて、あの席上、アメリカの青年のことを中心に見性に関する御話しが出ましたが、あれから幾日もたたない今日、小生自身の体験を御報告することになろうとは思いませんでした。 貴山へ伺った翌二十四日、ちょうど所用で東京へ出て来た家内と帰りが一緒になりましたので、夕方五時頃二人で横須賀行の電車に乗りました。小生は読みかけの『損翁禅話』という書物を開きました。御承知かも知れませんが、損翁というお方は元禄時代、仙台に居られた曹洞宗の尊宿なる由。
  
 丁度大船より少し手前のあたりで書中「あきらかに知りぬ、心とは山河大地なり、日月星辰なり」(付記『正法眼蔵即心是仏』の巻にありと)の句に逢着致しました。この文字は決して初めてお目にかかった訳ではないのですが、何かしらハッと固唾を呑む思いでした。謂えらく「自分も禅に参じて七、八年。ようやくこの一句がわかるようになったか」と。そう思うと急に涙のこみ上げてくるのをおさえることが出来ません。人中なのできまりがわるく、ソッとハンカチで眼を拭って居りました。鎌倉へ着き、裏道を帰る途々、何となくすっきりした気分です。

「今日はなんだか大変すがすがしいよ。」
「それはようございましたね。」
「何となく、僕はえらくなれそうな気がする。」と二度ほど同じようなことを申しますと、
「困りますわね、お父様ばかりえらくおなりになって、距離が出来すぎて。」
「いや、大丈夫だ、どんなにえらくなっても心はいつもすぐ側に居るんだから」と、

子供みたいなことを言い合いながら家へ着いたのですが、その間幾度となく、  

「あきらかに知りぬ、心とは山河大地なり、日月星辰なり。」と、
繰り返し繰り返し心でとなえていたことを覚えています。

 丁度その日は、弟夫婦が泊まって居りましたので、一緒にお茶などを飲みながら、龍沢寺へお詣りした話、そこから黒衣姿のアメリカの青年が居て、只見性のみを求めて両度渡日したその物語を、貴兄から伺ったまま話してきかせました。お風呂へ入って寝に就いたのは十二時近かったと思います。

 夜中にフッと眼がさめました。初めは何か意識がはっきりしないようでしたが、フト、 「あきらかに知りぬ、心とは山河大地なり、日月星辰なり。」 の句が浮かんできました。それをもう一度繰り返したとたん、一瞬電撃を受けたようなピリッとしたものを全身に感じたと思うが否や、天地崩壊す。間髪を入れず怒涛の如くワッと湧き上がって来た大歓喜、大津波のように次から次と湧きあがり押し寄せる歓喜の嵐。あとは只口いっぱい、声いっぱいに哄笑する。哄笑の連続。  
 
 ワッハッハッ ワッハッハッ  
 ワッハッハッハッハッハッハッ   

なあんにも理屈はないんだ。なあんにも理屈はないんだ。とこれも二度ほど叫びました。


続きは、以下でご覧ください。⇒ 「禅僧・山田耕雲
コメント

クリシュナムルティ

2019年07月05日 | 覚醒・至高体験をめぐって
 旧サイト『臨死体験・気功・瞑想』を運営していたころに何度かメールでやりとりをしたことのある、ある方からメールをいただいた。それは、クリシュナムルティの覚醒体験についてのもので、旧サイトの「覚醒・至高体験事例集」に加えて、みなさんにぜひ読んでいただきたいとのことだった。その内容を新サイト『霊性への旅』でも再録させていただく。

=================================================

一九二二年の八月十七日、彼はカリフォルニアのオーハイでその後の 人生を一変する体験に見舞われます。(すべて「クリシュナムルティ の世界」大野純一編訳コスモス・ライブラリーからの引用です。クリ シュナムルティ二十七歳の年だそうです。)
まずその周辺を知っていただくためにも、短いですがその五日前に彼 がエミリー・ルティエンスという女性に宛てた手紙から引用をしたい と思います。

「私は毎朝三十分ないし三十五分間、瞑想しています。それは六時四 十五分から七時二十分までの間です。短時間ではありますが私の精神 集中は日増しに向上しつつあり、寝る前にも十分ほど瞑想しています。 こういった事実は貴女には少々意外なのではありませんか?私はマス ターの方々との古い接触を取り戻しつつあるのです。詰まるところ、 人生で大切なのはそれだけであって、他には何もないのです……」

(「マスター」というのは、マスター・クーフートミーとマスター・ モーリヤの略称だと思われます。両者ともに神智学協会の教義体系に おいて、超人として伝説化され信仰の対象になっていたようです。これからもわかるように、後に「星の教団」を解散し神智学協会から離れ、真理がいかなる教団や宗派にも属さないことを強調した彼も、若き日にはこのような信仰をもっていたようです。)
そしてその八月十七日から数日間つづいた彼の変容を目撃したのは、 ニティーヤナンダという男性とロザリンドというアメリカ人女性、ワ リントンという人物の三人いたそうですが、そのうちのニティーヤの手紙が残っています。その非常に興味深い記述によると、クリシュナ ムルティは「異様な無意識状態」に陥り、「半覚状態」がつづき、「 ワリントン氏は、この様子を見て、クリシュナの体内で何らかの『プロセス』が進行中であると言った」そうです。ですが、それはあくま でクリシュナムルティの体験の外部的観察ですので割愛して、彼自身の記録を紹介します。

「やがて八月十七日になると、私は首筋に激しい痛みを感じ、瞑想を十五分に短縮しなければならなくなった。私の容態はどんどん悪化し、ついに十九日にそのクライマックスに達した。私は考えることも、何をすることもできずにベッドに横になった。やがて私はほとんど無意識状態になったが、まわりで起こってることはよくわかった。私は毎日正午頃には正気に返った。最初の日、自分がそんな状態で、いつもより周囲のものがはっきり意識に入ってるときに、私は最初の最も不思議な体験をした。

道を補修している人がいた。その人は私自身であった。彼の持っている(つるはし※傍点が付されてあります)も私自身であった。彼が砕いている石までもが私の一部であった。青い草の葉も私そのものであった。私のそばの木も私自身であった。私はほとんどその道路補修工のように感じたり考えたりできた。私は木々の間を通り抜ける風を感じ、草の上にとまった小さな蟻を感じることができた。鳥や、ほこり、 さらには騒音までもが私の一部であった。ちょうどそのとき、少し離 れたところを車が通っていった。

私はドライバーであり、エンジンであり、そしてタイヤであった。自動車が私から遠ざかるにつれて、私は自分自身から離れ出た。私はすべてのなかにあり、というよりはすべてが――無生物も生物も、山も虫も、生きとし生けるものすべてが――私のなかにあった。」


続きは、以下でご覧ください。⇒「クリシュナムルティ
コメント

浄土宗僧・原青民

2019年07月02日 | 覚醒・至高体験をめぐって
『臨死体験・気功・瞑想』が閲覧終了になったのに応じ、その内容を新サイト『霊性への旅』へと移行させるいる。「覚醒・至高体験事例集」の事例をひとつひとつ新しいサイトにアップしていくが、その都度、ここにその一部を紹介していきたい。今回は浄土宗僧・原青民の事例である。
=========================================================

 「悟り」は、座禅修行を積んだ禅僧だけに与えられるものではない。
 
以下に挙げるのは、原青民という浄土宗の僧侶の体験である。彼は、肺病にかかり、かかりつけの医者にあと五年しか生きられないといわれ、非常に悩んだという。そのうち弁栄聖者に出会い、その感化で毎日のように念仏を唱えるようになったという。
 
 ある晩、一心に念仏を申しながら自分と自分を取り巻いている万物との関係を考えていました。ところが念仏を唱えているうちに突然なにもなくなってしまいました。自分のたたいている木魚の音も聞こえません。周囲の壁もなければ、天井も、畳もありません。
 すきとおった明るみもありません。色も見えなければ、重くも、軽くもありません。自分のからだすらありません。  まったく無一物になってしまって、ただあるのはハッキリ、ハッキリだけになりました。はっきりした意識だけがあった、意識内容はまったくなくなってしまったわけです。
 しかししばらくして平常の自分にもどり、その晩はそれで寝てしまいました。ところが翌朝目がさめて、庭から外を見ていると、変で変でしかたがありません。きのうまではいっさいのものが自分の外に見えていたものが、けさは自分の中に見えています。それはつぎの日もかわりませんでした。
(佐藤幸治『禅のすすめ (講談社現代新書 27) 』 )
 
 この体験によって彼は、「いっさいが自分の心であり、いっさいの活動が自分の心の働きであることがわかってきて」、ほんとうの安心を得ることができたという。
 宗教的な覚醒体験や悟り体験を特徴づけるのもやはり、これらの例から分かるように「自己」という壁が打ち破られる事実であろう。自己の壁が打ち破られるとは、自己が自己の根源(真の自己)に徹することでもある。自己が真の自己に徹するとき、すべてが自己となり、「万物と我と一体、宇宙と我と不二」という世界が出現するのである。
 
コメント

■ラマナ・マハリシの根本体験

2019年07月01日 | 覚醒・至高体験をめぐって
2019年06月30日 | 覚醒・至高体験をめぐって
『臨死体験・気功・瞑想』が閲覧終了になったのに応じ、その内容を新サイト『霊性への旅』へと移行させるいる。「覚醒・至高体験事例集」の事例をひとつひとつ新しいサイトにアップしていくが、その都度、ここにその一部を紹介していきたい。今回は障害児の母Jさんのの事例である。
=========================================================

■ラマナ・マハリシの根本体験
ラマナ・マハリシは(1879~1950)は、南インドの中流のバラモンの家庭に生まれました。マハリシは「偉大な聖者」という意味で、その名の通り、すでにインド の古典的な賢者の一人、最もインド的なグルとみなされています。

ごく平凡な屈託のない少年だった彼が、高等学校に通っていた17歳のとき、その 根本的な体験をします。親戚の一人が亡くなったことをきっかけに、彼は死の体験 を直接探求しようとしました。彼は、驚くべき集中力をもって、自分の体が死んで 行くと想像したのです。

「叔父の家の二階の部屋に一人で座っていたときに、突然、物凄い死の恐怖が私に 襲い掛かってきた。私はめったに病気をしたことがなく、いつもと変わりない健康 状態だったので、その恐怖が身体の異常からくるものであるとは思えなかった。私 はただ死んでしまうのだという想いが頭をよぎり、何をすべきかを考えはじめた。 医者や兄や友人たちに助けを求めようという考えは起こらなかった。私はすぐに、 これは自分で解決すべきものだと感じた。

死の衝撃は私の心を内へと向かわせた。私は心の中でつぶやいた。
『今死がやっ てきた。これはいったい何を意味するのか? 何が死んでゆくのか? この身体が 死んでゆくのだ』。
私は手足を伸ばして、死後硬直が始まったかのように硬くなっ て横たわり、本物の死体に見えるようにした。私は息を止め、どんな音も漏れないようにした。また『私』をはじめどんな言葉も発することができないように唇をギ ュッと閉ざした。

『これでこの身体はもうおしまいだ』と私は心の中で呟いた。 『これから斎場へ運ばれ、焼かれて灰になってしまうことだろう。だが身体が死ん でしまえば私も死んでしまうのか? 果たしてこの身体は私なのか? 身体は明ら かに無言で生起がないが、私は私の人格が十分に機能していることを感じているし、 それとは別に、内側から「私」という叫び声まで聞こえてくるではないか! 私と は身体を超越した魂のことなのだ。身体は死滅するが魂は、死によって決して手を 離れられることはないのだ。身体は死滅するが魂は、死によって決して手を離れら れることはないのだ。私とは、不滅の魂なのだ』。

これらのことは決してとりとめもない漠然とした考えではなかった。それは私に ひらめいた生き生きとした真実であった。

 『私』とはきわめて実在的な何ものかであり、私の現在の状態で唯一実在してい るものであり、私の身体にまつわるすべての意識的な働きは、その『私』に集中さ れた。その瞬間から『私』あるいは真我は、それ自身に注意を集中し、引きつけら れていった。  死の恐怖はこれを最後に消え去った。しかし、私はそれからもずっと絶え間なく 真我に没頭し続けた。他のさまざまな考えは音楽を構成するさまざまな音のように 浮かんでは消えていったが、

「私」はあらゆる音の底に横たわりそれと調和する基 底聖音のように力強く続いた。会話や学習や他の諸活動をしようとも、私はいつ も『私』に注意を集中させた。その転機(死の体験)より以前は、私には真我につ いてのはっきりとした知覚がなかったし、それに興味を持ったこともなかった。ま してやその中に生涯にわたって留まっていようとは思ってもみなかった。」
 

ここに語られた根本体験が、彼の人格の全体を転換させ、その後の生涯を決定的 に方向づけたといいます。 世俗の生活にまったく興味を失った彼は、学校を止めて、内なる力につき動かさ れたかのように聖なるアルナーチャラの丘へと旅立ちました。そこは、何百年にも わたって賢者や苦行者が生活し修行した丘でした。 彼はそこで、語ることもなく、食事もとらず、まったく肉体を無視するかのよう でした。むしろ、肉体を必要としなかったも言われます。やがて次第に彼の周囲に信者が集まるようになり、それにつれて彼の生活も普通の状態に戻りました。
最初ラマナ・マハリシは、南インドの聖なる丘にあって、多くの人々に取り囲ま れながら、ほとんど口を開かなかったといいます。洞窟の中に住み、数年間沈黙がきました。彼は、みずから深く体得した究極の実在について言葉や思想で確認する必要なかったのです。私たちの存在の「源」に横たわる時空をこえた「根源的な気づき」、「究極的な意識」。その輝かしい流れは、彼が目覚めている間も、夢見 や深い眠りの間も、たえず体験され続けていたのです。 ただ周囲の人々が、その説明を求めました。そのため彼は人々にうながされて書物を読み、はじめて不二一元の哲学思想を知ったといいます。その思想は、すでに彼が体得していた体験に形を与えたにすぎないのです。

続きは以下でご覧ください。⇒ ラマナマハルシの根本体験
コメント

障害児の母 Jさん

2019年06月30日 | 覚醒・至高体験をめぐって
『臨死体験・気功・瞑想』が閲覧終了になったのに応じ、その内容を新サイト『霊性への旅』へと移行させるいる。「覚醒・至高体験事例集」のの事例をひとつひとつ新しいサイトにアップしていくが、その都度、ここにその一部を紹介していきたい。今回は障害児の母Jさんのの事例である。
=========================================================

これは、安藤治『私を変えた「聖なる体験」 』(春秋社)に収録された事例である。
Jさんは、最初の出産で、出産時の脳損傷のため重症の障害をもった娘さんを産んだ。その事実を知った衝撃、そしてその後の生活の想像を絶する苦労。家の中は糞尿にまみれ、すぐに激しいけいれいが起こる娘さん。おむつを洗いながらとめどもなく涙がながれた。「神も仏もない」、「私の人生は終わった」と嘆いた。

やがて彼女はたった一人で「障害者運動」をはじめた。
「ハンディーをもつ子供たちをふつうの子たちと同じように」と始められた運動は7年後に2000人もの会員を擁するようになった。
しかし、 やがて彼女は「もっと根本を考えなければいけなかったのに、外側にばかり解決を求めていた。自分の内側をきちんと見なければダメだ」と思うようになる。彼女は自分がはじめた大きな社会運動を解散させた。多くの非難を浴びたが、彼女の決意は堅かった。

以下『私を変えた「聖なる体験」 』から引用する。

混沌とした日々が続いた。「外側に求める」のをやめたとしても何かそれに変わるものがあったというわけではない。一人だけのさみしさ、弱さもつくづく味わう毎日だった。

そんな日々のなか、ふとJさんの目に止まるものがあった。新聞に出ていた禅の本の広告の「あるがまま、なすがまま」という言葉である。彼女はそれを見ると、翌日すぐに禅寺に向かったのだという。いてもたってもいられない気持ちで、寺が開くまで夜中から門の前で待ったほどだ。

寺に飛び込むと、Jさんはひたすら座らせてもらった。ものすごく気持ちが落ち着いた。「あーこれなんだ」。「ここにしか本当のことはないんだ」。「やすらぎ、静けさ、この気持ちで接することができたら、運動も何も必要はない」「なすべきことをやらないで運動ばかりしていた。苦しみから逃げるために運動にすりかえていたんだ」。

深い感動と静寂のなかで、Jさんは進むべき道を得た。いままでやってきたことが「音をたてて崩れていくような気がした」と彼女はいう。

Jさんはその後一年間、毎日なりふりかまわず禅寺に通い、座り続けたとのことだ。何カ月も人に会わない日々が続いたが、一年を過ぎたころからは、遠出もするようになった。そして、Jさんは、各地にでかけ、水行などを行ったり、キリスト教や神道などにも体験を通して関わるようになっていった。

もちろん、Jさんはそうした道のなかで数多くの深い体験をしている。だが、彼女にとって自分を変えた最も大きな体験は、と聞かれれば、迷わず一つの大きな体験があるという。それはいまから六年ほど前に訪れた。

娘さんの体調がひどく悪く、その看病疲れも極限的な状態に達していたある日だった。その日は、滅多に口にしなかったコーヒーやアルコールなども、ストレスを紛らわすために少し取り過ぎていたようだという。夜十時ごろだった。自宅でくつろいでいたのだが、急に呼吸ができない状態になってしまい、「七転八倒の苦しみ」のなかで「血の気が引いていった」という。「死ぬと思った」その時である。全身の毛穴のなかから「何かが抜け出し、上に上がっていく感じ」がした。気がつけば、それは自分の意識だったのだが、天井から下を見ている自分に気がついたのである。倒れているJさんを見て、友人があわふためいて救急車を呼んでいたという。

ただ、Jさんは妙に落ち着いた気持ちだったとのことだ。「あー、窓が開いている。子供が風邪をひいちゃう。窓を閉めなくては。帰らなきゃ。ごはんを食べさせなくちゃ、この子は死んじやう。帰らなくちゃ」。そう思ったとたん、意識は身体のなかにあった。そしてまた、「七転八倒」の苦しみのなかにいたというのである。


実際に身体に「死」の危険が訪れていたのかどうかはわからない。だが、彼女は、その時から「死」というものに何の恐れもなくなって、生きるこ
とにさえも執着しなくなったと語っている。「なーんだ死ぬってことは死なないってことじゃない」。Jさんは奇妙な、そして飛び上がるような至福感を感じたのである。

彼女は詩を作っている人なのだが、その体験の後で最初に書いた詩が次のようなものだ。

あ-な、うれしや
あ-な、おかしや
あ-な、おもしろ
あな、めでた

それまではうまく作ろうという気持ちが強かった詩作も、それ以来は、「そのままでいい」と思うようになったという。
「この世界がすべてではないことがわかった」。
そして「木も車も、人の心もみな一つに溶け合って生きている。木の葉の一枚も本当に生きている、そして生かされている」
「迷うことは何もない。自分の思うままに生きればいい。問題が起きたら、ただ受け止めればいい」
「ただそれだけ」。

Jさんは「迷うこと」がなくなった。そして、振り返れば、考え方が「百八十度変わった」という。あれほど苦しんだ娘さんの問題も、いまでは、「苦しいことも悲しいことも味わわせてもらったんだな」と感謝の気持ちをもっている。「苦しみ、悲しみ、そういうものは全部自分の感情が作っているということがよくわかった。それを娘は私に教えてくれていたんだ」と。

いま彼女は「よくやってきたな」と自分に対しても素直に誉められるようになったし、「娘をもたせていただいたことが本当によかった」と深い感謝の気持ちを抱いて毎日を暮らしている。そして、Jさんはいう。
「生きていること、日常そのものが瞑想なのだ」と。
コメント

鈴木秀子氏の臨死体験

2019年06月09日 | 覚醒・至高体験をめぐって
『臨死体験・気功・瞑想』が閲覧終了になったのに応じ、その内容を新サイト『霊性への旅』へと移行させるいる。「覚醒・至高体験事例集」のの事例をひとつひとつ新しいサイトにアップしていくが、その都度、ここにその一部を紹介していきたい。今回は鈴木秀子氏の事例である。

=================

鈴木秀子氏は、日本近代文学を専攻する聖心女子大学の教授で、聖心会のシスターでもあり、エニアグラムやゲシュタルト・セラピーその他の心理療法にも豊かな実践経験をもつ。また、文学療法の開発者としても知られる。その著『死にゆく者からの言葉』(文藝春秋社)は、ベストセラーとなって、多くの人々の心に深く静かな感動を与えた。彼女の「臨死体験」は、『死にゆく者からの言葉 (文春文庫) 』でも報告されているが、ここでは、その体験がより詳しく報告されている、同氏の『神は人を何処へ導くのか (知的生きかた文庫) 』から収録する。

その体験をしたとき鈴木氏は、学会に出席するため、友人のいる修道院に泊めてもらっていた。その修道院は、宮家の立派な屋敷を改造した建物で、二階の客間から下に降りる階段は高く急であった。その夜、寝つかれなかった彼女は、何となく夜中に起き出し、暗がりの廊下を壁づたいにそっと歩いた。曲がり角らしきところで一歩足を踏み出したが、実はそこは廊下ではなく、その急な階段だったのである。 踏み出した瞬間、体はバランスを失った。恐怖を感じる暇もなく、一気に下まで落ち、床に叩きつけられて、そのまま気を失ってしまう。

ふと気づくと、私のからだは宙に浮かんでいます。そして、空中にまっすぐ浮いている私を、高いところから、もう一人の私が見つめているのです。空中に浮かんだ私の足の周りを、なぜかたくさんの筍の皮のようなものが覆っていました。

それが蓮の花びらだとわかったのは、ずっとあとのことです。台湾のさる有名なお寺を訪れたとき、仏像の足の周りを筍の皮のようなものが包んでいるのを見て、あ、これだったんだと思いました。それは蓮の花びらでできた台座でした。
 
その筍の皮のような花びらが足もとから一枚一枚散っていくのです。高いところからそれを見ているもう一人の私は、花びらが散るごとに、自分が一つひとつの苦しみから解放されて、自由になっていくのがわかりました。
一枚落ちると、
 「ああ、これでもう人の言うことに煩わされなくてすむ、私は自由になった」  
 と思い、さらにもう一枚落ちると、
 「もう人に気を遣い、不安に脅かされなくてもすむ、私は自由になった」 とつぶやいているのです。限りない解放感と喜びが胸に溢れてきました。  

花びらが最後の一枚になり、これが落ちたら完全な自由になれると思ったとき、最後の一枚の花びらは落ちることなく、からだがすっと飛翔しました。そのとき、見ている自分と見られている自分が一つになりました。   
一瞬のうちに高さの極みに飛翔し、私は今まで見たことのないような美しい光に包み込まれました。白っぽい金色の輝きに満ちた、いちめん光の世界にいたのです。まばゆい輝きでしたが、まぶしすぎるとは感じませんでした。  

それは人格を持つ命そのものの光であり、深い部分で、自分とつながり、交流している生きた光なのでした。これが至福なのだ、完全に自由なのだ、と私は感じていま した。不思議なくらい、五感も思考もすべてが生き生きと冴えわたっています。オリンピック選手がベストコンディションで世界記録を破る瞬間とは、こんな状態のときなのでしようか。からだの全機能が最高の状態に保たれ、調和し、研ぎ澄まされているのです。 その冴えわたった意識の中で、私ははっきりと理解したのでした。

 「この命そのものの光の主に、私はすべてを知りつくされ、理解され、受けいれられ、許され、完全に愛しぬかれている」 これが愛の極致なのだと。 もし愛の究極の状態というものがあるのなら、こういう感情に貫かれることではないかしらとも思いました。真に満たされた状態とは、こういうことを言うのでしよう。 しかもその満たされた光の世界には、時がないのです。あっ、これが永遠なんだと私は思いました。 心は愛に満たされ、知性は冴え、能力のすべてが最高の状態で調和しています。

そんな至福感に包まれていたとき、どこからか声が聞こえてきました。
「癒してください、癒してください」
 


続きは以下でご覧ください。⇒ 鈴木秀子氏の臨死体験
コメント